第10話 陰陽師がノーマルエンディングのフラグを立ててくれたようです

「我が君、大丈夫ですか。さあ、私の質問に答えてください」

 ぼんやりして一瞬意識が遠くなってしまった私の目の前に、国時さんは自らの手をひらひらと蝶のように舞わせて私の意識をこちら側へと戻す。

「ここからが重要です。いいですか?」

 先ほどまでの私をからかうような物言いとは違って、強い意志の感じられる国時さんの問いかけに、私はコクリと頷き、

「はい」

と答えた。

「あなたがこの時代に紛れ込んでしまったのは、いったいいつのことですか? そして、どこの場所に現れたのですか?」

 あらためて問われて、長保四年ということまでしか確かめていなかったことを思い出す。私は惟規のぶのりさんの方を見て、目で助けてと訴えた。

「私が香子さんを見つけたのは、おとといのこと。文月……、七月一日の夜です」

 私の代わりに答えてくれた惟規さんへの礼を言うことも忘れ、

「七月!? こんなに寒いのに!?」

と、私はひとり驚きの声を上げてしまった。

 惟規さんは

「確かに、いまは七月です。秋の初めですよ。そんなに寒いですか?」

と、逆に驚いているようだ。

 旧暦だから現代の七月と単純には比べられないものの、いまのこの肌寒さは初秋と感じるような気温ではない。地球温暖化とか異常気象とかよく耳にするけれど、昔の日本はこんなに寒かったのかと、まさに肌で感じた瞬間だった。このような気候ならば、十二単のようにたくさんの着物を重ねなければ、越冬できないだろうと納得する。

「まあ、時代によって気温が多少変化するのは、これまでの記録を見ている私からすれば想定の範囲です。それにしても、今年は天変地異が続いていることの方が気がかりですね。六月には干魃が相次ぎ、雷の被害もありました。そして、我が君がこの時代にやって来た七月一日に何が起きたかと言えば、日蝕です。さらに、これはまだ先のことですが、七月十五日には月蝕が起きることでしょう」

 そういえば、修学旅行という非日常のテンションですっかり忘れていたが、私がタイムスリップした日も、関西では部分日蝕が見られるとニュースで言っていなかったか。

「同じ月のうちに、日が欠け、月も欠けるとはなかなかないことで、我が祖父も何か起きるのではと実は懸念していたのです」

 現代でも日蝕が起きた日。そして跳んだ先の時代でも日蝕が起きている。確かに偶然とは考えにくい。

 しかし、現代では、皆既日蝕や金環日蝕が起きようものなら、専用の日蝕観測グラスを購入してまで見ようとする人の方が多いだろう。天体の一大イベントとして、気楽に楽しむ人の方が多いような気がする。

 ただ一方で、日蝕や月蝕は人体に影響を与えるという記事を西洋占星術のサイトで見た記憶もある。

 科学的に何らかの影響があるのか、私は聞いたことがないけれど、おそらく国時さんが頼りにしているこの時代の天文学とは現代の占星術に近いものなのだろう。

 ということは、日蝕がタイムスリップの直接的な原因なのだろうか、と早鐘のように鳴る鼓動を感じながら、私は問いを発した。

「日蝕や月蝕が、何か私たちに影響を与えるのですか?」

 ところが、国時さんは私の問いに答えを返す前に、再び私に質問を向ける。

「我が君、我々陰陽師が事前に日蝕や月蝕の起きるであろう日時を予測しておく必要があるのはなぜだと思いますか?」

 そう言われてみると、確かに不思議だ。天気を予知する必要があるというのはまだわかる。おそらくこの時代の経済は農業を中心としているはずだから、干魃や台風といった農作物に直接影響を与えそうな災害は予知しておく必要があるだろう。しかし、日蝕や月蝕をそこまで正確に予知するのはなぜなのか。日蝕のように短時間日が陰るくらいでは農作物への影響は少ないはずで、さらに現代のように天体ショーを観測する目的ではないとすればなぜ、事前に知るメリットは特にないように思える。

 答えが出せない私に、ほほえみながら国時さんは説明を始める。

「実は、日蝕や月蝕は忌むべきものと考えられています。特に、お主上かみは日蝕や月蝕にその尊い御身おんみを晒してはいけないというしきたりがあるのです。ですから、我々陰陽師が事前に蝕の起きる日時を予測し、準備しておく必要があります。そして、その時が来たら、お主上かみは御帳台の中に籠もられ、その忌むべき蝕を浴びることはありません。もともと、我がちょうの皇太子は、ヒツギノミコと呼ばれてきました。日嗣の御子ということです。つまり、お主上かみが太陽であり、それを継ぐものであるということですね。いまは、東宮とうぐうと申し上げていますが、東は太陽が昇る方角に他なりません。もちろん、お主上だけではなく我々にも、少なからず影響があるのではないかと思われます」

 そういえば、日本の神話で皇室の祖先とされているは、太陽神である天照大神だ。

 人体に影響があるということを現代的に解釈するならば、それは太陽、月、地球が一直線に並ぶという通常とは異なる恒星と衛星の配置になることで、地球上の磁場に何らかの影響が出るということだろうか。海の満ち引きは、月の引力の影響を受けていると聞いたこともある。

「そのこと、つまり日蝕と私が時空を跳んでしまったことと、何らかの関係があるかもしれないということですか?」

「その答えを言う前にもうひとつ、我が君が倒れていたのはこの都のどこだったのでしょうか? 教えていただけますか?」

 私の代わりに、今度も惟規さんが国時さんに答える。

「天文生殿のお邸の近くでした。一条戻橋の近くだったかと」

「ああ、やはり……」

 確かに、私がタイムスリップした直前に十二単着付け体験をしていたのは、一条戻橋の近くだった。ということは、場所としてはほぼ同じ地点に跳んだということになる。

 そして、「やはり」と心当たりがあるということは悪い知らせではなく、帰る場所や方法についてのヒントが隠されているということだろうか。

 そう考えながら、国時さんに問う。

「やはりとは、どういうことですか?」

「この都には、ところどころほころびとでも言うべき場所があります。いや、都に限らず、この国の地上、いたるところに綻びはあることでしょう。ただ、都に関して言えば、その綻びと考えられる場所に陰陽師が術を施していますから、通常であれば術が機能しているため何事も起きないはずなのです」

「綻びというのは、時空の歪みということですか?」

 SF的な物言いになってしまったけれど、国時さんにも私の言わんとしたことは通じたようだ。

「そうですね、あの世とこの世が繋がる境界とも考えられています。特に、“橋”という場所は、異界との境界であると古くから言われている場所なのです。“橋”は“端”。私たちの住むこの世界の末端なのかもしれませんね」

 橋にそんな意味があったなんて、と驚きながら話に引き込まれて聞き入っている私に、

「ところで、神隠しという現象は、あなたのいらした先の世でもまだ存在するのでしょうか?」

と、国時さんは尋ねた。

 あらためて、現代に神隠しというものがあったかどうか考えてみる。

 バミューダ・トライアングルは、“橋”に近い場所なのだろうか。しかし、そのように有名な場所以外にも、国時さんが言うところの綻びはたくさんあるのかもしれない。たとえば、行方不明者は日本だけでもおそらく年間相当な数いることだろう。それが事件や事故に巻き込まれて亡くなってしまった人なのか、私のように時空を超えてどこかに消えてしまった人なのか。未解決事件ならば、本当の行き先はわからないのではないか、と思う。

「行方不明者はいます、確かに。それが、頻繁に起きるとされる場所もあります。海の真ん中で、船が頻繁に消えてしまう場所があるという話も聞いたことかあります」

「なるほど、おそらくそういった場所は、何も術が施されていない場所なのでしょう。あるいは、海の先には異界と繋がっている場所がたくさんあるのかもしれませんね。浦嶋子うらしまこの伝説は、先の世にも伝わっているでしょうか」

「浦島……太郎? 海の中の竜宮城へ行って、帰ってきたら何百年も経っていた、という話ですか?」

「そうです。名前以外は、ほぼ同じように伝わっているようですね。これも、海の先にある常世とこよという異界に紛れ込んでしまったことを表すのかもしれません。そして、帰るときに、出発時とは違う時に戻ってしまったということかもしれないですしね」

 浦島太郎も、タイムスリップした人という可能性があるわけか、と私は頷きながら話を聞く。

「そして、この都の一条戻橋というところも、あの世とこの世の境界と言われる場所のひとつです。ですから、祖父はその近くに邸を構え、その橋の下に式神を配置しているのです。ただ、祖父も人間ですから。日蝕のような大きな天体の動きがあるときまで、完全にその綻びを止めることは叶わなかった可能性があります」

「ということは……、帰れるとしたらまた同じ状況になるときにその場所に行けばよいということですか?」

「私はそう推測しています。近くは今月十五日の月蝕ですが、月蝕と日蝕が同じ条件であるかは試してみないことにはわかりません。次の日蝕がいつ起きるのか、今度またお会いするときまでに調べておきますよ、我が愛しの君。それと、一条戻橋以外に、綻びの可能性のある場所を」

 ああ、なんと。元の世界への戻り方について、一気に光明が見えてきたではないか!

 初めはこんなチャラい人、信用して大丈夫だろうかと思ってごめんなさい、と興奮を抑え切れない心の内でこっそりと詫びた。しかも、途中で性格が豹変するような黒い裏があるヤンデレ系のプレイボーイ・キャラなんではないかとまで疑っていた自分をいまは消し去って、どこかに埋めてしまいたいと思う。

 国時さんは、私に期待以上のヒントを与えてくれた。もしかしたら、元の世界に帰れるかもしれないという希望を与えてくれた。それも、自分自身はたいしたミッションもこなさずともよくて、すべて国時さんの知識と情報任せだ。

「本当にどうもありがとうございます」

 私は心からお礼を言った。

「よかったですね、香子さん」

と、自分のことのように一緒に喜んでくれる惟規さん。

 そして、予想の範疇だったけれど

「いいんですよ。私にとっては、我が君のそのような輝く笑顔が見られるだけで望外の喜びなのですから」

と、壮大に褒めまくってくれる国時さん。

 しかし、その大げさ過ぎる甘い囁きにも、最初に感じたような嫌悪は、私の心の内から既になくなっていた。

 もしこれがゲームの世界だったなら、いまこの話を国時さんから聞いたことで、現代に帰れる通常エンディングのフラグは立ったはずだ。

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