第十三話 或る少女の肖像
五月の晴れ渡る空の下、私とルシエは散歩の延長みたいな感覚でシャンゼリゼにある産業館へ赴いた。ヴェルニサージュ(開会前日のレセプション)は社交界の顔見知りだらけで面倒だろうからと、ルシエは一般開会日に出かけることをあらかじめ決めていた。
「ああ、見たまえアルメル。なんて輝かしい瞬間だろう」
大階段を駆け上り、広間に足を踏み入れたルシエはとても興奮していて、シルクハットを投げ出さんばかりの勢いだった。彼はカタログに自分の名が載っていることを確かめると、記された番号の部屋まで嬉しそうに私の手を引いた。
会場内は山高な黒い帽子の紳士たちに紛れ、華やかな貴婦人やブルジョワ女たち、家族連れ、学生など、あらゆる人々でごった返し、凄まじい熱気に包まれている。私たちはアルファベット順に絵の飾られている部屋を周り、ルシエの頭文字である『L』へ足を運んだ。
額縁に収めらた大小さまざまな絵が、壁一面を隙間なく上手い具合に覆っている。アトリエで見ていたときには大きな絵だと思っていた『或る少女の肖像』も、こうして並べられてみると随分小さい方だった。絵は下の方に飾られてあり、部屋を行きかう大勢の人々の足を止めていた。
「うん。この場所なら文句ないよ。君の愛らしい姿が一際目立つ配置にある」
そう言って、ルシエは満足そうに私の肩を抱き寄せた。
隣りの部屋では幾人かの画家らしき風貌の男たちが、サロンの関係者を捕まえて自分の絵の位置を変えて欲しいとしきりに頼んでいた。
「おや、あれは噂のエミールの恋人じゃないか」
ルシエは一度口にしてから、丁寧に自らの言葉を訂正する。「いや、違ったな。正確には恋人のひとり、だろうか」
フランス芸術家協会の会員にして、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の教授である審査員のその男は、ルシエの姿を見つけるや否や、画家たちを振り切る格好の口実を見つけたように慌ててこちらに手を振った。彼は人波を掻き分けて近寄ってくると、アカデミズムの申し子で反印象派でありながら、感動のショック冷めやらぬといった様子で『或る少女の肖像』に対する賛辞を捲くし立て、私たちを肖像画の前に集う群衆の中に引っ張り込んだ。
ルシエは持ち前の愛想の良さに加え、自信に溢れた笑顔で取り巻く人々に応対したが、私は自分がモデルを務める肖像画の正面にいることがなんだか気恥ずかしくて、彼が話をしている隙にこっそりその場から逃げ出した。そして、少し離れた場所に立ち、改めて距離を置いて自分自身の姿を眺めてみる。琥珀色の瞳を見るのは随分と久しぶりのことだった。
その時、人垣の背後から熱心に絵を鑑賞していた中年の男性が、ふいに自らの額に手を当てたかと思うと、突然ふらふらとした足取りでその場に蹲った。
「大丈夫ですか?」
駆け寄って声をかけると、顔を上げた男はひどく驚いた様子で私を見た。明るい茶色の瞳がまるで幽霊でも見ているみたいに茫然自失と見開かれている。それもそのはず。鑑賞していた人物画にそっくりな人間に話しかけられれば、誰だって驚くに違いない。
片手を差し出すと、男は恐る恐る私の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「ご親切にありがとう。ニスと麝香の匂いに、少し酔ってしまったようだ」
口元の皺を深め、男は気を取り直したように微笑んだ。
鼻の下に蓄えられた絵筆のような髭は、混じりけの無い濃い茶色でふさふさとしていたが、帽子と耳元の間に覗く頭髪は少しばかり白いものが混じっていた。優しい目元と目尻の皺に、不思議と好感が持てた。
彼は少し迷ったように、おずおずと私に言った。
「君はこの絵のモデルさんだね? 大変素晴らしい絵だ。是非とも画家に傑作であると伝えて欲しい」
「彼ならすぐそこにいますから、直接お話になられたら?」
男は人の多さに気後れしたのか、一瞬怯んだ表情を浮かべて群集に顔を向けた。
「人だかりの中にいる青年だね。とても忙しそうだ」
「心配いらないわ。ちょっと待ってて」
私は人々の間を潜り抜けて、ルシエの腕を引いてすぐさま戻って来た。部屋は多くの観覧者で溢れかえっていたが、男の姿はどこにも見当たらなかった。
「フランシス! フランシス!」
ちょうどそのとき、細長い杖を掲げたエミールが、縮れた金髪を振り乱して私たちのいる部屋へと駆け込んできた。
「ああ、やっぱりここにいたんだねフランシス!」
「一体何事だい、エミール」
エミールは強い日差しに晒されて弱ってしまった植物のように、身を屈めて息の調子を整えた。
「すぐさま伝えねばと思って、ジョゼフィーヌとの昼食の約束もそっちのけで今までずっと君を探していたんだ。フランシス、君はユノーのことを覚えているかい?」
「もちろんさ。君の大叔父の給仕頭だろう? 僕が探している画家について尋ねに行ったことがあったね。しかし、彼は当時のことをほとんど憶えていなかった」
「夫人が電報をよこしてくれたのだが、ここのところユノーの記憶がはっきりしているそうで、画家に関することを知りたいのなら、もしかしたら今なら聞きだせるかもしれないということだ」
思わぬ話の進展から、ルシエの瞳に興奮の色が駆け抜けた。
エミールは額に滲んだ汗を拭い、ニヤリと口端を上げる。「うまくいけば、画家の消息がつかめるかもしれないぞ」
私たちはサン・ラザール駅から三十分ほど汽車に揺られ、パリ北西に位置するセーヌ右岸のアルジャントゥイユへ赴いた。確かアトリエにルシエが描いたアルジャントゥイユの鉄橋と、水辺に浮かぶボートの絵があった。彼いわく、かつてモネやルノワールが共に画架(イーゼル)を並べて同じ構図で描いたように、自分の作風と向き合うために取り組んだ習作であるとのことだった。
ユノー夫妻はセーヌ川を見渡せる一軒家に住んでいた。奇妙なほどに真っ直ぐな姿勢で安楽椅子に腰を掛けるユノー氏の姿は、多分に謹厳な奉公時代の面影を残しているように感じさせたが、表情はどことなくぼんやりとしている。
「ここ最近は調子が良くて、記憶もはっきりしていたんですけどねえ」
弱りきったように夫人が溜息をついた。彼女は先程から幾度となく夫に声をかけていたが、長年の連れ合いは無反応でひたすら一点を見つめ続けるばかりだった。どうやら徒労であったようだ。落胆の色を隠せずにルシエが肩を落としたまさにそのとき、突然ユノー氏が声を上げた。
「さあ、ガレット・デ・ロワを切り分けましょう。旦那様からフェーヴ(陶製の小さな人形)が出ました。王様万歳! 王様万歳!」
どうやら公現祭のときの記憶が蘇ったようだった。ルシエは意識が覚醒したユノー氏の正面に膝をついて、彼の手に両手を重ねた。
「かつてあなたの主人を描いた肖像画家について、何か知っていることがあれば教えて下さい」
ユノー氏は絶えず瞬きを繰り返していたが、やがて皺くちゃの目蓋を半分ほど下ろして目を細めた。
「肖像画家……? ラ・トゥール伯爵夫人が旦那様を描かせるために連れて来た、あの貧乏な画家のことでございますか?」
思いもかけぬ返答に、ルシエは一瞬開いた口が塞がらないようだった。エミールが隣で驚きの声を上げる。
「君の母君が私の大叔父とやんごとなき関係にあったのは周知の事実だが、まさか彼女が紹介した画家だったとは……! しかし、考えてみれば辻褄が合うな。ラ・トゥール伯爵の絵は、大叔父の絵と同じ画家によって描かれたものだ。双方ともリュリ夫人が絡んでいたというわけか」
ユノー氏は何の脈絡もなく突然万国博覧会の記憶が蘇ったようで、当時の思い出を興奮気味に叫び始めた。
「風にはためく国旗と建ち並ぶパビリオン! きらめく滝の流れに噴水の水飛沫! 共和国万歳! 共和国万歳!」
万歳三唱が繰り返される中、ルシエがふいに肩を揺らして大笑いし始めた。未だかつて見たことがないほど愉快そうに腹を抱えて笑い続けるルシエの姿を、私とエミールはぎょっとして見つめた。彼はひとしきり笑い終えると、さもおかしいと言わんばかりの顔つきで言った。
「まさに灯台下暗しというわけか。どうやら、随分と回り道をしてしまったようだ。あの女(ひと)とはいっさい余計な話をしたことがなかったからね。……しかし、父の絵が描かれた経緯くらいは一度尋ねてみるべきだったな」
私たちはユノー夫妻に礼を述べ、予定通りの汽車でパリへと舞い戻った。サン・ラザール駅に降り立つと、あらかじめ迎えに呼んでおいたエミールの馬車に乗り込み、一路リュリ夫人のサロンへと向かった。
モンソー公園近くの裕福なブルジョワ地区――そこでリュリ夫人の華々しい昼の集いが行われていた。期せずして訪れたふいの来客に気を悪くした様子もなく、夫人は別室で私たちを迎えてくれた。
「随分唐突な訪問だこと。まさかわざわざ私の顔を見に来たわけではないのでしょう?」
ルシエは単刀直入に切り出した。
「父の肖像画を描いた画家について知りたいのです」
「ジャンについて?」
「彼は一体何者なのですか?」
「貧乏な無名画家よ。カフェに座る私の姿をモデルにして勝手に絵を描いていたの。気まぐれからルソンジュ男爵に紹介して絵を描かせたことがあったわ。その後、あなたの父親の絵も手がけた。私のお友達が彼の支援者になって二人でイギリスへ渡り、ちょうど最近パリに戻って来たそうよ」
「パリのどこに戻って来たのです?」
ルシエが真剣な眼差しで尋ねると、リュリ夫人は静かな視線で息子を見返した。
「それは、あなたにとって重要なことなの?」
「僕の人生に関わる、とても重要なことです」
夫人はくすりと微笑んだ。「大袈裟ね」
彼女は「ちょっと待っていなさい」と踵を返し、一度部屋から出て行った。それからまもなくして再び姿を現すと、一枚の絵葉書をルシエに手渡した。
「これは?」
「ジャンから送られてきた私のお友達の訃報よ。二人は私を介して出会ったわけだし、一応伝えようと思ったのね。詳しい場所が記されていないので葬儀にも出向けなかったけれど、十六区に戻ったと書いてあるわ。裏の絵はきっと最近ジャンが描いた絵じゃないかしら」
ルシエは絵葉書の表裏をひっくり返した。
「シャン=ド=マルスが広がっている。この位置だとトロカデロ宮から描いたに違いない」
彼は気色ばんだ様子で顔を上げる。
「この絵葉書を借りてもいいですか?」
「どうぞご自由に」夫人は興味なさ気にわざとらしく肩を聳やかして見せた。
ルシエは別れの挨拶をして扉の方へ歩みを進めたが、今一度母親の元まで戻ってくると、躊躇いがちにそっと彼女の体を抱きしめた。
「感謝します」
リュリ夫人は驚きからしばらくのあいだ呆然としていたが、やがて、その表情は複雑な思いと共に優しく緩んでいったように見えた。
アパルトマンから出て御者に行く先を指示していたルシエは、私とエミールを振り返って叫ぶ。
「急ぎたまえ、二人とも! 早くしなければ陽が沈んでしまう」
「そんなに急いでどこへ行くって言うんだい?」
「決まってるだろう? トロカデロの高台だよ」
「ええ? 今からかい?」
ルシエは馬車の座席に腰を下ろすと、絵葉書に描かれた風景画を眺めながら独り言のように呟いた。
「僕はもう一度、琥珀色の瞳の少女に――あの肖像画に会えるかもしれないんだ……」
私は小窓に頭をもたせ、向かい合う画家の期待に満ちた眼差しを、ただぼんやりと見つめるのだった。
武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう……
酔った男たちが大声でラ・マルセイエーズを歌っている。パパは私の手を引くと、不自由な足を引きずるようにしてその場から立ち去った。
「ねえパパ、フランスは戦争に負けてしまったんでしょう? それなのに、どうしてまだ大砲が鳴っているの?」
モンマルトルから降り注ぐ砲弾の音。翻る赤い旗。草臥れた街路に転がる、無数の死体と飢えて弱った市民たち……。
馬車に揺られているうちに、ほんの一瞬眠ってしまったようだった。
トロカデロに到着すると、高台に走ったルシエは聳え立つ円形の宮殿から真剣な表情でシャン=ド=マルスを臨んでいた。遠くに見える風景の位置などから、画家が腰を落ち着けた場所を正確に突き止めようとしているようだった。その隣では、エミールが輝かしい過去の思い出に浸ってうっとりとしている。
「ああフランシス、ここに立つのは万博以来だね。マク=マオン元帥の開幕の言葉を覚えているかい? 辺り一帯は物凄い群集だった。昼頃にはひどい土砂降りに見舞われて、君は屋根のあるところまで私の手をこんな風に引っ張って――」
「ルシエなら向こうに行ったわよ」
冷めた口調で告げると、エミールはルシエの手と勘違いして取った私の手を「ぎゃあ!」と叫んで放り投げた。相変わらず失礼なヤツ。
ルシエは画家の足跡を追うことに夢中で、心ここにあらずといった状態だった。辺りを走り回り、さまざまな角度からパリの風景を眺めている。その様子を目で追いながら、エミールが小さな溜息をついてめずらしく私に漏らした。聞こえても聞こえなくてもいいといった感じの曖昧な呟きだった。
「私は心底自分を嫌なやつだと思うよ。フランシスを夢中にさせる琥珀色の瞳の少女に、いつだって嫉妬してるんだ」
ルシエの興味関心が肖像画の少女に向けられていることを寂しく感じているのは、少なくとも彼だけではなかった。私も馬鹿みたいな疎外感に苛まれていたからだ。エミールはさらに言葉を続ける。
「だが、私はフランシスが望むなら、彼の探している画家を見つけ出して、例の肖像画と――肖像画のモデルの少女を絶対に探し出す。絶対にだ――」
それは立派な決意表明であった。エミールは本当にルシエのことを心の底から愛しているのだろう。
「この様子じゃ、フランシスは十六区すべての通りをこの勢いで探しかねない。アルメル、我々はどこかで辻馬車を拾うから、君は私の馬車で先にアトリエに戻っていたまえ。女がついて回ると足手まといだからな」
突き放すようなその言葉は、たぶんエミールなりの配慮であり、優しさなのだと思う。私は素直に彼の言葉に従った。私がいれば、確かに足手まといになるのは明白だったし、これ以上ルシエの姿を見続けることは限界だった。
噴水脇の階段をひとり下りていく途中、躊躇いがちなエミールの声に呼びとめられた。
「アルメル、これだけは言わせてくれ。フランシスは琥珀色の瞳の少女と君を重ねたことがあったかもしれない。だが、それでも君が彼の前に現れてからの半年間、フランシスが見ていたのは間違いなく君だったんだ」
眼前に広がる遠景に涙がこぼれてしまいそうだった。私はエミールを振り返ることなく、ただ静かにその場から立ち去った。
アトリエに真っ直ぐ帰る気には到底なれず、私は馬車へは向かわずに近くのカフェへと足を運んだ。隣のテーブルでは、老人たちが帝政時代の思い出話に花を咲かせアブサンを引っ掛けている。角砂糖を溶かした緑色の毒酒を横目に、私は身勝手な孤独感に襲われた。ルシエが遠くへ行ってしまったような気がして、漠然とした不安に苛まれた。自らが生み出したネガティブな思いを断ち切るべく、私は重たい足取りでカフェを後にした。
傾いた午後の陽がトロカデロ宮に深い陰影をつけている。私はセーヌ川沿いの縁にもたれ掛かり、小さな溜息を漏らした。ふいに帽子が風に飛ばされ、蝶のようにふわりと橋の袂に舞い飛んだ。そのすぐそばでは、画家らしき男が画材道具一式を皮の鞄に仕舞い込み、画架(イーゼル)を畳んでいた。
なんとも驚くべきことに、男はサロンの会場で会話を交わしたあの中年男性だった。一日に二度も遭遇するだなんて、なんという偶然だろう。男は私の視線に気がつくと、私以上に驚いたようだった。そのままよろめくようにして、力なく欄干にしがみつく。
「大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫。大丈夫です……。どうぞお気遣いなく……」
そう言いながら、彼は片膝を押さえつつその場から離れようとした。だが、足元は依然としてふらついており、今にも倒れてしまいそうだった。私は彼の体を支えるように腕を回した。
「これじゃひとりで帰るのは無理ね。ご自宅までお送りします」
「いえ、本当に大丈夫ですから……」
私はその言葉を無視して男の荷物を肩に下げ、もう一方の手で不安定な体を支えた。彼はひどく動揺しているようだった。「申し訳ない」としきりに帽子を深く被り直し、画架(イーゼル)を杖の代わりに突きながらゆっくりと歩き始めた。
幸いなことに、通りには未だにエミールの馬車が停まっていた。私は男を乗車させると、彼の告げた通りの名を御者に伝えた。
男の家はパッシー通りから一本入った閑静な住宅地にあった。美しい絵の飾られたブルジョワ風の玄関ホールを抜ける途中、彼は召使いに紅茶を頼んだ。案内された客間にもたくさんの絵画が飾られており、私は足を踏み入れてすぐに歩みを止めた。
「もしかして、これ全部あなたが描いたの?」
「ええ。そうです」
「素晴らしい絵だわ」
「ありがとう。これらは昔の絵です。未だに筆を握ってはいますが、もう以前のようには描けなくなってしまった。革命以来、すべてが変わってしまったんです」
カンヴァスから顔を逸らすと、画家が真っ直ぐに私を見つめていた。彼は慌てたように視線を下げ、見ていたことを誤魔化すみたいに早口で会話を繋いだ。
過去に風変わりな伯爵夫人の目に留められて、貴族の肖像画を描いたことがあることや、自分を支えてくれた伴侶と共にイギリスへ渡ったこと、若い頃に膝を悪くして歩くことは困難だが、おかげで戦争に行かずに済んだことなど。それらのことをとめどなく語り続けた。
目の前の男が果たして何者であるのかに気がついて、私は体中の血が沸き立つような興奮に見舞われた。彼こそが、長い間ルシエが探し続けてきた例の画家に違いなかった。
「あなたを探していたんです」
男の声に被さるように言葉を発すると、画家はぎくりと肩を揺らし、思いもよらぬ言葉を叫んだ。
「赦してくれ!」
かすれる声で彼は再び繰り返す。「赦してくれ……」
言葉の真意を理解出来ずにいると、サロンに紅茶を運びに来た召使いが一組の来訪者の名を告げた。それは驚くべきことにルシエとエミールであった。私は驚きに包まれて玄関先へと駆けつけた。
「二人とも、どうしてここに?」
すると、エミールがそれはこっちのセリフだと言わんばかりの顔をした。
「トロカデロ周辺に目星をつけて尋ね歩いていたところ、我が家の紋章入り馬車が邸の前に停まっていたのを偶然見つけたのだ」
ルシエはホールに飾られた絵画に目を奪われ、私たちの会話など耳に入っていない様子だった。そこかしこに掛けられている絵の同一の作風から、彼はここが自分たちの捜し求めていた場所であることを悟った。
「アルメル、君がここにたどり着いた経緯は後ほどゆっくり聞かせてくれたまえ」
そう言って、ルシエは私の背後から姿を現した画家に唐突に切り出した。
「お願いです。あの絵をもう一度見せて頂けませんか?」
「あの絵……?」
画家は突然の来訪者に怯えたような視線を向けた。
「一八七一年の夏、あなたが僕に見せてくれた、琥珀色の瞳の少女の肖像画です」
その言葉を聞き、画家は過去の記憶を辿るように目を細め、やがて驚いたようにルシエを見た。「君は……あのときの少年か……」
ルシエは深く頷いた。昂る心を抑えるように一度唾を飲み込んでから、彼は再び言葉を続けた。
「僕はあの肖像画に救われたのです。だから、どうしてもあの絵をもう一度見たくて――あれからずっとあなたを探していたのです」
その背後から、エミールが急いたように問いただす。「モデルの少女はまだ生きているのかね? 彼女に会うには一体どこへ行けばよいのだ?」
矢継ぎ早に尋ねるエミールを横から制し、ルシエが叫ぶ。
「いや、エミール、僕は何よりも肖像画が見たいのだ! お願いです。どうかあの絵をもう一度だけ僕に見せて下さい!」
長い沈黙が訪れた。二人は互いに目を合わせたまま黙って向かい合っていた。採光窓から差し込まれる夕暮れの陽に皆の姿が照らされていたが、そのことに気がついているのはたぶん私だけだったに違いない。
「あの絵は、上の部屋にある。お望みであれば案内しましょう」
苦渋に満ちた決断、といった口調で画家の男が返答した。
ルシエの顔は瞬く間に喜びに包まれた。膝を庇いながら階段を上る画家の体を、ルシエとエミールは走り寄って二人で支えた。彼らの姿が階段を上っていったのを見届けると、私はそっと身を翻した。そうして、そのまま音を立てずに玄関を通り抜け、誰にも気がつかれることなく邸を後にするのだった。
ルシエはまもなく肖像画を目にすることが出来るだろう。そして、モデルの少女にも会うことが出来るに違いない――。
この辺りの風景に不思議と見覚えがあると思ったら、それもそのはず。小説家アルフォンス・シャレットの邸宅があった場所は、すぐそこの通りを入った目と鼻の先だった。サティ警部から聞いたところによれば、アルフォンスはあの日以来、パリ郊外の精神病院に入院しているとのことだった。
私は歩みを止め、薄暮れ迫るパッシーの高台からパリの街を見下ろした。
思えば、ルシエと出会ってからこの半年間、本当にさまざまな出来事があった。小説家に恋をされたり、殺人事件に関わったり、湖の氷上ではエミールと遭難しかけて――私たちを探し回ったルシエは翌日風邪をひいてしまったのだ。――それから、サンディとの出会いにより、私は犬嫌いをほんの少しだけ克服したし、降誕祭(ノエル)ではルシエと初めてのキスをした。院長がパリに現れたときには真冬のセーヌ川に落ちかけたし、伯爵邸の夜会へ乗り込んだり、田舎の古城(シャトー)へ旅をしたり――。
本当に、目まぐるしい日々だった。
頬を滑るようにして、涙の粒が転がり落ちた。でもそれは、決して悲しみの涙ではない。
『ねえ、アルメル。人間が生きていくうえで、なくてはならないものとは何だと思う?』
果たしてそれがなんであったのか、今ならわかる。それは時折失われそうになりながらも、私の心の内にずっと在り続けていたものだ。そして、そのことに気がつかせてくれたのは――。
「アルメル!」
背後から呼び止められる声がした。振り向くと、そこには息を切らして駆けてきたルシエの姿があった。片手にはカンヴァスが抱えられている。たぶん、例の肖像画だろう。
涙を拭う私の仕草に気がついて、ルシエは夕焼けに染まる路上に立ち止まった。
「君は一体、どこへ行こうというのだね?」
私は胸が詰まって何も答えることが出来なかった。内に秘めていたさまざまな感情が今にも溢れ出しそうだった。
ルシエはゆっくりと歩み寄り、自らのシルクハットをそっと私の頭に被せた。
「僕から逃れようったって、そうはいかないよ。なにしろ、僕はまだ君の裸を描いていないのだからね」
相変わらずのその言葉に、私はこみ上げる想いを抑えることが出来なくなった。この世の中に、こんなにも愛しくて、大切なものがあったなんて――。
持っていたカンヴァスを近くに立て掛け、ルシエが両腕で私を抱きしめたとき、私自身も腕を回して彼に抱きついていた。
それはとても複雑で。けれども、至って単純(シンプル)な想いなのだ――。
転がり落ちたシルクハットが足元で円を描く。それを追うようにして辿り着いた視線の先に、肖像画が置かれていた。画布に彩られた絵を視界に捉えた瞬間、私は驚きに包まれた。そこに描かれていたのは、蜂蜜みたいな琥珀色の瞳の少女。もはや似ているというよりも、ほとんど自分の生き写しであるかのようだった。
戸惑いながらルシエを見上げると、彼は淡い水色の双眸で私の顔を真っ直ぐに見つめていた。
「僕は十数年ものあいだ、ずっと君のことを探し続けていたんだよ」
「……どういうこと?」
そのとき、遅ればせながらエミールと彼に支えられた画家が私たちの元へとやって来た。ルシエは彼らの姿を目の端で捉えながら言葉を続ける。
「この肖像画は、成長した君の姿を画家が想像して描いたものだったんだ。琥珀色の瞳の少女の正体は、画家の娘。つまりアルメル、君だったのさ」
街路に映える色あせた影。長く伸びたその影は、草臥れた画家の足元へと繋がっている。
「そんな……まさか……」
尋ねる声が自然と震えた。
「……パパなの?」
画家は眼窩に埋もれた瞳で私を見つめていたが、やがて静かに頷いた。それからすぐに、彼は地面にくず折れるようにして、両手をついて頭を下げた。
「私は愚かだった。私は自らの愛に溺れ、フランスを捨て……そして、おまえを捨てたのだ」
その瞬間、忘れかけていた遠い日の記憶が蘇った。幼い私をモデルにして絵を描くパパの姿。同じ姿勢を保ち続ける窮屈さから、私が体を動かしそうになる度にいつもママの話をしてくれたこと。「アルメル、おまえの琥珀色の瞳はママにそっくりだ。大きくなったら、きっとママのように美人になるよ」
今、私の目の前で、パパは烈しい嗚咽を漏らし、涙で頬を濡らしている。
「赦してくれ、アルメル……愚かな私を赦しておくれ……」
むせび泣きながら、同じ言葉を何度も何度も繰り返す。
この人は、きっと炎のような情熱のままに己の誠心誠意をかけ、愛する人と幸せになろうとしたのだろう。だが同時に、もしかしたらこの人は、海を渡った先で私を捨てたことを後悔し、長いあいだ煩悶し続けてきたのかもしれない――。
孤児院の建つ丘から、遠い船を眺めて過ごした幼い日々。親に捨てられた原因は自分にあるのではないかと自分自身を責めた日々。やがて、パパを恨んで、院長を恨んで。神に心を閉ざし、人との繋がりを絶ち、自分の不幸にばかり目を留めて過ごした日々。それらの日々が走馬灯のように私の中を駆け巡った。
人が人を赦すことは難しい。神が私たちの一切の罪を赦したように、私には今すぐに彼を赦すことは出来そうにない。けれども、激しくせめぎ合うさまざまな思いの中で――どうしてだろう――捨てられても、こんなに長い年月が経っても、確かにルシエが言っていたとおり、私は心の奥底で、やはり……ずっと……
「ずっと、会いたかった」
乾いた涙の痕を辿るようにして、新たなしずくが頬を流れた。
「私、パパに、ずっと会いたかったの……」
画家は嗚咽で息を詰まらせる。曲げられぬ片膝を伸ばしたまま、モスクで祈りを捧げる人々のように地面に額をつけ、彼はただただ体を震わせ、声を上げて泣くのだった。その隣では、エミールまでもが一緒になって泣いていた。
通りすがりの人々が、何事かと目を丸くして立ち止まる。暮れなずむ高台のまばゆい金波に包まれて、カンヴァスの向こうから肖像画の少女も私たちを見つめていた。澄んだ琥珀色の真っ直ぐな眼差しで。そこに描かれているのは、眩しい光のような存在。純粋な生命の輝き――。
ルシエがそっと私の手に触れた。
じんわりと伝わる温かな体温。
私は彼を見つめた。彼も私を見つめていた。
しっかりと手を繋ぎ合った。
私たちは黄昏どきの光の中で、
どちらからともなく互いの唇を重ね合う。
そうして、何度も何度も、
――何度も何度もキスをした。
「ねえアルメル。パリの夕空が見事な薔薇色に染まる理由を知ってるかい?」
ルシエが大都会の秘密を教えてくれた。
「幸せそうな恋人たちに、やきもちを妬いているのだよ」
或る少女の肖像・完
二〇〇四年十月~二〇〇七年十月
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