第十二話 迷える子羊

 アトリエに入ると、画架(イーゼル)に立てられたカンヴァスが私のことを出迎えた。そこに描かれているのはルシエがル・サロン展(フランス芸術家協会主催の展覧会)に出品する予定の『或る少女の肖像』だ。窓辺に佇む私(モデル)が片手に詩集を持った画で、光に溢れた色彩の美しさに優しく惹きつけられる。

「そんなに見つめられると照れくさいな」

 いつの間にやら、ルシエが肩越しに微笑んでいた。

「別にあなたの絵を見ていたわけじゃないわ。自分の姿を見ていただけよ」

 意地悪な私の言葉に対し、「君はいつからナルシスになったんだい?」と画家は肩をすくめて苦笑して、私の手首に指先を這わせた。

「君の肌は素晴らしい。青みがかった乳白色に薔薇色のヴェールがかかり、陽の光が真珠のような光沢を見せる。ねえアルメル、君の肌の美しさを僕はもっと知りたいのだ。今ならまだ間に合うよ。君が脱いでくれると言うのなら、僕は今すぐにでも新しく絵を描き直して――おやおや、そんなに恐い顔で睨まないでくれたまえ」

 ヌードモデルへの勧誘から逃れるため、私は画家の手を邪険に振り払う。

「買い物に行ってくるわ」

「では、すまないが帰りにフロケ爺さんの所に立ち寄ってくれないか?」

 どうやら絵具が切れたらしい。ルシエは手近にあった紙切れに鉛筆で素早く欲しい色の種類を走り書きする。買い物リストを手渡されたとき、握られた指先に柔らかなキスをされた。

「君の気が変わったら、いつでも言ってくれたまえよ」

 懲りない笑顔を傾ける画家の顔を再び軽く睨みつけ、私はアトリエを後にした。



 パンとチーズを買ってから、帰りがけにルシエのいきつけの絵具屋で、買い物リストに従ってブラン・ダルジャンの大型チューブに、クローム黄三番、ラック・オルジネール、ミーヌ・オランジェの小型チューブなどを購入した。

「サロンに出品する絵は完成したのかね? このあいだ立ち寄ったときに見せてもらったが、あの絵は入選確実だ。このわしが言うんだから間違いない」

 絵具屋のオーナーであるフロケさんは無名の若い画家を発掘するのが趣味で、随分前からルシエの絵に惚れこんでいた。彼は隠れた裸婦画の収集家で、大いなる逸話的主題などのない『現実』の裸体が描かれた絵を好んで集めた。

 フロケさんはルシエが収集している例の画家の絵をひとつだけ持っていた。セーヌ川の岸辺を散歩していたときに、そこで絵を描いていた画家本人に直接交渉して、まさに描き上がったばかりの作品をその場で買い取ったのだそうだ。

 店にその絵を飾って数年後、偶然訪れた見ず知らずの客――ルシエのことだ――から根掘り葉掘り画家について尋ねられたが、なにしろ普仏戦争より前のことであったし、一度会っただけの無名の絵描きのことなど、詳しく憶えているはずもなかった。しかし、このときをきっかけにして、彼はルシエが『琥珀色の瞳の少女』の絵を探していることを知り、以来、知人の画商に掛け合うなどして、さまざまな形で画家に関する情報を集めてくれていた。

「フランシスに早くサロンに出品するようおまえさんの口からも言ってやってはくれまいか。締め切りに間に合わなかったら元も子もないからのう。そうなったら、せっかくの人探しもおじゃんだろうて」

「人探し?」

「なんだ。フランシスのやつ、何も言うとらんのか? 絵を見て気づかんかったかい?」

 私が黙って首を傾げると、フロケさんは深い皺に包まれた小さな瞳を面白そうに大きく見開いた。

「あやつはずっと、琥珀色の瞳を持った肖像画の少女にとりつかれとるんじゃな。まあ、無理もないのう。男にとって、初恋とは永遠に忘れられない特別なもんじゃからのう」

 ふわふわとした白い顎髭を片手でさすりながら、隠居前の初老の紳士は悪戯気に微笑んだ。

 私は平静を装っていたが、胸の奥底に訪れた静かな動揺は少なからず面の表情にもなんらかの影を落としていたに違いない。しかし、幸いなことにフロケさんはそのことには気がつかず、リリシズムに溢れた調子で言葉を続けた。

「フランシスが出品する絵の中で、モデルのおまえさんが手にしている詩集には、秘められた呼びかけが記されとるんじゃよ」

 詩集には確か自作の愛の詩が綴られていたはずだった。つい先日、ルシエはそれを得意気に朗々と読み上げたが、独特で難解な散文詩はさっぱり意味がわからず、私が正直にそのことを指摘すると、「いずれ君にもわかるはずさ」と意味深な微笑で返されたのだ。

「愛の伝道師が紡ぐ小難しい言葉が並んでいただけでは?」

「うむ。帰ったら頭文字を縦に読んでみるといい」

 そう言って、フロケさんは笑いながら曲がった腰を一層丸めて店の奥へと姿を消した。



 帰宅した私は真っ直ぐにアトリエへ向かった。夕暮れの日差しが届かぬ静謐な影の中、絵はまるで瞑想でもしているみたいにひっそりと画架(イーゼル)に立て掛けられていた。『秘められた呼びかけ』という言葉の響きにひどく鼓動が高まった。

 私はフロケさんの指示に従い、詩集の頭文字を縦に読んでみる。

「あなた……は……ど……こ……」



『 ア ナ タ ハ 、 ド コ ニ イ ル ノ ? 』



 幻影が現実となって襲い掛かった。いや、違う。それは元々現実だったのだ。

 ルシエは琥珀色の瞳の少女を探しているのだ。彼は初恋の人をずっと忘れずにいる。幼い頃に自分を救った肖像画の少女を、本気で想い続けているのだ――。



「アルメル、君はここのところずっと何かを思い詰めているようだね?」

 肘掛け椅子に身を沈めていたルシエが、探るような表情で両手の指先を突き合わせながら言った。唐突な彼の言葉に、茶菓の用意をしていた私はカップを受け皿に置こうとして大きな音を立ててしまった。

「別に何も」

 ルシエは「ふむ」と呟いてから、ふと気がついたように私の手元を見つめた。

「君がお湯を注いでいるのはどうやら砂糖壺のようだが」

 壺の中では湯に溶けた砂糖が無残な形になっていた。ルシエは愉快そうに唇の端を歪めると、颯爽と椅子から立ち上がった。

「君は嘘が苦手と見える」

「別に嘘なんかついてないわ」

 私は冷静に紅茶を淹れ直す。ルシエは臭いを嗅ぎつけた動物のように背後から私の首筋に顔を埋めた。離れようとすると、先手を打って腕を回された。

「君が考え事をしているときにはすぐにわかるよ」

「別に考え事なんてしてないわ」

「そう? でも、僕にはわかってしまうのだ。いつも君を見ているから」

 絵具屋に足を運んだ日以来、鬱屈していた感情がこの一言で決壊した。

「あなたは私を見てなんかいないわ!」

 行き場の無い感情が勝手に言葉を押し出した。ああ、滑稽だ。私は一体何を言っているんだろう? どうにもならない不快感に内から蝕ばまれてゆく。締め上げるように侵食してくる――これは嫉妬だ。

 ルシエは少し驚いたように淡い水色の瞳を私に対して向けていた。何かを言いたそうに口を開きかけたが、ちょうどそのとき、陽気な足音を響かせたエミールが鼻歌交じりでアトリエに現れた。完成した『或る少女の肖像』を産業館に搬入するのを手伝いに来たのだ。

 私は何事もなかったようにルシエの腕から逃れると、新しい砂糖を求めて台所へ走った。



 エミールの分も紅茶を淹れてアトリエに運んでいくと、二人の紳士は『或る少女の肖像』を取り囲み、印象主義がどうであるとか、アカデミズムがどうのこうの、誰それの構図が斬新だっただの、何やら小難しい話をしていた。

「そういえばフランシス、私の恋人が今年の審査員候補になったそうで、結果をいち早く知らせてくれと頼んでおいたよ。本当は君の絵を入選させるよう審査員たちを片っ端から買収したいところだが……」

「エミール」

「冗談だよ」

 ルシエは『ラ・トゥール』の名は一切出さず、絵描きとして普段から使っている『フランシス・ルシエ』の名でサロンに出品するらしい。政治的根回しの一切ない状態で真剣に芸術と向き合うためだと本人は言っているが、エミールいわく、家名を出そうが出すまいがあまり関係のないことで、ルシエが絵を出品すれば瞬く間に新聞記事に取り上げられて社交界の知るところとなるだろうとのことだった。

「しかし、君がル・サロンに出すとはね。民営化される前から私が度々勧めてもずっと拒み続けてきたというのに、一体どういう風の吹き回しだい?」

 エミールの問いかけに、紅茶を手渡す私の顔をちらりと盗み見ながらルシエが答えた。

「今回サロンへ出品することに決めたのは、ようやく僕自身が満足出来る絵が描けたからさ。多くの人々に見てもらいたいと思えるような絵がね」

「モデルがアルメルってところに多少の不満はあるが、この絵は実に素晴らしいよ」

 褒め言葉も上の空で、ルシエが私に視線を送り続けているのが感じられる。しかし、私は彼と目を合わさず、絵の中の自分と向き合った。これでしばらく見納めなのだ。

 カンヴァスに描かれているのは確かに私であるはずなのに、眺めているうちにだんだんそうではないように思えてきた。琥珀色の瞳をした別の少女だ。ルシエの心に焼きついて離れない肖像画の少女の姿だ。

 この絵を多くの人々に見てもらいたいとルシエは言ったが、それはもちろん肖像画の少女の情報を得るために違いない。もしかしたら、彼は最初からそれが目的で私をモデルに雇ったのではないだろうか? あの日、あのとき、パリの街角で出会ったあの瞬間から――。

 そう思うと、胸が張り裂けそうだった。悲しくて、苦しくて……。そして、怖くて仕方なかった。



 その日の晩、夕食の席でルシエは普段どおりに微笑を交えながら、絵を運んだ先での出来事を話して聞かせてくれた。私は相槌を打つものの、彼と目を合わせることすら出来なくなってしまっていた。

「それでね、その画家は一時期有名な画塾に通っていたこともあって、印象派の巨匠たちと共に学んだ時期もあったそうなんだ。貧苦からやむなく普段は宗教画を描くことを仕事にしているのだが、唯一の画商からもとうとう絵を買ってもらえなくなってしまったらしい。しかし、彼にはすでに四人も子供がいて――……アルメル、僕のしたことを怒ってるのかい?」

 なんの脈絡もなく、唐突に話の途中でルシエが言った。私は驚いてパンを千切る手を止める。食堂にわずかな沈黙が君臨した。

「僕が詩集に綴った言葉に気がついたのだろう? 君は腹を立てているはずだ」

「私が腹を立てても仕方ないじゃない」

 冷淡な口調で即座に言って返すと、ルシエは椅子から立ち上がりテーブル越しに私の手を取った。

「やっぱり怒ってるんだね? 悪かったと思ってる。でも、僕は君のことを想っているんだ。どうかそのことはわかって欲しい」

 ルシエは熱っぽく訴えたが、それはかえって私を落ち込ませた。優しい言葉が矢のように突き刺さる。

 私はルシエの手を振り払うと、呼び止める声に耳も貸さずにそのまま自分の部屋へと駆け込んだ。



 淡いピンク色の薔薇が咲く美しい庭で、波間をたゆたう小船のように、小さな蝶が花から花へと舞い飛んでいる。幼い私は子供特有の無邪気さで夢中になって追いかけ回す。

「帰るよ、アルメル」

 画材道具を肩からつるし、カンヴァスを腕に抱えてパパが姿を現した。その背後、遠い茂みの向こうで少年がひとり泣いていた。私はパパの手を取りながら、彼の姿を振り返る。

「ねえパパ、あの子どうして泣いてるの?」

 パパは葉の隙間から差し込む西日に目を細めてこう言った。

「光を見つけたんだ。きっと眩しかったのだろう」



 浅い眠りから目が覚めた。何か夢を見ていたような気がした。振り子時計の音が壁の向こうから聞こえてくる。まだ夜は明けていなかった。私は喉の渇きを感じ、台所へ水を飲みに行こうとベッドから身体を起こした。

 アトリエからランプの明かりが漏れていた。そっと覗き込むと、長椅子に寄りかかり、膝を立ててスケッチブックを乗せたルシエの姿が見えた。めずらしく対象物なしに記憶を辿って物憂げに鉛筆を動かしている。

『或る少女の肖像』が運ばれてしまった今、雑然としているはずのアトリエは閑散として見えた。絵のあった空間には画架(イーゼル)だけが置かれていて、なんだか寒々しく感じられる。実際、もう春も近いというのに暖炉に火をくべなければいられないような寒さだった。

 ルシエは小さなくしゃみをした。私は仕方なく寝室からブランケットを取ってきて、筆を動かし続ける画家の肩に掛けてやった。

「アルメル……」

「絵を出品した日くらい、制作は休んだら?」

 見ると、スケッチブックに広がる紙一面に、私の姿が描かれていた。いや、違う。自分の愚鈍さに呆れ返る。彼が描いていたのはもちろん私などではないのだろう。

「君のことを描きたくて仕方なかったのだ」

 そう言って、ルシエがやんわりと微笑んだものだから、私はすっかり泣きたくなってしまった。苦しくて、どうしようもない。心が押しつぶされそうだった。人を好きになるということが、こんなにも辛いだなんて――。

 部屋の静寂が深まったとき、唐突にルシエが言った。

「君のパパに、あの絵を見て欲しかったんだ」

 思いがけぬ突然の言葉に、私の頭は混乱した。その言葉の持つ意味をうまく理解することが出来なかった。

「もしも彼が生きているのなら、詩集に秘めた呼びかけに反応してくれるのではないかと期待した――しかし、それは余計なお節介だった。君は怒って当然だ」



『ア ナ タ ハ 、 ド コ ニ イ ル ノ ?』



 ああ、そうだったのか……。

 私はここにきてようやく『秘められた呼びかけ』の真実を知った。あれは『琥珀色の瞳の少女』に対してではなく、パパに対する呼びかけだったのだ。

 自分自身に嫌気が差した。ルシエに対する申し訳なさでいっぱいになった。愚かな私は醜い嫉妬心に苛まれ、何も見えていなかったのだ。

 ルシエは肩に掛けていたブランケットを広げ、そっと私を抱き寄せた。

「また君を泣かせてしまったな」

 そう言って、彼は私の頬を伝う涙を指先で拭い取り、涙の痕に口付けた。それから目蓋に接吻し、唇を挟むように優しく食んで離れると、瞳を閉じて額を付き合わせた。

 喉を震わせて泣きながら、私は喘ぐように問う。

「どうして……パパに?」

「君は心の底で、本当は父親に会いたいのではないかと思ったんだ。……僕は二度と父に会うことが出来ないけれど、君は会える可能性が残されているかもしれない。そう思ったら、筆が勝手に動いてしまっていた」

 温かな手が頬に触れた。橙色の光に溶け込んだ淡い水色の瞳は、躊躇いがちに揺れ動いている。しかし、双眸は真っ直ぐに私の元に向けられていた。

「君の気持ちを無視して勝手なことをして、本当にごめん。明日、搬入した絵を取り戻しに行って来るよ」

 私は即座に首を横に振る。すると、ルシエは唇の端を上げて微笑んだ。

「呆れないで聞いて欲しいのだが――僕はね、あの絵が入選するという確信があるんだ。だから、会場に飾られる前に取り戻さなくては」

 おどけるようなその言葉に、私は泣きながら笑った。そして、絵を取り戻す必要はないと言った。パパがあの絵を見たところで、モデルが私だと気がつくはずがない。私たちはもう十数年近くも会っていないのだからわかるはずはないのだ。それに、もしかしたらすでに亡くなっている可能性だってある。そのことをルシエに伝えると、彼は「そうだろうか」とささやかに反論した。私は「そうよ」と言い返す。

「それに、パパは私を捨てたのよ? たとえ私がパリにいると知ったとしても、わざわざ名乗り出たりなんかしないわ」

 ルシエはそれに対しては何も言わなかった。だが、代わりに私の肩に腕を回すと、再びブランケットで包むように抱きしめた。

 緩やかに深まる夜の中、揺らめくランプの明かりに照らされたアトリエの一角で、私はルシエの瞳を見上げた。

 切なくて、哀しくて、苦しくて――時に迷ったり、怯えたり、混乱したり。でも、恋しくて、愛おしくて、温かくて……。誰かを愛するということは、なんて忙しいのだろう。

「アルメル?」

 言葉を発する画家の唇に人差し指をそっとあてがうと、私は、彼がいつもそうするように、柔らかく、甘やかなキスをした。



 サロンの選考結果を一番先に知ったのはエミールだった。約束どおり、彼の恋人が真っ先に教えてくれたのだ。ルシエがサロンに出品するのはこれが初めてで、そして、入選するのも初めてのことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る