第六話 幼い風景
「アルメル、どうやら僕はもう長くはないらしい。最後にひとつだけ、夭折するこの憐れな画家の頼みを聞いてはくれまいか?」
ベッドの上で寝返りを打ったルシエが、妙に熱っぽい視線を投げかけてきた。彼はおもむろに私の手を握り締める。
「君の裸が描きたいんだ」
「おあいにくさま、ただの風邪よ。死んだりしないから大丈夫」
私は画家の手を振り払うと、水に浸した布を彼の額に乗せた。
「邪険だね。病人の言うことは素直に聞くものだよ」
「屁理屈言ってないで、少しは眠ったらどう?」
「眠れないんだよ」
そう言って、彼は窓の外に広がる灰色単彩画(グリザイユ)のような景色に視線を向けた。薄曇りのパリは昨晩からずっと雨が降り続いている。それは時折みぞれに変わることもあったが、かろうじて雪にはならずにすんでいた。
先日のアイススケートからの帰り道、馬車が凱旋門の辺りを過ぎた頃には、ルシエはすでに高い熱のためにぐったりとしていた。寒空の中、エミールを探し回って風邪を引いたに違いなかった。責任を感じたエミールはすぐに医者に連れていこうとしたのだが、ルシエは大丈夫だと言い張った。
「やっぱりドゥリヴォー先生に看てもらった方がいいんじゃない?」
「いや、必要ないよ。こんな雨の中をわざわざ来てもらうほど悪くはない。それよりもアルメル、君の方こそ先生に頭を看てもらった方がいいんじゃないか?」
「その言い方、聞きようによってはなんだか随分失礼よ」
ルシエは熱で火照った顔をしながら、悪戯気にふふと笑った。
「馬車で君が寝ていたときにエミールから聞いたよ。まるで空でも飛ぶように湖の氷に頭を打ちつけたそうだね」
「少し瘤になったけど血が出たわけでもないし、特に心配することもないわ」
「どれ、見せてごらん」
ルシエは上半身だけ起き上がると、ベッドのふちに腰をかけて後頭部にそっと手を回した。
「本当だ。なだらかな丘が出来ている」
「ちょっと、触らないでよ。まだ少しだけ痛いんだから」
顔を上げた瞬間に、心臓がドキリと跳ね上がった。ルシエの彫刻みたいに端正な顔があまりにも近くにあったからだ。瞳を覆う睫毛のなんと長いことだろう。思わずじっと見つめると、ルシエもまた、熱で少しばかり潤んだ瞳を私に対して向けてきた。不思議なほどに、真摯なその眼差しから目を反らすことが出来なかった。彼の淡い水色の瞳には、一体どんな風に世界が見えているのだろう。どんな風に、私が映っているのだろう――?
しばらくの間、私たちは微動だにせず互いに見つめ合っていた。ふいに、後頭部に触れていたルシエの手が耳の後ろ辺りから頬へと移し添えられ、私の顔はゆっくりと彼の元へと引き寄せられてゆく。唇に感じる熱い吐息……。
そのとき、突如としてアパルトマンの扉が開かれた。
「やあフランシス、具合はどうだい?」
見舞いに訪れたエミールが部屋に足を踏み入れたときには、私はすでにベッドから立ち上がっていた。エミールは無遠慮にずかずかと歩み寄ってくると、手土産に持ってきたりんごの籠を差し出した。
「やあアルメル。その後、頭の方は大丈夫かい?」
「おかげさまで」
「そりゃあよかった。君って女は貧しいうえに無愛想で、このうえ頭までおかしくなったら救いようが無いからな」
エミールの憎まれ口は相変わらず健在だ。彼はふと気がついたように私の顔を覗き込む。
「君、なんだか顔が赤くないか?」
「気のせいよ」
私はりんごの入った籠を受け取り部屋を出た。
扉をぱたりと閉め、籠を抱えたままのろのろと台所まで歩いてゆく。そして、窓ガラスに映し出された自分の顔を見つめ、つい今しがた私とルシエの間に起こった信じがたい出来事を思い返す。
間違いない。ルシエは確かに私にキスをしようとしたのだ――。
茶菓を盆に載せてルシエの部屋へ運んでいくと、ちょうどエミールが帰るところだった。
「もう帰るの? お茶くらい飲んでいけばいいのに」
エミールに帰らないでほしいと思ったのは、正直これが初めてだったかもしれない。私は明らかにルシエと二人きりになるのを避けようとしていた。
「今日はこれから上の姉とともに慈善事業の集まりに顔を出さねばならないのだ。あの面子での会食にはうんざりするよ」
シルクハットを被り直していたエミールは、ふと思い出したように身を翻す。「ああ、そうだフランシス」
彼は若干言いにくそうに言葉を続けた。
「先日、阿片窟について訊き込みをするために文学サロンへ顔を出したことが、早々と君の母君の耳に入ったらしい。ひどくおかんむりだったよ」
「僕が彼女以外のサロンへ足を運ぶのが気に食わないのさ」
ルシエはエミールが持ってきたいくつもの手紙をベッドの上に広げながら、別段興味もないといった様子で肩を竦めた。エミールはやれやれといった顔つきで扉の方へ歩みを進めてから、後ろ髪を引かれるように振り返った。
「ねえ、フランシス。今年の
エミールの問いかけに、ルシエは呆れたように返事をする。
「僕の家はここなのだよ」
愚問だったとばかりに自嘲の笑みを漏らし、エミールはあきらめた様子でアパルトマンから出て行った。
私は散らかっていた手紙や新聞をよけてベッドの上に盆を乗せた。
「ねえアルメル、君の興味があるようならこの催しに行ってみないか? 教会で行われるパイプオルガンの演奏会だそうだ」
ルシエはなんら変わった素振りを見せることなく話しかけてきた。
「そうね。考えとくわ」
なぜだろう? 口調が自然と硬くなる。普段どおりに振舞えない。
立ち去ろうとした私の腕を、ルシエが咄嗟に捕まえた。手首に感じる彼の体温は驚くほどに熱かった。私は動揺のあまり顔を合わせることすら出来ず、馬鹿みたいにうろたえた。
「さっきのことを怒ってるのかい?」
「別に怒ってなんかいないわ」
「では、目を反らさずに僕を見たまえ」
そう言って、ルシエは私の体を自分の方へと引き寄せた。
「や……離してっ!」
思わず叫び声を上げ、つかまれた手を振り解く。ルシエは驚いた顔をして私のことを見つめた。
自分で自分の顔が赤くなっていくのがわかった。私はひどく気が動転し、そのまま逃げるように部屋から走り去った。
終日薄暗かったのでなんら変わったようには感じられないが、窓の外はすでに日が暮れていた。雨で歪んだ窓ガラスの暗闇に、悩める私の姿がぼんやりと映し出されている。いい加減、ルシエの様子を見に行くべきだろう。
彼が果たしてどんなつもりで私に接していたのかは、考えるまでもないことだ。そうだ。彼は私のことなど見ていない。私を通して肖像画の少女を見ていただけなのだ。それなのに、何をひとりでこんなに意識しているのだろう?
私は蝋燭を点した燭台を手に、画家の寝室へ向かった。橙色の柔らかな光が毛布の作る波紋を静かに照らし出す。どうやらルシエは眠っているようだった。首を斜めに傾けて、十字架上の受難者のごとく目を閉じている。
額の布を変えようと手を伸ばし、触れた指先に燃えるような熱さを感じてぎくりとした。また熱が上がったのではないだろうか?
「アルメル……」
目を覚ましたルシエがだるそうに口を開いた。
「やっぱりドゥリヴォー先生を呼んでくるわ」
医者の元へ走ろうと踵を返しかけたところ、縫い糸がつったような違和感を感じたので後ろを振り返ると、ルシエがドレスの裾をつかんでいた。
「お願いだ、行かないで」
「すぐに戻ってくるわよ? 先生の診療所は近くなんだから」
「ここにいて欲しい。僕のそばに、いてくれたまえ」
ルシエがスカートの裾を握り締めたまま目を閉じてしまったので、私は仕方なく彼に寄り添うようにしてベッド脇に腰を下ろした。頬に張り付いていた湿った髪の毛をそっと指先で除けてやると、小さな汗の粒が重力に従い流れ落ちる。
「夢を見ていたんだ」
熱のせいで普段より少しだけ荒い息遣いの合間に、唐突にルシエが呟いた。
「どんな夢?」
「ずっと昔の……フォーブール・サン=ジェルマンの屋敷で暮らしていた幼い頃の夢だ。今日エミールが『あの人』の話をしたからかな」
「あの人って、あなたのお母様のこと?」
ルシエは黙って頷いた。
そう言えば、幼い頃のルシエが女嫌いだったのは、彼の母親が原因に違いないとエミールが言っていたっけ。
「アルメル、君の母親はどんな人だった?」
「さあ、知らないわ。前にも言ったと思うけど、私を生んですぐに病気で亡くなったそうだから」
「……ごめん。悪いことを聞いたね」
「いいのよ。あなたのお母様はどんな人だったの?」
ルシエは天井の一角を見つめて黙り込んだ。話したくなければ別に話さなくていいわよ、と私は付け加える。
しばしの沈黙の後、彼はかすれた声でぽつりぽつりと話し始めた。
「ときどき、こうして夢を見るんだよ。あの頃の思い出したくもない光景が鮮明に頭の中に蘇る」
そこで一度言葉を切ると、ルシエは深く息を吸い込んでから言った。
「自分の母親がね、いろんな男たちと性交している夢なんだ。幼い頃、僕は布で口を塞がれ、椅子に縛り付けられて、いつも『あの人』の淫らな行為を眺めさせられた。僕の母は、つまり――そういう人だったんだ」
彼がこんな話をし始めたのは、きっと熱で心細くなっているせいだろう。訪れた夜が眠りの波を寄せたり引いたりしている中で、画家は幼い頃の風景を、静かに、その淡い水色の瞳に映し始めてゆく……。
「母の裸は美しかったのかもしれない。それでも、節操なく違う相手と重なるその身体を、僕は大変醜いものだと思っていた。目を背けようとすると、服に隠れた部分を叩かれたり蝋を垂らされたりするので、僕はいつからかベッド脇の椅子に腰をかけ、黙って彼らの絵を描くようになったんだ。
高級娼婦(クルティザンヌ)だった母は、結婚前から父以外の男たちとも数え切れぬほどの関係を結んでいた。ラ・トゥール家は由緒正しい旧家であり、それゆえ父が高級娼婦(クルティザンヌ)と結婚することは自殺行為に等しかった。けれども、母が僕を身篭ったとき、父はそれが自分の子ではないと知りながらも彼女に結婚を申し込み、世間には実の子であると偽って僕のことを生ませた」
「それって……つまり、あなたはラ・トゥール家の血を引いてはいないということ?」
「そう。僕は父の本当の子供ではなかったのだ」
そう言って、ルシエは力なく微笑んだ。
「母の言い分はこうだった。梅毒と診断を受けたラ・トゥール伯爵は、その事実を世間に洩らされぬよう金で医者を買収し、矮小な自尊心のためだけに自分に子供を生ませた――。
彼女の話がどこまで事実であるかは判然としないが、実際のところ、父がどんなつもりで母と結婚し、僕をこの世に迎えてくれたのかはわからなかった。僕は物心がついてから一度だって父に抱かれたことなどなかったし、そもそも父はあまり家にいることがなく、顔を合わせることすら稀だった。
対プロシャ宣戦が布告された頃、屋敷の階段で偶然父とすれ違ったときに、僕はあてつけのつもりで彼にスケッチブックを手渡した。母がさまざまな男たちと交わっている絵を描いたスケッチブックだ。父は黙ってページを捲っていた。僕は自分が悪いことをしただなんてこれっぽっちも思わなかった。自分がこの世に生まれ、こんなにも理不尽な目に合っているのは、父のせいでもあると思っていたからだ。
その日以来、僕は母の『行為』を見なくて済むようになった。どうやら父が僕に関して母に何か言ってくれたらしかった。もしかすると、父は案外いい人なのではないかと思った。ひどく不器用なだけで、優しい心根を持った人なのではないだろうかと――。僕は父をもっと知りたいと思うようになった。だが、それは少しばかり遅すぎたのだ。というよりも、彼の死が早すぎたと言うべきか……」
ルシエはそこで口を閉ざし、しばらく黙って目を閉じていた。深淵に身を沈め、そのまま眠ってしまったのかもしれないと思った頃、話は再び続けられた。
「父が死んでも、母はちっとも悲しんでいる様子を見せなかった。それどころか、パリが包囲されてまもなく――僕らは一時期郊外の別荘に避難中で――母は喪に服すこともなく愛人と夜毎舞踏会に足を運んでいた。僕は暴力的な乳母――この人は貴族を毛嫌いしていて、僕はいつもそのことで酷い仕打ちを受けてきたのだ――に付き添われ、まるで自分自身が死んだかのように喪に伏していた。
やがてコミューンが鎮圧されたが、砲弾の痕が残されたパリの街に等しく、僕の心はぽっかりと穴が開いてしまったようだった。窓辺からよく庭を見下ろしていたけれど、実際のところ何も見てなどいなかった。
そんなある日のことだ。温室を通りかかると、ひとりの男が画架(イーゼル)を畳んでいるところに出くわした。ひどく草臥れた風貌の画家だった。どこでどうやって知り合ったのかは知らないが、父はこの売れない画家に生前自分の肖像画を描かせていたらしい。父のたっての願いで、庭の薔薇が咲いたら背景に描くように言われていたのだと、画家はこちらが聞きもしないことを教えてくれた。
初夏の日差しが眩しいほどに庭の草木を照らしていた。画家は荷物をしまいながら、穏やかな口調で話し続けた。父がこの庭をとても愛していたということを。黄色でも白でもなく、淡いピンク色の薔薇を一番好んでいたのだということを……。たったそれだけの話なのに、今までただの庭だと思っていた風景が、何か特別なもののように感じられた。
画家の数少ない荷物の中には、裏返された一枚のカンヴァスがあった。僕がその絵を見てもよいかと尋ねると、彼は快く頷いた。
――それは、琥珀色の瞳の美しい少女の肖像画だった。
自分の中に新しい何かが沸き起こったかのようだった。その未知なる影響力は、心を大きく揺さぶり、自然と身体を震わせた。世の中にはこんなにも穢れなく、純粋で、真っ直ぐな目をした少女がいるものかと、僕は心底驚いた。この世には母のような女性しかいないと思い込んでいたのだ。
僕は新しい風景を見ることが出来るようになったのに、それを見ようとしていなかった。どんな風景も、同じようにしか映らないと勝手に決めつけていた。僕の世界はとてつもなく狭かったんだ。
このとき、僕は生まれて初めて泣いてしまった。父が死んだときにだって泣いたりなどしなかったのに、不思議なほどに涙が溢れて止まらなかった。画家はそのことに対して何も言わなかった。何か余計なことを言われるよりも、それは僕にとってはかえって都合がよかった。
僕は『この絵を下さい』と画家に頼んだ。『お金はいくらでも払うから、どうか譲って欲しい』と。でも、彼は首を縦には振らなかった。そして、代わりにこう言った。
『運命の出会いを信じれば、君は必ずこの少女に出会えるはずだ――』」
薔薇の香りが満ち溢れる初夏の庭。光の差し込むその庭で、絵を描くひとりの少年の姿が見える。彼は私に気がつくと、にっこりと微笑んだ――。
寝ずに看病するつもりが、いつの間にかうつ伏せで毛布に顔を埋めて眠っていた。
「おはよう」
夢から目覚めると、すでに目を覚ましていたルシエが私のことを見つめていた。具合が良くなったのか、表情がどことなくすっきりとしている。
「君のつきっきりの看病のおかげで、どうやら熱が下がったようだ」
ルシエの笑顔が、夢の中の少年のそれと重なった。
朝の日差しが差し込む窓を大きく開け放つと、ひんやりとした爽やかな空気が部屋の中に流れ込んだ。銀色に光る太陽が向かいの屋根を照らし、昨夜の雨の名残りは眩い光となって、水晶みたいなルシエの淡い水色の瞳にきらきらと反射した。
画家の言葉どおり、ルシエはいつか肖像画の少女と出会えるかもしれない。ラ・トゥール伯爵の愛した庭が彼の中で特別な風景となったように、私たちは新しい風景をこの目に宿すことが出来る。それがどんな風に映るかは、私たち次第なのだ。
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