第十一話 招かれざる客

 蒸気機関車のリズミカルな汽笛に合わせ、窓の向こうを長閑な町並みや木々が踊るように流れゆく。パリを離れてだいぶ経ってからも、私の心は未だ高揚していた。

「この日、ラ・トゥール伯家では婚約発表を兼ねた盛大な夜会が催された。伯爵の絵のモデルも務めるお相手の女性は、モダンな白の夜会服(ソワレ)に身を包み――ちょっと待て! フランシスはアルメルと婚約などしていないぞ! よくもまあ、こんないい加減な記事が書けたものだ!」

 一等車のコンパートメント。ルシエの隣に腰をかけて新聞を広げていたエミールは、ようやく先日の夜会についての社交記事を読む気になったものの、すぐさま苛立たしげにページを捲った。それから、次の記事に目を通すや否や、夢中で紙面に顔を埋めた。

「なになに、占星術を簡略化した占い……ああ、フランシス! 今月の君の恋愛運は素晴らしいぞ! 『射手座のあなたは何事にも頼られる心強いパートナーとなりそうです。恋人はそんなあなたに惚れ直し、二人の愛はさらに深まることでしょう』! ちなみに、ラッキーアイテムは『電報』だそうだ。そして獅子座の私との相性は……」

 話しながら、エミールの表情から次第に笑顔が消えていく。

「ふん。占いなんてまったくもってくだらない。こんな馬鹿馬鹿しいもの一体誰が信じるのだろうね?」

 そう言って、彼は憤慨した様子で読んでいた新聞を丸めて私の隣に放り投げた。きっと何か良からぬことでも書いてあったに違いない。相変わらずわかりやすいヤツ。

 興味深げに新聞を手に取ったルシエが、記事を広げながら尋ねてきた。

「アルメル、君の生まれ月は?」

「さあ、覚えてないわ」

「では、今日から水瓶座ということにしたまえ」

「ふざけたこと言わないでよ」

「いや、僕は至って真剣そのものだよ。この占いによれば、水瓶座のご婦人は射手座の僕と非常に相性が良いのだそうだ」

 私は辟易として肩をすくめる。

「院長が年に一度、誕生日として祝ってくれていたのは九月だったけど、果たしてそれが本当の誕生日かどうかは極めてあやしいところね」

「九月だとすると乙女座か天秤座のどちらかだな……。なるほど。よし、乙女座にしよう」

 有無を言わさぬ口調でそう言ってから、彼は実に深刻な顔つきで記事を見つめ、厳かに語を継いだ。

「ああ、アルメル。君の今月のラッキーアイテムは、なんと『ハム』だそうだよ。一体どうすればいいのだろうね?」

 かくして、旅は始まった。私とルシエとエミールの三人は、現在パリの南西に位置するルソンジュの古城(シャトー)へと向かっている。ラペイレット家の次女――つまりはエミールの姉にあたるアドリエンヌを訪れる旅だ。

 今は亡きルソンジュ男爵――以前エミールがルシエのために持ってきた肖像画に描かれた大叔父のことだ――の屋敷を相続したアドリエンヌは、ここ最近思いもよらぬ奇怪な出来事に遭遇していた。先日エミールが愚痴をこぼしていた霊的事象の件である。夜会服(ソワレ)を用立ててくれた長女ジョゼフィーヌとの約束で、エミールは大叔父の亡霊が出たと騒ぐアドリエンヌの様子を見に行かねばならなくなった。

「幽霊が現れる城(シャトー)だなんて、実にロマンチックじゃないか」

 ルシエのこの一言がきっかけとなり、なぜか私まで一緒に行くはめになってしまったのだが、エミールには借りもあるので今回ばかりは仕方がない。

 ルシエはたぶん、肖像画を描いた例の画家の足跡が城(シャトー)のどこかにあるのではないかと期待しているのだろう。目が合うと、彼はそっと私の手を取り指先にキスをした。

「田舎の空気はきっと澄んでいるに違いない。美しい自然に身を委ね、アルメル、君のために愛の詩を紡ごう」



 汽車が着いたのは黄昏どきで、サンザシの実のように赤ら顔の御者が私たちを駅まで迎えに来ていた。小一時間ほど馬車に揺られ、すっかり眠気が訪れ始めた頃、広大な葡萄畑の向こうに中世の面影を残した城(シャトー)が姿を現した。

 エミールいわく、十五世紀に建てられたというルソンジュ城は、今世紀の初めにラペイレット家の所有となり、ルソンジュ男爵からアドリエンヌが譲り受けた。

「この城(シャトー)は大叔父が毎シーズンをパリから離れて過ごすお気に入りの場所だったらしい。私も一度来たことがあるようだが、幼すぎてよく覚えていない。そもそも、大叔父についてもあまり記憶にないのだ。姉たちの話によれば、ジョッキー・クラブの気に入らない子爵に馬の糞を贈りつけたり、パリの邸宅(アパルトマン)で使用人のふりをして客人を騙したりと、なかなか破天荒な人だったようだ。そしてフランシス、君も知ってのとおり大叔父は君の母君の愛人だという噂もあった。まあ、とにかく一族の鼻つまみ者だったから、祖母が絶縁して以来会う機会もなくなったがね」

 夕闇に佇む城(シャトー)はいつの間にやら降り出した小雨に包まれ、陰鬱とした雰囲気が漂っていた。地を裂くような雷鳴が轟き、葡萄畑に稲妻が走る。私たちを出迎えるため、城館の扉を開けた使用人の顔が一瞬青白く照らされて、先頭にいたエミールが思わず後ず去った。

「ようこそいらっしゃいましたエミール様。給仕頭のマルゴワールでございます」

 ノートルダム大聖堂に聳えるガーゴイルの石像みたいに、厳めしい顔つきをした男だった。

「旦那様と奥様はすでにお休みになられました。長旅でさぞお疲れでございましょう。すぐにお部屋へとご案内致します」

 今にも消えてしまいそうな蝋燭の明かりを頼りに、マルゴワールさんは暗い階段を上り始めた。私達がついて来ているのかなどお構いなしに、どんどん先へと進んでいく。雷の光が鹿の角やゴブラン織りの古いタペストリーを照らし、紋章だらけの城内に地響きのような雷鳴が響き渡る。

「現在この城館には私を含め、先程お出迎えに上がりました下男と歳をとったメイドと料理長しかおりません。それゆえに至らぬ点もございましょうが、どうぞごゆっくりとお寛ぎ下さいませ」

「こんなに広い城(シャトー)なのに、四人しかいないだって? アドリエンヌはパリから大勢の使用人を引き連れていたはずだが?」

 エミールが口を挟むと、歩みを止めたマルゴワールさんがくるりと振り返って詰め寄った。ガーゴイルな迫力に私たちはびくりと肩を震わせる。

「使用人のほとんどは、揃って辞めてしまうのです」

「な、なぜ?」

「出るからですよ」

「……出る?」

「幽霊が出るのです」

 そう言うと、マルゴワールさんは肩を揺らし、ヒヒヒ、とユーモラスな笑みを漏らした。冗談なのか本気なのか、なかなか判別するのが難しい人相だった。

「マドモワゼルはこちらのお部屋をお使い下さい」

 十三室ある二階の客室のひとつが私に割り振られる。就寝の挨拶と共に部屋の扉を閉めかけたとき、ルシエが片足を引っ掛けて隙間から囁いた。

「アルメル、ひとりで大丈夫かい? 一緒に眠ってあげようか?」

「お構いなく」

 私は半ば強引に扉を閉めると、部屋の中で安堵の溜め息をついた。そして、暖炉にあたりながら改めて辺りを見回した。フォーブル・サン=ジェルマンの伯爵邸とはまた違った趣の部屋で、王侯貴族が寝泊りしそうな天蓋付のベッドが据えられている。

 なんとはなしに窓の方に視線を向け、思わず小さな悲鳴を上げた。暗い闇の中にぼんやりとした白い人影が見えたような気がしたのだ。しかし、瞬きをした次の瞬間、その幻影は消えていた。

 幽霊だなんて、馬鹿馬鹿しい――。

 古びた教会で育ったせいか、私はその手の霊的事象を恐いと思ったことはこれまで一度もなかった。きっと長旅で疲れているのだろう。ここは二階だし、今のは目の錯覚で、雷が光っただけに違いない。



 結局なんだかんだと明け方近くまで寝付けずに、翌朝私は寝坊した。白髪のメイドに起こされたときには、寝ぼけていたせいもあって本当に幽霊が現れたと思い、後ずさってベッドから落ちかけた。朝食後皆が集まっているサロンへ案内されると、私の顔を見たルシエはすぐに異変に気がついたようだった。

「目が赤いね、アルメル。眠れなかったのかい?」

 ルシエが隣に座っていたアドリエンヌとその夫である城主のシャルルを私に紹介してくれた。

ラペイレットのほかの子供たちがそうであるように、アドリエンヌも輝くような金髪に碧眼だった。彼女の顔立ちは姉のジョゼフィーヌによく似ていたが、若干面長で痩せていた。

「あなた、昨晩幽霊を見たのでしょう?」

 神経質そうに扇子で顔を半分覆い隠しながら、アドリエンヌが尋ねてきた。私は内心ドキリとしたが、即座に「いいえ」と答えてしまった。

「あなた、あたくしの頭がおかしいとお思いね? 幽霊は本当にいるのよ。誰がなんと言おうと、絶対にいるんですから! あたくし、この目でちゃんと見ましたもの! ザヴィエが言ったとおり、きっと大叔父様の幽霊よ。アストルフおじ様はこの世に未練があるんだわ!」

 アドリエンヌが興奮気味に声を荒げると、向かいに座っていた夫が彼女を軽く嗜めた。

「アディ、お客様を怖がらせてはいけないよ」

「まあ、シャルル! あなたまであたくしの言うことを信じないおつもりなの?」

「私は君のことを信じているよ。だが、見間違えたのではないかな?」

 すると、エミールがシャルルに加勢するように皮肉な調子で合いの手を入れる。

「女は一度そうだと思い込むと頑ななまでに自分の主張を突き通す。まったく始末に終えないね。大方、メイドが干していたシーツが風にでも舞ったに違いないのだ」

 嫌味な弟の発言に憤り、アドリエンヌがテーブル席から立ち上がった。「ザヴィエ! ザヴィエはどこ?」

 彼女が声を張り上げると、ジプシーのような風貌をした男が続き部屋から現れた。

「ああ、ザヴィエ! 招かれざる客の登場で、あたくしの運勢が悪い方へと傾いていやしないか、今すぐに占ってくださらない?」

 ザヴィエと呼ばれた黒髪の男は、小さな水晶球をじっと見つめ、耳にぶら下げている大きなイヤリングを躍らせながら乾いた声でこう言った。

「ルソンジュ男爵の姿が見えます。彼はあなたに何かを訴えています」

「まあ! 大叔父様はなんと仰いまして?」

「宝石箱にしまってあるルビーの指輪を、敷地内の古井戸に投げ捨てるようにと言っています。さもなければ、あなたは全財産を失うはめになるだろうと」

 アドリエンヌは大慌てで外に飛び出して行ったが、ジプシー男のセリフが胡散臭いことこの上ない事実は誰が聞いても明白だった。シャルルがその場を取り持つようにして、私たちに彼を紹介してくれた。

「ザヴィエ・ル=ルー氏は、妻の専属占い師です。現在は旅の途中で、半年ほど前からこの城(シャトー)に滞在されています」

「ル=ルーって、まさかあの『ル=ルーの星占い』の?」

 エミールいわく、ザヴィエ・ル=ルーは最近パリでブルジョワたちに評判の占い師とのことだった。行きの汽車の中で読んだ星占いも彼が書いたものだそうだ。乙女座の今月のラッキーアイテムだとかいうハムに、一体どんな馬鹿げた意味があるのか聞いてみようかと思っていると、ル=ルー氏はふいにルシエに向かって言った。

「あなたは将来、エメという子供を授かるでしょう」

 それを聞いたルシエはえらくショックを受けたようだった。「驚いたな。そんなことまでわかるのかね!」

 ルシエは若干興奮気味に、私やエミールに対してル=ルー氏を称賛した。

「どうやら彼は未来を予知する力があるようだ。僕は将来、自分の子供が男の子であっても女の子であっても、エメと名づけようと固く心に決めていたのだ! ああ、アルメル。僕はエメの誕生が心の底から待ち遠しいよ」

 そう言って、ルシエがふざけて私に意味深な目配せを送ったものだから、エミールが真っ赤な顔で憤慨した。

「フランシス、まさか君、アルメルとすでに一夜を共にしたんじゃあるまいね!?」

 エミールの馬鹿は「さてはアルメル、君がフランシスをたぶらかしたのだな?」だの、「身分違いも甚だしいことこの上ない」だの好き放題言い始めたので、私は両手で耳を塞いで続き部屋の向こうに移動した。

 やがて男達の話題は狩猟に変わり、ル=ルー氏が興味無さげに私の方へと近づいてきた。

「何をご覧になっているのですか?」

 私が窓から眺めていたのは、ルビーの指輪を投げ捨てに行くアドリエンヌの姿だった。ル=ルー氏は淡白な表情でその光景を眺めつつ言った。

「亡くなられたルソンジュ男爵は、死に際に自分が金の亡者であったことを悔やんでおられたようです。後悔の念は未だこの世に未練を残し、ご自身の遺された財産を手放すことを望んでいる。古井戸はこの世とあの世を繋ぐ未知なる扉……」

「投げ捨てられた指輪を、あとで誰かさんが拾いに行くんじゃないかしら?」

 私の言葉に込められた悪意に気を悪くする風でもなく、ル=ルー氏は薄く微笑んだ。そして、私の胸元に光る琥珀のチョーカーをチラリと目に留めてから唐突に言った。

「お父様はあなたに会いたがっている。その琥珀の石をあなたの代わりに井戸の中に投げ捨てなさい。そうすれば、貧しかった父親の心は救われる」

 そのとき、ルシエが私たちの間に入ってきた。

「ねえ、アルメル。東棟にたくさんの絵画が眠っているのだそうだ。僕とエミールは今からそれを見に行くのだが、よかったら君も一緒に来たまえ」

 ル=ルー氏は薄い微笑を浮かべてその場から立ち去った。

「アルメル?」

 ルシエに再び名を呼ばれ、私は我に返った。

「どうかしたのかい?」

「……いいえ、なんでもないわ」



 東棟の薄暗い部屋は古い埃の臭いがした。

「ここには価値ある絵画はありませんよ。名のある大作はすでにアドリエンヌが売り払いましたから。せめて大叔父様のコレクションは手元に残すべきだと勧めましたが、妻は私の言うことなんか聞きやしない。この城(シャトー)の主は私ですが、それは表向きだけであって実権を握っているのは彼女なんです」

 不満げなシャルルの言葉に、エミールが大いなる理解を示して頷いた。「女とは得てしてそういうものなのだ」

 部屋には無数の作品が眠っており、ルシエは布の掛けられたカンヴァスをひとつひとつ丁寧に調べ始めた。だが、時間をかけて入念に探したにもかかわらず、例の画家の作品を見つけることは出来なかった。疲れきったエミールの声が弱々しく響き渡る。

「どうやら君の追っている画家の手がかりはここにはないようだ」

「残念だな。肖像画を描かせるほど気に入っていたのなら、同じ画家の作品がほかにも見つかると思ったのだが」

 そのとき、突然部屋に甲高い犬の鳴き声が響き渡り、私は悲鳴を上げてルシエに抱きついた。一匹の犬が足元を行ったり来たりしているのが感じられ、恐怖に全身の身の毛がよだった。ルシエは私に絞め殺されそうになりながら、(なぜなら私は彼の首筋に全身の力を込めてしがみついていたからだ)苦し気な声で言う。

「落ち着きたまえ、アルメル。少し冷静になって見てごらん。サンディが君に撫でられるのを待っているよ」

「嘘言わないで! こんなところにサンディがいるはずないでしょう?」

 しかし、「ワン!」と吠えた犬の声は、確かに聞き覚えがあった。恐る恐る足元を見てみると、私のドレスに前足をかけて尻尾を振っていたのは、驚くべきことに確かにサンディであった。元気な子犬はこのあいだ見たときよりも少しばかり成長したようで、愛くるしかった鳴き声も心なしか立派に感じられる。

 サンディを抱きかかえるようにして、草臥れた風貌の無精髭の紳士が現れた。それは間違いなく、ルシエの友人であるウジェーヌ・サティ警部だった。

「ボンジュール、マドモワゼル」

「サティ警部? どうしてあなたがここに?」

 私の問いかけに対し、首元のよれたシャツを整えながらルシエが口を挟んだ。

「僕が彼を呼び寄せたのだよ。昨日の御者に頼んで電報を送っておいたんだ」

「フランシスから『子犬ヲ 連レテ 至急 来ラレタシ』と電報が届きましてね。これは只事ではないと思い、すぐさまこちらに駆けつけたというわけです。それで、一体何があったんだ、フランシス?」

「いや、別にこれと言って用は無かったが、射手座の今週のラッキーアイテムが『電報』だったので、君に電報を送ろうと思い立ったのだ。サンディにも会いたかったしね」

 ルシエの言葉に、警部はショックで口元を引きつらせた。

「おまえはそんな馬鹿げた理由のために、俺をこんな田舎まで呼び寄せたのか?」

 お気の毒なサティ警部殿。私とサンディが見上げる中、警部はやれやれといった様子で項垂れた。

「まったく、占いなんかに左右されやがって」

「いや、占いを見くびってはいけないよ。どうやら、本当に君の協力が必要になったようだしね」

 そう言って、ルシエが意味ありげに微笑むと、サティ警部は興味をそそられたのか「へえ?」と眉を片方だけ上げた。



「こちらはパリ市警のウジェーヌ・サティ警部です」

 午後のサロンでル=ルー氏とタロット占いに興じていたアドリエンヌは、サティ警部から儀礼的な挨拶の口付けをその手に受けた。

「ウジェーヌは学生時代の友人で、幽霊騒ぎの真相を突き止めるべく僕が協力を仰ぎました」

 誇らしげなルシエのセリフに、サティ警部は呆れ顔で「まあ、かいつまんで言えば、そんなところです」と溜め息をついた。

 アドリエンヌは怪訝な表情で警部を注視する。

「幽霊騒ぎの真相って、どういうことですの? 幽霊は本当にいますのよ?」

「率直に申しますと、我々は何者かがなんらかの目的で幽霊騒ぎを起していると考えています」

 そう言って、サティ警部はル=ルー氏をわざとらしくチラリと見やった。それに気づいたアドリエンヌは憤慨して、占い師の力は本物だと抗議した。当のル=ルー氏は表情ひとつ変えることなく、いくつもの指輪をつけた骨ばった指先を例の小さな水晶球にかざしていた。

「どうやら警部は私をお疑いのようですが、見当違いもいいところです。私にはすべてが見通せるだけ」

 それから、占い師は自室へ下がる許しを得ると、立ち去り際、ふいに私の方へ顔を向け唐突にこう言った。

「マドモワゼル、今夜あなたは幽霊を見るはずだ。お父様があなたに会いたがっている」



 ピアノを弾くルシエの背後の椅子に腰をかけ、私はサンディを片手で撫でながらル=ルー氏の言葉についてぼんやりと考えていた。彼はパパが私に会いたがっていると言った。今夜幽霊を見るだろうとも……。それはつまり、パパはすでに死んでしまっていて、幽霊になって現れるということなのだろうか?

 サティ警部とチェスをしているエミールが、自分の番を待っているあいだに指先で駒を弄びながらおもむろに言った。

「君の父君のことまでわかっているとは、もしかしたらあの占い師の力は本物かもしれないな」

 その言葉を受け、途端に言葉の真意を直に尋ねてみたい衝動にかられた。私はすぐさま肘掛け椅子から立ち上がり、チェスを嗜む紳士らの脇をすり抜け、サンディと共にサロンから出た。


 ル=ルー氏を探して城内を散策していると、渡り廊下から敷地内にあるワイン貯蔵庫に人影が入って行くのが見えた。大きな樽が並ぶ貯蔵庫の中はしんと静まり返っていて暗く、幽霊騒動の余韻もあってどことなく薄気味悪い。後を追ってはみたものの中に入ることを躊躇していた私の足元に、サンディが愛くるしい眼差しで擦り寄ってきた。そうだった。すっかり忘れかけていたが、私には心強い味方がいる。今の私は決してひとりきりではないのだ。

「一緒に中を確かめるわよ、サンディ」

 気を取り直して声をかけると、サンディは私に応えるように一声吼えた。

 真っ暗な貯蔵庫を突き抜けた先には、明かりの漏れる部屋があった。微かに人の話し声も聞こえてくる。ほっとして再び歩みを進めたところで、突然背後から男の声に呼び止められた。

「どちらへ行かれるのです?」

 驚きのあまり、心臓が飛び出しかけた。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは給仕頭のマルゴワールさんだった。相変わらず鬼気迫るガーゴイルな風貌に今一度ドキリとさせられた。サンディもひどく怯えている様子だった。

「マドモワゼル、その先には進まない方がよろしいでしょう」

「なぜ?」

「闇があるからです。とても根深い、暗闇が。闇に取り込まれては危険です。こんな所にいるべきではない」

 先にあるのは明かりの漏れる部屋であって、暗闇があるようには到底思えなかった。だが、私はサンディを抱き上げると、言われたとおりにその場から立ち去った。なんにしろ、私は客人なのだからそれをわきまえるべきなのだ。



 就寝時、ルシエは天蓋付きのベッドに上機嫌で寝転んだ。

「幽霊に会えるだなんて、なんてロマンチックなんだろう。ねえアルメル、僕は今夜君のそばから片時も離れないよ。これを機に君のパパにもご挨拶しておきたいしね」

 ルシエが私の部屋で一夜を過ごすことに決めたとき、エミールはそれはそれは凄まじい勢いで猛反対したのだが、敏腕サティ警部にうまいこと丸め込まれた。「なに、利口な番犬をここへ置いておけばいい。フランシスが妙なマネでもしてマドモワゼルに何かあれば、私の犬がすぐに吠えますから。それとも、あなたのお相手は私では不十分ですか?」

 口説き落としたエミールの肩を抱き寄せて、警部は私に向かって「素敵な夜を」とウィンクして立ち去った。完全に面白がられている。

 なんだかんだでルシエは紳士だ。私が望まない限り、『素敵な夜』など絶対に有り得やしない――。頭ではそう思っていながらも、胸の鼓動が意思に反して早まるのが感じられた。

 私はルシエに目を瞑らせている間に着替えを済ませ、そのまま彼に背を向けて布団の中に潜り込んだ。

「そんな端っこで寝ていたら、君は明け方にはベッドから落ちてしまうに違いない。もっとそばに来たらどうだい?」

「余計なお世話よ」

 しかし、ルシエは有無を言わさずしなやかな仕草で私の体を背後から抱き寄せた。

「ちょっと……離してよ!」

 荒げた声に反応して、足元で寝ていたサンディがわずかに耳を動かした。

 故意に力が込められた腕に私が太刀打ち出来るはずもなく。瞬く間に鼓動が早まり、頭が混乱し始める。

「お願い、離して……」

 蝋燭に照らし出された影が馬鹿のひとつ覚えみたいに過去の記憶を呼び覚ます。院長の幻影はそう容易く私を離そうとはしないらしい。

「大丈夫だよ、アルメル」

 ルシエがそっと耳元で囁いた。

「僕は君と、こうして一緒にいたいだけなのだ」

 ルシエの言葉は渦巻く焦燥感を和らげた。私は緩やかに落ち着きを取り戻し、やがて、温かな彼の腕に包まれて静かに眠りの世界へと誘われる。


『今夜あなたは幽霊を見るはずだ。お父様があなたに会いたがっている』


 幽霊だなんて、そんな霊的事象は信じない。それに、パパは死んでなどいない。絶対に、死んでなど……。

 そのとき、それは起こった。突然のことだった。ぴくりと何かに反応したサンディが、耳をそばだて窓辺に向かって「ワン!」と一声上げたのだ。落ちかけていた私の意識は再び現実世界に呼び戻される。

 窓の外に浮かぶぼんやりとした青白い人影を見た瞬間に、体中の血が一瞬にして凍りついた。恐怖で悲鳴を上げることすら出来なかった。ベッドから身を起したルシエが窓辺に走り寄ったときには、すでに影は見あたらず、月さえ見えぬ暗い闇夜がひっそりと佇むのみだった。

 サンディは相変わらず外に向かって激しく吼え続けている。ルシエが蝋燭の灯る燭台を手に部屋から出て行こうとしたので私は慌てて引き止めた。

「ひとりにしないで!」

 すると、彼はすぐに歩みを止めて振り返り、震える私の体を優しく抱きしめてくれた。

 ああ、なんて失態だろう。幽霊なんて恐くはないと思っていたのにこのザマだ――。

 サンディの声を聞きつけたサティ警部とエミールが、異変に気づいて私たちの部屋に飛び込んできた。

「ウジェーヌ、早急に外を調べて来てくれたまえ!」

 ルシエの叫び声に、階段を駆け下りて行く警部の足音と、それを追うエミールの足音が微かに耳に届いた。



 翌朝、朝食の席で自らの正統さをアピールするように、アドリエンヌが朗らかな笑い声を上げた。

「ほら、あたくしの言ったとおりでしょう! やっぱり幽霊はいますのよ! ザヴィエの言うとおり、きっとアルメルさんにお父様が会いにいらしたんだわ。よいですこと、警部さん。あなたは昨晩エミールと一緒にザヴィエの部屋を見張っていたそうですけど、彼は部屋から一歩も出ませんでしたわ。それなのに、井戸の指輪は消えました。これは間違いなく幽霊のしたことですわ」

 ル=ルー氏はうっすらと微笑を漂わせ、無言のままスープを口に運んでいる。サティ警部も同じく無言で、余裕の笑みを漂わせる占い師に対し、腑に落ちない表情を傾けていた。

「そもそも、宝石が盗まれるとお思いだったのなら、ザヴィエの部屋を見張るよりも井戸の方を見張っておくべきだったのではありませんこと?」

 アドリエンヌが嘲笑を交えて高らかに笑い声を上げると、夫のシャルルが弱々しい声で嗜めるように言った。

「宝石が盗まれたのであろうが、幽霊の仕業であろうが、どっちだっていいじゃないか。せっかくの素敵な朝が台無しだ。そんな話はやめにして――」

「どっちだっていいですって? やっぱりシャルルはあたくしの言葉を信じておりませんのね?」

「いや、アディ、決してそういうわけでは……」

 怒ったアドリエンヌはテーブル席から立ち上がり、そのまま部屋から出て行った。残された夫は困ったように、私たち客人に対して温和な笑顔を向け続ける。

「せっかくこうして遠い所までいらっしゃったのですから、是非とも滞在を楽しんでください。そうだ。これから一緒に狩猟に出掛けませんか? 城(シャトー)の西側に広がる森には野生のイノシシがいるんですよ。今晩は柔らかなマルカッサン(仔イノシシの肉)でワインを愉しみましょう」

 食後、私たち客人だけになったとき、面目を潰されたサティ警部が苛立たしげに頭を掻き毟った。

「間違いなくあの占い師が関わっていると思ったんだがな」

「いや、僕もてっきり彼の仕業だと思い込んでいたよ」とルシエが言う。

 警部は煙草を銜えたまま火をつけず、深い溜め息をついた。

「確かに夫人の言うとおり、井戸の方を見張っておくべきだったんだ。井戸の周りに罠を張り巡らせておいたからすっかり安心しちまった。――しかし馬鹿げた話だよ。ここの住人は宝石が盗まれようとも誰も意に介しちゃいないんだから。使用人も含めて事情聴取をしたいと申し出れば、アドリエンヌが怒るからこれ以上の捜査は勘弁してください――城(シャトー)の主がこれでは話にならないよ。妻の方は幽霊がこの世に存在するっていう自分の話を証明出来て舞い上がっているし」

「もしかすると、昨夜の影は本当に幽霊だったのかもしれないな。なんと言っても僕とアルメルはこの目で見てしまったのだ。白く輝く不可思議な存在を。それは窓の向こうにぼんやりと現れて――」

「よしてくれフランシス。そんなものは犯人が幽霊の仕業だと思わせるために一芝居打っただけに決まってる」

「ふむ。君はどう思う? アルメル」

 唐突にルシエが尋ねてきた。

「昨夜はちょっと驚いたけど、落ち着いて考えてみたらやっぱり幽霊なんているはずないわ」

 一夜明けて、私はすっかり元の私に戻っていた。そうよ。幽霊だなんてそんな非現実的な存在を認めたりするものですか。ましてや死んだパパが私に会いに来ただなんて、絶対に信じない――。



 結局なんら話がまとまらぬまま、男たちはサンディを伴い狩猟に出かけた。あまり乗り気ではなかったル=ルー氏も、シャルルに誘われ渋々と同行したようだった。

 男たちがいない城(シャトー)の中は、なんだかより一層がらんとしたように感じられる。アドリエンヌはルシエが持参したアルフォンス・シャレットの小説を大層気に入ったらしく、読書に勤しみ私の存在などてんでお構いなしだった。

「葡萄畑に醸造所(ワイナリー)がありますから、是非お行きになられるとよろしいわ。畑で剪定している者をつかまえて、ルソンジュの城に宿泊していると伝えれば快く休ませてもらえるはずよ」

 料理長が軽食の入ったバスケットを用意してくれた。晴天だったこともあり、私は暇を持て余すようにして勧められるがままに城の外へと散歩に出てみることにした。

 城から出る途中、思いがけぬ人物の姿を目にした。それは、狩猟に出掛けたはずのシャルルだった。今時分は森の中にいるはずなのにどうしたのだろう? 不審に思った私はすぐさま彼の姿を追いかけた。

 敷地内にあるワイン貯蔵庫。そこは昨日給仕頭のマルゴワールさんに引き止められた場所だった。足音を忍ばせ奥の部屋をそっと覗き込むと、城(シャトー)の主はランプの明かりに翳したルビーの指輪を恍惚とした表情で眺めていた。第三者の視線に気がついたのか、彼は即座に「誰だ!」と声を荒げて振り向いた。

「アルメルさん……どうしてこんな所に?」

「それはこっちのセリフだわ。あなたこそどうしてここに? 森へ狩猟に出かけたのではなかったの?」

「気分が悪くなったので、ひとりで先に戻って来たのですよ」

 シャルルは明らかに動揺しているようだった。

「それ、奥様が古井戸に捨てたルビーの指輪ね?」

「まさか、私が指輪を盗んだとでもお思いですか? 我が家の宝石を、どうして私が? そんなことをしたってなんの意味もないじゃないですか」

 私がその場を立ち去ろうとすると、シャルルはそれを遮るようにして道を塞いだ。

「ねえアルメルさん、あなたは何か勘違いをされている。妻や警部に余計なことは言わないで頂きたい」

「あなたが盗んだのではないなら、何も心配することはないはずよ。それとも、奥様にその宝石を見せたら大変なことにでもなるの?」

 シャルルはかっと目を見開いて私の腕を引っつかみ、部屋の壁の一部を激しく叩いた。壁は隠し扉になっていて、開いた先には地下へと続く新たな階段が現れた。私はシャルルの手によって無理矢理そこへ引きずり込まれる。

「離して! 誰かっ……」

「叫んでも無駄ですよ。誰の耳にも届きません。城(シャトー)にいる連中はここを知らない。奇跡でも起きない限り、一生誰にも見つかることはないでしょう」

 私は手にしていたバスケットをシャルルに向かって投げつけた。しかし、彼の腕に当たったバスケットは、無意味に中身をぶちまけて転がっただけだった。

「散歩に行こうとでもしていたのですか? では、あなたはその道すがら行方不明になり、一生帰らぬ人となるのですね」

「あなたどうかしているわ! なぜこんなことを……っ」

 私が捲くし立てると、シャルルはそれを遮るように声を荒げた。

「うるさい! うるさい! うるさい! 招かれざる客のせいでとんだことになってしまった! 宝石を盗んだのが私だとバレたら、アドリエンヌからの信用がなくなってしまう! 叱られる。怒鳴られる。彼女の後ろ盾をなくしたら、私は……」

 常軌を逸したように彼はぶつぶつと言葉を続ける。「違う。この城(シャトー)の主人は私なんだ……彼女じゃない……私なんだ……」

 シャルルは階段を降りた先にある部屋の中に、勢いよく私の体を突き飛ばした。

「さようなら、アルメルさん。永遠に」

 閉められた扉。鍵をかける金属音が地下室に響き渡った。私は扉を激しく叩きながら、大声で助けを呼んだ。しかし、それは空しく地下の暗闇に吸い込まれるようにして消えただけで、なんの意味もなさなかった。

 こんなところで、誰にも知られずにひっそり死ぬだなんて絶対にお断りだ――。

 私はあきらめることなく扉を押したり叩いたりしてみた。だが、錠がかけられた木戸は肩で体当たりしてもびくともしない。次第に鼓動が早まり、頭ががんがんしてきた。焦りが意識を朦朧とさせる。今一度体当たりすると、扉に打ちつけた腕が激しく痛んだ。

 私は腕を抱えて失意のうちにその場にしゃがみ込み、上がった息が元の調子に戻るまで、ただ呆然とするのだった。



『ねえパパ。なぜ私にはママがいないの?』

『ママはね、おまえを生んですぐに病気で死んでしまったんだ。とても優しく、美しい人だった』

『パパはママを愛していたの?』

『もちろんさ。そしてアルメル、パパはおまえのことも愛しているよ……』



 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。古い夢の断片が頭の片隅に残っていたが、果たしてそれが単なる夢なのか過去の記憶なのかは判然としなかった。

 一体あれからどれだけの時間が経ったのだろう? 私は再び扉を叩きながら大声で助けを呼んだ。だが、それは内に反響するばかりでとても外までは届かない。

 茫然自失と扉に寄りかかる。頭をもたげてみても、そこは変わらず暗闇が広がっているだけだ。まさか、自分がこんな状況で最期を迎えることになろうとは夢にも思わなかった。


『ねえ、アルメル。人間が生きていくうえで、なくてはならないものとはなんだと思う?』


 口端を少し上げて微笑むルシエの顔が思い浮かぶと、瞳から涙の粒がこぼれ落ちた。今まで我慢していたものが決壊したようだった。私はひとしきり泣き続け、そして気力の限界から、扉に寄りかかったまま再び眠りにつくのだった――。



 暗闇の中、突然誰かの呼ぶ声がした。

「マドモワゼル」

 私は泣き疲れて動くことすらままならなかった。

「……誰?」

 ユーモラスな笑いが暗闇に響き渡る。その声はどうやら給仕頭のマルゴワールさんのようだった。

「マドモワゼル、心配はいりません。もうすぐ助けが参ります」

 夢と現実の狭間で、私の意識はひどく朦朧としていた。

 陽の当たるアトリエで、パパが私を描いている。パレットを持つその姿はいつの間にかルシエの姿に変わっていた。ルシエは優しい笑顔を浮かべて歩み寄り、両腕で包み込むようにして私の体を抱きしめた――。



「アルメル!」

 気がつくと、ルシエが私を見下ろしていた。サティ警部やエミールも顔を覗き込んでいた。「意識が戻ったのか?」

 天蓋付きの大きなベッド。そこは城(シャトー)の客室だった。

 ルシエと一緒にほっとしたような笑みを浮かべていたエミールは、私の無事を確認するや否や、怒りで顔を上気させた。「ああ、これだから女ってヤツは嫌なんだ! いざとなったら自分の身ひとつ守れやしない! アルメル、まったくフランシスにどれだけ心配かけたと思ってる!」

 言いたい放題まくし立て、エミールは肩を怒らせて部屋から出て行った。その様子に苦笑しつつ、サティ警部がサンディを抱き上げ後を追うようにして部屋から立ち去った。扉が閉められ、私はルシエと二人きりになった。

「僕らは醸造所(ワイナリー)に出かけたまま戻らぬ君の行方を捜し続けた」

「醸造所(ワイナリー)には行かなかったのよ。シャルルが私を貯蔵庫の地下室に閉じ込めたの。アドリエンヌの宝石を盗んだのは彼よ。私、偶然そのことを知ってしまって……」

 上半身を起こすと、ルシエは優しいキスでそっと私の口を塞いだ。私たちは長い長いキスを交わした。それから、彼は私の体を抱きしめて額や頬に口付けながらベッドに腰を下ろした。

「シャルルはル=ルー氏と組んで城(シャトー)の宝飾品を闇で売りさばいていたんだ。ル=ルー氏がアドリエンヌに宝石を手放させるように仕向け、それをこっそりと回収して売買人とやり取りするのが彼の役目だった。森へ狩猟に出掛けてから、具合が悪くなったシャルルは自分だけ先に城(シャトー)に戻ると言い出した。少し様子がおかしかったので、僕らは彼の後をつけて城門まで戻った。すると、見知らぬ男が辺りをうろうろしていた。シャルルは宝石をさばくために外部のならず者と手を組んでいたんだ。受け渡しの日時は僕らがここを訪れることになる前から確定されていて、予定を変更しようにも連絡が間に合わなかったのだ。それで、やむなく僕らを城(シャトー)から遠ざけて自分だけ城に戻ったのさ。宝石泥棒と怪しまれていたル=ルー氏をわざと僕らの元に残してね。逃げ出そうとしたル=ルー氏ともどもウジェーヌが現行犯逮捕したよ」

「シャルルはどうしてそんなまどろっこしいことをしていたの? 誰にも気づかれないように自分ひとりで宝石を盗むことだって出来たんじゃない? そもそも、一体なんのために自分の家の宝石を……」

「没落貴族のシャルルには自由な金がなかったんだ。城(シャトー)の主とは建前ばかりで、アドリエンヌが何から何まですべてを取り仕切っていた。初めはル=ルー氏に宝石を盗み出すようそそのかされたが、気弱な性格の彼にはそんなこと到底出来やしなかった。しかし、あの占い師はアドリエンヌ自身が捨てた宝石だったら罪の意識に苛まれることもないだろうと考えつき、シャルルをうまく丸め込んだのだ。アドリエンヌに自分のやったことがバレるとわかった途端に、怯えるシャルルの精神はすっかりおかしくなってしまってね。アルメル、君がなんらかの形でこの事件に巻き込まれたとわかっていても、僕らは彼から情報を聞き出すことが出来なかったんだよ」

「それなのに、あの隠し扉をよく見つけ出せたわね」

 すると、ルシエはニヤリと微笑んだ。

「『ハム』だよ」

「え?」

「占いで君の今月のラッキーアイテムは確かハムだっただろう? 地下へと続く階段の入り口にばら撒かれたバスケットの中身を、サンディが嗅ぎつけたんだ。パンやチーズに混じって、おいしそうなハムが転がっていた。やたらと壁に向かって吠えるものだから、色々調べてみると隠し扉になっていることがわかったんだ。地下室の鍵はシャルルがポケットに持っていた」

 そう言ってから、ルシエは微笑を深めた。

「やっぱり占いは馬鹿に出来ないね」

 あの占い師の力は本物だったのだろうか――。だとしたら、彼の予言どおり、パパはすでに死んでしまっているのだろうか――。ふと、私の脳裏にそのことが思い浮かんだとき、ルシエが言った。

「そういえば、僕らが真夜中に見た青白い人影は、シャルルが井戸に宝石を拾いに行った後に演じた『仕掛け』だったのだよ。ル=ルー氏はパリでも似たような悪事を働き、捜査の目を逃れて田舎へ逃げて来ていたらしい。彼は確かに不可思議な力を持っているようだが、それはとても曖昧で、君のパパに関しては虚言を弄していたようだ。琥珀の石を手に入れたくて、君がチョーカーを井戸へ捨てるよう仕向けるために嘘をついたと証言していたよ」

 ということは、つまりパパはまだこの世に生きているかもしれないのだ――。

「君のパパはきっと元気さ」

 ルシエに心を見透かされ、私は慌てて表情を硬くした。

「とにかく、これで幽霊騒ぎと宝石泥棒の問題は一件落着ね」

 私の言葉に、ルシエは何か大切なことを思い出したように口ごもった。

「実はね、アルメル。君に言わねばならないことがある」

 驚かないで聞いて欲しいのだが、と妙にかしこまった様子なので、私はきょとんとしてしまった。

「なによ?」

「ああ、本当に驚かないでくれたまえ。実は先程アドリエンヌから聞いたのだが、なんとこの家には今現在、給仕頭はいないそうだ」

「どういうこと? だってマルゴワールさんが……」

「ここへ来るとき、馬車の中でエミールが話していたことを覚えているかい? ルソンジュ男爵が生前よく使用人になりきって客をばかしていたという話だよ。アドリエンヌが言うにはね、そのとき男爵が使っていた名が『マルゴワール』だったそうだ」

 私の頭の中は一瞬にして真っ白になってしまった。ルシエは尚も言葉を続ける。

「いや、僕も実に驚いたよ。だって、この屋敷に着いたときに確かに給仕頭が出迎えてくれたからね。僕はパリのアトリエで男爵の肖像画をさんざん眺めていたというのに、ちっとも気がつかなかった。エミールなんか話を聞いた途端に悲鳴を上げてウジェーヌに抱きついてしまって――アルメル? アルメル、しっかりしてくれたまえ!」

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