第七話 子犬のワルツ
朝食用のパンやチーズを買ってアパルトマンに帰宅した私は、部屋に足を踏み入れた瞬間に驚きのあまり抱えていた荷物を床の上にぶちまけた。食料品が転がる物音に、階下でフォルクレ夫人が何事かと天井を見上げているのが目に浮かぶ。
今、私の目の前には一匹の小動物がいる。ぱたぱたと動く尻尾。人懐っこそうな愛くるしい大きな瞳。ふわふわとした真っ白な毛並み。――そう。それはまさしく子犬だった。
「お帰りアルメル」
アトリエからルシエが顔を覗かせた。背後にはサティ警部の姿もあった。「ご機嫌ようマドモワゼル。朝早くからお邪魔してすみません」
足元の子犬がワンと一声吠えたので、私はビクリと肩を震わせそのままその場に凍りついた。
「どうしてここに犬がいるのよ?」
「ウジェーヌが連れてきたんだ。可愛いだろう?」
言いながら、ルシエは優しい手つきで子犬を腕に抱き上げた。
可愛い? 確かに、可愛いとは思うのよ。思うのだけれど、でも――。
私は犬が苦手だった。幼い頃、孤児院に迷い込んできた野犬に追われて以来、潜在的に恐いのだ。
今しがた買ってきたばかりのミルクを二人の紳士が子犬に与えている隙に、私は台所へと逃げ込んだ。朝食の準備という名目がある以上、彼らに付き合ってその場にいる必要などないはずだ。ところが、夢中になってミルクを舐めていたはずの子犬が何を血迷ったのか台所に走ってきたものだから、私は内心悲鳴を上げた。
すんでのところでルシエの腕に捕らえられ、その小さな生き物はパタパタと尻尾を動かしながらクウンと甘えたように鼻を鳴らした。潤んだ瞳が執拗にこちらの様子を伺っているようで、カフェ・オ・レを温める手元が緊張で震えてしまう。
「アルメル、ミルクが吹き零れているようだが」
「えっ?」
気がつくと、小さな鍋から沸騰したカフェ・オ・レが溢れていた。私が慌てふためく様を、ルシエとサティ警部はめずらしいものでも見るみたいに眺めている。
そもそもどうしてここに警部がいるのよ? それも犬連れで! こんな所で油を売っていられるなんて、巷はすっかり平和になったということかしら?
「今日は非番なのですよ」
私の攻撃的な視線を受けて何かしら察したのだろう。唐突に警部が切り出した。
「妹が家政婦ともどもアパルトマンを留守にするので、一日だけ子犬の世話を頼まれましてね。ところが、今夜急な用事が出来てしまったものですから、代わりに一晩フランシスにこの子をあずかってはもらえぬものかと相談に来たわけです」
私は買ってきたばかりのパンを思わず掌で握り潰す。
「あずかるって……このアトリエで?」
どうやら警部は私が犬を苦手としていることに気がついたようだった。しかし、何も気づかぬルシエは甘ったるい笑みを浮かべて、嬉しそうに子犬に頬をすり寄せた。「こんなに可愛い子ならいつだって大歓迎だ。ねえ、アルメル、君だってそうだろう?」
サティ警部は含み笑いを浮かべながら、そそくさと帰り支度をし始める。
「朝食の邪魔をしてすみませんでした。それでは、ご面倒をおかけしますが何卒よろしくお願いしますよ、マドモワゼル」
「ちょっと待っ……」
山高帽を頭に乗せ、警部は心底愉快そうにアトリエから立ち去った。
「ねえ、アルメル。どうしてそんな隅の方で丸まっているんだい? 火も入れずに寒くないのかね?」
アトリエの長椅子の上で膝を抱え、存在感を消すように縮こまっていた私を不審に思ったのか、飲みかけのカフェ・オ・レを片手にやって来たルシエが暢気な様子で尋ねてきた。
「私のことは放っておいて。あなたはベッドで寝てなさいよ。まだ病み上がりなんだから」
案の定、ルシエを追って子犬が食堂から走ってきた。私は咄嗟に椅子の上に立ち上がる。その行動を見て、ようやくルシエも気がついたようだった。
「アルメル、君、もしかして犬が嫌いなのかい?」
「嫌いじゃないわ。ただ、昔野犬に追われたことがあって、ほんの少し怖いだけよ」
「怖い? こんなに可愛い子犬なのに?」
ルシエはひょいと子犬を持ち上げると、私の前に突きつけた。
「きゃああああ!」
悲鳴に驚いた子犬はビクリと身体を震わせて食堂へと逃げて行く。
「これはかなりの重症だな」
そう言いながら、ルシエは例のサド気質な微笑を漏らした。
「あなたって、ときどきとんでもなく意地悪だわ!」
「普段冷静な君が取り乱す様は、僕の心を妙にくすぐるのだよ。――しかし、犬が怖いなら最初からそう言ってくれればウジェーヌには断ったのに」
「言おうとしたわ。でも、あの確信犯は気づいていながらわざと子犬を置いてったのよ」
子犬はほんの少し怯えたように扉の影からこちらの様子を覗いていた。だが、ルシエが膝を叩いて呼んでやると、再び笑顔を取り戻して近寄ってきた。
「この子はなかなか利口な犬だ。そういえば、名前を聞いてなかったな」
両手で子犬の頭を撫でながら、ルシエはしばし考え込む。
「そうだな……今日は土曜日だから、おまえの名前はサンディ(※samedi/フランス語で土曜日のこと)にしよう」
「馬鹿ね。別の名前で呼ばれたって振り向きもしないわよ」
しかし、ルシエがサンディと呼びかけると、子犬はまるで彼の言うことを理解したかのように返事をした。ルシエは「なんて可愛い子なのだろう!」と感激の声を上げ、肘掛け椅子に放り投げられていた外套を手に取った。
「サンディと散歩に行って来る」
「だめよ、あなた高熱を出したばかりなのよ? ひとりで外になんて行かせられないわ」
「では、君が散歩に連れて行ってやりたまえ」
私があからさまに困惑の表情を浮かべると、彼はニヤリと微笑んだ。
「冗談さ。僕のことが心配なら、君も一緒に来ればいい」
外に出られたことが嬉しいのか、サンディは喜びに尻尾を振ってルシエの前を歩いていた。時折嬉しさあまって駆け出すので、首輪に繋がれている紐がルシエの手元からピンと張っては緩んでを繰り返し、その度に私はサンディが何かの間違いでこちらの方に向かってきやしまいかと緊張させられた。
しかし、舞い落ちるプラタナスの枯葉を無邪気に追う子犬の姿は、見ている分には確かに申し分なく可愛かった。ぐるぐる駆け回っているうちに紐が体に巻き付いて、すっかり身動きがとれなくなってしまったサンディの間抜けな姿に、私は思わず吹き出してしまう。
「アルメル、君、出会った頃に比べるとなんだか変わったね」
「そうかしら……どの辺が?」
「以前の君は、少なくとも僕のことを心配して散歩についてきたりはしなかった」
「別にあなたのことを心配してついてきたわけじゃないわ」
「ふむ。それでは、なぜ君はここにいるのだね?」
「あなたがまた風邪を引いてしまったら、今度は私にうつるかもしれないじゃない? だから、無茶をしないように監視しているのよ」
私の言葉にルシエは呆れたように肩を竦めた。
「アルメル、自分の気持ちにもっと素直になりたまえ。僕が思うに、君は僕のことが好――」
話の途中で、ルシエは立て続けに三回ほどくしゃみをした。私はそれみたことかと言わんばかりに帰宅を促す。
「ほら、やっぱり。こんな寒空の河岸を散歩なんかしているから具合が悪くなったのよ。体調が悪化しないうちに早いところ帰りましょう」
ルシエは小さく鼻をすすると、じっと私の顔を見つめた。
「先日知り合った日本人の画家が、実に興味深いことを言っていたよ。日本の言い伝えでは三回続けてくしゃみをすると、それは誰かに惚れられている証拠なのだそうだ」
「ふうん、そうなの? じゃあ、きっとサンディはメスなのね」
「――ああ、アルメル。僕はね、もっと別の答えを期待していたのだよ」
「なによ、別の答えって?」
私が問い返すと、ルシエはやれやれといった様子で溜息をつき、ゆっくりと階段から立ち上がった。
「どうやら君は、愛についてまだまだ学ぶべきところがあるようだな」
ちょっとそこいらを散歩するだけだろうと思っていたのに、随分遠くまで足を伸ばしてしまったものだ。せっかくここまで来たのだから――と目的地に定めた凱旋門に向かってカルーゼルの庭園を抜ける途中、ルシエは前方から歩いてきた貴婦人によって呼び止められた。
「フランシス?」
歩みを止めたルシエはほんの一瞬ひどく驚いた表情を浮かべたが、口を開いたときには普段どおりの微笑を携えていた。
「ご機嫌よう、リュリ夫人」
リュリ夫人と呼ばれた婦人が肘まである厚手のボアから片手を差し出すと、ルシエはその手を取って形式的な挨拶のために唇を近づけた。婦人を警戒してサンディが激しく幾度か吠える。
「まあ、犬を飼い始めたの?」
それに対してルシエが答える間もなく、婦人は矢継ぎ早に言葉を続けた。
「いつもはブーローニュの森へ散歩に出掛けるのだけど、今日はなんとなく気分を変えたくなったのよ。でも、まさかこんなところであなたに会えるとは思いもしなかったわ」
年齢はルシエより一回りほど上だろうか。目鼻立ちの整った美しい顔立ちをしている。薔薇の香水の甘い香りに運ばれるようにして、知的そうな菫色の瞳がほんの一瞬ちらりとこちらに向けられた。それに気がついたルシエが婦人に私のことを紹介しようと口を開く。
「ああ、ご紹介が遅れましたが、彼女は僕の――」
「いちいち新しい使用人を紹介して頂かなくても結構よ」
口早に放たれたその言葉を、ルシエは律儀に訂正する。
「彼女は――アルメルは使用人ではありません。僕の専属モデルです」
「モデルですって? フランシス、あなたまだ絵を描いていたの? アカデミー会員のお友達に頼めば今すぐにでも有名にしてあげられるわよ。それに、モデルが必要なら私に頼めばいいじゃない。あなたのためならいつでも脱いで差し上げてよ」
婦人はそう言うと、慎ましやかな笑みを浮かべて淫らな言葉を囁いた。
「あなた、私の体が恋しいんじゃなくて? 昔みたいに可愛がってあげましょうか?」
私はこれ以上その場に居合わせたくなかったので、サンディの紐をルシエの手から奪い取った。
「先に行ってるわよ」
「え、アルメル、君、犬が苦手じゃ……」
ルシエはすぐさま後を追おうとしたが、婦人が彼を引き止めた。
私は点在する貸し椅子の間を縫うようにして広場を横切った。サンディは時折戸惑うようにルシエの方を振り返ったが、風に吹き晒された庭園を私はただの一度も振り返ることなく歩き続けた。
このもやもやとした気持ちは一体なんだろう? 名も知らぬ感情が次から次へと溢れ出て、コーヒーに注がれたミルクのように渦巻いてゆく。……名も知らぬ? いいえ、私はその名を知っている。この不快な感情がどうして生み出されるのかも。
ルーヴル河岸でルシエがくしゃみをしたとき、彼が私にどんな答えを期待していたのかだって本当はわかっていたのだ。悔しいけれど、日本のジンクスはどうやら信憑性があるらしい。
「待ちたまえアルメル!」
追いかけて来た長い足に、あっという間に追い越された。ルシエは私の行く手を阻むようにして目の前に立ち塞がった。
「あの人が君に失礼を言ったことは謝るよ。だからそんなに怒らないでくれたまえ」
彼の吐く息は寒さで白く色づいている。
「別に怒ってなんかいないわ。使用人のことなんか気にしてないで、早く彼女の元に戻ったら?」
顔を背けて行く手を変えると、ルシエは「やっぱり怒ってるじゃないか」と私の腕をつかんで再び向き合わせた。
「離してよ! あなたがかつて誰の恋人であろうと私には関係のないことよ!」
「ああ、アルメル――君はひどい誤解をしているようだ。紹介しそびれたので念のために言っておくが、あの人は僕の母親だよ」
その言葉を聞いて、私はぴたりと動きを止める。
「でも……苗字が違うわ」
「再婚したからね。それで、今はリュリ夫人と呼ばれている」
私が言葉を失すると、ルシエはいつもの調子に舞い戻り悪戯気に微笑んだ。
「君は彼女を僕の昔の恋人だとでも思っていたようだが――嫉妬なんて不要だよ。僕は未来の花嫁である君だけを愛しているのだからね」
その突然の発言に、私の頭は一瞬にして真っ白になってしまった。
「いきなり何を言い出すのよ!?」
すると、ルシエは冗談めかして微笑んだ。
「いつだったか、君が自分で言っていたんじゃないか。『ルシエが私をお嫁にもらってくれればいいじゃない?』って」
混乱のあまり、頭が割れてしまいそうだった。サンディは無邪気な様子で私とルシエを見上げている。振り子のように一定のテンポで揺れるサンディの尻尾を見つめながら、私はどうにか心を落ち着かせようと試しみた。だが、落ち着くどころか手元の力が抜けていたために、サンディを繋いでいた紐をするりと地面に滑り落としてしまった。
そのとき、突然角を走り曲がって来た子供たちに驚いて、サンディは通りに飛び出した。前方から現れた乗り合い馬車とあわや接触しそうになり、嘶く馬に小さな体を強張らせる。
「サンディ……!」
サンディは驚きに突き動かされるようにしてリヴォリ通りの向こう側へ走って逃げた。その姿はあっという間に私たちの視界から消え去った。
私は呆然とした面持ちでサンディの消えた方角を見つめていた。大変なことになってしまったということは充分わかっているはずなのに、事態がうまく飲み込めない。
「サンディは僕が探しに行くから、君はアトリエに戻っていたまえ」
ルシエの声で我に返った。
「どうしよう。私のせいで……」
彼は蒼白であろう私の頬を両手でそっと包み込むと、額に優しいキスを落とした。
「大丈夫だよ、アルメル。僕が必ず見つけて帰る。君は何も心配せずに、アトリエに戻ってるんだ。いいね?」
そう言うと、ルシエは人混みの中に駆けて行った。
アパルトマンに向かって歩み始めながら、私は罪の意識に苛まれていた。私が紐を離したせいだ。私のせいでこんなことになってしまったのだ。犬が苦手なくせに、自分の都合で勢いに任せて連れまわしたりしたから……。
私はサンディをだしにしてあの場から逃げたのだ。貴婦人に対して嫉妬を感じたことは事実だったが、理由はそれだけではなかった。住む世界が違うと感じたのだ。ルシエが上流社会に属している人間なのだということに、改めて気がつかされたのだ――。
大きな荷車ががらがらと音を立てて横を通り過ぎてゆく。そうだ。今はそんなことを考えている場合ではないのだ。サンディはどこにいるのだろう? 寒空の中、小さな体で凍えているに違いない。
私は居ても経ってもいられなくなって、自らもサンディを探すべく通りを引き返した。
ヴァンドーム広場を抜け、マドレーヌ寺院やオペラ座を横目に、カプシーヌ大通りまであらゆる路地を捜し歩いたが、サンディの姿はどこにも見当たらなかった。誰かに連れ去られてしまったのだろうか。それとも、馬車に轢かれてしまった――? 悪い想像が次から次へと頭の中に浮かび上がっては消えてゆく。
「サンディ! どこに行ったの?」
声に出して呼んでみた。サンディの本当の名前はサンディではないのだから、返事をするはずがない。それでも、私はその名を叫びながら白い子犬の姿を探し続けた。
通りがかったカフェからアコーディオンの音色が聴こえてくる。ガス橙に明かりが灯され、カフェの店員は表の看板を夜のメニューに取り替えた。
もう一度河岸の方に戻ってみよう。いや、公園の中にいるのかもしれない――。
モンマルトルに建設中の寺院がこの目で見えなくなるほどに、いつの間にか辺りは暗くなっていた。夜の帳はゆっくりと、しかし確実にパリの街を包み始めている。
凍えるような寒さの中、サンディは今、独りぼっちなのだ……。
どこをどのようにして帰ってきたのかまったく覚えていなかった。アパルトマンに失意の表情で入っていくと、階段を上りかけたところで、アトリエから出てきたルシエに出くわした。
「アルメル! 一体どこに行っていたんだ? 君がいつまで経っても戻って来ないので、今から探しに行こうと思っていたのだ」
そう言って、彼は私の手を取り驚いたように声を上げる。
「まるで氷のように冷え切っているじゃないか。まさか、君はあれからずっとサンディを探し続けていたのかい?」
そのとき、ルシエの背後から、メトロノームのように尻尾を振って子犬が階段を駆け下りてきた。それは間違いなくサンディだった。
「サンディ!」
サンディは元気な姿で私たちの周りを飛び跳ねた。
「よかった……無事だったのね……」
「試しにウジェーヌのアパルトマンに行ってみたのだよ。犬には帰巣本能があるからね。案の定、玄関口でおりこうにして主の帰りを待っていたよ」
私は両手でサンディを抱き上げると、真っ白な毛に顔を埋めるように頬擦りした。涙が自然と溢れてくる。
「ごめんね……サンディ。……ごめんね……」
犬が苦手だったはずの私がサンディを抱きしめていることに驚いたのだろう、ルシエがわずかながらに目を見張った。だが、すぐに柔らかい微笑みを口元に浮かべると、彼は私の肩にそっと腕を回して抱き寄せた。
心の糸が密かに震える。止めようとしても止めることの出来ない、湧き出でる感情。おかしなまでに高潮した想い。そこには同時に陽炎のように揺らめく何かもつきまとっていて……。
ルシエはそれを、間違いなく『恋』と呼ぶに違いない。
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