第十話 伯爵家の夜会

 真っ白なカンヴァスに向かって思索に耽っていたフランシス・ルシエは、絵筆の端を噛み締めながら陽の光に眼を細めた。何かとてつもなく素晴らしいアイデアが閃いたのか、彼はテーブルに筆を転がすと、代わりにカフェ・オ・レの入ったボウルを片手に持ち、意気揚々とアトリエを横切って私の元へと歩いてきた。

「ねえ、アルメル。デッサンもそろそろ終わりにして、僕は本格的に君を描こうと思っている。サロンに出品しようと考えているのだ」

「絶対に脱がないわよ」

「それについてはまだ何も言っていないが」

「言わなくてもあなたの考えてることくらいわかるわよ。ヌードならお断りだわ」

 ルシエは大袈裟なほどに肩をすぼめ、溜め息混じりで私の隣に腰をかけ、落選展で物議を醸したマネの大作を巧みに話の中に用いながら諭すように論じ始めた。

「君はどうやら誤解しているようだけど、僕はなにも不道徳に扇情的なエロスを追及しようというわけではないのだよ」

 私は話を聞くまいとして両手で耳を塞いだが、ルシエはその手を取って強制的に、しつこく言葉を紡ぎ続ける。

「絵のタイトルはもう決めたのだ。『或る少女の肖像』。どうだい、なかなか素敵な響きだろう?」

 無責任に放たれる甘い微笑。認めたくない事実だが、彼の魅力にわずかながらに支配された。

「目を閉じたまえ」

 唐突にルシエが言った言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。言われるままに瞳を閉じてしまったので、彼の微笑は深まったに違いない。キスをされると気がついたときには、言葉と共に優しい吐息が唇に感じられた。「いい子だね、可愛いアルメル」

 しかし、唇に当ったのは冷たい紙の感触。驚いて目を開けると、私とルシエの間はエミールの持ってきた一通の手紙によって遮られていた。

「ああ、まったく信じられないね。盛りのついた猫じゃあるまいし、陽のあるうちからいちゃつくのはやめてくれないか?」

 エミール・ド・ラペイレットはあからさまに不機嫌な様子でルシエに手紙を手渡した。

「人の恋路を邪魔するのは悪趣味だよ、エミール」

 受け取った手紙に視線を落としながら、ルシエは物憂げに言葉を返した。それに対して、エミールが憤然とした口調で彼のことを攻め立てる。

「ねえフランシス、君、まさかアルメルを愛してるとでも言うんじゃないだろうね? そんなの絶対に気のせいだ。君は肖像画の少女が手に入らないものだから、彼女を利用しているだけなのだ! 今まで何人の女と同じような経験をしてきたと思ってる? そのたびに君は彼女たちを傷つけて自ら離れていくか、先に捨てられるかのどちらかじゃないか!」

「ああ、なるほど。エミール、君は僕がアルメルを蔑ろにするのではないかと心配しているんだね?」

「私は別に心配など……!」

 慌てふためくエミールをよそに、手紙の内容に視線を走らせていたルシエの表情が固まった。何か悪い知らせだろうか。しかし、彼は私が見ていることに気がつくと、意識的に笑顔を取り繕った。

「今夜はアトリエを留守にする」

 それは実に急な話の展開だった。手紙の内容を聞く間もなく、ルシエは颯爽とコートを羽織り、シルクハットを頭に乗せて、私とエミールの前からあっという間に姿を消した。

 窓ガラスに額を寄せて表を眺めていたエミールは、ルシエの姿が大通りへの角を曲がったことを確認すると、「さて」と杖を床に突いた。「戸締りをして、出かける準備をしてくれたまえ」

「出かける準備?」

 鸚鵡返しに言葉を返す私の顔を一瞥してから、彼はシルクハットを被り直す。

「フォーブル・サン=ジェルマンの夜会に行くんだよ」

 それから、すぐに独り言のように「いや、その前に我が姉のアパルトマンに立ち寄ってもらうがね」と呟いた。

 わけがわからず首を傾げる私に向かって、エミールは高飛車な態度で杖を突きつけ、声の調子を強めて言った。

「アルメル、君を最高の淑女に仕立ててやる。フランシスを救うためにね」



 渋滞にはまった箱馬車の中で、エミールが暇を持て余すようにして事の成り行きを説明し始めた。

「フランシスが母親とうまくいっていないという話は、以前話したことがあるな?」

 彼と向かい合わせで座っていた私は、黙ってこくりと頷いた。

「今夜、ラ・トゥール伯爵邸でフランシス主催の夜会が催される。とは言っても、リュリ夫人が勝手に彼の名を利用して社交界の面々に招待状を送りつけたわけだが。『薔薇の庭』が人質にとられてしまった以上、フランシスは夜会に顔を出さぬわけにはいかないだろう」

「『薔薇の庭』?」

「フランシスが探している例の画家が描いた、亡きラ・トゥール伯爵の肖像画さ」

 ああ、いつだかルシエが話してくれたっけ。薔薇の庭が背景に描かれた父親の肖像画のことを。

「あの絵はフランシスにとって特別なものなのだ。サン=ルイ島に暮らし始めてからも、フォーブルの屋敷に飾られた父君の肖像画を運び出すことはなかった。きっとそのままの形で遺しておきたかったのだろう。先程ラ・トゥール家に足を運んで召使いたちに確認してきたのだが、リュリ夫人は絵画のように大きな荷物を外部に持ち出してはいないようだ。つまり、絵は屋敷のどこかに隠されているということになる。そこで我々の出番というわけだ。夜会に乗じて、画家の画風を多少なりとも知っている私と君とで『薔薇の庭』を捜索するのだ。無事に肖像画を取り戻せれば、フランシスは解放される」

 そう言うと、エミールはカーテン越しに小窓から通りの様子を伺った。渋滞していた交通の流れは次第に正常に動き始め、それからしばらくのあいだ馬車はがたがたと車輪を鳴らし、パリの街をひた走りに駆け抜けた。



 エミールの姉はパリ七区にあるオスマン様式の豪奢な邸宅(アパルトマン)に住んでいた。贅を尽くした調度品が次から次へと現れて、私は住む世界の違いを感じたが、エミールいわくここは流行りものを寄せ集めただけの品のない博物館とのことだった。

 丸型のテーブルに使用人が茶菓を用意して出て行くと、エミールはさも厄介そうに人差し指で片方の耳に栓をしながら日本風のティーカップで紅茶を啜った。サロンに入ってからずっとひとりの婦人が彼の後を追いかけて喋りっぱなしだったのだ。

 婦人の声はトーンの高い金属音のようで、語尾は必ずと言っていいほど笑い声に変化した。輝くような金髪でなかなか美しい顔立ちをしていたが、その髪型といい、ドレスのデザインといい、どことなく風変わりな感じのする人だった。

「紹介するよ、アルメル。姉のジョゼフィーヌだ」

 お喋りの合間を縫ってエミールがどうにか口を挟むと、ジョゼフィーヌは今ようやく気がついたみたいにこちらを見た。

「エミールに頼まれてレストー夫人の晩餐会で着たドレスをあなたに用意したのだけど、先月のドレスだからちょっと流行遅れだと思うのよ。それに私の持っているドレスの中で一番飾り気がないの。でもエミールったらあのドレス以外は駄目だと言うのよ。まったく頑固で一体誰に似たのかしら? 私も妹のアドリエンヌもいつもこの子のご機嫌取りよ。私は結婚してからもずっとパリ暮らしでアドリエンヌは今は大叔父様の城(シャトー)を相続して地方に住んでいるの。でも、ここのところはもっぱら幽霊が出ると騒いでいて、なんでも有名な霊媒師に見てもらったらしいのだけど、大叔父様の亡霊が棲みついてるんですって。どうお思いになって? 私、その手の霊的な事象は信じない性質なのだけど、アドリエンヌがあまりにも騒ぐものだから、エミールに様子を見に行ってもらうことにしたのよ。実は私、こう見えても妊娠していて、それに慈善事業に忙しくて……」

 ジョゼフィーヌのお喋りは止まることを知らず、私に口を開く隙をまったく与えなかった。その騒がしさと言えば、まるで壊れた教会の鐘の音が四六時中鳴り続けているかのようだった。身繕い用の小部屋へ連れて行かれる私に向かって、エミールが憐れむように「アデュー」とティーカップを掲げたのが見えた。



 湯浴びから上がると、使用人たちが結託して物凄い勢いで私の身繕いをし始めた。

「エミールが私を頼ってくるなんて初めてのことなのよ。だから今日はとても嬉しかったの」

 隣の長椅子で扇子を仰ぎながら、ジョゼフィーヌの長い話が始まった。悪阻がひどいので今夜の夜会に一緒に行けなくて残念だとか、子供はきっと美しい男の子であるに違いないとか。私は魔の人工補整手段コルセットにきつく体を締め上げられ、ほとんど何も聞いていなかった。

 しかし、ドレスを着せられ、髪をいじられ始めた頃、話の中にルシエが登場したので自然と耳が傾いた。ジョゼフィーヌはルシエのことをフランシスの愛称からシスと呼んでいた。

「エミールがシスに出会ったのは、私とアドリエンヌが社交界に夢中になっていた頃よ。あの子たちはいつの間にか仲良くなっていて、いつも庭の片隅で一緒に詩を読んだり、エミールをモデルにしてシスが絵を描いたりしていたわ。シスは幼い頃、とても陰気で何を考えているのかさっぱりわからない子だった。話しかけても上の空で……そうね、まるで起きたまま眠っているみたいな感じかしら。たまに視線を合わせることもあったけど、向けられるのはなんだか軽蔑しているような、嫌悪の眼差しばかりだったわ。だから私とアドリエンヌはそのうちシスの相手をしなくなって、エミールだけがいつも彼のそばにいたの」

 ジョゼフィーヌは急に吐き気を催したのか、扇子の影で一瞬だけ口を閉ざしたが、またすぐに話を再開した。

「その頃から比べると、シスは本当に変わったわ。何年かぶりに久々に会ったときには、別人かと思うくらいに魅力的な紳士に成長していた。私、思わずエミールに尋ねてしまったくらいよ。シスの身に一体何が起こったの?……そうしたら、あの子私にこう言ったのよ。『フランシスは琥珀色の瞳の少女に救われたのだ』……そう。琥珀色の瞳……あれはあなたのことだったのね、アルメルさん」

 つきん、と胸が痛んだ。心の奥底で古傷が疼いたかのようだった。私が何も返事をしなかったので、ジョゼフィーヌが扇子を仰ぐ手を止めて顔を上げた。私は重い口を開き、エミールの言っていた琥珀色の瞳の少女は自分のことではないのだとジョゼフィーヌに伝えた。すると、彼女は実に不思議そうな顔をして再び言葉を続けた。

「エミールが突然ドレスを用立ててほしいと今朝私の元を尋ねて来たときに、『一体誰のために?』と聞いたの。そうしたら、あの子言ってたわ。『琥珀色の瞳の少女が着るのだ。アルメルにしか、フランシスは救えないのだ』って……」

 どうしてか、このとき私は呆れるほど素直に文字通りエミールの言葉を受け取りたいと思ってしまった。いつもどおりに皮肉を込めて私のことを『肖像画の少女の代用品』扱いしたに決まっているのに……。

 清楚な白いドレスはオートクチュールで何千フランもするという。大きく開いたデコルテには有名な裁縫師によって仕立てられたレースのフリルがついていた。所々に入ったドレープはリボンと淡いピンク色の薔薇で留められ、その下からはまた違った刺繍のレースが覗いている。緩やかにアップにされた髪や胸元にもたくさんの薔薇が飾られた。

 鏡の前の私は普段の私とはまるで別人のようだった。驚くべきことに、私とジョゼフィーヌは体型も靴のサイズもほとんど同じだった。私の方が少しばかり痩せぎすで、彼女の方が幾分か丸みを帯びて魅力的ではあったけれど。

「ふん、まあ見れないこともないか」

 ドレスアップした私に対して、エミールが吐いたセリフは相変わらずだった。傍若無人でムカつくやつだけど、今回に限っては聞き流してあげることにした。

「素敵よアルメルさん! とってもよくお似合いだわ。でも、もっと飾り付けをしたほうが良さそうね」

 エミールが止めるのも聞かず、ジョゼフィーヌはごてごてとしたペンダントや羽飾りをあれやこれやと探し始める。私は自分が着ていた服から琥珀の石を取り出した。先日鎖が切れてしまったペンダント。ルシエがくれたこの宝石を、私は今夜身に付けて行きたかった。ジョゼフィーヌにそのことを伝えると、彼女は快く黒いチョーカーに縫いつけてはどうかと提案してくれた。



 私たちの乗った馬車がラ・トゥール伯爵邸の正面に着くと、従僕が踏み台を下ろしに近づいた。エミールにエスコートされながら馬車から降りた私は、おぼつかない足取りで外付階段を上ってゆく。角灯に照らされた邸宅は言葉が見つからないほど豪華絢爛であった。玄関ホールにたどり着き、私は上流階級という名のあまりの世界の違いに軽い眩暈を感じた。

 高い天井は美しい支柱に支えられ、中央に開かれた階段の両脇には、お仕着せに身を包んだ白髪の鬘を被った従僕たちが彫像のように並んでいた。ここはヴェルサイユ宮殿かと思うほどに(いえ、ヴェルサイユなんて話でしか聞いたこともないけれど)実にきらびやかだった。

「驚いたかい? まあ、所詮君と我々とは住む世界が違うのだ。アルメル、君がフランシスに捨てられる日もそう遠くはないだろう」

 エミールは高慢な態度でふふんと鼻を鳴らしたが、私がしおらしく何も言い返さずにいると慌てて言葉を取り繕った。「まさかとは思うが傷ついたりしたんじゃあるまいね? 君って女は冗談のひとつも通じないのかい?」

「もう帰るわ」

「まま待ちたまえアルメル! 今のは決して本気で言ったわけでは……っ」

「冗談よ」

 舌を出してからかってやると、エミールの顔は真っ赤になった。彼は肩を怒らせながら従僕にシルクハットやコートを預け、燕尾服の召使いと共に廊下をずんずん歩き始めた。私はドレスの裾を手繰り寄せ、急ぎ足でその後を追いかける。「あなたって男は冗談のひとつも通じないわけ?」

 サロンでは著名な音楽家の何十奏だかの演奏が始まっていて、演奏中は入室禁止のため曲が終わるまで一旦図書室に通された。盆に乗せたシャンパンを運んできた召使いが立ち去ると、エミールはすべて計算どおりと言わんばかりに手を揉んだ。

「ラ・トゥール家の召使い頭に頼んであらかじめ部屋の鍵を手に入れておいた。隠し場所の見当はだいたいついているんだ。リュリ夫人に気づかれないよう、次の演奏までになんとしても我々の手で肖像画を探し出すのだ」

 かくして、私とエミールは従僕たちの目を盗んで人気のない屋敷の中を調べ始めた。忍び込むということに多少の後ろめたさを感じているからだろうか、階段を上りながら自然と息をひそめてしまう。それにしても、なんと部屋数の多いこと。まるで合わせ鏡のごとく次々と扉が現れる。

 まずは一番疑わしいと思われるリュリ夫人が伯爵夫人時代に使っていたという寝室を調べてみたが、例の肖像画らしきものはどこにも見当たらなかった。

「おかしいな。絶対ここにあると思っていたのに」

 エミールは明かりの灯された蝋燭を掲げ、新たな部屋の中を照らし出した。

「ここはフランシスが子供時代に過ごしていた部屋だ」

 庭を望める西向きの窓がついた、実に整然とした部屋だった。窓辺で足を止めて、幼少時代のルシエが眺めたであろう風景を望んだ。幼いルシエが窓ガラスに手を添えて、そこから薔薇の庭を眺めているところを想像してみる。それは、驚くほど鮮やかに私の中に見出だすことが出来た。

 引き出し付きの書き物机にはスケッチブックが数冊置き去りにされていた。そのうちの一冊を手にとってページを捲ってみると、幼いルシエが描いたラ・トゥール伯爵夫人リュリ夫人と思われる裸のラフが延々と続いた。快楽に溺れる夫人の表情にはどこか寂寥とした雰囲気が漂っていて、私はページを捲るたびにひどく心が痛んだ。

 スケッチブックを元の位置に戻したところで、それまでかすかに聞こえていたヴァイオリンとピアノの音が終わり、遠くの方から拍手と人々の歓談の声が聞こえてきた。

「どうやら一曲目が終わったようだ。一度フランシスの様子を見に行こう」



 二階の広間では休憩に入った燕尾服の紳士と貴婦人たちが、軽食の用意された長いテーブルを取り囲むようにしてあちらこちらで歓談に耽っていた。誰も彼もが贅沢すぎるほどに豪華だった。そんな中、ひときわ大勢の人々が集まる輪の中心に、輝くような燕尾服を身に纏い、白いタイを凛々しく結んだルシエがいた。

 フォーブルの紳士淑女たちはルシエに挨拶をするため、自分の番が回ってくるのを今か今かと長い行列を作って待っているようだった。

「フランシスの姿を一目見に、悪意と敬意の混ざった社交人どもがお揃いだ。親戚たちも勢揃いだな。有名作曲家に某将軍、おやおや作家のゴンクール氏も来ているぞ――日記に何を書かれることやら! リュリ夫人の目論見どおり、明日の新聞はさぞかし賑わうことだろう。案の定、まるで自分が女主人(パトロンヌ)のような振る舞いをしているよ。夫人の隣にいるのが夫のユベール・リュリ氏だ。彼は社交界でも評判の良いブルジョワ紳士さ」

 エミールは通りがかりの丸テーブルに座っていた知人に呼び止められ、やむなく彼らの仲間入りをするはめになった。

 目の前で繰り広げられる会話にだんだんと意識が空ろになってゆく。上流階級者の紡ぎ出す意味不明な固有名詞や、扇子の向こうに巻き起こる笑い声は、ひどく私を孤独にさせた。


『所詮君と我々とは住む世界が違うのだ』


 エミールが言ったことは正しい。確かに、私とルシエは違う世界の人間なのだ。陰鬱とした気持ちはやがて自分自身の深い問題へと繋がって、途方も無い虚無の深淵に飲み込まれそうになってしまった。

 そのとき、人だかりの向こうにいたルシエがふいに目の端で私を捉え、すぐに話を止めてこちらに近づいて来た。

「驚いたな! アルメル、なぜ君がここに?」

 甘ったるい微笑を浮かべ、彼は私の手の甲に口付けた。「まるでギリシャ神話に登場する女神のように美しいよ」

 それから、首元を飾っていたチョーカーに気がつくと、一段と笑顔を深めて人差し指で琥珀の石に触れた。光を集めた琥珀色の石が二人の間で揺れ動く。

 ルシエは寄りかかるようにして、私の体に両腕を回した。その仕草はこちらの存在を確かめるようであり、また、見失ってしまいそうな自分自身を繋ぎ留めるかのようでもあった。

「ここにいると、まるで子供時代に戻ったかのような錯覚に陥ってしまう」

 このとき、それまでルシエが多くの人たちに向けていた微笑が、実は表面だけ柔らかく取り繕っているだけであったことを私は悟った。

 喧騒が不安定でつかみ所のない空気を創り出しているせいだろうか。ルシエの端正な横顔は、まるで過去と現実の狭間を行ったり来たりしているかのように見えた。二度と戻りたくない過去。忘れ去りたい出来事。長い年月が経ち、どんなに記憶が色褪せようとも忘れることの出来ない思い出――。

 私はルシエの体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。繋ぎ留めなければいけないと思った。深い霧の中に迷い込んでしまいそうな気がしたから……。

「フランシス!」

 突然、背後からリュリ夫人の声が矢のように降ってきた。ルシエと同じカフェオレ色の髪の毛に、敵意を宿らせた菫色の瞳が静かにこちらを見据えていた。

 清楚な美貌に潜む魅惑的な色香。男性の欲望を奮い立たせるようなふくよかな体つき。改めてはっとさせられるほどの美しさを秘めた夫人は、私を一瞥してから濡れたような唇をかすかに動かし、ルシエに向かって大儀そうに尋ねた。

「このお嬢様はどなた?」

 ルシエが返事をするよりも先に、今気がついたかのように夫人がわざとらしく言葉を続けた。

「まあ、フランシスが雇っているモデルの方ね? 先日は粗末なドレスだったのに、今夜は随分と美しく着飾ってらっしゃること。モデル代をはたいて社交界にデビューでもしにいらしたの?」

 その言葉に近くにいた人々が笑いさざめいた。リュリ夫人は満足気に唇を歪めると、手持ちの扇子を私に向けて突きつけた。

「こんな場違いな所では退屈でしょう。フランシス、もうお引き取りして頂いては?」

 ルシエは真っ直ぐに夫人の瞳を見つめ返すと、私の肩を抱き寄せて言った。

「では、僕も一緒に帰ります」

 ほんの一瞬、夫人の眉根が揺れ動いた。

「冗談はよしてちょうだい、フランシス」

「冗談ではありません」

 ルシエの声が大広間に響き渡る。

「彼女のそばにいたいのです。僕は彼女を……アルメルを愛しています」

 広間は水をうったように静まり返った。私自身も驚いた。しかしすぐに、これはルシエが母親から逃れるための単なる演技なのだと自分自身を落ち着かせた。

 リュリ夫人は相変わらず落ち着いた様子で、口元に笑いを滲ませた。

「どうやら少し混乱しているようね。あなたは芸術に恋をしているだけなのよ。そうでしょう? フランシス」

 しかし、ルシエは至って冷静に言葉を返した。

「僕は混乱してなどいない」

 そろそろ始まるはずの次の演奏などもはや誰ひとりとして気にかけてはいなかった。ピアニストもヴァイオリニストも、給仕係も招待客たちも、誰も彼もが彼らの一挙一動に注目していた。

 夫人はしばらく黙ってルシエと向き合っていたが、やがて静かに口を開いた。

「フランシス、それがあなたの答えなの?」

「それは僕のセリフだ。『これ』があなたの答えなのですか?」

 逆にルシエに問いかけられ、夫人は目を細めて彼を見返した。

「帰ろう、アルメル」

 ルシエは私の肩を抱き寄せると、それ以上夫人に何も言うことなく背を向けた。人々は無言のままに私たちに道を開ける。

 扉付近でエミールがひどくしょげた顔をして立っていた。ルシエのために肖像画を見つけることはおろか、ラ・トゥールの家名に泥を塗る手助けをしてしまったのだから仕方ない。彼はきっと、明日の新聞にこき下ろされる中傷記事を頭の中で想像していることだろう。

 扉の横を通り過ぎるとき、ルシエはエミールの肩に手をかけて耳元で何かを囁いた。弾かれたように広間から出て行くエミールの後に続き、私たちも大勢の人々が見守る中、静かにその場を立ち去った。



「待ちなさい!」

 階下のホールにたどり着いたとき、リュリ夫人が階段の踊り場から私達を呼び止めた。走って追いかけてきたのか、その息遣いはひどく乱れている。

「フランシス、今ならまだ間に合うわ。私の元に戻りなさい!」

 しかし、ルシエは振り返らずに、そのまま玄関に向かって歩き続ける。

「あの絵がどうなってもいいのね!?」

 その叫び声はほとんど発狂寸前だった。ルシエはゆっくり振り返ると、静かに夫人の姿を見上げた。

「かつてあなたが使っていた部屋の、箪笥の奥の隠し扉……」

 ルシエの言葉に、夫人はぎくりとした様子で絶句した。

「あなたがいつも大切な物をそこにしまっていたことを、幼い僕はちゃんと見ていた。父の肖像画をそこに隠していることも容易に想像がつく」

 そのとき、『薔薇の庭』を手にしたエミールが夫人の背後から現れた。

「君の教えてくれたとおりの場所にあったよ、フランシス!」

 ルシエは淡い微笑を浮かべて頷いた。そして唇を真っ直ぐに結んだままの夫人に向かって言葉を続けた。

「あなたが肖像画を人質にして僕をこの屋敷に呼び戻したのは、自身のフォーブル・サン=ジェルマンでの地位を向上させるためなんかじゃない。社交界の人々は利用されただけで、本当はあなた自身が僕に会いたかったのだ」

 夫人はさっと赤面した。「何を、馬鹿なことを……!」

 彼女はうろたえ、話を誤魔化すようにエミールの持っていたカンヴァスに手をかけた。

「返しなさい!」

 強引に肖像画を奪い取った際に、夫人は階段を踏み外した。カンヴァスと共に彼女の体は勢いよく宙に投げ出され、ドレスの裾が蝶のように舞い広がる。

 ルシエは咄嗟に夫人の体を受け止めに走った。彼が彼女を抱き留めたとき、階段のステップに叩きつけられたカンヴァスはひどい音を立てて転がり落ちてきた。拾い上げた肖像画の中央には、くっきりと大きな傷がついていた。そのことに気がついた夫人の顔は、ルシエ以上に蒼白だった。

「……肖像画ではなく、私を助けにくるなんて……。なんて、馬鹿な子なの」

 愕然とした面持ちでリュリ夫人が呟くと、「それは仕方がないでしょう」とルシエが溜め息混じりに苦笑した。

「あなたの子ですから」



 帰りの馬車の中、エミールが窓越しに夜空の月を仰ぎながら、大きな欠伸をひとつした。ルシエは父親の肖像画を胸に抱き、私の肩に寄りかかるようにして眠っている。ポマードで固められていた髪の毛は、夜会の終わりを示唆するようにすっかり元に戻っていた。

 ルシエは自ら歩み寄ったのだ。過去と向き合うことで新たな一歩を踏み出した。そして、それはたぶん、とても良い方向に向かっている。

『薔薇の庭』に描かれたラ・トゥール伯爵の姿を見つめながら、私はふいに思った。パパはまだこの世に生きているのだろうか。パパは私のことを覚えているだろうか。もしも、私を捨てたことを後悔していたとしたら、私は彼を赦すことが出来るだろうか……。

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