第五話 氷上の貴公子
「ちょっと待って、ルシエ! お願い、止めて!」
ご機嫌な様子で私の手を引くルシエはにっこりと微笑んだ。
「可愛いね、アルメル。そんなふうに叫ばれると、僕はもっと意地悪をしてしまいたくなる」
私にルシエをとられてご機嫌斜めのエミールは、大層不満気に横で鼻を鳴らす。
「なんだい、アルメル。君はもっとお転婆なのかと思っていたのに、アイススケートのひとつも出来ないのかい?」
嫌味な氷上の貴公子は自分の華麗な滑りを見せびらかすように、風のごとく私たちの前を横切った。
パリ郊外にある森の湖は冬の到来にどこもかしこも見事なまでに凍りつき、巨大なスケートリンクと化していた。ブーローニュの森や市庁舎前の特設リンクは人が多いから嫌だというエミールの要望により、わざわざ馬車に揺られてこのような遠方までやって来たというのに、湖は辺りの村から遊びに訪れた人々でごった返していた。
アイススケートなどというものは生まれてこの方一度もしたことがなかったし、実のところ私は体を動かす遊びがあまり得意ではなかったので、ルシエがスケートに行こうと言い出したときからまったく乗り気ではなかった。
「膝に力が入りすぎているよ、アルメル。もっと楽に滑りたまえ」
ルシエはつかんでいた私の手を少しずつ離そうとした。
「いやっ、ルシエ! お願いだから手を離さないで!」
慌てて叫び声を上げると、彼の淡いブルーの瞳に喜びの色が浮かび上がる。
「君からお願いされたとなると、これは離すに離せないな」
さも楽しげに笑いながら、再びその手を離そうとするルシエは絶対にサディストだ。人の嫌がることをするものではないと普段から説教じみたことを言うくせに、自分は平然とそれを行い微笑を洩らす。
「なんだい、アルメル。何か言いたそうな顔をしているね」
「サド侯爵」
「おや。そんなことを考えていられるなんてなかなか余裕じゃないか。そろそろひとりで立てるかな?」
「離さないでって言ってるでしょう!」
そのとき、私たち二人のそばを子供たちの動かす安楽椅子のソリが物凄い勢いで横切った。バランスを崩し、思わず必死になってルシエの胸に抱きつくと、隣でエミールが悲鳴に近い声を上げる。
「フランシスから離れろよ! ああ、まったく、これだから女ってやつは嫌なんだ! ちょっと可愛い声を出せばすぐに守ってもらえると思っている。言っておくがね、アルメル、君のような子供の色気はフランシスには通用しないよ」
エミールの暴言を真っ向から覆すように、ルシエは恍惚とした表情で力強く私の体を抱きしめた。
「ああ、アルメル。君の愛らしさに僕は今大変胸が熱くなっている。この高鳴る胸の鼓動が君に聞こえはしまいだろうか」
「聞こえないし、聞きたくもないわ」
「僕の熱で湖の氷が溶けてしまわねばよいのだが」
悦びに綻びたルシエの様子に、エミールはますます眉を吊り上げる。
「ねえ、フランシス。こんなどんくさいやつ放っておいて、二人だけで滑らないか? 私たちが組めば誰もが羨む華麗なペアスケートが出来るに違いないよ」
ルシエは陶然たる面持ちで再び私の手を引いた。
「いいかい、アルメル。少しずつでいいんだ。ゆっくり、ゆっくり右足を前に移動させて……」
「フランシス! 私の話を聞いている?」
「ああ、エミール。アルメルはまだ真っ直ぐにしか滑れないんだ。悪いが端に寄ってくれないか」
それを聞いた瞬間に、エミールはさっと顔を赤らめた。彼はわなわなと唇を震わせ、衝動的に私の体を湖の淵に積もる雪の中に突き飛ばした。ルシエは慌てて私を助け起こし、コートについた雪を払いながらエミールを嗜める。「女性に乱暴はよしたまえ」
嫉妬の焔が一瞬にしてエミールの瞳に燃え上がった。
「なんだよ、君はいつからそんなに女が好きになったんだ? 昔は女なんか蔑み嫌っていたくせに!」
叫んだ瞬間、エミールは言ってはいけないことを言ってしまったように、はっとして口を抑えた。ルシエの表情は取り立てて変化したわけでもなかったが、その場の空気が確実に重くなったように感じられた。エミールはすでに後には引けない様子だった。
「君はアルメルが来てからというもの、私のことなんかどうでもよくなってしまったんだ」
「そんなことはない」
「嘘だ! じゃあ、どうして最近私の絵を描いてくれなくなったんだ?」
ルシエは何も答えなかった。怒りに打ち震えるエミールの視線が、目深に下がった毛皮の帽子を直していた私の視線とぶつかった。
「いいかアルメル、フランシスは君のことなどこれっぽっちも見ていない! 肖像画の少女のことしか見ていないんだ! 絵の中の少女だけなんだ!」
ありったけの声で叫ぶと、エミールは人混みの中に滑り込み、私とルシエの前からあっという間に姿を消した。
夢幻的な淡い紫色の空から雪が舞い降り始めた頃、エミールを探しに行っていたルシエが颯爽たる滑りで戻ってきた。
「駄目だ。見つからなかったよ。この辺りには小さな湖がいくつも点在しているから、もしかすると別の場所に行ったのかもしれない」
あれだけ多くの人々がアイススケートを楽しんでいたにもかかわらず、もはや辺りには人っ子ひとり見当たらなかった。閑散として見通しは良くなったが、森の裾野がくねくねとした形状を描いて行く手を阻んでいるので、移動しなければ周囲の様子はわからない。迫り来る夕闇が湖面に鈍色の影を作り、少し目を離している隙にもあっという間に深まっていく。
「アルメル、君ひとりで馬車の待っている場所まで戻れるかい?」
「ええ、大丈夫よ」
「では、すまないが先に戻っていてくれたまえ。もしかすると、エミールはすでに馬車の方へと向かっているのかもしれない。僕は念のためほかを探してから行くよ」
ルシエはエッジについた雪を氷の上で叩き落とすと、再び湖の奥へと姿を消した。
私はスケート靴を脱ぎ、岸辺に沿うようにして森の入り口へ向かって歩き始めた。途中、ふと湖の中洲付近に人影が見えたような気がした。吹きすさぶ雪の動きではっきりとはしなかったが、エミールではないだろうかと思った。氷で足を滑らせないよう細心の注意を払いつつゆっくりと近づいて行くと、それはやはりエミールだった。前方に足を丸投げし、例のごとく不機嫌な様子で湖の上に座り込んでいる。私がやって来たことに気がつくと、彼は慌ててそっぽを向いた。
「一体こんなところで何をしているのよ。ルシエはずっとあなたのことを探してるのよ?」
エミールは視線を反らしたまま一向に口を利こうとしなかった。どうやら拗ねているらしい。
「無視する気? まるで子供ね。別に私はあなたのことなんかどうだっていいんだから構やしないわ。先に馬車まで戻ってるわよ」
冷たく言い放ち踵を返したのだが、二、三歩みを進めてから、なんだか妙な感じがして振り返った。不自然に放り出されたエミールの足。
「あなた、もしかして怪我してるの?」
私の問いかけに氷上の貴公子は頬を染めて吐き捨てる。
「君には関係ないだろう? 私はフランシスが見つけてくれるのを待っているんだ。さっさと馬車に戻ればいいさ」
「ルシエは別の湖まであなたを探しに行ってるのよ。見つかる前に夜になるわ。雪も降ってきたし、ほら、行くわよ」
私は背後から自分の肩にエミールの片腕を回した。
「なんのつもりだ!」
「一緒に馬車まで戻るのよ」
「女の手助けなど必要ない。それに、君のようなチビに私を支えられるはずがないだろう!」
「やってみなきゃわからないじゃない。痛めたのは右足だけなんでしょう? とりあえず体を起こすことさえ出来れば、重心をかけずに滑って帰れるわね。ほら、早くしなさいよ。凍え死にたいの?」
エミールは悔しさに一層顔を赤らめたが、渋々と私の指示に従った。
「行くわよ、せーのっ……!」
力を込めた次の瞬間、私の足は勢いよく前方に滑り出し、あっと思ったときにはすでに体が宙に浮いていた。視界いっぱいにどんよりとした空が広がり、そして、消えた。
「アルメル! アルメル! 大丈夫かい?」
気がつくと、真っ青な顔をしたエミールが私のことを覗き込んでいた。どうやらわずかなあいだ気を失っていたらしい。後頭部にずきずきとした鈍い痛みを感じる。毛皮の帽子がクッション代わりになったおかげで、大事には至らなかったようだ。
「だから無理だと言ったのだ。ああ、まったく君のような役立たずではなく、フランシスが助けに来てくれればよかったのに!」
私が無事であるとわかった途端、エミールは普段の高飛車な口調を取り戻した。そのあまりにも可愛くない態度に私は少々腹が立ち、ほんの少しだけからかってやろうといった悪戯心が芽生えてしまった。
「あなた、誰?」
ちょっとした冗談のつもりだったのに、意外にもエミールはそれを予想以上に真面目に受け取った。
「ききき、君、ま、まさか記憶喪失になってしまったのか?」
目を引ん剥いて狼狽するエミールの姿は、こんなときに不謹慎だけど、ちょっとだけ面白かった。
「私、どうしてここにいるの?」
「なんてことだ! アルメル、しっかりしてくれたまえ!」
「あなた誰?」
エミールは水面に顔を覗かせた魚みたいに口をパクパクさせてから、落ち着きを取り戻すべく深呼吸を繰り返し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「私は、エミールだ。ねえアルメル、本当に憶えていないのかい?」
私は吹き出したいのを我慢しながら頷いた。「ここはどこ? 私、どうしてここにいるの?」
記憶喪失者の無垢な問いかけに、エミールは肩を落として俯いた。柔らかな金髪から覗く碧眼にはいつもの高慢な輝きは見られず、代わりに困惑の色がありありと浮かんでいる。
「君は怪我をした私を助けに来てくれて……氷に足を滑らせ、頭を打ったんだ。私が悪かったんだ! フランシスを怒らせてしまったかと思って、それで、怖くなって逃げたのだ」
「フランシスって誰?」
「どうやら本当に憶えていないみたいだな。フランシスは画家だよ。君の絵を描いている。アルメル、君は彼のモデルなんだ。ああ、一体どうしたらいいんだ。君がこんなことになってしまって、私はもはや永久にフランシスから口を利いてもらえなくなるに違いない!」
頭を抱え込むエミールがなんだか憐れに思えてきた。雪もだいぶ降ってきたし、そろそろこんな芝居は止めにしよう、そう思い始めたとき、ふいにエミールが呟いた。
「フランシスは君と出会ってから変わった」
すでに立ち上がっていた私は、静かに彼のことを見下ろした。「どう変わったの?」
「言葉では表現出来ないが、少し、何かが変わったような気がするのだ。ずっと昔、琥珀色の瞳の少女の肖像画が彼のことを変えたように――」
「あの頃、フランシスの心は病んでいた。とても深く、暗い闇を抱えていたんだ」
白く色づいた息が冷たい空気に溶けてゆく。しばしの沈黙の後、独り言のようにエミールが話し始めた。
「幼い頃のフランシスは、流行りの女装をさせられていたこともあって、まるで人形のようだった。私は彼のことを疑いもなく女だと思い込んでいたので、初めて顔を合わせたときからずっと無視し続けていた。祖母や母、そして姉たちの俗物ぶりを見て育った私は、当時からすでに女という生き物が好きではなかったのだ」
再びその場に腰を落ち着け、私は話に聞き入った。
「フランシスはラ・トゥール家の乳母に連れられ、我が家の近所にあるモンソー公園をよく訪れた――いや、正確にはモンソーに母親の入り浸っている別邸があって、そこへ連れられたついでに立ち寄っていたのだが。彼はいつも片隅のベンチに腰をかけ、ほかの子供たちと口を利くこともなく、暗い顔つきでただひたすら絵を描いていた。
ある日、幼い私が姉たちから隠れて茂みで詩を暗唱していたとき、ふいにフランシスが話しかけてきた。『君は女が嫌いなの?』私は答えた。『そうだ。だから気安く話しかけたりしないでくれ』すると、彼はニヤリと微笑んで、『僕も女が嫌いなんだ』と目の前で突然ドレスを脱ぎ始めた。シュミーズのフリルが顕になって、あのときは子供ながらに慌てたものだ。フランシスは正真正銘の男だった。その事実を知ってからというもの、子供たる順応性の速さも手伝って、私たちは急速に仲良くなっていった」
そこでエミールはいったん口を閉ざし、ふいに我に返ったように肩を竦めた。
「記憶喪失の人間を前にして、なんだってこんな話を始めてしまったのだろう」
「どうだっていいじゃない。続きが気になるわ」
話の続きを急かすと、彼は空中の一点をぼんやりと見つめながら再び言葉を紡ぎ始めた。
「フランシスの心には救いがたい闇があった。神を信じておらず、愛を嘲るような言葉をよく口にした。そして、女性を侮蔑的に嫌悪しており、内に驚くほどの怒りと憎しみを秘めていた」
「怒りと憎しみ……」
「今のフランシスからは想像もつかないだろう?」
エミールは唇の端をかすかに上げ、「原因は母親さ」と剥き出しの敵意を虚空へ向けた。
「フランシスの家は――ラ・トゥール家は、十一世紀から続く由緒ある名門の一族だ。だが、ラ・トゥール伯爵――つまりフランシスの父親が、高級娼婦(クルティザンヌ)と身分違いの結婚をしたために、上流社交界からは白い目で見られていた。伯爵の妹である私の祖母も、半社交界(ドゥミ・モンド)の女がどんなに恥知らずで劣っているかを常々認めようとしていたものだ。
ラ・トゥール伯爵夫人はエレガントで社交人然としており、会話の端々には貴族顔負けの才気(エスプリ)すら感じさせるような人だった。夫人は天性の美貌に恵まれ、享楽的で気まぐれで、そして――ある種の空虚さを持ち合わせていた。それは彼女の生い立ちやこれまでの人生に深く根付いているものだろう。自身の心の満たされない部分を埋めるかのように、夫人は幼いフランシスにひどい仕打ちを与えていたのだ」
果たして、それが一体どんな仕打ちだったのかについてまでは、エミールは言及しなかった。短い沈黙の後、ややあってから彼は話を続けた。
「ラ・トゥール伯爵が亡くなってからというもの、フランシスの女嫌いは日増しに酷くなっていった。それはほとんど人間不信のようであり、やがて、彼は部屋に閉じこもったきり出てこなくなってしまった。時を同じくして、この頃、パリの街も歪みきっていた。革命の炎が昼夜を問わず燃え上がり、混乱と無秩序の果てに多くの命が犠牲になった。
それからまもなくコミューンが崩壊して幾月か後、フランシスが忽然と姿を消した。このとき、私は生まれて初めて大切なものを失う怖さを知った。幼い私にとって、自分のことを理解してくれる彼の存在はいつしかかけがえのないものとなっていたのだ――。
私は屋敷中を探し回った。フランシスは庭の石段に腰をかけ、スケッチブックに黙々と薔薇の絵を描いていた。呆然と立ちつくす私の姿を見つけると、彼はそれまでに見せたことのない幸せそうな笑みを浮かべた。『エミール、僕は琥珀色の瞳の美しい少女に出会ったんだ。カンヴァスの中でその女(ひと)はとても優しく微笑んでいた。ねえ、エミール信じられるかい? 彼女が僕を変えたんだ!』
瞳には希望の色がありありと映し出されていた。一体何があったというのだろう? 私はひどく衝撃を受けた。女が、それもたった一枚の肖像画が、荒廃していたフランシスの心ををこんなにも容易く変えるなんて――。自分の無力さをまざまざと思い知らされ、激しい嫉妬に打ちひしがれた。
それでも、後にフランシスがその肖像画をもう一度見たいと言うようになったとき、私は心の中で誓ったのだ。必ず肖像画を探し出そうと。現在(いま)のフランシスがあるのは『彼女』のおかげだから……」
話を終えたエミールの睫毛には、うっすらと雪が積もっていた。彼は顔を上げて私を見つめた。
「そしてアルメル、君はその肖像画の少女と同じ琥珀色の瞳を持っているんだ」
普段の皮肉めいた口調ではなく、憐れみとささやかな嫉妬が綯い交ぜになったような響きだった。
「……あなた、本当にルシエのことが好きなのね」
私の言葉に、エミールは彼の子供時代を想像させるような笑顔を浮かべた。
「もちろんだ。死ぬほど大切に思っている」
「ルシエもあなたのことを大切に思っているわ」
「そう、ルシエも大切に――って、アルメル? 君、記憶喪失じゃなかったのか!?」
「騙していたことに対して悪気はなかったと言いたいところだけど、確実にあったわ。ごめんなさい」
私が正直に謝ると、驚きと怒りのあまり頭が真っ白になったのか、エミールは開いていた大口をぱかぱかさせた。
「君ってやつは最低だ! 人間の屑だ! ああ、だから女ってやつは嫌なんだ!」
真っ赤な顔で捲くし立てつつも、叫びながらその表情が安堵によって緩んでいく過程が見て取れた。「本当に、まったく、女ってやつは……」
「私が無事でよかったわね。これでルシエに口を利いてもらえなくなる心配もなくなったわけだし」
「うるさい!」
辺りはいつの間にやらすっかり暗くなっていた。雪の勢いも増し、視界は一層見えづらく、もはや私たちは動こうにも手足がかじかんで思うように動けなかった。
「このまま君と二人きりで凍え死ぬなんて嫌だ」
「それはこっちのセリフよ」
エミールはむっとした表情で何か言い返そうと口を開いたが、そのまま言葉はくしゃみへと変わった。私はルシエに買ってもらった毛皮の帽子を、ぎこちない手つきでエミールの頭に被せた。
「貸してあげる」
ちょっと大きめの帽子だったので、彼の頭にぴったりだった。
「アルメル、君、大丈夫か? 唇が異常なほどに青白いぞ」
「あなただって、まるで死人のように青ざめた顔をしているわよ」
エミールはほんの少しだけ躊躇いながら、腕を伸ばして自分のコートの中に私を招き入れた。その行為が善意からくるものとわかっていながらも、私の内には反射的に男性に対する恐怖心が一瞬にして沸き起こった。相手はエミールだ。何を不安になることがあるのだろう――? 自分自身にそう言い聞かせても、過呼吸によって吐き出される白い息が小刻みに短くなってゆく。
「大丈夫。必ず助かる」
あまりにも不安げだったからだろうか。震える私を抱きしめてエミールが言った。緩やかに伝わってくる彼の温もりは、まるで暖炉の前で火にあたっているときのような満ち足りた感覚を与えてくれた。すると不思議なことに、呼び起こされたはずの恐怖心は次第にどこかに消え去った。
そうだ。私はいつも心のどこかで忘れようとしているのだ。人の温もりがこうも温かいものなのだということを――。
エミールの背後、吹きすさぶ雪景色の中にぼんやりとした明かりが見えた。セーヌ川に映し出された街灯のような揺ら揺らとした光は、だんだんと私たちの元に近づいて来る。それは、角灯を掲げた馭者とルシエだった。私が馬車に戻っていなかったので、きっと道の途中に私たちがいるであろうと予測したのだろう。
「フランシス!」
エミールは我を忘れたように勢いよく立ち上がった。だが、痛めた右足で体を支えきれず、そのまま氷の上に倒れ込んだ。駆けつけたルシエが手を伸ばしてエミールを引っ張り起こす。「大丈夫かい?」
「ああ、フランシス! フランシス! きっと助けに来てくれると思っていた。すべて私が悪かったのだ! 赦してくれ!」
エミールは滑稽なほどに必死な様子でルシエの胸に抱きついた。
それは、虚無の中に見出される光のようなもの――。幼い頃のルシエを救ったのは、確かに肖像画の少女だったのかもしれない。だが、もちろんそれだけではなかったはずだ。
ルシエは宝物に触れるような手つきでそっと氷上の貴公子を抱きしめ返した。
「さあ、うちに帰ろう。僕の大切な『二人のモデル』が風邪をひいたら大変だ」
その言葉に、エミールが泣きそうなほど顔を歪めた事実は、わざわざ口にするまでもないことだ。
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