第八話 優しいキス

「あら、アルメルさん。ご機嫌よう」

 愛すべき隣人、アパルトマンの階下に住むフォルクレ夫人がにこやかに微笑んだ。外出先から戻ってきて、今まさに小間使いが開いた部屋の中に入ろうとしているところだった。私は彼女の肉付きのよいふくよかな手をつかみ取ると、部屋の中に駆け込んで勢いよく扉を閉めた。

「何? 一体何事なの?」

 目を白黒させて驚く夫人に対し、私は鼻先に人差し指を寄せ「しっ!」と言って扉ごしに耳を澄ませた。

 バタバタと階段を駆け下りてくる音がする。足音は扉の前を通り過ぎ、アパルトマンの外に出た。部屋の窓からそっと様子を伺うと、足音の主であるルシエの姿が通りの向こうに掠め見えた。ルシエは大通りまで走って行ったようだったが、しばらくするとアパルトマンに引き返してきた。

 門番のキトリーさんに私の行方を尋ねる声が聞こえてくる。それからすぐに、フォルクレ夫人の部屋の扉がせわしなく数回叩かれた。私は慌てて衝立の影に身を潜め、必死の形相で夫人に首を振った。「(私はここにいないと言って!)」

 その瞬間、夫人の瞳が悪戯気に輝いたように見えたのは、たぶん気のせいではないだろう。彼女は任せなさいと言わんばかりに目配せをした。開かれた扉の先には、普段どおり落ち着いた様子のルシエが立っていた。

「ご機嫌よう、フォルクレ夫人。アルメルを見かけませんでしたか?」

「アルメルさん? さあ、今日はお見かけてしていませんけど。彼女がどうかなさったの?」

 フォルクレ夫人の演技はなかなかのものだった。多少大袈裟な身振りではあるけれど、演じることは得意なようだ。

「いや、たいしたことではないのです。どうも、突然お邪魔して申し訳ありません」

 ルシエの声は至って落ち着いた調子だった。丁寧な別れの挨拶を述べ、彼は階段を駆け上ってアトリエへと戻って行った。扉を閉めたフォルクレ夫人は満足気に微笑むと、鼻歌を歌いながらお茶を淹れる。

「どう? 私の迫真の演技も捨てたものではないでしょう? ルシエさんと喧嘩でもなさったの? 殿方の浮気のひとつやふたつ、寛容にならなくては駄目よ。特にルシエさんほどの素敵な紳士であれば尚更ね」

「私たち、別にそういう関係じゃありませんから」

 私が即座に否定すると、「まあ、照れちゃって」と浮かれた笑い声が返ってきた。

「ルシエさんがこんなに長い間同じご婦人をモデルにしているのはめずらしいことよ。ヒステリックな女たちの恋の修羅場が見られなくなって、ちょっとばかり退屈になってしまったけれど、でもそれはルシエさんにとって良いことだわ」

 暖炉でほんのりと赤く燻る薪に手を当てながら、私は小さく肩を竦めた。

「さあ、温かい紅茶が入りましたよ」

 一足先に休暇で田舎へ帰ってしまった家政婦に代わって、夫人は卵型のテーブルに茶菓を用意し、私のために椅子を引いてくれた。

「ありがとうございます」

 お茶を飲みながら私は奥の部屋にかけられている肖像画にぼんやりと視線を注いだ。かつてルシエが描いたフォルクレ夫人の裸画がひっそりと存在感を放っている。

 絵の中の夫人は一糸纏わぬ姿でベルベットのソファに横たわっていた。肝心な部分は孔雀の羽根によって上手い具合に覆われた官能的な油彩だった。かのマリー・アントワネットを髣髴とさせる薔薇色の頬といい、ほどよく脂肪がついて丸みを帯びた肢体といい、カンヴァスの中で微笑む夫人はそれは大変美しかった。若い頃には世の男たちをさぞかし魅了したことだろう。

「そんなに見つめられたら恥ずかしいわ。アルメルさんの裸とは比べ物にならないでしょうね。若い人の肌は絹のように滑らかですもの」

「ええ? いえ、私は一度も脱いだことはな……」

 私の言葉を遮るようにして、再び扉が叩かれた。またしてもルシエが訪れたのかと思いギクリと体を硬直させたが、現れたのはフォルクレ夫人の息子さんだった。降誕祭(ノエル)を家族で過ごすため、母親を迎えに来たのである。夫人はあらかじめ荷造りしてあった鞄を息子に運ばせると、テーブルの上にアパルトマンの鍵を置いた。

「アルメルさん、鍵は渡しておきますから好きな時間にお帰りなさい」

「いいんですか?」

「あなたのことは信用していますからね。でも、今夜はクリスマス・イブレヴェイヨンなのだから出来るだけ早く帰ってあげなさい。あなたがたの間に何があったかは知りませんけど、ルシエさんがひとりきりで聖なる夜を過ごすだなんて心が痛むわ」

 私は感謝の言葉を述べ、彼女を階段の踊り場まで見送った。

「素敵なクリスマスになりますように」

 夫人はわざと気取ってブルジョワらしく、降誕祭(ノエル)のことを『クリスマス』と英語で言った。別れの抱擁の後、扉が閉められると部屋は一気に静まり返った。

 私は椅子に腰を下ろし、紅茶を啜りながらテーブルに置かれている流行雑誌のページを捲った。しかし、視線は紙面に注がれつつも、頭では別のことを考えていた。


『アルメルさん? さあ、今日はお見かけてしていませんけど。彼女がどうかなさったの?』

『いや、たいしたことではないのです』


 暖炉の炎がぱちんと弾けて我にかえった。

「……そうよね。きっとルシエにとってはたいしたことじゃなかったんだわ」

 私は声に出して独りごちる。そして、カップの中に映った自分の姿を物憂げに見つめた。指先をそっと唇に当て、先程アトリエで起こった出来事を思い出そうと目を閉じた。


 ルシエが私にキスをしたのは、ほんの数分前だった。



 先日エミールがルシエの見舞いにと持ってきたりんごがたくさん残っていたので、私はそれを使ってタルトを作ろうと思い立ち、りんごの芯を除いていた。

「いいね、アルメル。もうちょっと姿勢良く作業してくれたまえ。もう少しだけ顎を引いて」

 いつの間にやら隣の椅子に腰をかけていたルシエが、クロッキーを行っていた。

「ウィリアム・テルの息子のように、頭の上にりんごを乗せてくれるといいのだが」

「馬鹿言わないでよ」

「では、毒りんごを口にした白雪姫のポーズはどうだろう?」

 山のように積み上げられていたりんごをひとつ手に取ると、ルシエはそれを一口かじって隣で死んだふりをした。

「邪魔するなら向こうへ行ってよ」

「おや、随分なことを言うじゃないか」

 わずかながらに顔をしかめ、彼はテーブルから頭をもたげて私を見た。

「こんなにたくさんのりんごを使って、君は一体何を作るつもりだね?」

「りんごのタルトよ。あなた確か好きだったでしょう? このあいだフォルクレ夫人の部屋で作り方の本を読んだの。せっかくりんごが余っていたから、ブッシュ・ド・ノエルの代わりにどうかと思って」

「ああ、アルメル! 君はなんていじらしい人なんだ!」

 突然ルシエが抱きついてきたので、私は危うく持っていたナイフを落としかけた。心臓が飛び出しそうになったが、もちろん彼はそんなことには気がついていやしない。無邪気に歓喜の表情を浮かべ、細長い指で私の髪を撫でながら言う。

「君には特別な贈り物を用意しなければならないな。新しい帽子が欲しいとか、何か要望はあるかい?」

「別に何もいらないわ」

「そう言わずに、欲しい物を言ってごらん」

「何もいらないったら」

「いいや、それじゃ僕の気がすまないよ。今日一日かけて何か考えておきたまえ」

 ルシエは優美な微笑を湛えたままテーブルに片肘をつき、作業する私の姿をじっと眺めた。肘をついていない方の手で、指先に絡め取った私の髪を執拗に弄びながら。

 極力気にしないように努めたが、見られていると思うと心臓が異様なほどにどきどきした。意識せずにはいられないのだ。以前はこんな風じゃなかったのに、一体どうしてしまったのだろう。

「……そんなにじろじろ見ないでよ」

「どんな風に君を見ようと僕の勝手だ」

「見られていると気が散るのよ」

 ルシエは私の言うことなんかお構いなしに黙って視線を注ぎ続けた。嫌がれば嫌がるほど、ますます嬉しそうに唇を歪めるのだから始末に終えない。

「痛っ……」

 手からりんごが滑り落ち、床の上にごとりと転がる。ナイフを持つ手が震え、誤って刃先を掠めてしまったのだ。左手の人差し指にじんわりと赤い血が浮かび上がった。

「大丈夫かい?」

「もう、だから言ったじゃない。あなたのせいよ。あなたがじっと見つめたりするから……」

 ルシエは私の手首をつかみとると、指先に口付けて傷口をそっと舌で舐めた。その瞬間、私の頭の中は真っ白になってしまった。

「なな何を……」

「応急処置さ。ばい菌が入ったら大変だろう?」

 彼は相変わらず平然としていたが、私は自分の顔がみるみるうちに赤くなっていくのがわかった。この場から逃げ出してしまいたいほどに恥ずかしかった。彼の一挙一動に、おかしなまでに心が掻き乱されてしまう。私はまたしてもひとりで混乱しているのだ。ひとりで、意識しているのだ。ルシエは私のことなどこれっぽっちもなんとも思っていやしないのに。

「……ああ、だめだ」

 突然、ルシエが呟いた。腰掛けていた椅子の背中に身をもたせ、悩める紳士のごとく自分の額に手を当てながら。発せられた呟きには、どこかしら葛藤しているような響きがあって――。

「ごめんアルメル。……僕はそろそろ限界らしい」

 何が? と問い返す間もなく、私の唇はルシエのキスによって強引に塞がれた。



 暖炉の炎に手を翳していた私は、そこで一旦回想することを止めた。マントルピースの上に飾られている厳粛な紳士の肖像画が、「けしからん」と言わんばかりにこちらを見ているような気がしたから。帝政時代の軍服に身を包んだ髭の紳士は、フォルクレ夫人の今は亡き旦那様だ。

 結局、私はルシエのことを突き飛ばし、アトリエから逃げ出したのだ。気の毒なことに彼はいとも容易く椅子の向こうに引っ繰り返った。これまで女性にキスを拒まれるようなことがなかったから、明らかに油断していたに違いない。先程ここを尋ねて来た姿を見た限りでは、特に怪我などしていなかったようだけど……。

 なんだか申し訳ないような気持ちになって天井を見上げた。でも、やっぱり私は悪くなんかない。どう考えたって、突然キスをしてきたルシエの方が悪いのだ。

 滑り込まれた熱い舌の感触がありありと思い出される。ルシエとの初めてのキスは、甘酸っぱいりんごの香りに混じって、わずかに自分の血の味がした。恐いくらいに情熱的なキスだった。むさぼるようなその激しさは、思い出したくもない過去の記憶を否応なしに心のうちに蘇らせた。

 ルシエは別に私のことが好きでキスしたわけではないのだ。心の底で彼が望んでいるのは決して私などではない。私はルシエにとって単に肖像画の少女のレプリカであり、きっと都合よく欲望を満たすための存在にすぎないのだ。

 自分で考えておきながら、ひどく気が滅入った。いつからこんなに感傷的な人間になったのだろう。愛だの恋だの浅薄な感情にばかりかまけているなんて、これは明らかにルシエの影響に違いない。

 読みかけの雑誌を再び手に取ったところで、突然、上の階の扉が開閉する音がした。リズミカルに階段を駆け下りる足音が部屋の前を通り過ぎる。窓からそっと様子を伺うと、厚手の外套を羽織ったルシエが襟を立てて通りに出て行くところだった。私を探しに行くのだろうか?

 咄嗟に後を追いかけようと部屋から飛び出し、凍てつく冬の寒さに身震いした。一度戻って目に付いた花柄の膝掛けを引っつかみ、それをショールのように肩に纏うと、私は混沌とした想いを抱えながらもアパルトマンを後にした。



 ルシエはどうやら私のことを探しているわけではなさそうだった。足取りは確かな目的にもとづいて通りを進んでいる。一体どこへ行く気なのだろう? 明かりの灯る店に彼の姿が消えたので私は小走りに駆け寄った。そして、店の看板を目にしてひどく愕然とした。

『パティスリー&ブーランジェリー』

 私がタルトを焼かなくなったから、ルシエはきっとブッシュ・ド・ノエルを買いに来たのだ……!

 華やかな飾り窓には薪をかたどったブッシュ・ド・ノエルをはじめ、マカロンやミル=フイユ、パン・デピスなどが可愛らしく飾られていた。もみの木に隠れて中の様子を伺うと、ルシエは客の若い婦人と何やら楽しそうに話をしているではないか。店の柱に寄りかかり、エレガントな笑顔を浮かべるルシエの姿に、私はなんだか急激に胸が苦しくなってしまった。

 私がいなくなったって、ルシエにとっては大した問題ではないのだ。モデルがいなくなれば、また新しいモデルを捕まえればよいだけのことなのだ。

「……馬鹿みたい」

 本当に馬鹿みたいだった。寒さで手足がかじかんできた。こんなに寒い思いをして、ルシエのあとをつけまわしたりして、私は一体何をしているんだろう。降誕祭(ノエル)のサンボリックな飾り付けが鬱陶しく感じられた。今日、パリでこんなにみじめな気分でいるのは、自分ひとりではないかという気がしてならなかった。

 身を包んでいた花柄の膝掛けを一層強く握り締めると、私は踵を返してフォルクレ夫人の部屋に戻るのだった。



 銀色の冬空が一段と色調を落とした頃、ルシエはアパルトマンに戻ってきた。鼻歌を歌いながら軽快に階段を駆け上って行く足音が耳に届いた。

 部屋の片隅に飾られているクレッシュを見つめながら、私はぼんやりと考えた。もう、アトリエに戻るのはやめよう。降誕祭(ノエル)が終わったら、どこか別の所へ行くのだ。ルシエのことを忘れられる遠い所に。彼が留守のときを見計らって、自分の数少ない荷物をこっそりと引き取りに行こう。

 フォルクレ夫人の出してくれたお菓子の残りを食べてしまうと、私は特にすることがなくなってしまった。真夜中の礼拝になど到底行く気になれないし、もう、寝てしまおう。外出したときに羽織った膝掛けを体にかけ、暖炉前の椅子に蹲る。しかし、目を瞑ってみたものの、まったく眠れそうになかった。

 孤児院にいた頃よりも孤独なクリスマス・イブレヴェイヨンだった。海辺のあの家には、私と同じように親のいない子供たちがいた。私は誰とも口を利かなかったけれど、それでも、年長の子たちは親切に幼い私を気遣い、面倒を見てくれたものだった。

 私はどうしてもっとみんなと話をすることが出来なかったのだろう――?

 自分が傷つくのが恐かったのだ。どうせ失うかもしれないなら、最初から何もなければいいと思っていた。そうやって、私はすべてのことを遠ざけて生きてきたのだ。


『ねえ、アルメル。人間が生きていくうえで、なくてはならないものとはなんだと思う?』


 暗闇に現れたルシエはシルクハットを被り、誰もいない画廊で肖像画と向き合っていた。カンヴァスには私にそっくりな少女が描かれている。真っ直ぐにこちらを捉える琥珀色の瞳はまるで蜂蜜のようだ。

 ほんの一瞬、絵の中の少女が私に笑いかけたような気がした。


 夢うつつ。突然、天井から響いた物音に目を覚ました。何か重たいものが落とされたような音だった。ルシエは一体何をしているのだろう? 気にはなったが、一度眠りかけたせいか目蓋が異常なほどに重く感じられ、そのまま再び目を閉じた。だが、しばらくすると、今度はガラスの割れるような音に混じって鈍い金属音が聞こえてきた。朦朧としていた意識はすっかり覚醒され、私は椅子から跳ね起きた。

 まさか、空き巣――?

 ルシエがいるとも知らずに何者かがアパルトマンに入り込み、乱闘になったのではないだろうか。いや、突然ルシエの具合が悪くなり、倒れた物音という可能性だってある。

 私はいてもたってもいられなくなって、勢いよく部屋から飛び出すと夢中で階段を駆け上がった。

「ルシエ!」

 アトリエの扉を開け、血相を変えて中に飛び入ると、台所の片隅でほんの少し驚いた顔をしてこちらを見上げるルシエの姿があった。床にグラスを落としてしまったのか、屈んで破片を片付けているところだった。

「お帰りアルメル」

 相変わらずの落ち着いた笑顔に、私は上手く状況が飲み込めず困惑した。

「お帰りじゃないわよ。何してるのよ、一体」

「りんごのタルトを作っていたんだ」

 そう言って、ルシエはテーブルの上を指し示した。そこかしこに小麦粉が散乱し、ボウルの中にはぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた生地らしきものが張り付いていた。

「昼間、知り合いのパティシエに作り方を聞きに行ったのだが、僕は今まで料理などしたことがなかったので、作業が思うようにいかなくてね」

 私は気が抜けたように食堂の入り口にへたり込んだ。

「……ブッシュ・ド・ノエル……買わなかったの?」

 ルシエは一瞬きょとんとしたが、すぐに優しい微笑を浮かべた。

「君とりんごのタルトが食べたかったんだ」

 その一言に、私は涙が出そうになってしまった。

「……なによ……私のこと探してもくれなかったくせに……私がアトリエに戻ってくるとでも思っていたの?」

「君がフォルクレ夫人の部屋にいることを知っていたから、後で迎えに行こうと思っていたんだ。衝立の下からドレスの裾が覗いていたよ。夫人がこっそりそちらに向かって目配せしてくれなければ危うく見逃すところだったがね。……でも、迎えに行かずとも、君はこうしてここに戻って来てくれた」

 ルシエはゆっくりと立ち上がると、私の元に歩み寄った。そして、淡いブルーの真摯な視線を注ぎ、細長い指先で私の唇をためらいがちに軽くなぞった。

「ねえアルメル、僕は君に謝らなければならない。本当にごめん。あのとき、僕は君の愛らしさに理性が吹っ飛んでしまった。だめだとわかっていても、歯止めがきかなくなった」

「あなたは別に、私にしたかったわけじゃないのよ」

 彼の言葉を遮るようにして口を挟んだ。

「あなたが見ていたのは、私なんかじゃない。あなたの探している肖像画に描かれた少女に似ているから、だから……」

 ルシエは私の身体を抱きしめた。

「僕が見ていたのは、君だ。肖像画の少女でもないし、ほかの誰でもない。僕は君にキスをしたかったのだ」

 どうしてここで泣く必要があるのだろう? 自分自身がまるで信じられなかった。本当に馬鹿みたいだ。でも、涙の粒はぽろぽろとルシエの肩に零れ落ち、彼の着衣を湿らせた。身体が小刻みに揺れ、彼は私が泣いていることに気がついたようだった。

「僕のキスがそんなに嫌だったのかい?」

 ルシエは私の頬に手で触れて涙の跡を拭い取った。ほんの少し、無防備に傷ついたような表情をしていた。

 私はしゃくり上げながらも必死で首を横に振った。

「嫌じゃ、ない」

 そう。決して嫌ではなかったのだ。驚きはしたけれど。

「ただ、勝手に思い込んでいたの。あなたのキスはもっと優しいものだって……」

 カチリと針を合わせた振り子時計が、クリスマス・イブレヴェイヨンの終わりを告げる。ボーン、ボーンと深い音色が静かな部屋に響き渡った。ルシエの肩越しに見える窓の外には、いつの間にか雪がちらついていた。空から舞い落ちる淡い粉雪が世界を白く染め上げる。

メリー・クリスマスジョワイユ・ノエル、アルメル」

 十二回目が鳴り終わると同時に、ルシエが私に微笑んだ。

「僕から君への贈り物だ」

 そう言うと、ルシエは私にキスをした。

 一度目のキスとはまるで違う。それは、全身の力が抜けてしまいそうなほどに、甘く、柔らかなキスだった。互いの気持ちを確かめ合うような、いたわるような、優しいキス。


 私はルシエに身を委ねると、そのまま静かに目を閉じた。

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