終章 「小さな世界達の終わり」

次の目的地は、高山の気まぐれで決まった。

いや、決まった、というのもおかしい。目的地というより、方針が決まった、という方が正しいんじゃないだろうか。

それは、つい今朝のことだった。

「海に行きたい」

高山が突然言い出した。

「海?」

咲ちゃんが不思議そうに聞き返す。

「そうだ。海」

「海だったらここからでも見えるんじゃ……」

そう、この先をちょっと走るとすぐ海だ。事実、この道の先には雲の隙間からわずかに差し込んだ太陽光にきらきらと光る水面が見える。ちょっとだけど。

「ほら、あれ」

と言って道の先を指さす。

「……いや、俺が言いたいのは海岸線も含めての海。やっぱり景色って重要だよ!」

高山があきれたように言う。

確かに、このあたりは割と開発されていて、海岸線はコンクリートの垂直な護岸ばかりだったような。

でも、海、かあ。

山奥で育った自分たちは、水があつまっている所といえば、川と小さな池くらいしか見たことがなかった。

今まで見た中で一番大きなのは中禅寺湖だったかなぁ……、と閑話休題。

なんたらが大海を知らずじゃないけれど、せっかく海に近い東京(ここ)まできて見に行かないというのも勿体ない話だ。

「いいんじゃない?でも、ここら辺にそんな砂浜みたいなのってあるのかな?」

「探せばいいさ。な、黒田」

「えっ、そこ私に振るところ?」

「……まぁ、いっか」

珍しい高山のわがままに負け、さっさと朝食と出発の準備を整えると、空地とビルのコントラストが激しい臨海都市を早々に後にする。

高山の運転は、いつもどおりに戻っていた。

ただ、時折道路標識をガン見しながら運転しているので、時折ふらつくのはえらく不安だ。

なんだか旅を始めたばかりの時の高山の運転を思い出だして、ちょっと懐かしくなる。

直線と空き地がひたすら続く道路が途切れ、ほどなくして背の高い建物に隠され海が見えなくなる。

「アテはあるの?」

「ない」

「「おい!」」

咲ちゃんと同時につっこんだ。

せめて目星くらいつけとけ!

「でも方向性ならあるぞ。さっきちらっと海の東西を見たら、西は工場ばっかりで行く意味はなさそう。でも東はそうじゃなかった」

「つまり?」

「東に行けば、きっとある!」

ずいぶんなトンデモ論理だ。大丈夫だろうか?

そうしているうちに、車は随分と広い道路を走っていた。

ボロボロのアスファルト、謎に盛り上がった路肩、そしていつか見たように、青い看板には「船橋・千葉」の文字。

しばらく走ったところで、昼食の時間になった。

                    *

例の電波塔にほど近いバス車庫に車を入れて、そこで食事とすることにした。

食料の節約を考え、昼はいつも少食で済ませている。

さほど時間も掛からず終えると、再び来た道を東に向けて走り出す。

走り出してから幾分も経たない内に太い川を渡り、また渡り、いま走っている通りさほど変わらない太さの道路との交差点に出たときに高山が言った。

「そういやさ、川の流れる先には海があるんだよな?」

「そーでしょ」

何を当たり前な、という風に黒田が答える

「……この道なら迷わなさそうだし、ここで曲がるか」

そう呟くと高山は右にハンドルを切って、ややU他ターン気味に進路変更をすると、再び加速する。

道路標識には、「葛西」とあった。

果たして葛西というところがどんな場所かなんて知らないし、ましてや海があるなんて知る由もない。

断続的に続く陸橋を、時には上を、時にはそれを横に見ながら下を走る。バスターミナルを通り過ぎ、地下鉄のはずなのに頭上にある駅を見て、ちょっと寄り道。

黒田が地地下鉄の博物館に興味を持ったらしく、開かない自動ドアをこじ開けようとしていたり。

高山が駅に入って線路の上を歩いていたり。

児玉はそんな二人についていくのがめんどくさくなって、駅前の古本屋に行ってみたりと。

結局、各々が戻ってきたときには、日が沈んでいた。

駅前のロータリーで夕食を食べながら、それぞれの寄り道話を披露しあっているうちに、夜は更け、黒田の眠い!の一言でやっとお開きになった。

これまでもあったような、旅の寄り道を楽しんでいるひと時。

単独行動だったのに、今日はなぜかいつもより楽しく思えた。

別に一人が良かったわけではない。

みんなと笑いながら体験を話す。それが楽しかった。

こんな時が続けばいい。

毎日が冒険で、いつか言ったように、目的なんかなくていい。いつか消える日まで、こうして楽しく過ごしていたい。

そう思った。

                   *

三人が寝静まった後に上ってきた細い三日月。

バスロータリーの先には、「葛西臨海公園」の文字が、そのわずかな月明かりをはね返している。

三人がその文字に気づくには、そう時間はかからないだろう。

時折吹く、わずかに潮の香りを孕んだ風には、相変わらず白く透明な、死を孕んだ綺麗な砂が、黒いアスファルトを撫でるように舞っていた。

 目的地は、唐突に表れた。

 それは、高山が工場の角を曲がろうとハンドルを回している時だった。

「カズっちストーップ!」

「うぉっ!?」

いつかも見た気がする突然の停止命令に、今回は慌てることなくゆっくりと車を止める。

「なんだ?」

「あれ!」

それだけ言って、黒田は大通りに見える青い道路標識を指さした。

そこには「湾岸」だの「臨海」だの海沿いを連想させるワードがずらり。

そしてそこには、

「葛西……臨海公園」

初めて見たその公園の名前に、三人は写真でしか見たことのない砂浜を思い浮かべた。

「行くか」

高山はそう言うと、素早くシフトレバーを「R」に入れた。

その声は、いつもよりちょっと低くて。

なんか嫌な予感がする、と感じたのは児玉だけだった。

ここから先に見える高速道路と思わしき陸橋までは、これまでと変わらない太い道路が続いている。

でも、今そこには車がほとんどない。見晴らしがよい道路だった。

そして大通りまでバックを終えて、高山の手によってシフトレバーが「D」に戻る。

その瞬間、児玉はその見晴らしのよさを恨んだ。

高山を止める間もなく、非力な軽自動車のエンジンは今まで聞いたことのない音を鳴り響かせる。

「「ひぇぇぇぇーっっ!!!」」

女子二人が悲鳴を上げるも、高山は気にしない様子で加速を続ける。

二十キロ、四十キロ、六十キロ……。今まで体験したことのない速度で車が走る。

スピートメーターがあっさり一〇〇キロを超えたあたりで、

「あ、やべっ」

と高山が舌打ちした。

目の前には、ぽつんと止まっている一台のトラック。

「「「危ないっ!」」」

幾分か冷静な判断をすることが出来たのかは分からないが、車はぐいん、と右に急カーブすると、中央線をあっさりと超え、反対車線に飛び出る。

体勢を戻そうと反対にハンドルを切ってまた揺れて、を繰り返しているうちにだんだんと制御を失ってきた自動車はだんだんと歩道の方へ寄っていく。

「おい止まれぇぇぇ!」

さすがにこの状況がやばいと気づいた黒田が、サイドブレーキを思いっきり引いた。

「ちょっとまてぇぇぇぇ!」

 高山は予告なしにかかった急ブレーキには対応しきれなかったのか、ハンドル操作が一層おぼつかなくなり、歩道に乗り上げるのを避けるように思いっきり左に切った。

車はいつかの出来事を再現するように、後輪を派手に滑らせて歩道ぎりぎりで止まった。

ただ、後ろから「ガン」と音がしたのを除いて。

……。

「やっちまった」

「「やっちまったじゃないっっっ!!」」

女子二人から盛大なツッコミが入った。

とりあえず損傷具合を確かめよう、と車外に出る。

「これで動かなくなったらシャレにならないよ……」

児玉が不安そうにつぶやいた。

                   *

幸い車はバンパーを凹みだけで、運転に支障は出ないようだった。

さっきの荒い運転などなかったように、高山はいつも通りの安全運転で車を走らせる。

一体何本橋があるのか、というくらい太い陸橋の下をくぐると、急に開放的な景色になった。

道路沿いにはヤシの木のような木が等間隔に植わっており、横には鉄道の高架橋が走っている。

道が狭く、バスもいたので、いつも以上にゆっくりと走りそれらを避ける。

少し走ったところで、道路はゆっくりと円を描き、バスターミナルとなって終わっていた。

そして、石畳の道路の先には、

「―葛西臨海公園、か」

感慨深げにつぶやいた。

そう、今まで走ってきた道の果て。

それがこの「葛西臨海公園」だった。

今まで見たことのある公園―そもそも公園というものが地元にはそんなに無かったが―とは違う、子供が遊ぶ公園というよりは、国立公園とか森林公園とか、そんなな類の場所だった。

「着いたのはいいんだけどさ」

黒田が言う。

「ここでの移動はどーすんの?なんか見た感じ結構大きそうだけど」

「そうだよなぁ……」

しばし悩む。

別に徒歩でも構わないと思っていたのだが、だからといって車を放置しておくのも心もとない。そんな人はいないと思うが、万が一車や中の食料を盗られるという可能性もある。

バスターミナルの手前にはいくつか駐車場があって、臨海公園というだけあって、夏にはたくさん人が来ていたようだ。満車寸前まで車が止まっており、ちらほらと観光バスも止まっていることに少し驚いた。

公園の入り口の方にを見ると、とても幅の広いゆるやかな石畳の坂が公園の中心部まで続いていた。

車が並んで二台は走れそうなほど広い道だった。

そしてこの公園の広さである。

ということで、

「そのまま突っ切るか」

「え、車で!?」

児玉が驚いたように聞き返す。

「この公園って結構広そうじゃん?多分園内での作業は車で移動してると思うんだよ。だから、一応車で行けるんじゃない、ということ」

「さんせー!よーしカズっちぶっ飛ばせ!」

「さすがに勘弁かな!」

「ちっ、つまんないの」

「……まあ車の方が楽だしいいかぁ」

話がまとまったところで、車を少しバックさせて、ターミナルの柵が切れているところから石畳の道路に乗り入れる。

少し行ったところで、園内移動用と思われる軽トラックを発見した。

「ほらやっぱりな」

「本当だ」

道はほとんどが石畳かアスファルト舗装されたしっかしとした道で、幅もそれなりにあった。

「地図あったよ」

黒田の指さす方向に大きな園内地図があった。

「ほーう、メインの公園に鳥類園、奥は一応海浜公園で……砂浜があるのか!そしてこれは……水族館?」

「「水族館!?」」

女子二人が水族館というワードに食いついた。

「行きたい!」

「行くしかないっしょ!」

「ちょっとまて二人とも、たぶん水族館は……」

高山の言葉を女子二人は完璧に無視して、水族館の方へと走っていく。

車が気がかりだったが、とりあえず施錠だけして、二人を追いかけに水族館へと走っていった。

                   *

水族館とは、いわば巨大な飼育水槽の集まりのようなものである。

全ての魚は人間の手によって育てられ、電気によって水も濾過されて、二十四時間休まずにそれは続いている。

そして、今は人間がほとんど消え去った世界。電気も止まっていれば、餌をあげる飼育員もいない。

ということは?

―それに二人が気づいたのは、館内に入ってから最初の巨大水槽を見てからだった。

分厚いガラス越しに見えたのは大小様々な魚が入り乱れて泳いでいる様ではなかった。

歪んで見えるわざとらしい水色の壁と、緑色に濁った水と、白い砂と、ごつごつした岩場と、ほとんど揺れない海藻と。

白い砂に横たわっている魚の死骸だった。

多くの魚はそれなりに大きな種類ばかりだった。つまりはそういうことだ。

「だから待てって言ったのに……」

呆然としている二人に、そう言った。

「魚たち……、みんな死んじゃったんだ……」

黒田が悲しそうに言った。

児玉も、口にこそ出さないものの、黒田と同じような気持ちなのだろう。

小さい魚の死骸がほとんどないから、たぶん最後は食物連鎖の関係で大きい魚が生き残ったのだろう。

元より水にはプランクトンなど含まれてないだろうし、こんな狭い水槽ではすぐに酸素なども失われてしまいそうだ。こんな環境で今まで餌を与えられて育った魚たちが生き残れるはずもない。

ただ俺は、今の二人の前でそんなことを言えるほど無神経じゃあ、ない。

「戻ろう、二人とも」

「うん」

俺たちは、暗い水族館の通路を元来た方へ歩き始めた。

                   *

「いろいろ見てみよう?」

黒田のもっともな提案で、とりあえず園内を一周してみることにした。

水族館のほかには、レストラン、管理事務所、ホテル、観覧車などがあった。

観覧車は分かるが、園内にホテルとはどういうことだろうか、謎だった。

観覧車は園内のどこにいても見えるほど大きく、頂からの景色は最高だろうが、今となっては無駄にでかいただの置物にすぎなかった。

いつかの本で読んだ一分の一スケールの模型というのはこのことか、と妙に感心した。

そんな中で唯一目を引いたのは、公園の高台にあったガラス張りの建物だった。

ガラス張り、というより、ガラスの箱、といった方が正しいだろうか。

建物の前に立ってみると、建物を間に挟んでいるはずなのに、まるでそこには何もないように、向こう側の景色が見えた。

「すごい……」

吹き抜けになっている所に車を止め、外に出た。

そこからは、広大な東京湾が見渡せた。

傾いてきている太陽の透き通った光に照らされ、水面がキラキラと輝いている。

しばし見とれた後、建物の中に入る。

自動ドアは動力を失っていたものの、鍵がかかっていたわけではないので少しの力で開いた。

微かに青みかかった白い空間を、上へ上へと階段が続いていく。

階段を上り終えて、最上階の通路から再び海が見えた。

手入れする人が消えてもガラスの輝きと透明度は衰えを見せず、ガラスなどまるで無かったように、海が見渡せた。

遠くの方には、置き去りにされた貨物船がぽつぽつと見え、その向こうには水平線が見える。

通路をゆっくりと歩き、建物の終端にたどり着くと、そこからはゆるやかな下りのスロープが伸びていた。

この眺めを惜しむようにゆっくりとスロープを下り、俺たちは建物を出た。

「なんか海に入りたくなっちゃった!」

「待てよ黒田、今の季節だと風邪ひくぜ!?」

「そーだけどっ!」

「……」

「……おい児玉?」

「なっ、何かなぁ?」

「やめとけって……」

他愛もない会話をしながら車に戻り、今度はさっき見えた砂浜へと向かう。

自動車道のようにしっかり舗装された道路を下ると、とたんに道路は石畳に変わった。

まっすぐ続く石畳の道路を、車は小刻みに揺れながら下る。両脇には芝生の広場が広がり、子供たちが遊んでいたのであろう遊具や自転車がそのまま置き去りにされていた。

途中、潮風に錆びたキックボードを大回りで避けて、園内地図の通りに海浜公園へと向かう橋のたもとに着いた。

「これ、車で行けるかな?一応自転車等進入禁止って書いてあるけどさ」

「カズっち」

「はいなんでしょう」

「無視だ」

「通れれば気にしなくていいと思うよ?」

「そんなもんかぁ……」

幸い門は閉まっておらず、元々小型の軽自動車は難なく橋を渡っていく。

橋の先には小さな三日月の形をした島があり、左の方にも同じような島があったが、橋はかかっていなかった。

向こうには、さっきよりも近く、でもはるか遠くに水平線が見える。

やがて車は橋を渡り切り、コンクリートの階段の横にあった車一台がぎりぎり通れるスロープを下り、砂の地面に降りた。

大きなテントの下を潜り抜け、やがて砂浜に出た。


                     *


「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!海だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


言い出しっぺの高山より先に、黒田が興奮を抑えきれずに、車のドアをあけ放ち、波打ち際へと走っていく。

「小学生か!?」

「咲ちゃん待って!私も!」

児玉も黒田の後を追いかけていく。

高山もエンジンを切り、車から降りる。


初めて見る海だった。


小中高と、友達連中と連れ立って海に行こうだのといった話は一切なかったし、旅行でも海を目的に行動することはなかった。

だからというわけではないが、なんだか、すごく、感動した。

果てのない水面、遠くに見える水平線、絶えることなく打ち寄せてくる波、潮の匂い。

全てが初めての経験で、もう思考が追いつかない。

「ひえぇ冷たぁぁぁぁ!?」

黒田の叫び声で現実に戻される。冷たくて当たり前だよアホ。

「あたりまえだよ咲ちゃん……、ってちょっと私はそこまでは行かないよ!?」

「むー、ノリ悪いなぁー。それっ!」

「ひやっ!冷たいっ!」

「もういっちょ!」

「ちょっ、やめてって……。こうなったら!」

ばしゃっ

「ひぇぇぇ冷たいよぉ。優ちゃん酷いぃ」

「始めたのはどっちよ!?」

冷たいと分かっていながら、二人は水のかけ合いを始めたようだった。

そんな二人を横目に、一人で波打ち際まで歩いていく。

海とはいえ、周りは大都会東京。海水は透き通った青ではなく、少し茶色っぽく濁っていた。

両手ですくってみると、水温は立派に冬のそれで、流石に入りたいとは思わなかった。

飛ぶ鳥はおらず、ただ景色だけが目の前に広がっていた。

日はだんだんと傾き始め、この公園に着いた頃は青かった空が、だんだんと夕焼けの赤に染まりはじめていた。

ふと目の前にキラキラと輝く点が現れた。

直後に、さっき感じた冬の冷たさが体を冷やす。

まさかとは思ったが。

「カズっちー!ぼーっとしてんじゃないぞぉー!」

声の聞こえた方に目をやると、すでにびしょびしょになっている二人がいた。

そして―巻き込まれたわけだ。

「高山君もっ」

まさか児玉に引っ張られるとは思わず、驚いた。

だが、その一瞬がいけなかった。

不安定な足取りのまま海水につかり、引かれるがままによろけながら歩いた俺は、沈んでいた何かにけつまずいた。

「「あっ!」」

体勢を取り直そうとするも、柔らかく沈む砂の上でそれは叶うはずもなく。

ばっしゃーん

冷たい海へと不本意なダイブを決めこんだ。

「冷てぇぇぇぇっ!」

あまりの冷たさに一瞬で起き上がる。

「……ちょっとやりすぎた感あるね」

「……一応、ごめんね?」

「じゃ、じゃあそろそろ戻ろうかぁ、って―うわっ!?」

ここまでやられて、引きさがるのは癪だった。

「やったな!それっ!」

「うぉっ、やっぱ冷たい!?」

「それじゃ私も!」

「二人はずるいだろ!」

いつのまにか海水の冷たさは感じなくなり、子供のような水かけ遊びはしばらく続いた。


今が、無邪気に遊んでいる今が、最高に楽しかった。


                    *

やがて遊び疲れ、俺達は砂浜に寝ころがった。

寒さなんてもう感じなかった。感じるのは、水分をたっぷりと含んだ二枚重ねの服のずっしりとした重みと、心地よい疲労感だった。

視界が雲と空のオレンジに埋め尽くされ、背中には砂のざらざらとした感触。

さっきまで水色とオレンジだった空は、今はオレンジ一色にとって代わった。

「はぁ……、疲れたぁ~」

「こんなに運動したの久しぶりだなー」

「思ったより体に堪えたな……」

「ぷっ、高山君なにそれ、おじさんみたい」

「じゃあ児玉はおばさんだな」

「なっ、失礼な!」

「女の子に年齢の話題はタブーですよ~、カズっちぃ」

「同じくらいなら問題ないだろぉ」

「あ、あたしまでおばさん扱い?ひどーい」

反論のあまりの必死さに高山が笑う。

それにつられて児玉も笑う。

黒田も笑う。

笑いが、共鳴して、共振して、空へと溶けていく。

誰もいない、この世界の片隅で、確かに生きている、息をしている、笑っている。

その素晴らしさを、全身に受けながら。

やがて笑い疲れ、時折思い出し笑いのような声が聞こえ、やがてそれもなくなっていった。

「はぁー。こんなに笑ったの久しぶり」

右を見ると、児玉が目尻に浮いた涙を指で拭っていて、

「ひー、笑いすぎてお腹が痛いぃ」

その奥では、黒田が大の字に寝そべっていた。

二人の胸元には、かつて電波塔に上った時に気まぐれでプレゼントした電波塔をモチーフにしたネックレスの赤と青が、きらりと光っていた。

あれから二人は毎日ネックレスを欠かさずつけていてくれていて、こちらとしては少々気恥ずかしいのだが、本人たちの好きにさせていた。

ふと空の色がまた変わっていることに気づく。

首から上だけを起こしてその方向を見ると、

「二人とも」

「ん、なーにーカズっち?」

「あれ」

沈みかけている夕焼けを指さした。

秋冬の澄んだ空気といつか習った軌道の違いでその色の濃度を増した太陽が、富士山だろうか、ビルの谷間から見える茶碗をひっくり返したような形をしたシルエットを浮かび上がらせながら、あの大きい天体とは思えないほど速いスピードで、そのシルエットへ隠れていく。


その様は、あまりにも綺麗で。


言葉もないまま、それが沈んでいく様を見続けていた。

筋のように広がっていた光は、やがて急速に明るさを減らし、太陽は、一瞬ダイアモンドのようにキラっと鋭い光を放ち、山の裾へと消えていった。

「沈んじゃったね」

児玉が名残惜しそうに言った。

空の端には夕焼けの名残のオレンジがわずかに残り、ほとんどが藍色に埋め尽くされていた。

その藍色も、夜に向かってその色を濃くしていくだろう。

「……なんだかこのまま寝そう」

「さすがに寝る前に焚き火で体乾かさないとまずいぞ」

「そうだけどさ、もうちょっとだけ、このままでいたい」


俺が見ている世界は一面の藍色で、ちらほらと星が輝き始めていた。


そんな世界を見上げながら、俺は、ふと漠然とした終わりを感じた。

別に俺らが消えるという予感なわけじゃ、ない。ないと思う。

だけど、そろそろこの旅が終わりを迎えるような、二人とこうして旅を続けることが出来なくなるような、そんな予感がしていた。

だから、恥ずかしいけど、今のうちに。

「児玉、黒田」

返事はなかった。

疲れてうとうとしているんだろうか、気にしないで続ける。むしろその方が都合がいい。

「今まで色々あったけど、二人と一緒に旅が出来て、よかった」

本当に、色々あった。

両親が消え、町の人たちがみんな消え、途方に暮れていた時に、児玉と会ったあの日。

どこか遠くへ行ってしまいたい、と言った児玉の声は、今でも覚えている。

そして、二人で旅を続けて、黒田に会った。

両親が消えた悲しみに暮れていた黒田に、三人で旅を続けよう、そう言った。

そんな中で、二人に振り回されながら、いろんなところを走ってきた。

旅の途中で吉川に会ったり、自殺という悲しい出来事に遭遇したり、分けの分からない男に遭遇したり、本当に様々なことがあった。

月並みな表現だが、三人だからこそ、辛いことも乗り越えられた。

一人で旅をしていたら、今頃ここでこうして寝転がっていることもなかっただろうし、もしかしたら死んでいたかもしれない。

だから、そんな言葉で表しきれない精一杯の感謝を込めて、


「あ――――」


思い出したようにびゅうっ、と吹いた風が、乾いた砂を巻き上げていった。


                    *

「とーちゃく、っと」

愛車のバイクと共に旅を続けて、四か月が経っていた。

行きたかったところは大体巡り終えて、いったん帰宅でもしようかと、再びこの東京に帰ってきた。

途中、道路標識で見てからなんとなく寄りたくなったこの公園の名は「葛西臨海公園」。

湾岸道を走っているときに、葛西の地名はよく目にしたが、実際行ったことはなかった。

バスターミナルまで来て、そこで道路は終わっていた。だが俺のバイクはそんなことには屈しない。歩道へ強引に車体を滑り込ませて公園入口までゆっくり走ると、もぬけの殻の交番を横目に、スロットルを少し強めにひねった。

幸い石畳の道で滑ることもなく、俺は無人の広い園内を縦横無尽に走り抜ける。

最高に気持ちよかった。

水族館、観覧車、そして、海。

ちょっと走ってから、意外に狭いな、と公園にしてみれば理不尽極まりない感想を述べてから、今度は海の方向へとゆっくり走り始める。

ほかにないかと探してみたが、どうやらあの砂浜のある島に行くには、この橋を渡るしかなさそうだ。

橋の向こうに、微かに水平線が覗く。

ゆっくり橋を渡り終え、スロープと階段の手前でバイクを止めた。

眼前には視界いっぱいに広がる海。

海自体は見慣れていたが、やはり何度見ても海はいいものだ。

鳥一匹飛んでいない海の景色は奇妙なものだったが。

夕焼けに照らされ、海がオレンジに染まっている。

ただ眺めているうちに、そのオレンジはだんだんと青へととってかわり、追いやられたオレンジはその色を濃くしていく。

バイクのキーを抜き、砂浜まで降りていく。

そこでふと、視界の端に何かが見えた。

不思議に思って、その正体を探してみると、

「お、あいつらの車かぁ」

かつて旅の途中で会った、高校生三人組の車だった。

ただでさえ人と滅多に遭遇することのないこの世界で、再会を果たせるとは、いったいどれくらいの確率だろうか?

近寄って車の中をのぞいてみたが、誰もいなかった。キーは抜かれているので、きっとどこかへ行っているんだろう。

そう思って再び周りを見渡してみても、誰もいない。


ちょっと待てよ?


最初に会ったきっかけは、互いのエンジン音が聞こえたからだった。

しかも、さっき俺はすいぶんとやかましく走り回っていた。

だったら、と決めつけるわけではないが、三人はどこかしらで気づいて、向こうから来るはずだ。

車に乗っていないならなおさらだ。

違和感が頭をよぎる。

なにか手掛かりはないかと見回してみると、足跡をみつけた。

綺麗に風で均された砂浜に、足跡がいくつか、海の方向へと向かっている。

たぶんあの三人のだ。きっと海で遊んでいたのだろう。こんなに寒いのに。

あろところで足跡は途絶えた。

わずかな名残でも残ってないかと周辺を見回すも、見つからない。

と、視界の端で何かが光った。

今度はなんだ、光源を探すと、それは足元に落ちていた。

それを手に取ってみると、あと電波塔の形をしたネックレスの飾りだった。

少し離れたところにもう一つ。今度は色違いのものが落ちていた。

「誰が落としてったのかなぁ、といってもあの三人の誰かだろうけど」

車があるということは、まだ近くにいるはずだ。

「おーーーーい、高山ぁーーーーーーーー。俺だ―――、吉川だーーーーー」

久しぶりに出した大声は、異様に静まり返っている園内に虚しく響いて消えた。

耳を澄ましてみても、返事らしきものは聞こえない。

「児玉ぁーーーーーー、黒田ぁーーーーーーーーー、いるかぁーーーー」

またも返事はなかった。

「どこ行っちまったのかなぁ……」

呼びかけるのをやめて砂浜にしゃがみ込む。

結局、この三人に会って以来、俺はほとんど人に会うことはなかった。

ただ今まで行ってみたかった場所に、ただひたすらバイクを走らせて、目的地に着いては一人喜ぶ。そんな日々だった。

ここに寄り道をして、偶然三人の車を見つけて、また会えると思っていたんだが。


ふと、足元の砂が少しへこんでいることに気づいた。


少し離れて見ると、それは人のような形をしている。

さっき拾ったネックレスもそのへこみの中に落ちていた。

それを見て、人が消えた時のことを思い出した。

                   *

あの時、トイレに行っていた俺は、戻ってきたときにもぬけの殻になっているオフィスを見て唖然とした。

さっきまであれだけ人がいたのに。

まさかサプライズじゃあるまいし。

どうせ机の下に誰かいるんだろうと、鼻歌なんて歌いながら見て廻った。

だけど、

「―嘘だろ?」

のんきな予想とは裏腹に、本当に誰もいなかった。

一番の商売道具のパソコンはつけっぱなし、ところどころに上着が落ちていたり、携帯が落ちていたり、はたまた結婚指輪が落ちていたり。

全てに共通するのは、人が故意的に落としたらこうはならない、ということだけ。

                  *

今の状況は、あの日のそれによく似ていた。

人間の形をしている砂浜のくぼみに、ネックレスが落ちている。

まわりに呼びかけても返事がない。


消えた、のか。


あの三人も、消えてしまったというのか。


じっと手を合わせると、ネックレスを三人の車のボンネットにそっと置き、その場を後にした。

                   *

三人のいた跡を消すかのように、満潮の波は砂浜をいつもより多く洗い、白く綺麗な砂となった三人も一緒にさらっていく。

誰もいない砂浜にはただ波音がささやかに響き、ネックレスを身にまとった軽自動車は、もう現れない運転手と乗客を待つようにただそこにいる。

ほとんどの人が消えた世界は、まるで何事もなかったようにそこにあり、やがて冬を迎えた。

人がいなくても自然は季節を刻み、時間は過ぎていく。


そして、季節は春へと変わり、


遠くで、エンジン音が、響いた。


                    *

ねえ


わたしたちって、きえちゃったのかな


ああ、きえたな


きえちゃったね


そういえばさ、さいごになんていってたの


さきにきえちゃったみたいでよくきこえなかったや


それはな



二人と一緒に旅ができてよかった。ありがとう。



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世界が終わってもなお、続くこの世界で・・・。 高山和義 @Kazuyoshi_taka

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