第四話 シュゾンとマノン

 フランシス・ルシエは、時折私と彼が邂逅を果たした娼館へと足を運んで娼婦の裸を描いていた。一糸纏わぬ女性の姿は崇高な芸術であると彼は言う。内出でる真の美とやらは、その肢体にも自然と現れてくるものなのだとか。私には理解不能の境地だが、ひとつだけ断言出来ることがある。ルシエの才能が遺憾なく発揮されているのは、風景画でも静物画でもなく、人物画――それも裸婦画に間違いないということだ。

「また娼婦を描きに行くの?」

 連日の外出に冷めた視線を傾けると、画材道具を鞄に詰め込んでいたルシエが悪戯気に顔を上げた。

「なんだいアルメル、君もしかして妬いてるのかい?」

「馬鹿なこと言わないで」

 わざわざ話しかけたりしなければよかったとすぐに自分の軽率さを後悔した。ルシエはさも楽しげに私の肩に手を添えると、「ねえ、アルメル」と言葉を継いだ。

「君が裸を描かせてくれれば、僕がわざわざアトリエの外に足を運ぶ理由もないのだがね」

「お断りだわ」

 にべもない返答など初めからわかっていたように、ルシエはわざとらしく肩をすぼめた。彼が私に対してヌードモデルを本当に望んでいるのかどうか、それはほとんど怪しいところだった。なぜなら、彼のために自ら望んで裸になってくれる女性などいくらだっているからだ。

「娼館なんだから、当然絵を描くだけってわけでもないんでしょうね」

 私の辛辣な言葉に対して、ルシエはニヤリとした微笑を浮かべた。

「無粋なことを訊くね。……まあ、ご想像におまかせするよ」

 そう言うと、彼は外套を羽織り、スケッチブックを片手にアトリエを後にした。


 画家を尋ねて客人が現れたのは、それからまもなくのことだった。木苺色(フランボワーズ)の派手なドレスを纏った高級娼婦(ココット)のようなそのご婦人は、麦藁色の巻き髪に羽飾りのついた小さな縁なし帽トークをかぶっていた。ルシエが留守であることを告げると、彼女はコルサージュにさした花をいじりながら、「どうしたらいいかしら。また出直すのは大変だし」と明らかに部屋に入れて欲しそうな様子で呟いた。

「しばらく戻らないと思いますけど、よろしかったら中でお待ちになられます?」

「まあ、ご親切にありがとう」

 私は婦人を部屋の中に招き入れた。

「素敵なお部屋ね」

 こちらが案内する間もなく、彼女は無邪気な様子でアトリエに足を運び、そわそわと辺りを見回した。私が台所でお茶を淹れて戻ってくると、画材道具を観察していた婦人は慌てたように自己紹介をし始めた。

「あたし、シュゾン・ソワイエと申します。以前ルシエさんのモデルをしていた妹のマノンが、こちらのアパルトマンの窓ガラスを割ってしまったそうで、今日は妹に代わってそのお詫びに参りましたの」

 シュゾンは天使と雄鶏が描かれた百フラン金貨を私の手に強引に握らせた。

「こんな大金、受け取れないわ」

「いいのよ、どうかお受け取りになって。あたし、これでも女優なの。ヴァリエテ座の主役なのよ――とは言っても、まだ上演されていないけど。でも、お金持ちの恋人(パトロン)がいるからお金には困っていないのよ」

 そう言って、彼女は探るような視線で私の顔を覗き込んできた。

「あなたはルシエさんの恋人なのかしら?」

「まさか。私は単なる住み込みのモデルです。念のために言っておくと、別に彼とは深い仲でもなんでもありません」

 ルシエが専属のモデルを雇っているという事実に、シュゾンは心底驚いているようだった。彼女自身も少し前まで妹と一緒に娼婦をしており、そこでルシエの絵のモデルを勤めたことがあったそうだが、雇われモデルのほとんどは彼に深く溺れてしまうので、同じ女性が長く仕事を続けさせてもらえることはめずらしいのだという。

 シュゾンは羨望の眼差しとも表現出来ぬ、なんとも複雑な表情でしばらく私を見つめていたが、やがて少しばかり気恥ずかしそうに言葉を続けた。

「妹のマノンがいい例ね。あの子はルシエさんに心酔しすぎて、モデルを続けることを断られてしまったの。彼の心を振り向かせようとアトリエに押しかけたり、癇癪を起こして窓ガラスを割ったり色々ご迷惑をかけたようなので、今日は是非ともルシエさんにお会いして妹の無礼を謝りたかったのよ。あたしがお詫びに伺うことを知ったらマノンはとても怒るだろうから、あの子には恋人と会う約束をしていると言って出かけてきたの。でも、これから本当に彼と会う約束をしているので、今日はもう出なければ。ルシエさんにお会いするのは無理そうね」

「あなたが来たことを伝えておくわ」

「ありがとう。ええと……お名前を聞いてなかったわね」

「アルメルよ」

「アルメルさん、ご親切にありがとう」

 彼女は輝くような笑顔を浮かべ、手袋越しに私の手をぎゅっと握りしめた。

 妹思いで礼節を重んじるシュゾンに対して、私はなかなか良い印象を抱いた。彼女にパトロンが現れたのも、なんとなくわかるような気がする。女性である私でさえそうなのだから、男性ならば間違いなく彼女に親切にしてあげたいと思うはずだ。

 結局、その日ルシエが帰ってきたのは普段よりも遅い時刻だった。私は客人が来たことを報告するため、ぴかぴかの金貨を前に食堂の椅子に座って彼の帰宅を待っていた。

「おやアルメル、まだ眠っていなかったのかい? 僕の帰りを首を長くして待っているとは、なんて可愛い人なのだろう」

 首を長くした覚えはないけど、いちいち反論するのも面倒だったので、その件については受け流すことにした。

「今日シュゾンさんがあなたにお詫びに来たのよ。妹の割った窓ガラスの代金を――いえ、それ以上の大金を置いていったわ」

「シュゾン? ――ああ、マノンの姉のことか。彼女が来たって? それはまた偶然だな。僕は今日、彼女の妹を描くために娼館へ赴いたんだ。妹のマノンは僕にご執心でね。でも、どうやら最近ほかに好きな男が出来たらしい。それで、記念として最後にもう一度だけモデルをやらせてほしいというので約束の時間に会いに行ったのだが、今晩彼女は体調を崩したそうで会えなかったんだ」

 その晩のことだ。そろそろ眠りにつこうと寝支度を始めた真夜中近くに、アパルトマンの扉が叩かれた。こんな遅くに一体誰だろうと訝しく思いながら扉を開けると、立っていたのはルシエの友人かつパリ警視庁の警部であるウジェーヌ・サティ氏だった。

「やあ。お久しぶりですマドモワゼル。フランシスは今どちらに?」

「アトリエでカンヴァスを作っていると思いますけど」

「こんな時間にですか?」

 サティ警部はエルランジェ刑事と数人の制服警官たちを引き連れて、ルシエのいるアトリエへとずかずか入って行った。

「ちょいと失礼するよ、フランシス」

 鉛筆で画布に線を引いていたルシエは、顔を上げてサティ警部に微笑んだ。

「やあ、ウジェーヌ。今夜は一体何事だい?」

 アトリエに踏み込むや否や、画材道具が散らばっている棚やテーブルを素早く調べたエルランジェ刑事が、サティ警部に小声でニ、三何かを囁いた。警部はそれに対してやる気のない調子で「ふむ」と答えると、無精髭を摩りながらルシエの元に歩み寄った。彼の口から発せられた言葉は予想もし得ないものだった。

「フランシス、君をマノン・ソワイエ殺害の容疑で逮捕する!」


 突如警察に連行されたルシエは、その晩アトリエには戻って来なかった。


 翌日、シテ島にあるパリ警視庁へ向かおうとアパルトマンの階段を下りて行くと、階下の住人フォルクレ夫人と遭遇した。いや、遭遇したと言うよりはむしろ待ち伏せされていたとでも言うべきか。夫人は私の姿を発見するや否や、「おはよう、アルメルさん!」と慌しく手を振って、注意深く辺りを見回しながら忍び足で近づいて来た。

「昨夜は大変だったわね! 殺人容疑だなんて本当に驚いてしまったわ。ええ、大丈夫。心配なさらないで。このことは私たちだけの秘密ですものね。ルシエさんのことはもちろん誰にも話していませんとも」

 どうやら門番のキトリー婆さんから昨夜の出来事を嗅ぎつけたらしい。日々の倦怠を吹き飛ばしてくれる刺激的な事件の到来に、夫人の表情は実に生き生きと輝いていた。

「これからルシエさんのところへ行かれるの? ああ、残念だわ! 私はこれからドゥリヴォー先生の奥様をお伺いする約束なのよ。それさえなかったらあなたとご一緒出来たのに!」

「まあ、それは本当に残念ですこと!」

 とかなんとか言いながらも、私は心の内で街医者の奥方であるドゥリヴォー夫人に厚く感謝した。



 オルフェーヴル河岸三十六番地。まさかこのような形でパリ警視庁に足を踏み入れることになるとは思いもしなかった。孤児だとバレて身柄を送還されるのではないかという思いもあったが、怖気づくより私を気丈にさせる理由があった。

「ルシエは無実だわ」

 開口一番、私は挨拶もなしにサティ警部に申し立てた。

 群がる制服警官たちが面白そうに部屋の中を覗き込んでいる。口笛を吹いてこちらの気を引こうと色めきたった者もいたりして、番犬のように傲然屹立としていたエルランジェ刑事が「持ち場に戻れ!」と一喝して扉を閉める有様だった。

「まあ、ひとまずそこにお掛けになられてはいかがです?」

 サティ警部は向かいの肘掛け椅子を勧めたが、私はそれを無視して言葉を続けた。

「あなた、ルシエの友達でしょう? 彼が女性を殺めるような人間じゃないってことくらい、知っているはずだわ」

 警部はやれやれと言わんばかりに肩を竦め、煙草を口にくわえ火をつけようとした。だが、すぐに私がいることを思い出し一連の動作をやめると、異端審問官が問いただすような眼差しを受けてこう答えた。

「そう言われましてもね、証拠があるのだから仕方がない」

「証拠?」

 眉根を寄せて問い返すと、すかさずエルランジェ刑事が横から口を挟んだ。

「マノン・ソワイエ――源氏名ミミ殺害の凶器とされるペインティングナイフが、ルシエさんのものであると確認されたのです」

「どうしてルシエのものだと言い切れるの? ペインティングナイフなんて、どこの画家だって皆同じようなものをいくつか持ってるじゃない」

「そのペインティングナイフは万国博覧会の年に記念としてたった一揃いだけ作られた特別なものなのです。画材屋の証言によると、ナイフセットを競り落としたのはルシエさんで、昨晩我々がアトリエを確認したところ、凶器とされるペインティングナイフだけが木箱から消えていたのです」

 世界にたったひとつしかないペインティングナイフですって? ルシエの馬鹿はどうしてそんな特別な画材道具なんか持ってるのよ。これだから金持ちって嫌なのよね。

「だったら、誰かがアトリエからナイフを盗んで、故意にルシエに罪を着せたとしか考えられないわ」

 サティ警部が注意深い視線を傾けてきた。

「なにやら心当たりがおありのような口ぶりだ」

「あるわ。シュゾン・ソワイエ。殺されたマノン・ソワイエの姉よ。昨日、ルシエの留守中に彼女はアトリエを訪ねてきたの。きっと私がお茶を淹れている隙にナイフを盗んだに違いないわ」

「その話ならフランシスから聞きました。しかし、シュゾン・ソワイエにはフランシスのアトリエを出てからのアリバイがある。昨夜は彼女のパトロン――名前は表沙汰に出来ませんが、彼の家で一晩中一緒だった。家政婦や下男など複数の目撃者もいるとのことです。彼女に殺人を犯すような時間はなかったわけです」

「ルシエだって昨晩は私とずっと一緒にいたわよ?」

「フランシスの足取りはすでに確認しました。しかし、残念ながら彼には娼館からアトリエへ戻るまでに空白の時間があるのです」

 警部はおもむろに椅子から立ち上がると、私に背を向け窓辺の方へと歩いて行った。「そして、もうひとつ残念なことに、この事件の捜査はここで打ち切りです。フランシスが殺人犯。それで終しまい」

 私はサティ警部の後ろ姿を凝視した。

「どういうこと?」

「シュゾン・ソワイエのパトロンは、某警視と旧知の仲である某公爵の甥なのです。加えて申し上げますと、かなりの金持ちであり国家元首と親交も持っている。つまり、大変権力がおありだということです」

「つまりシュゾンのパトロンが圧力をかけて、ルシエに濡れ衣を着せたわけね?」

 部屋にはただならぬ沈黙が訪れた。二人の刑事は何も言葉を返さなかった。

「それで、あなたたちはそのまま上司の命令に従って、ルシエを罪人にしてしまうの?」

 サティ警部は私の言葉など聞こえていないかのように、黙って向かいの景色を眺め続けている。

「あなた、それでもルシエの友人なの?」

 警部は指先で弄んでいた煙草を鼻先に近づけた。い草の匂いで心を落ち着かせているようだった。

「私は中流の出なので、彼らのような格式ある者たちが大嫌いなのです。注釈しておきますと、『彼ら』という部分には、当然ながらフランシスも含まれています。私とフランシスは確かに学友だが、実のところ決して仲が良かったわけではないのですよ。どちらかといえば、私はずっと彼のことが嫌いだった。そして、彼の方もそれはきっと同じでしょう。なんの苦労もしたことのないフランシスにとって、今回のことはいい薬になるんじゃないかな」

 最後の方の言葉は、本意で言っているのではないということがすぐにわかった。警部の顔に苦痛の色がありありと浮かんでいたからだ。権威ある者に公然と立ち向かうことは、大変な勇気が必要とされる。誰だって路頭に迷いたくはない。

「ルシエに会わせて」

 サティ警部は静かに首を横に振った。「申し訳ないがそれは出来ません。規則ですから」

 私は小さな溜め息をついてから、きわめてゆっくりとした口調で言う。

「そう。じゃあ、誰かさんの部下が阿片に惑溺していたとバラしてしまっても構わないと言うことね?」

 脅し文句に二人の刑事は目を丸くして動きを止めた。だが、やがてサティ警部は心底おかしそうに大きな笑い声を上げ、参りましたと言わんばかりに両の掌をかざした。

「マドモワゼル、あなたはなかなか私好みの女性のようだ。エルランジェ、彼女を留置場まで案内して差し上げたまえ」



 薄暗い廊下を歩いて独房まで向かう途中、前を行くエルランジェ刑事が先日の失態を詫びてきた。「警部にはいつも迷惑ばかりかけている」と自らの不甲斐なさを省みるその言葉からは、彼のサティ警部への信頼と尊敬のニュアンスが伺えた。

「警部は口ではあんなことを言っていますが、あれは決して本心ではありません。今回の騒ぎがまだ表沙汰になっていないのは警部の根回しなんです。あの人は、本当はルシエさんを助けたいんだ。しかし、事情を知ったルシエさんから余計な手出しをしないよう止められているのです。警部は彼との約束を守っているんです」

 ルシエらしいと言えばそれまでだが、自分が殺人犯の汚名を着せられているこの状況下で友達の首を守るだなんて、立派にもほどがある。

 案内された独房を覗き込むと、ルシエは暗がりの隅に片膝を立てて座り、想像で何かをスケッチしているようだった。

「やあ、アルメル。来てくれたのかい?」

 なんとなく予想はしていたが、彼のマイペースぶりは相変わらず健在だった。

「あまりにも暇だったので、ウジェーヌに頼んでスケッチブックと鉛筆だけは残してもらったのだよ。しかし、どうやら僕は想像で絵を描くことが苦手なようだ。やはりモデルは必要不可欠だと改めて気づかされたよ。つまりはね、アルメル、僕には君が必要だということさ」

 私を心配させまいとして、わざと明るくつとめているのだろう。しかし、彼が何気なく口にした言葉は、なぜだか胸にちくりとした痛みをもたらした。

「モデルが必要なだけで、別に私でなくてもいいわけね」

 そんなことを言うつもりは全然なかったのに、気づいたときには口から言葉がついて出ていた。

「おや、意地悪なことを言う。僕はそういう意味で言ったわけでは……」

 気の焦りから、私は彼の言葉を遮った。

「悠長に絵なんか描いてる場合じゃないでしょう?」

「ほかにやることがないのだから仕方がない。どういうわけか、僕はマノン・ソワイエ殺害の容疑者になってしまったのだからね」

「あなたは無実だわ」

 私の言葉に、ルシエは乾いた笑いを滲ませる。

「聞いただろう? 僕には空白の時間があるのだよ。娼館を出てから夜のサン・マルタン運河でひとり絵を描いていた。目撃者はいるかもしれないが、きっと覚えてもいないだろう」

 彼はその時に描いたと思われるスケッチを開いて見せた。

「マノンは僕のペインティングナイフで胸をひと突きされて、娼館の寝室で死んでいたそうだ。彼女が寝起きしていた部屋は姉妹の相部屋だった。どうやら、シュゾンは僕を殺人犯に仕立て上げようとしているらしい」

 ルシエはぱらぱらとスケッチブックを捲り、ソワイエ姉妹が描かれた絵を溜め息混じりに見つめた。四角い紙面の中で、麦藁色の髪をした姉妹が競い合うようにしてポーズをとっている。端麗な肢体に目を奪われたが、それよりも私が驚いたのは二人の容姿があまりにも似すぎているという事実だった。

「シュゾンとマノンは双子だったの?」

「おや、知らなかったのかい? 二人の外見はとても似ていて、なかなか区別がつかないほどさ。まあ、僕にはすぐにわかるがね」

 そう言うと、ルシエは悪戯気な微笑を浮かべ、絵の中の女性の胸に手を添えた。

「妹の方には右胸に小さなほくろがあったんだ」

 確かによく見てみると、横たわっている女性の胸には、言われなければ見逃してしまいそうなほど小さな黒い点が存在していた。古紙に紛れ込んだ屑だとばかり思っていたが、ルシエによってわざわざ忠実に描かれたほくろであった。

「まあ、二人は性格が真逆だったから、こんな物に頼らずともすぐに見分けはつくだろう。姉の方は冷静で妹の方はその反対。お世辞にもあまり仲の良い姉妹ではなかったな」

 さらにスケッチブックを捲るルシエの手は、ある場所でぴたりと止まった。そこに描かれていたのは、妹のマノンが(胸にほくろがあったのでたぶんマノンであろう)幸福そうに微笑んでいる姿だった。ルシエは当時を回想するかのように、目を細めてその絵に視線を注いでいた。

「マノンはアトリエに出張(モデル)に来てくれることもあった。源氏名のミミではなく、僕には本名で呼んで欲しいと希望した。彼女は僕に惚れていたんだ。そのことに気がついたときから、僕は彼女を遠ざけた。しかし、もう手遅れだった。恋する気持ちは誰にも止めることが出来ない。彼女は自分の愛を受け止めて欲しいと切に願っていた」

「彼女を愛してあげることは出来なかったの?」

 私の問いに、ルシエは皮肉な笑みを傾けた。

「それが出来れば、どんなによかったことだろう。マノンは情熱に溢れた魅力的な女性だった。僕は彼女を愛そうとしていたこともあったのだよ。しかし、僕の心は遠い昔に別の女性の虜になっていて……」

 彼の言う『別の女性』とは、例の肖像画に描かれた琥珀色の瞳の少女に違いなかった。

「マノンは決してそれを見逃さなかったんだ。自分を見てほしいがゆえに、次第にヒステリックになっていった。アトリエに乗り込んできて窓を割って、割れたガラスの破片を向けてきたこともあった。僕が自分のものにならないのなら、僕を殺して自分も死ぬと」

 だが、マノンはそれを思い留まり、その日をきっかけにルシエの元に姿を現さなくなったらしい。そうして一昨日、娼館を訪れたルシエはマノンの伝言を女将(マダム)から受け取った。ほかに好きな人が出来たので、最後にもう一度だけ自分のことを描いてほしいということだった。その言葉を聞いて、ルシエは大変嬉しく思ったという。マノンには幸せな恋愛をしてほしいと心から願っていたからだ。

「こんな結果になってしまって、本当に、残念で仕方がない」

 そう呟いてから、ルシエはスケッチブックを閉じ、静かに目を瞑った。

 耳鳴りがするほどの静寂の中で、彼の思いは痛いほどに伝わってきた。閉じられた目蓋の向こうに広がる暗闇に、私が光をもたらすことが出来るなら――。そんな風に思えるほどに。

「シュゾンにはパトロンがついたそうだけど、まだ娼館に身を置いているのかしら?」

「さあ、どうだろう」

 言いながら、ルシエははっとしたように目を開いた。

「どうしてそんなことを聞くんだい? アルメル、君、まさかシュゾンに会いにいくつもりじゃないだろうね? 頼むから危険なことはよしてくれ。マノンを殺したのは彼女かもしれないんだ。君に何かあったら僕は……」

「あなたを必ずここから出してあげる」

 ルシエは黙って私の顔を見つめた。

 そのとき、廊下の端で待っていたエルランジェ刑事が時間を見計らって迎えに来た。私はそれに従って素直に独房から身を引いた。

「待ちたまえ、アルメル」

 廊下を曲がる直前に、格子の向こうからルシエが声をかけてきた。私の足音が立ち止まったのを確認してから、彼は真意を探るべく言葉を投げた。

「ひょっとしたら、僕は嘘をついているのかもしれない。マノンを殺したのは僕かもしれないのだよ? それなのに、どうして君は僕を信じてくれるんだい?」

 廊下に沈黙が訪れる。私は普段どおりのごく自然な口調で言葉を返す。

「あなたがいなくなってしまったら、私は仕事も住む所もなくすのよ? 信じるしかないじゃない?」

 私らしい返答に、ルシエはニヤリと微笑んだ……に違いない。



 昼間の娼館はなんとなく居心地が悪そうに、太陽の作り出す影にひっそりと身を潜めるようにして佇んでいた。私の顔を覚えていた副女将が、一度女将マダムにお伺いを立てに戻ってから中に案内してくれた。女将マダムは自室のビロードの長椅子に横たわり気だるそうに水煙管を吹かしていたが、私の姿に気がつくと何もかも承知しているといった様子で出迎えた。

「久しぶりねえ。元気そうで何よりだわ。ナナなら――いえ、シュゾンならもうここにはいないわよ。いいパトロンがついて借金を返済してもらったから、わざわざこんな所で体を売ることもなくなったってわけ。これからは夢だった女優業に邁進することでしょうよ」

 その発言に、私は少しばかり驚いた。

「どうして私がシュゾンを訪ねてきたと思ったの?」

「ルシエさんはマノン殺しの濡れ衣をかけられているんでしょう? ついさっきも警察が来て、ソワイエ姉妹について根掘り葉掘り訊かれたわ。まったくうるさい刑事だった。あの無精髭は少し整えた方がいいわね」

 無精髭の刑事。サティ警部に違いない。警察は捜査を打ち切りにしたが、彼は単独で行動し、水面下でルシエの容疑を晴らそうとしているのだ。

 女将マダムによれば、シュゾンはヴァリエテ座の初公演に向けて演目の練習をしているだろうとのことだった。彼女は親切にも劇場のある通りの名を教えてくれた。

「私はルシエさんを信用してますからね。あの人は誰かを殺したり出来るような人じゃないわ。特に女性はね」

 そう言って、女主人は悪戯気に片目を瞑った。



 ヴァリエテ座はモンマルトル大通りに建っていた。入り口の円柱に『高級娼婦』という演目のポスターが貼り付けられている。主役の娼婦役にはシュゾンの源氏名であるナナと書かれてあった。

 裏口から中に入り、楽屋らしき部屋を覗いてみたが誰の姿も見当たらない。客のいない桟敷を抜ける途中、緞帳に仕切られた舞台の袖から何やら話し声が聞こえてきた。

「言いがかりはよしてちょうだい。なぜあたしが実の妹を殺さなければならないの? そりゃあ、あたしたち姉妹は仲が良かったわけではないけれど、だからって殺したりなんかしないわ」

 日本風ローブの衣装を身に纏ったシュゾンは、苛立たしさを隠しきれない様子でサティ警部を睨みつけた。警部は前方の柱に寄りかかるように腕を伸ばし、シュゾンの行く手を塞いでいた。

「あなたがマノンを殺していないのなら、あなたのパトロンが殺ったのではありませんか? 金を積まれて黙っているようにとでも言われましたか?」

 警部の言葉に、シュゾンは真っ赤な顔で怒りを顕にした。

「ふざけないで! あたしはお金なんかに興味はないわ! 一緒にしないでよ!」

「一緒に? 誰とです?」

 シュゾンははっとしたように口を噤み、慌てた素振りで話をそらした。

「とにかく、あたしの恋人は一切関係ないわ。さっきから何度も言っているとおり、妹を殺したのはフランシス・ルシエよ!」

 サティ警部は相手の頑ななまでの態度にやれやれと深い溜め息をつく。「どうやら個人的怨恨がおありのようだ」そう呟いてから、彼は被っていた山高帽を脱ぐと彼女の目を真っ直ぐに見つめ直した。

「今日、私は警察の人間として来ているわけではないのです。フランシスの友人として来ています。……お願いだ。自首して下さい」

「だから、あたしは殺してないって言ってるじゃない!」

 反論するシュゾンに向かって、私は背後から声をかけた。「本当にそうかしら?」

 すると、彼女は驚いたように振り返った。

「アルメルさん……」

「ご機嫌よう、『マノン・ソワイエ』さん」

 私の言葉にシュゾン――いいえ、マノンはギクリとしたように肩を震わせた。

「何を言っているの? マノンは死んだのよ?」

「いいえ、生きてるわ。死んだのは姉の方よ。あなたは双子の姉であるシュゾンを殺して、彼女になりきっているんだもの」

「馬鹿言わないでよ! 私がマノンだという証拠でもあるの?」

 私は彼女のローブに手をかけると、デコルテを乳房の見えるぎりぎりのところまで露にした。サティ警部が囃し立てるように小さな口笛を吹く。

「何するのよ!」

 マノンは露になった胸元を慌てて両手で隠した。

「ルシエが言ってたわ。妹のマノンの右胸には小さなほくろがあるんだって。今あなたの胸を確認したら間違いなくその印があったわ」

 マノンの顔色はみるみるうちに蒼白になってゆく。私は追い討ちをかけるように言葉を続けた。

「ルシエのアパルトマンにやって来たとき、あなたは迷うことなくアトリエに入って行ったわよね? あのとき、ちょっとだけ気になったのよ。ルシエに濡れ衣を着せるための凶器を探すことで頭がいっぱいだったんでしょうけれど、普通人様のお宅を訪問した際は案内を待つものだわ。初めてならば尚更よ。それで、あなたたち姉妹が双子だって聞いてピンときたの。姉のシュゾンは一度もアトリエに来たことがなかったはずだから、あれはよく足を運んでいた妹の方だったんじゃないかって」

 舞台袖に沈黙が訪れる。誰かが裏で演奏している音の外れたピアノが滑稽な音色を奏でていたが、このときまでまったく気がつかなかった。やがて、諧謔的な楽曲に合わせ、マノンの肩がククッと小さく揺れ動いた。彼女はたかが外れたような、狂気じみた笑い声を上げた。

「そうよ! よくわかったわねえ。ご推察の通り、あたしがマノンよ。姉を殺したのはこのあたし」

 そう言うと、彼女はサティ警部に感情の無い視線を傾けた。

「お望みどおり、全部話してあげるわよ。ただし、この場でね。警察に自供はしないわ。フランシスには『私を殺した』罪を償ってもらうんだから」

 マノンは舞台の中央まで歩いて行くと、二階の桟敷を見つめながら話を始めた。

「姉さんはいつだってあたしのことを馬鹿にしてたのよ。ひとりの男に熱を上げる私を見て、愚かだと罵ったわ。『淫売のくせに純愛なんか求めるな』それが彼女の口癖だった。そもそも姉さんとは愛の価値観が違ったの。だから衝突するのはしょっちゅうだった。でも、あの日だけは特別で――。絶対に許せない、殺してやろうと心に決めたの……」

 自然とこめられる自らの憎悪に、マノンはきゅっと下唇を噛み締めた。切子ガラスのシャンデリアの真下に立って、彼女はひどく滑稽な演技をして見せる。

「『あんたが熱を上げてるルシエさん、住み込みの専属モデルを雇ったそうじゃない。ほら、あの子よ。一度娼館にやって来た小汚い子を覚えてる? あのルシエさんが他人と距離を縮めるなんて、きっと本気で愛してしまったのね。だから言ったでしょう。所詮男なんて移り気で、ただの金づるなのよ。あたしはあんたみたいに捨てられたりはしない。売れっ子女優になってこっちから捨ててやるんだから。愚かなマノン、あんたって昔から本当に頭の悪い子よね。ルシエさんに人形のように弄ばれて、笑っちゃうほど惨めだわ!』」

 自らを蔑み傲然たる態度で笑う彼女の演技は、下手な芝居なんかよりもずっと真に迫っていた。そこにいたのはマノンではなく、本当にシュゾンだったのかもしれないと錯覚するほどだった。

「『あんたとの貧しい暮らしももうすぐ終わりよ。あたしに熱を上げてる男が、シャンゼリゼの豪邸を買ってくれるんですって。ヴァリエテ座の支配人にも紹介するって約束してくれたのよ。あたしが出て行ったら、あんたとは顔を合わせることもないでしょうね。広告塔であんたが一方的にあたしを見かけることはあるかもしれないけれど!』」

 狂ったような高笑いが場内に響き渡り、平土間席を掃除していた老人が仕事を止めて顔を上げた。演出家らしき男もパイプを燻らせ、向こう側の舞台袖に姿を現した。しかし、マノンの演技に拍手を送る者は誰ひとりとしていなかった。

「パトロンがついていい気になってたのよ。悔しかった。フランシスのことも許せなかった。あたしのことは愛せなかったくせに……! 彼、ずっと忘れられない女性がいるって言ってたのよ。それなのに、舌の音も乾かないうちにほかの女と暮らし始めただなんて信じられなかった。姉さんを殺して、フランシスに罪を擦り付けてやろうと思った。一生『あたしを殺した罪』に苛まれて生きていけばいい。そう思ったのよ……っ!」

 憤りからひなげしのように頬を染めたマノンは、自らの恐ろしい言葉に打ちひしがれひどく震えていた。人はこんなにも狂おしいほどに誰かを愛し、憎むことが出来るものなのか。

「あなたはルシエを憎んでいるけれど、今でもずっと彼のことを愛しているんだわ」

 私の言葉にマノンの碧い瞳が見開かれる。

「あんな男、もう愛してなんかいないわ!」

「じゃあ、どうしてルシエを殺さなかったの?」

「だから、言ったでしょう? フランシスには一生――」

「一生自分のことを忘れさせないようにしたのよ。愛する人の記憶の中に、いつまでも在り続けるように。たとえそれがどんな形であっても、あなたは決してルシエに自分のことを忘れて欲しくなかったんじゃない?」

 マノンは激しい表情で私のことを睨みつけた。でも、同時にその瞳からは、涙の雫が零れ落ちた。彼女はそのことに気がつくと、必死で涙を止めようとした。しかし、どんなに手の甲で拭っても、湧き出でる泉のようにそれはとめどなく彼女の頬を流れ続けた。

「お願い。ルシエのことを愛してるなら、自首してあげて」

 マノンは言葉を返さなかった。いや、正確に言うならば、返せなかったのだ。彼女は激しい嗚咽に喉を詰まらせ、次第に大声を上げて床に泣き崩れた。その泣き声はピアノの音色を止めるだけに留まらず、やがて楽屋に控えていた人々の関心を引くこととなった。

 私はハンカチを差し出そうと彼女の元に歩み寄ったが、サティ警部のしなやかな腕がそれを制した。

「紳士の役目を奪うものではありません」

 そう言って、彼は内ポケットから真っ白なハンカチを取り出した。

 警部に支えられながら再び舞台に立ち上がったマノンは、私を真っ直ぐに見つめて言った。

「あなたが羨ましかった。フランシスにそばにいることを許されているあなたが……彼に愛されているあなたのことが、羨ましくて仕方なかった……」

 妬むことを飛び越えた羨望の眼差しに、私は苦々しく微笑んだ。

「前にも言ったかもしれないけど、私とルシエの間には特別な感情なんてないのよ。ルシエは私のことなんかなんとも思ってないんだから」

「いいえ、違うわ。彼のそばにいられるということは、それだけですでに特別な存在なのよ」

 マノンは薄く微笑むと、サティ警部に伴われてゆっくりと舞台から降りた。その後姿を見送りながら、私はぼんやりと考えた。確かに、彼女の言うとおりなのかもしれない。私はルシエにとって特別な存在なのだ。でも、それは決して愛されているからではない。ルシエが愛しているのは幼い頃に見た肖像画の少女なのだ。私と同じ琥珀色の瞳を持ち、たった一度きりの出会いで彼の心を虜にした少女。だから、私は彼のそばにいることが出来るのだ。彼が私を見ていないから。彼が私を通して少女のことを想っているから――。



 夕暮れの空の下、無事に釈放されたルシエは警視庁前の広場に差し込む茜色の日差しに目を細めて微笑んだ。

「やあ、アルメル。君のおかげで釈放されたよ。どうやら君は、これで仕事も住む所も無事に確保出来たようだ」

 正面までルシエを送りに来ていたサティ警部が、冗談めかして私に言う。

「マドモワゼル、もしもまたフランシスに何かあったら、そのときは私の所へいらっしゃい。あなたのようなお嬢さんならいつでも大歓迎ですよ」

 きっとルシエのことだから、小説家アルフォンス・シャレットのときのように、喜んで私をサティ警部に差し出すだろうと思った。「なんだい、ウジェーヌ。君、もしかしてアルメルが気に入ったのかい? では、今からでも二人きりで暮らしたまえ」……なんて具合に。

 しかし、意外にも想像は覆された。ルシエは私の肩を抱き寄せると、至極当然のような口ぶりで言ったのだ。

「残念だがね、アルメルは渡せないよ」

 サティ警部はルシエのセリフに一瞬、おや、という顔をしてから、興味深げにニヤリとした。ルシエはそれに気がついたのか、すぐに言葉を付け足した。「彼女は僕の大事なモデルなのだ」

 そして、わざと話をそらすかのように、私に話題を振ってきた。

「そう言えば、ウジェーヌから聞いたよ。どうしてマノンが自首する気になったのか。アルメル、なんでも君が彼女の『愛』を分析して、何やら熱く語ったそうじゃないか」

「べ、別に何も語ってないわ」

 サティ警部め。余計なことを。

 私がジロリと警部のことを睨みつけると、彼は別れの挨拶を述べてそそくさと建物の中に姿を消した。

「僕も是非一度聞いてみたいものだ。愛について論じる君のことさら美しいであろうその神秘の声色を!」

「だから、何も論じてなんかいないったら!」

 ムキになって否定する私を面白がるように、ルシエは淡い斜陽を受けて眩しげに微笑んだ。

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