第九話 あなたのそばに

「実に素晴らしい演奏だった」

 ルシエは陶然たる面持ちでただ一言そう呟いた。教会で催された神秘的なパイプオルガンの演奏会は、彼だけではなくその場にいた人々を恍惚境へと誘った。

 聖堂に灯る無数の蝋燭の揺らめき。幻想的なステンドグラス。演奏会に足を運べば、きっと教会の冷たい石壁が過去のトラウマを蘇らせるだろうと思っていた。だが、意外にも思い出したのは熱心に祈りを捧げる幼い頃の姿だった。神の愛が奇跡を起こしてくれるかもしれないと信じて祈り続けた信仰の日々。ほどなくして失われてしまったが、かつてそんな日々が私にもあったのだ。

 教会のぬくもりと耳当たりのよい人々の歓談の中、忘れていた過去を呼び覚まされた私の意識は朦朧としていた。だから、ジョコンダモナ・リザのような意味深な微笑を湛えた聖職者の顔が視界に映ったとき、一瞬それが誰であるのかわからなかった。でも、その後すぐに極度の緊張と嫌悪感が体中を駆け巡り、さっと血の気が引いた。目の前に広がる世界が瞬く間に色を失い始めてゆく。

 黒いスータンを着た背の高いその男は、首から十字架をかけ、手には聖書を携えていた。

「アルメル?」

 ルシエが不思議そうに私の視線の先を覗き見た。

 心の内に潜んでいた過去の恐怖が、鐘楼の乾いた鐘の音によって一気に呼び覚まされた。私はその場から逃げ出すようにして、人混みを掻き分けて聖堂から表通りに飛び出した。

 セーヌ川にかかる鉄骨橋の中央まで走ったところで、後を追ってきたルシエに腕をつかまれた。

「一体どうしたっていうんだい、アルメル」

 身を刺すような寒さの中を走ったせいか、彼の頬は耳まで真っ赤に染まっている。

「なんでも……ないわ」

 教会の尖塔を振り返り、自分自身に言い聞かせるかのように呟いた。そうだ。きっと気のせいだったのだ。教会を訪れたことで神経が過敏になっていたに違いない。たぶん、あれは目の錯覚で、自らの恐怖心が生み出した幻影だったのだろう。

 院長が……ヴェルヌ院長がパリにいるはずないではないか……。



『私の可愛いお人形さん』


 クリスティアン・ヴェルヌ院長はいつも私のことをそう呼んでいた。確かに、私は傍から見れば人形のようだったかもしれない。というのも、笑わなかったし、泣かなかったし、話をしようとしなかったからだ。いつも同じ場所に座って、黙って海を眺めていた。きらめく水平線の向こうをただじっと見据えていた。不条理な世界。壊れた箱庭の中で。

 院長は洗脳するみたいにいつも同じ言葉を繰り返し、私の体を抱きしめた。


『私の可愛いお人形さん』

『私の可愛いお人形さん』


「僕の可愛い子猫ちゃん」

「きゃあ!?」

 突然、ルシエが背後から腕を回して抱きついてきたので、私は持っていたボウルを落としかけた。

「お、驚かさないでよっ……!」

 波打つカフェ・オ・レが数滴床に零れ落ちる。ルシエはテーブルに腰をかけ、悪戯気に微笑んだ。

「随分と悩ましげな表情をしていたが、何か気になることでもあるのかい?」

「別に。それより、『子猫ちゃん』って誰のことよ」

 ルシエは指先で私の後ろ髪をそっと左右に掻き分けると、背後から首筋に熱のこもったキスをした。

「君以外に一体誰がいるというのだね?」

「カフェ・オ・レが冷めるわ」

 何事もなかったかのようにボウルをテーブルに運ぶと、ルシエは例のごとく身勝手な振る舞いでもって私を抱きしめ、小鳥が木の実を啄ばむように幾度となく唇を盗むのだった。それは少しずつ深みを増し、やがて私を征服せんとばかりに情熱的な激しさを伴ってゆく。

「アルメル?」

 気がつくと、両手でルシエの体を押しのけていた。院長とは違うのに。ちゃんとわかっているはずなのに、今はどうしようもなく恐かった。

 ルシエは何か言おうとして一度口を開きかけたが、それを留めて別の言葉を口にした。

「悪戯はこのくらいにしておくよ。また家出されては困るからね」

 冗談交じりに微笑むと、彼は台所から出て行った。そして、すぐに画材道具の詰まった鞄を肩にかけ、アトリエから姿を現した。日が暮れる前に新橋(ポン・ヌフ)をスケッチしてくると言い、彼は私の額にキスを落とす。

 アパルトマンから立ち去る後ろ姿がパパの姿と重なった。引き止めたかった。でも、出来なかった。なんと声をかければよいかわからなかったのだ。

 まもなくして、踊り場の方から物音が聞こえてきた。忘れ物をしたルシエが戻ってきたのかと思い、私はすぐに戸口に駆けつけた。しかし、扉を開けて入ってきたのはルシエではなかった。青白い顔。三日月形の眼差しの奥底に見え隠れする、陰鬱な影。

 身の毛がよだつとはまさにこういうことを言うのだろう。夢なら覚めて欲しかった。でも、間違いなくそれは現実そのものだった。

「やあ、久しぶりだね。私の可愛いお人形さん」

 クリスティアン・ヴェルヌ院長は唇を歪めて奇妙な笑みを傾けると、献身と疲労の入り混じったような表情で私に両腕を差し出した。

「会いたかったよ、アルメル」

 目の前がぐらりとした。まるで光と闇が反転したかのようだった。

「どうして、ここがわかったの?」

「すべては神のお導きだ。教会でおまえの姿を見かけたとき、私は心の底から神に感謝した」

 節くれだった指先で十字を切ってから、院長は私の元に歩み寄り手の甲にキスをした。

「私の可愛いお人形さん」

 捕まれた手の力はどんどん強くなっていき、爪が肌にくい込んだ。注がれた接吻はやがて頬擦りへと変わり、院長は恍惚と目を潤ませて私の体を抱きしめた。

 そのとき、騒々しい足音で階段を駆け上がってくる第二の来訪者があった。アトリエに姿を現したエミール・ド・ラペイレットは、わざとらしい悲観の溜息をつきながらシルクハットを放り投げた。

「聞いてくれたまえ、フランシス! 姉さんのやつ、また馬鹿みたいなことで大騒ぎしているんだ! 遺産相続で手にした城(シャトー)に幽霊がどうとかこうとか。まったく女ってやつはどうしようもなく性質(たち)が悪い。私はもういい加減うんざりして――」

 エミールは私と院長の姿に気がつくと、大口を開けてその場に固まった。

「ななな、なんということだ! アルメル、君ってやつは……」

 彼は強引に私を院長から引き剥がすと、杖先を突きつけて怒りを顕にした。

「今度という今度は本当に見損なったぞ、アルメル! フランシスがいない間に神聖なアトリエに男を連れ込むとは! それも相手は聖職者? なんて卑猥な女なんだ!」

 捲くし立てるエミールの背後では、院長が暖炉の飾り棚に置かれていた燭台を手にとって、今まさにそれを頭の上に振り落とさんとしているところだった。

「エミール、後ろ……っ」

 院長の攻撃をよけきることが出来ずに、頭を打ち付けられたエミールはそのまま床に倒れ込んだ。

「エミール! エミール、しっかりして!」

 どうやら軽い脳震盪を起しかけているようだった。意識はあるが、呼びかけても低く唸るばかりで返事がない。床に落とされた燭台が鈍い音を立ててテーブルの下に転がった。

「さあ、一緒に帰ろう、アルメル」

 院長は三日月のような目を一層細めて微笑んだ。表情は穏やかなのに、驚くほど激しく手首を捕まれた。私は彼の手を振り払うと、横たわるエミールのそばに寄り添った。

「私はあなたの人形じゃないわ」

 院長は憮然とした表情で私の顔を見やる。

「おまえは私の人形だ。……私だけのものだ……」

 大きく振り上げられた手で、勢いよく頬を叩かれた。衝撃で体が跳ね飛び、テーブルの足にぶつかった。頬にじんわりとした熱い痛みが滲み始めるのと同時に、目の前がだんだんと薄暗くなってゆく。私はショックでそのまま気を失った。



 私の体は小さかったが、礼拝堂の蝋燭の明かりが壁に映し出す影は大きくて、それが幼心にとても不思議だったことを憶えている。大きな影。大きな自分。でも、院長の作り出す影が重なると、それは瞬く間に消えてしまう。何も残らない。私の姿はどこにもない。確かにそこにあるはずなのに、どこにも見当たらないのだ……。



 船の汽笛で目が覚めた。見知らぬ部屋の中央に椅子が一脚置かれていて、気がつくとそこに座らされていた。両手は後ろ手に椅子の背に縛りつけられており、身動きをとることが出来なかった。引かれたカーテンの隙間から差し込む一筋の光の中を、白い埃がきらきらと舞い飛んでいる。

 遠くの方で、再び汽笛の音がした。ある種の物悲しさを秘めたその響きが、頭の片隅に仕舞い込まれていた『あの日』の記憶を手繰り寄せる。

 あの日、パパはなんの前触れもなく私を港町の孤児院へと連れて行った。

「仕事で旅に出ることになった。しばらくのあいだ、ここでいい子にしているんだよ」

 聖堂の入り口から、丘を下りて行くパパの姿を遠巻きに眺めていた。予感めいたものが突然心をざわめかせ、私は院長が止めるのも聞かずに孤児院を飛び出した。

 港まで走っていき、今まさに出港しようとしている外国船に乗り込むパパの姿を見つけた。女の人と一緒だった。二人はしっかりと手を取り合い、互いに寄り添いながら船の中へと消えて行った。子供ながらに直感した。ああ、自分は捨てられたのだ、と。

 私は、本当はずっと待っていたのだ。壊れた箱庭の中で、いつも同じ場所から海を望み、パパが迎えに来てくれるのを、ただひたすら待ち続けていたのだ。



 院長が外から帰ってくると、開かれた扉から湿った冷気が入り込んできた。

「目が覚めたかい? さっきは随分と驚いた顔をしていたね。私がパリにいるとは思わなかったのだろう? 視察を兼ねて教会を訪れていたのだよ」

 くべられた薪が暖炉を赤々と照らし出した。乾いた薪の弾ける音に相俟って、外から石炭船の音が聞こえてくる。きっと、すぐそばをセーヌ川が流れているのだろう。

 院長はローマン・カラーの下にぶらさげた銀色のロザリオを揺らしながら、私の方に顔を向けた。

「驚いたな。泣いていたのかい? アルメル」

 言われて初めて気がついた。慌てて顔を背けたが、院長は私の顎をつかんで強引に上に向けた。「おまえが涙を流すだなんて……あの男の影響なのか?」

 嫉妬を孕んだ感情が彼の瞳に陽炎のように映し出される。『あの男』とはルシエのことを言っているに違いなかった。

「父親に捨てられたおまえを育ててやったのは一体誰だ?」

 奇妙に乾いた声だった。嵐の前の静けさ。津波の前の引き潮。まもなく、院長の手は激怒のあまり、酷い震えを伴った。

「私だ。私がおまえの面倒を見てきたのだ。それなのに、おまえは私の元から逃げ出した! 神の加護から逃げ出した! 薄汚い淫売女のように、男に媚を売って暮らしているのか!」

 神に遣える者の風采が、無条件に心を惑わせる。自分が信仰に背いた愚かな背徳者のように感じられた。いや、たぶん恐怖で意識がおかしくなっているのだろう。

 院長はそんな私の様子に気がつくと、唇の端を吊り上げて微笑んだ。激しさは唐突に影を潜め、甘く柔らかな声が耳元を掠める。

「でもね、私はとても慈悲深い人間だから、おまえを赦してあげるよ、アルメル」

 そう言うと、彼は親指で私の唇を押し開き、強引に舌を捻じ入れてきた。喉の奥から声が漏れる。口内に艶かしく這わせられた舌先を、私は思い切り強く噛んでやった。院長は短い悲鳴を上げ、片手で口を押さえて後方に退いた。指の隙間から赤い鮮血が悪夢のように滴り落ちる。

「ああ……あああ……」

 気でもふれたかのような奇声を発しながら、院長は血のついた掌を凝視した。いびつに固まった蝋のような手が天井に向かって伸ばされてゆき、そのまま勢いよく私のこめかみの辺りに振り下ろされた。

 椅子は私を乗せたまま転倒し、小さな宝飾品が胸元から床の上に転がって音を立てた。それは、ルシエがくれた琥珀のペンダントだった。身を起して不自由な両手を動かそうとしたが、無駄な努力だった。院長は指先に引っ掛けるようにしてペンダントを持ち上げた。

「あいつからもらったのか?」

 私は何も言わなかった。

 覆いかぶさった陰鬱な影により、琥珀色の光はその輝きを失った。


 孤児院から逃げ出した晩、私は確かに壊れた箱庭の柵を飛び越えたはずだった。でも、それは思い違いだったのかもしれない。人形が見た淡い夢の一幕だったのだ。港町のあの古びた教会で暮らすことこそが、私の天命なのだろう。


『運命って言葉を信じるかい?』


 ルシエが小指に結びつけたリボンはもう解けてしまったけれど、それでも、残っているのだろうか。目には見えない私たちを繋ぐ糸が……。



 手首に繋ぎとめられた椅子は、依然として横に倒れたままの状態で床の上に転がっていた。再び院長が外から帰ってきたとき、私は身を起すこともなく暖炉に視線を投じ続けていた。一体どれだけの時間が経ったのだろう。

「馬車を手配してきた。私たちは闇夜に紛れてどこまでだって行けるのだよ。二人きりで外国へ行こう。どこがいいかな? スイス、イタリア、ベルギー……」

 教区の人々を忘れて職務を放棄するような発言をしているあたり、もはや院長の精神はおかしくなっているのだろう。彼は片方の手を床につき、立ち膝で私の髪を撫でながら夢見心地に言葉を続けた。

「おまえの父親も外国に姿を眩ましたのだよ。我が子を捨て、女と駆け落ちした無慈悲な男。彼は確か画家だったな」

 深い憐みの眼差しが私の元へと向けられる。

「ああ、可愛いアルメル。一緒にいたあの男も画家のようだったね? おまえはきっと捨てられるに違いない。でも、私は決しておまえを見捨てたりはしないよ。私はいつだっておまえのことだけを考えているんだ。おまえを心の底から愛しているのだよ」

 西日に照らされた院長の顔は、半年前に比べると驚くべき速さで老け込んでいるように見えた。私の不在による心労だろう。自らが言うように彼は確かに私を愛しているのだと思う。でも、それが歪んだ愛の形であることも、また確固たる事実なのだ。

 不意に、手首と椅子を結び付けていた紐の結び目が緩んだことに気がついた。両手が音もなく解放された。蝋燭に火を灯す院長の背中を見つめながら、私は静かに身を起こし、そっと火掻き棒を握り締める。天高く振り上げながらも心はひどく葛藤していた。

「それが、おまえの答えなのか?」

 突然、院長が言った。前方の鏡に映る私の姿を睨みつけながら。

 激しい雄たけびとともに振り返った院長は、私をテーブルの上に押し倒すと、喉元をきつく締め上げた。

「あの男の元になど帰らせるものか! おまえは、私だけのものなのだ!」

 嫉妬が彼の細胞を打ち震わせ、独裁的な激情を生み出してゆく。私は苦しさから夢中で火掻き棒を振り回し、院長がひるんだ隙をついて部屋から外に走り逃げた。

 捕らわれていたアパルトマンの前面を流れるセーヌ川。傾きかけた太陽が川の水面を薔薇色に染め、向かいの船着場で荷を下ろす人夫の姿を照らしている。私は対岸に渡るため鉄骨橋を直走った。だが、恐怖で気ばかりが焦って足がもつれて転んでしまう。

 背後を振り返ると、後を追いかけてきた院長が橋の袂で右手を天に突き出した。彼の掌から踊るように垂れ下がったのは、ルシエのくれたアンティークのペンダントだった。

「おまえのその遅い足では、どうせこの橋を逃げ切ることは出来ないだろう。自ら私の元に戻るというのであれば、これを返してやってもいいのだよ」

「……あなたのところになんか、戻らない」

 私の返事が終わらぬうちに、ペンダントは院長の指先から滑るようにセーヌ川に落とされた。私は思わず欄干から身を乗り出してその行方を目で追った。

「おまえは愚かな娘だよ。どちらにしろ、最初から返す気などなかったがね」

 院長の唇から嘲笑が迸る。と、同時に、彼は突然背後から忍び寄ってきたエミールによって杖で羽交い絞めにされた。

「な、何をする……!」

 取り押さえられ、慌てふためく院長の前に現れたのはルシエだった。優雅に繰り出された画家の拳が院長の頬に炸裂すると、更にエミールが胸倉を掴み上げ、追い討ちをかけるようにして幾度となく頭突きした。

「そのくらいにしておいたらどうだい、エミール。君は神父を殺す気かね?」

「だってフランシス、この男は私の頭を殴ったのだよ? 姉さんたちにさえ叩かれたことがなかったのに! こんなものでは気が済まないよ!」

 狼狽する院長の胸倉を鷲掴みにしたエミールは、執拗なまでに再び頭突きを繰り返す。ルシエは呆れたように肩を竦め、それからゆっくりと私の方に振り向いた。

 淡い水色の瞳がさまざまな想いを抱え、静かに揺れ動いている。彼は無言のままに歩み寄ると、両腕を伸ばして労わるように私の体を抱きしめた。溢れんばかりの愛情が全身でもって注がれる。どれほど心配をされていたのかは、泣きたくなるようなその沈黙が教えてくれた。

 私は唇に出かかった熱い言葉を飲み込んで、別の言葉を口にする。

「よくここがわかったわね」

「エミールが神父に殴られたと言っていた。もしかするとその神父というのは君が以前話して聞かせてくれた孤児院の院長ではないかと考えたのだ。演奏会で君の様子がおかしかったのは、知り合いを見かけたからだと思っていたのでね」

 ルシエは私の髪を撫でながら語を継いだ。

「ウジェーヌに協力してもらい、教会の招待客リストから港町にある教区の聖職者を割り出すと、孤児院の院長を兼任しているクリスティアン・ヴェルヌという男の名が挙がった。彼と言葉を交わした神学生のひとりがこの男の宿泊先を知っていたので、僕らはすぐに宿へと直行したのだ。その途中に、橋桁から君たちの姿が見えたというわけさ」

「すごい偶然。まるで低俗なロマンス小説みたいだわ」

 相変わらずの私の言葉に、ルシエがニヤリと微笑んだ。

「僕らは運命という名の見えない糸で、しっかりと結ばれているのだよ」

 口に出してしまえば呆れるほどに歯の浮いたセリフなのに、なぜか今、その言葉は私の心に深く響いた。

「フランシス! 早いところこの男を警察に引き渡そう!」

 エミールがやきもきしながら苛立たしげに声を上げる。ルシエがいつまでも私のことを抱きしめているものだから、ひどく不機嫌になっているのだ。彼は首元に巻いていた自らのタイで院長の両腕を欄干に縛り上げようとしていたが、なかなか上手くいかないらしく四苦八苦していた。

 ルシエは肩を竦めるようにしてエミールの元に歩み寄ると、彼の代わりに堕落した神の愛児を縛り上げた。

「ああフランシス、人を縛る君の姿のなんとセクシーなことだろう」

 エミールの変質的な溜め息は聞こえなかったことにして、私は欄干に寄りかかり、茜色を帯びたパリの街に目をやった。黄昏が作り出す金波によって、パリは眩いほどに照らされていた。再びこの美しい夕焼けを眺めることが出来る今この瞬間に、心の底から感謝した。

 見るともなしにセーヌ川の流れに視線を移すと、視界の左下、橋を支える鉄骨部分で何かが光っていることに気がついた。太陽のような琥珀色の輝き。驚くべきことに、それはルシエがくれたペンダントだった。かろうじて川には落ちず、細い鉄骨の上に奇蹟のように留まっていた。

 橋の側面に立つべく欄干を乗り越えると、エミールがすぐさま私に気がつき悲鳴に近い声を上げた。

「アルメル、君ってやつは大馬鹿か? せっかく助けに来てやったというのに、一体何をしているんだ!」

「ペンダントが……」

 そのとき、靴紐が引っかかり、バランスを崩した私の体は弧を描くようにして川へと傾いた。

「アルメル!」

 落ちる、と思った次の瞬間、私の左手はルシエによってつかまれた。凍りつくこともあるこの季節のセーヌ川。落ちれば、まず間違いなく凍え死んでしまうに違いない。

「アルメル、僕の手を両手でつかむんだ!」

 苦痛に歪むルシエの表情。私を引き上げようと手に力が込められたのがわかる。しかし、ペンダントはあとほんの少し手を伸ばせば届きそうな位置にあった。私はルシエの言葉を無視すると、右手を琥珀の石に向かって差し出した。

「アルメル……!」

 石が指先に触れた瞬間に、がくりとルシエの上半身が傾いた。弾みで私は彼の手から離れてしまい、セーヌ川へと真っ逆さまに落ちてゆく――。

 あまりに突然の出来事で声すら出なかった。反射的に目を閉じてしまっていたために、このとき一体自分の身に何が起こったのか、しばらくのあいだ理解出来ずにいた。恐る恐る目を開けると、風にはためくドレスの裾と自分の足が見えた。その下には夕陽に反射して燃えるように赤々としたセーヌ川の流れがあった。

 見上げると、ルシエが身を乗り出して再び私の手をつかんでいた。背後にはルシエを繋ぎとめるようにして抱きかかえるエミールの姿があった。

「ああ、まったく女ってヤツはなんて愚かな生き物なんだ! 宝石に魅せられた女の欲深さにはぞっとするものがあるよ!」

 辟易としながらも、エミールはルシエと一緒になって私の体を橋の上へと引っ張り上げた。

 ルシエの惜しみないキスが額や頬に雨のように注がれる。彼は両腕で私をぎゅっと抱きしめると、安堵の溜め息を漏らした。同時に、私の掌におさまっているペンダントを見つけて驚いた顔をした。

「すっかり川に落ちたものだと思っていたのに……」

 私自身もそう思っていた。しかし、奇跡的にもペンダントの鎖が指先に絡まって、琥珀色の石を掌に留めてくれたのだ。夕陽の反射によって生み出された採光が、きらきらとした輝きを石の周りに描き出す。

 ルシエは無言のままにペンダントを見つめていたが、やがて複雑な表情で視線を反らした。彼はついと立ち上がると、遠く離れた教会の尖塔に顔を向けてこう言った。

「頼むから、もう二度とこんな無茶はしないでくれたまえ」

 別に声を荒げたわけではなかったし、言い方がきつかったわけでもない。でもどこか、声の調子が違っていた。感情を押さえ込むような低い声。このとき、私はようやくルシエが危険を顧みぬ私の行動に対して怒っているのだという事実に気がついた。

「ウジェーヌたちを探してくる。今頃神父の宿泊先に乗り込んでいるに違いない」

 離れゆく後姿が、孤児院から立ち去るパパのシルエットと重なった。私の鼓動は急激に速さを増す。視野が狭まり、細胞の隅々まで奮い立つように感情の波が渦巻いた。手を伸ばしても、届かない――。

「行かないで!」

 自分の口にした言葉に、自分自身で驚いた。私はひどく混乱していた。どうしたらよいかわからずに、うろたえながらも再び同じ言葉を繰り返す。「行かないで……」

 薔薇色の水面を湛えるセーヌ川を背景に、ルシエの黒いシルエットがゆっくりとこちらを向いた。

 言葉が喉に引っかかり、どうしようもなく苦しかった。湧き出でる泉のように、とめどなく胸に込み上げる想い。後から後から溢れ出て、果てることを知らぬ想い。

 今、伝えなければならない言葉がある。自分自身の心の声に従って。

「私、本当はずっと……」

 炭坑船が橋の下を通りゆく。騒音が辺りを包み込み、私の声は途中で掻き消されてしまった。汽笛を鳴らしながら少しずつ遠ざかっていく船が、まるで幼い頃の記憶の隠喩であるかのように感じられる。

 逆光と涙にぼやけた視界のせいで、果たしてルシエがどんな顔で私を見ているのかわからなかった。生暖かい涙の雫が頬をつたって流れ落ちる。孤独の深淵に差し込む一筋の光を求めるのなら、私自身がもう一度、箱庭から抜け出さなければならないのだ。

「あなたのそばにいたいの……」

 消えてしまいそうなほどに、小さな声だった。でも、それは偽りのない、自分自身の心の声。


 そうだ。私はルシエと一緒にいたいのだ。

 ずっと、ずっと彼のそばにいたいのだ。


 ゆっくりとした足取りで、ルシエは私の元に歩み寄る。淡い水色の瞳は私を通して、遠い世界を見ているみたいに揺れ動いていた。まるで、彼自身の何かに想いを馳せるように。

 だがやがて、彼の心もまた、深遠なる記憶の森から戻ってくる。

 ルシエは屈託の無い微笑みを浮かべると、そっと私の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「では、ずっとそばにいてくれたまえ」

 日没の残光にきらめく教会の尖塔や、アパルトマンの屋根が滲む。

 身の凍るような冷たい冬の風に吹き晒されていようとも、私は寒さを感じない。エミールがありったけの罵詈雑言を隣で喚いていようとも、私はそんなことはちっとも気にならないのだ。

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