第5話 そろそろ私の身に起きたことをありのまま語ろうと思う

 脳内で、エンディング音楽が流れ始め、もうダメだと観念し始めた頃、名探偵は思いも寄らぬ言葉を私に投げかけてきた。

「どこから来たのか正直に言ってほしい。きっと、私の想像もつかないような遠い国からいらしたのでしょう? とても興味がありますので教えてもらえませぬか」

 本当に打ち明けてしまってもいいのだろうか、と迷う思いが表情に表れてしまったせいだろうか。兄君も思案顔になって、しばらく何か真剣に考えていたかと思うと、何かまた名案が浮かんだかのように頷きはじめ、おもむろに硯で墨をすりながら、

「こちらに」

と私を手招きした。

 そこは、彼の読書スペースなのだろうか。

 小さな机の上に、硯箱すずりばこと筆、メモを書き付けたような紙の束、そして多数の巻物などが乱雑に並べられている。

 兄君は、雑多に置かれたものを机の端に寄せると、何も書かれていないまっさらな和紙を机の中央に置き、私に

「名前をここに書いてもらえますか?」

と言った。

「でも、さっき名前は言ってはいけないと」

「一度聞いたら、二度聞こうが三度聞こうが同じことです。さあ、どうぞ」

 筆を渡され、私はおそるおそる杖に向かう。習字なんて、中学の授業以来ではないか。習字の授業でも、細い筆で自分の名前を作品に書き入れるのが一番大変だったように思う。それを、こんなふうに横からマジマジと見つめられながら、書くことになろうとは。こんなことなら、もっと練習しておけばよかったと後悔する。

 緊張のあまり、筆先が震えてガタガタになってしまったけれど、なんとか私は「藤原香子」と書き上げた。

 兄君はそれをじっと見つめ、

「ふうん、女性なのに楷書でしかも漢字か」

などと呟き、また何か考えているようだ。

 そして今度は、

「これを読んでみてほしい」

と、机の端に寄せていた巻物を手に取り、私の目の前に開いて見せた。

 広げられた巻物の中には、女性と男性の絵が描かれていて、その周囲に文字らしきものがたくさん書かれているのだが、まるでミミズの這ったような崩し字で、一字一字の境目すら私には見分けることができなかった。

「ごめんなさい。読めません……絵巻物ですよね?」

 授業で習った知識で、この巻物が絵巻と呼ばれるものであろうということだけはなんとか理解できた。

「これが絵巻だとわかっても読めぬのか。では、これは?」

 兄君は新たな巻物を手に取ると、また私の目の前に広げて見せる。今度は、漢字のオンパレードで、一文字もひらがながない。漢文だ。先ほどから何かのテストなのだろうか。しかし、これならばまだ一字一字の判読はできる。漢字を一字ずつ目で追ううちに、漢文の授業で習ったばかりの四字熟語を見つけることができ、ようやく理解できるものに出会えたという嬉しさから私は思わず声を上げた。

「あ、四面楚歌しめんそか! これならわかります、『史記』ですよね?」

と、得意気に。

「夜、漢の軍の四面に皆な楚歌するを聞き、項王こうおうすなわち大いに驚きて曰く、漢、皆なすでに楚を得えたるか」

 テスト対策で暗記した部分をそらんじて見せたのは、やはりやり過ぎだったのだろうか。みるみるうちに兄君の表情が凍り付く。まるで、見たことのないものを見たかのように。

「そなたは、いったい何者なのだ? 女性の使うかな文字が読めぬから学がないのかと思えば、一方で自らの名は漢字で記してみせる。唐の国から渡って来た者かと思えば、漢籍をスラスラと我が国の言葉として読み下す。『史記』など女性の読むものではないというのに。私のように女装した男性かと疑ってもみたが、それでもかな文字を一字も読めぬことの説明がつかぬ。女性と歌のやりとりをするときは、男でもかな文字は使うのだからな。いずれにせよ、それだけの学があるのであれば、平民とは思えぬ。どこかの国の身分ある女性なのであろう。そなたはいったいどこの国から渡って来たのだ? 天竺てんじくか? 渤海国ぼっかいこくか? それとも、もっと遠い国なのか?」

 兄君の両手は私の肩を掴み、真剣な顔で私を覗き込む。先ほど真っ赤になっていた人物と同じ人間とは思えない。きっと、世間的な常識よりも知的好奇心が満たされることの方が、彼にとって最優先事項なのだろう。

 もしかしたら、そんな人物ならば私のこの奇妙な出来事も受け入れて、一緒に解決策を見いだしてくれるのではないか。打ち明けるのは大きな賭けだ。気がふれていると、邸から追い出されてしまうかもしれない。でも、いまこそが告白すべきタイミングで、これ以上の好機はもう二度と巡って来ないのではなかろうかとも思われた。

 私はおそるおそる口を開く。

「とても、遠い国なんです。信じられないぐらい遠い……」

「それはどこなのだ?」

「ここが私の推測した時代で合っているのならば。おそらく、いまのこの時よりも千年ほど先の……、未来からやって来たようなのです」

 兄君はそのままの姿勢で口をポカンと開けて固まった。

 先ほどから既に、見たことのない奇異なものを見るような視線で私を見つめてはいたが、幽霊か宇宙人を目にしたかのような驚き方だ。

 いや、それも当たり前かもしれない。私自身も、タイムスリップなんてゲームやマンガというフィクションの中で起きる現象に過ぎないと思っていたし、それがまさか自分の身に起きようとは思ってもみなかったのだから。

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