第三話 或る小説家の苦悩

「ああ、アルメル! 今日は我が人生において最良の日だよ!」

 扉を開けた途端、外出先から戻ったルシエに唐突に抱きしめられた。頬にはほんのりと赤い色味がさしており、髪からは葉巻とわずかな外の匂いがする。彼は私を両腕で抱き上げると、実に怪しい足取りでアトリエの中をくるくると回り始めた。

「あなた相当酔ってるわね?」

 ルシエは奇妙な笑顔で否定したが、自分の家の戸口を幾度も叩いて帰宅するような相手に向かって、私も何をわかりきったことをわざわざ尋ねたりしたのだろう。

「聞いてくれ、アルメル。今日僕は街で誰に会ったと思う?」

 アトリエのテーブルの上に私を下ろすと、ルシエはこちらが答える間もなく自ら即答した。

「信じられるかい? あのアルフォンス・シャレットに会ったんだよ」

 アルフォンス・シャレット――。ロマンティックで情熱的な恋愛小説が人気を博し、さまざまな新聞や雑誌に寄稿する成り上がりの文筆家だ。貴族の血を引くルシエがこのような大衆の刊行物に心酔する様は、私からしてみればいささか滑稽に感じられる。

「あなたってお堅い芸術にしか興味のない知識人を演じることもあれば、通俗的なものをお好みになることもあるのね」

 ルシエは自分が揶揄されたことに気がついていないのか、はたまたそんなことは一向にお構いなしなのか、変わらぬ笑顔で話を続けた。

「今日、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場で、愚かな男が若い娘に執拗なまでに付きまとっていたのだよ。僕はカフェの一角から踊りを楽しむ人々の姿をスケッチしていたのだが、見るに見兼ねてね、ついに席を立ち上がろうとしたそのときだ。音楽に乗って現れたひとりの紳士が、トルコ石のついた杖を男の鼻先に突きつけてこう言ったんだ」

 ルシエは近くに立てかけてあった蝙蝠傘を杖に見立て、画架イーゼルに向かって迫真の演技を披露した。

「女心をつかみたければ、物言わぬ宝石になりたまえ! ――客は苦い顔をして立ち去ったよ。僕は紳士の機知にえらく感心したもので、その場で酒をご馳走した。互いにすっかり意気投合してね、仕事は何をしているのかと問うと、物書きだと言うのだよ。どんな小説を読むのかという話になって、僕がアルフォンス・シャレットの『恋愛至上主義』を好んでいると告げると、彼は照れたような笑いを滲ませ『それは光栄だ。私がアルフォンス・シャレットです』と言ったんだ。こう言ってはなんだが、僕はてっきり著者は割と年配の男に違いないと思い込んでいた。それが驚いたことに意外に若く、僕とそう変わらないような年頃の男だったのだよ」

「それは確かに意外だわ。てっきり頭の禿げ上がった中年男の恋愛についての戯言だとばかり思っていたのに」

 今のルシエには私の辛辣な言葉もまるで聞こえていなかった。

「彼は僕のスケッチブックを見て、このような素晴らしい絵を描く画家に、自分の肖像を描いてもらえたら幸運だと言うじゃないか。僕はすぐさま是非とも無償で描かせて欲しいと自ら申し出たよ。それで、明日の午後、彼の自宅を訪ねることになったというわけさ」

 ルシエは満面の笑顔で懐から取り出したアルフォンス・シャレットの名刺をちらつかせた。

「好きな作家の肖像画を描けるだなんて、幸運なのは僕の方だよ! ああ、アルメル、君にこの喜びが想像出来るかい?」

 彼は近くに転がっていたシルクハットを私の頭に被せると、無理矢理手を引き今度はアトリエの中央で即席舞踏会を開催した。

「うまいじゃないか、アルメル。アン・ドゥ・トロワ♪ アン・ドゥ・トロワ♪ そうそう、その調子」

 目深に下がったシルクハットに視界を妨げられ、足がもつれて今にも転んでしまいそうだった。ルシエは快活な笑い声を上げながら、私を伴ったまま長椅子に仰向けに倒れ転んだ。小説から抜粋したお気に入りの文言が少しずつ小さくなり、安らかな寝息へと変わっていく。顔を上げて覗き見ると、無防備な寝顔で完全に眠りの世界へと旅立っていた。

「こんなところで寝たら風邪を引くわよ?」

 忠告にも気持ち良さそうな笑みを浮かべて返すばかり。まるで子供だ。私は軽く溜め息をつくと、画家の寝室へ掛け布団を取りに行くのだった。



 翌日、訪問用の絹のドレスを身に纏い、羽飾りのついた帽子を被って手袋をはめた私は、手にしたアルフォンス・シャレットの名刺に視線を落としつつ、これ見よがしに呟いた。

「やっぱりやめようかしら」

 すると、頭まで布団を被りベッドにうずくまっていたルシエが慌てて飛び起きてきた。

「ああ、アルメル、そんな意地悪なことを言わないでくれたまえ!」

 自分の声が相当頭に響いたのか、ルシエはこめかみを押さえてわずかながらに悲鳴をもらした。ひどい二日酔いのせいで、気の毒なほどに青ざめた顔をしている。とても出かけられるような状態ではない彼の代わりに、私はこれからアルフォンス・シャレットの元へと向かわなければならなかった。

「見てのとおり、今日の僕は死んでいる。頭が割れそうに痛いんだ。一生のお願いだよ、アルメル。アルフォンスに直に会って丁重にお詫びをしてきてくれないか。この好機を逃すわけにはいかないんだ」

 私は晴雨兼用傘を開いて肩の上でくるくると回しながら、わざとらしく深い溜め息をつく。

「仕方ないわね。ピュイ・ダムールで手を打ってあげてもいいわ」

 ルシエはほんの一瞬微笑んだものの、すぐに頭痛で顔をしかめた。

愛の泉ピュイ・ダムールを選ぶとは良い選択だね。帰りにストレールでカスタードクリームたっぷりのやつを好きなだけ買ってくるといい」

 そして、彼は私のために玄関の扉を開けながら、ふと思い出したように言う。

「アルフォンスはなかなかシックな男だったよ。きっと君も気に入るだろう」

「さあ、どうかしら」

 私は適当に返事をして、カリッと表面がキャラメリゼされた小さな焼き菓子のことだけを考えながらアトリエを後にした。



 アルフォンス・シャレットの邸宅はパッシーの閑静な住宅街にあった。門が開いていたので勝手に入って呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてから扉が開き、口髭をたくわえた紳士が濃いブルーの双眸でぼんやりと私を見下ろした。

「どなたかな?」

「画家のフランシス・ルシエの遣いで来ました。アルメルと申します」

 挨拶を述べると、朦朧としていた男の表情が瞬時に覚醒されていくのが目に見えた。

「ああ、もうお約束の時間でしたか。これは失礼」

 召使いが出て来たのかと思いきや、どうやらこの男がアルフォンス・シャレット本人のようだった。

「ルシエさんはいかがなされたのです?」

「ひどく頭が痛むそうで……」

 シャレット氏は思い当たることでもあるかのように苦笑した。

「あれだけ火酒を飲めば具合も悪くなるでしょう。昨晩は実に楽しい夜でした。まあ、立ち話もなんですから、お入り下さい」

 通されたサロンにはもうもうとした煙が立ち込めていた。我慢出来ずに咳き込むと、アルフォンス・シャレットは慌てたように窓を開け放ち清浄な空気を確保してくれた。外国産の葉巻が入った箱を片付けながら、彼は気さくな笑みを傾ける。

「職業柄、行き詰ることが多いものでね。この手のものは大変気分転換になるのですよ」

 部屋には東方オリエントの陶器や布など、贅を尽くしたであろうと思われる美術品や調度品が並んでいた。売れっ子小説家とはいえ、このような水準の生活をしているだなんて驚きだ。ちなみに今私が腰掛けている椅子はルイ十四世時代の物だという。

 凝った室内装飾もさることながら、なるほど、確かにルシエの言っていたとおり、アルフォンス・シャレットはなかなかエレガントな紳士であった。シナ風の洒落た部屋着を纏う姿や優雅な立ち居振る舞いは、まるで生まれながらの貴族のようだ。

「ルシエからあなたの話を伺いました。なんでも、機知に富んだ言葉でご婦人を助けたのだとか」

「いや、なに、最近シェイクスピアを読んでいたものでね。え? ご存知ない? イギリスの劇作家であり詩人ですよ。彼の言葉をちょっと拝借しただけのことです」

 アルフォンス・シャレットは本棚から一冊の本を取り出すと、「これです」と私に差し出してくれた。手渡された瞬間かすかに手が触れ合ってぎくりとしたが、彼はすぐに「失礼」と詫びた。相手は紳士だ。何も心配するようなことはないに違いない。だが、肌に触れた手の感覚が自然と院長の存在を思い起こさせ、それが私を妙に落ち着かなくさせた。

 この家には私たちのほかに人の気配がしなかった。こんなに裕福な暮らしをしていながら使用人を雇っていないのだろうか。

「あなたはルシエさんの恋人ですか?」

 ふいに尋ねられ、私は読んでいた本を落としそうになった。

「まさか! 私は彼に雇われているモデルです」

「なるほど。では、つまりあなたはルシエさんと特別な関係ではないということですね?」

「もちろん。単なるモデルです」

 声に力を込めて訂正するこちらの心境など露とも知らず、小説家は興味津々な様子で私のことをまじまじと見つめてきた。

「これまでの人生で、私はあなたほど美しい女性に出会ったことがありません」

 ルシエの面目を潰すわけにはいかないので、私は呆れた様子を見せることなく笑顔を取り繕う。さっさと話を済ませてピュイ・ダムールを買いに行かなきゃ。

「あの、ムッシュー……」

「アルフォンス、いや、アルと呼んでください」

 そう言って、彼はにこりと微笑んだ。

「アル、肖像画の件ですが……」

「何もそんなに焦らずとも、ゆっくり話をしませんか。出会ったばかりで不躾なことを申し上げますが、私はあなたを一目見て恋に落ちてしまったようだ。あなたについて、深く知りたい」


 パティスリーが閉店したら、ルシエのことを怨んでやる。



 階段を上がる足音が聞こえたのか、私がアトリエに戻るとルシエは扉を開けて待ち構えていた。

「どうだい、アルメル。アルフォンス・シャレットはなかなか伊達者だったろう?」

「ええ、そうね。親切な紳士だったわ」

 帰りにモントルグイユ通りに立ち寄ったが、ストレールはすでに閉店した後だった。お目当ての焼き菓子を買うことが出来ずに私の返事はつんけんしていたようで、ルシエが不思議そうに尋ねてきた。

「何をそんなに怒ってるんだい?」

 夕暮れどきだというのに、彼の髪にはくっきりと寝癖がついていた。私が神経を磨り減らせているあいだに、この男は寝ていたのだ。そう思ったら、なんだかちょっぴり腹が立った。

「明日の昼食に誘われたわよ。改めて肖像画の件について話をしましょうって。アルは私も交えて三人でと言っていたけれど――」

「アル?」

「アルフォンス・シャレットのことよ。そう呼んで欲しいんですって」

「へえ」

 ルシエはニタリとした笑いを浮かべた。

「僕をダシにして君も食事に誘うとは、どうやら彼は君にぞっこんのようだね」

「単なる社交辞令よ。あらかじめ言っておくけど、私は行く気はないわよ」

「いや、君には申し訳ないが行ってもらわないと困るのだよ。実に不運なことに、明日僕は別に予定が入っているのさ」

 暖炉に手をあてながら、私は妙にご機嫌なルシエを睨みつけた。

「そんな嘘をついてると、せっかくつかみかけた仕事の機会をふいにするわよ?」

「おや、聞き捨てならないね。僕は嘘などついちゃいないよ」

「あなたの目論みは見え見えよ。私とアルフォンスを恋仲にしようと企んでいるんでしょう? だったら無駄というものだわ。私はそういったロマンスにはまったく興味が持てないの」

「本当に予定が入ってるんだよ」

 ルシエは肩を竦めて揺り椅子に腰をかけると、私を横目に言葉を続ける。

「彼を相手に無理矢理恋をしろとは言わないが、アルメル、君は少し外の世界を見るべきだ」

「外ならいつも見てるわよ」

「そういう意味じゃないよ、アルメル。僕はね、君の幸せのために、君が心から愛することの出来る人を見つけられる機会を持って欲しいんだ」

「余計なお世話だわ」

 私はなぜだかこのとき無性にいらいらした。

「あなたは自分の価値観を人に押し付けすぎよ。心から愛せる相手が見つかっても、それがその人間の幸せであるとは限らないわ」

 ルシエはしばらくのあいだ、黙って淡い水色の瞳でじっと私を見つめていた。だが、やがておもむろに立ち上がり火掻き棒を手に取ると、腰を屈めて燠になりつつある薪をいじりながら小さな声でこう言った。

「君は一体、何をそんなに怯えているの?」

 その言葉に、私は思わず赤面した。

「怯えてなんかいないわ!」

 めずらしく私が声を荒げたものだから、ルシエは少しばかり驚いたようだった。彼の顔をまともに見返すことが出来ず、その場に居た堪れなくなった私は逃げるようにして自分の部屋へと駆け込んだ。

 きっと、ルシエの言うとおりなのだ。私はすべてに対して怯えている。男性が怖い。そして、人を愛することが怖いのだ。愛した人に捨てられるのが怖いのだ。パパが私を捨てたように。だから、私は誰も愛さない。誰のことも好きにならない。そうすれば、悲しい想いをしなくてすむ――。



 こんな風に気分が滅入っているときに限って、会いたくない人物が現れたりするものだ。翌日、エミール・ド・ラペイレットはジャスミンの花の香りを辺りに撒き散らし、相変わらずの高飛車な様子でアトリエにやって来た。

「なんだいアルメル、その冴えない顔は。君はただでさえ貧しい身の上なんだから、表情くらい華やかに出来ないのかい?」

 今日の私はエミールの嫌味に耳を傾けられるほどの余裕を持ち合わせてはいなかった。身を沈めていた肘掛け椅子から無視するように立ち上がると、すぐさま部屋から出て行きたかったのに、壁に寄りかかっていたルシエが長い腕を伸ばして進路を妨害した。

「ねえ、アルメル。昨夜のことは謝るよ。君の気分を害した僕が悪かった」

 ルシエの言葉を聞くや否や、エミールは満面の笑顔で私の後を追ってきた。

「なんだい、アルメル。君ったらフランシスと喧嘩したのかい?」

 囃し立てるようなエミールの発言を制して、ルシエは私の手に口付けながら言葉を続ける。

「昨日も話したとおり、僕は用があるのでこれからエミールと共に出掛けるが、君の気分が優れないようならそれは仕方のないことだ。アルフォンスとの仕事はあきらめることにするよ」

 その伏せ目がちな瞳が、一体今まで何人の女性の心を動かしてきたことだろう。言っておくけど、そんなしおらしい演技なんかしたって、私は騙されたりしないわよ。あなたの謀にまんまとのるとでも思ったら大間違いなんだから。

 エミールが煙突シルクハットの鍔を親指と人差し指でうやうやしく摘み上げ、意地の悪い表情で顔を覗き込んでくる。

「私とフランシスがこれからどこへ行くのか気になるだろう?」

「全然気にならないわ」

「邪魔をしないと約束してくれるなら、教えてあげてもいいけどね」

「結構よ。知りたくないわ」

「またまた、そんな虚勢を張ったって無駄だよ。君は今猛烈に私たちのことが羨ましいのだろう?」

「だから、興味ないって言ってるでしょう」

 エミールの馬鹿は私の声なんてまったく聞こえていないみたいに、ひとりでぺらぺら語り始めた。

「私たちはね、これからパリで指折りの文学サロンにお邪魔するのさ。君みたいな平凡な小娘には一生に一度たりとて縁の無い場だろうがね」

 へえ、なるほど。そうだったの。仕事の話をほっぽりだして社交に花を咲かせに行くなんて、結局ルシエは青い血の流れる貴族野郎なんだわ。普段は貧乏画家を演じているくせに、気が向いたときにだけ上流階級者の仲間入り。なんていいご身分なの?

 私が冷めた視線でルシエのことを睨みつけると、彼は何か言おうとした。だが、先に階下へ向かったエミールに出発を促され、そのまま口を噤んでアトリエを後にした。

 その日、約束の時刻にアパルトマンを訪れたアルフォンス・シャレットとともに、私は食事に出かけた。言っておくが、決してルシエのためではない。私が約束をした手前、アルフォンスに悪いと思ったから。ただそれだけだ。

 ルシエの不在を伝えると、小説家は「残念だ」と言いながらも揺られる馬車の中で随分とご機嫌だった。

 私たちはイタリアン大通りにある高級レストランに入った。その場違いな空間については気が滅入りそうなのでこれ以上語ることは控えたい。今日のアルフォンスは正装していることも手伝って、昨日より一層高潔な雰囲気を漂わせていた。姿勢よく羊の腿肉ジゴのローストにナイフを入れるその様は大貴族と見まごうほどだ。

「随分とお洒落に気を配っていらっしゃるのね」

「いや、なに、それほどでもありませんよ」

「服装だけじゃなく、ご自宅もとても素敵だったわ」

「お褒めに預かり光栄です。世間では卑俗な貴族趣味だと陰口を叩く者もいますが、私は王制時代の様式や古き良き慣習を愛しているんです」

 グラスに入ったワインを燻らせながら、小説家は思い出したように言う。

「ルシエさんにはまるで王侯貴族のような本物の上品さがある。生まれついての洗練された立ち居振る舞い。私は彼のエレガントな物腰に魅かれて一昨日は酒を飲み交わしたのです」

 どうやらルシエは自分の家柄については何も語っていないようだった。本人が話さぬことを私があえて口にする必要もあるまい。そう思ったので、黙っておくことにした。

 小説家は無垢な子供のように目を輝かせながら、とあるシャトーを訪れた際に目にした素晴らしい美術品のことを話した。それから、社交界での面白おかしい出来事や、芸術に関する持論を気の利いた言葉を交えながら語り、バルザックを称賛した。やがて少し酔いが回ってきたのか、デザートに差し掛かる頃にもなると自身の作品『恋愛至上主義』の背景について論ずる口調が熱を帯び始めた。

「貴族たちはかつての名誉や誇りを捨てざるを得ない状況にあります。かたや、金のある者たちは享楽的な娯楽に溺れ、卑俗化の道を直走っている。私はただ、護りたいだけなのです。どんなに時代が移り変わろうとも、決して失うべきではない古典的な美しさを」

 ルシエが常日頃から彼の作品を朗読していたので、読んでいなくともなんとなく内容は知っていた。しかし、知っていたのはあらすじだけで、肝心の中味をまったく理解していなかった。私は彼の小説をとある新聞の批評家に等しく、写実的な描写に満ちた陳腐な情事と揶揄していたが、実は物語の裏に構築されているのは、ブルジョワたちの非情な資本主義や、貴族たちの頽廃に対する憂戚なのだ。



 帰りの馬車の中から過ぎ去るガス灯の明かりをぼんやり眺めていると、アルフォンスが申し訳なさそうに私の機嫌を伺った。

「あなたにはあまり興味のない話ばかりで、今日は退屈させてしまいましたね」

「そんなことありません。とても興味深いお話だったわ」

 本音だったのですぐにそう返事をすると、彼は突然強引に私を抱き寄せた。その力強さと閉鎖的な空間に、思わず体が強張って胸が激しく動悸を打つ。

「今度是非、オペラへご一緒しませんか? 高名な方々にあなたのことを紹介したい。さる夫人のサロンの常連で、芸術のわかる素晴らしい人たちです。あなたのような聡明な方ならきっと楽しめるはずだ」

 社交に関する話で私はルシエのことを思い出し、なんだか急激にむかむかしてきた。アルフォンスは不穏な様子を察したのか、抱きしめていた腕の力を戸惑うように弱めていった。

「アルメルさん?」

「私、幼い頃に父親に捨てられて孤児院で育ったんです。だから、お金も身分もありません。あなたのような方とご一緒するわけにはいかないわ」

 すると、小説家は慌てたように言う。

「私はなにも上流社交界にばかり顔を出しているわけではありません。確かに小説が売れて、そういった場への出入りも許されるようになりましたが、リベラルで身分関係なく楽しめるところもいくらだってあるのです。それに、あなたは何か勘違いをしている。人を愛するのにお金や身分など関係ありません。かく言う私だって地方の名も知れぬ農家の出だ」

 アルフォンスはとにかく私の気を惹こうと必死だった。握られた掌から手袋越しにその熱意が伝わってくる。

「私はあなたにすっかり心酔してしまったようです。澄んだ蜂蜜のような美しい琥珀色の瞳。あなたのように清らかな笑みを浮かべる少女の肖像画を、かつてどこかで見たことがあります。まるで生き写しのようにそっくりだ」

 アルフォンスのその言葉に、私は思わず顔を上げた。

「少女の肖像画?」

 もしや、という思いが脳裏を過ぎった。ルシエが探し続けている肖像画ではないかという淡い期待が胸を駆り立てる。

「アル、その肖像画は一体、いつ、どこでご覧になったの?」

 私が意外なところで食いついてきたものだから、アルフォンスは少しばかり驚いているようだった。彼は馬車を降りる私の手を取りながら、あるひとつの交渉を持ちかけてきた。

「お望みであれば、明日までに必ず肖像画のことを思い出します。その代わり、明日の晩に馬車を迎えにやりますから、あなたおひとりで私の元を尋ねて下さいませんか?」

 アルフォンスの眼差しは本気だった。彼は真剣に私を愛し始めているのかもしれない。

 私は迷わず答えていた。きっと、後で後悔するに違いないことを重々承知していながらも。

「わかりました。必ず思い出してくださいね」



 昨晩、ルシエは随分遅くに帰宅し、今朝も早くからどこかに出かけたようだった。肖像画の話をしようにも、私は彼と顔を会わせる機会すら得られずにいた。社交にうつつを抜かす不逞の紳士は、今頃ヴァイオリンの演奏でも聴きながら優雅なひとときを過ごしているに違いない。

 どうして私はルシエなんかのために、わざわざこんな面倒なことに首を突っ込んだのだろう? そもそも落ち着いて考えてみれば、アルフォンス・シャレットが見たという肖像画がルシエの探す琥珀色の瞳の少女の肖像画だなどという虫の良い話は確率からしてあり得ない。それに、たとえ少女の肖像画が見つかったとしても、そんなこと私にとってはなんの関係も無いことだ。

 そう思い始めたら、今夜アルフォンスの元を訪ねることが急激に憂鬱に感じられた。なにも晩でなくたって、明るい陽の元でもよいではないか。そうだ。今日の天気は快晴なのだし、今からアルフォンスの所へ行って可能であれば予定を変更してもらおう。

 ルシエにあてつけるようなことを言いつつも、結局私は臆病風に吹かれたのだった。


 乗り合い馬車で十六区へと向かい、シャレット邸の呼び鈴を鳴らした。だが、しばらく待っても誰も現れなかった。正面扉に手をかけると戸は低い音を立てて開いた。私は躊躇いながらも屋敷の中へとお邪魔した。相変わらずのがらんどうで、ひとりの使用人も見当たらない。なんだか妙だ。

 客間には先日も随分と煙が立ち込めていたが、今日はそれ以上に重く靄がかかっている。アルフォンスは長椅子にだらしなく横になり、ぼんやりと巻煙草を燻らせていた。人の気配に気がついたのか、彼は焦点の定まらぬ視線でゆっくりと私の姿を捉えた。

「アルメルさん? 確かお約束は夜だったはず。どうしてこんな真昼間に?」

 彼はおぼつかない手つきで巻煙草をガラス製の灰皿の上に乗せ、危うい足取りで椅子から立ち上がった。

「突然お邪魔してごめんなさい。あの、今夜のお約束ですけれど、私やっぱり……」

 語尾が終わるか終わらないかのうちに、アルフォンスは乱暴に私の腕をつかんだ。

「どうしてです? 私の何がいけないのです? あなたは今夜、私と晩餐を共にするんだ。ねえ、そうでしょう? アルメルさん」

 なんだか様子がおかしい。薄ら笑いを浮かべるアルフォンスは、昨日の礼節極まる紳士とはまったくの別人であるかのようだ。

「離してください」

「肖像画のことについて、お知りになりたいのでしょう? 約束どおり、きちんと教えて差し上げますから」

「そのことなら、もう結構です」

 私の言葉に、アルフォンスは惨憺たる表情で声を震わせた。

「なぜ……なぜそんなことを仰るのです? せっかく思い出したというのに。あなたのために、私は一晩かけて思い出したんだ。あれは確か、銀行家の家で見かけたルノワールの絵だ。ルノワールが描いたイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像で……」

 印象派の代表画家であるルノワールなら私ですら知っている。やはり思ったとおり、アルフォンスの見た絵はルシエが探している少女の肖像画とはなんの関係も無かったのだ。でも、そんなことはもはや本当にどうでもよかった。兎にも角にも、私はいち早くここから立ち去りたい心境だった。

「あの、今日はもう失礼させていただきます」

 別れの挨拶を告げると、アルフォンスは奇妙な笑みを浮かべ、つかんでいた手の力を強めた。

「なぜ? 帰しませんよ。あなたは私と晩餐を共にするんだ」

 私はその手を振り払い、ニ、三歩後ろにたじろいだ。アルフォンスは蒼白な表情で近づいてきた。私はやむなく続き部屋の扉を開け、そこへ逃げ込むように足を踏み入れた。

 驚くべきことに、どす黒い煙の渦巻く部屋の中には、数人の紳士があちらこちらで横になっていた。よく見ると、奥の方には夢見心地で長いパイプを燻らせている者や、壁にもたれかかっている者もいる。だが、皆一様にして目蓋は半分ほどしか開いておらず、生気というものがまったく感じられない。

 私は急激に怖くなり、扉横に立っていたアルフォンスを押しのけて部屋から飛び出た。しかし、彼は私を捕らえると長椅子に押し倒し、吸いかけの巻煙草を無理矢理口にあてがった。息を吸い込んだ途端に激しいほどに咽こんで、くらりとした眩暈を感じた。どうやら、これはただの煙草ではないらしい。

「ねえ、アルメルさん。私はあなたを愛しています。この気持ちに嘘偽りはありません。だから、私のすべてを受け入れてほしいのです。この憐れな作家の苦悩を、あなたならきっと理解してくれる……あなたのような女性なら……」

 狂気じみた呟きとともに、首筋に感じられる口髭の感触と熱い吐息。アルフォンスの姿が院長の残像と重なって、私の心臓はあっという間に早鐘のように脈を打ち始めた。

「離してっ!」

 全身の力を振り絞って抵抗したが、彼の体はびくともしない。

「いや……誰か……誰か助けてっ……」

 次の瞬間、目の前に覆いかぶさっていたはずのアルフォンスは、弾き飛ばされたように消えていた。カーテンの隙間から漏れる陽光が私の目をおかしくしたのか、はたまた恐怖で混乱したのか。彼のいなくなった空間に現れた黒い影が、私にはなぜだかルシエに見えたのだ。

「ああ、アルメル! 怪我はないかい?」

 驚くべきことに、それは確かにルシエだった。彼は私を抱き起こすと、ほつれた髪をよけながら額や頬に惜しみないキスを落とした。

 ルシエの後からゆっくりと登場した見知らぬ男が、山高帽の下からくわえ煙草にニヒルな微笑を浮かべて私たちを覗き込んだ。

「まったくフランシス、おまえってやつはいつだって無茶をする。これじゃあ俺の立場が無いじゃないか」

「協力しろと頼んできたのは君の方だろう?」

「それとこれとは話が別だ。一般市民に先に踏み込まれるのは、どうにも虫がすかないね」

 男は無精髭をさすりながらルシエのことを嗜めた。そして、私に視線を傾けると、軽薄な若者がよくするようにヒューと口笛を吹いてみせた。

「へえ、フランシス。今度はこんなに美人なお嬢さんがモデルなのかい? まったく羨ましいもんだなあ。……お怪我が無くて何よりです、マドモワゼル」

 事の顛末を把握しきれずにいた私に向かって、ルシエが彼を紹介した。

「アルメル、彼はウジェーヌ・サティ。パリ警視庁の警部で僕の大学時代の学友だ」

 サティ警部は私に向かって一礼してから、奥の部屋へと闊歩した。そして、床に横たわる男の頬を数回叩いて大きな声で呼びかけた。

「目を覚ませ! エルランジェ巡査部長!」

 巡査部長と呼ばれた男は、しばらくのあいだ何が起こったのかわからないといった風に呆然としていた。だが、やがてろれつの回らない口調で「サティ警部殿」と呟いた。眼は相変わらず夢幻的にどんよりとしている。

 サティ警部はエルランジェ刑事の肩に手を回し、よたよたとこちらに向かって歩いてきた。彼はルシエに礼を述べると、私に事の成り行きを簡単に説明してくれた。

「お恥ずかしながら、私の部下は心の弱さから阿片に手を伸ばしてしまったようです。彼の行方を追っていくうちに、阿片窟と化した邸の噂を耳にしまして、フランシ……いや、失礼。ルシエさんに影ながら捜索のご協力を頂いていたというわけです。彼は社交界でちょっとばかり顔が利くものですから」

 サティ警部は「このことはくれぐれも内密に願います」と言葉を続け、苦々しげに立ち去った。

 ルシエは深い溜め息をつくと、肩を竦めて独りごちた。

「まさかようやく突き止めた先が、アルフォンス・シャレットの邸宅とは思いもしなかったが……」

 なるほど、そうだったのか。昨日ルシエがエミールと出かけていたのには、きちんと理由があったのだ。彼は単に仕事をほっぽり出して遊びに耽っていたわけではなかったのだ。

「アルメル、君がアルフォンスの元を訪れてくれているなんて、それこそ僕にはまったく予想すらしえぬ事実だったよ」

 ルシエは申し訳なさそうな、それでいて探るような視線を傾けてきた。

 私は肖像画のネタにつられてアルフォンスの元を訪れたということを、ルシエに言うつもりは毛頭なかった。だから、もしかすると彼はこのとき、私がアルフォンスのことを気に入り始めたのではないかと考えていたかもしれない。でも、その考えはあながち間違ってはいなかった。男性に不信感を抱きながらも、私はアルフォンス・シャレットのことを決して嫌いではなかったのだから――。

 未だに信じられない気持ちのまま、私は仰向けで意識を失っている小説家に視線を落とした。

「こんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど、彼は立派な紳士だったわ。俗悪なものを憎んでいたし、とても道徳的な人だったのよ」

 私の言葉にルシエは深く頷いた。

「彼は失われつつある貴族の姿を取り戻そうとしていたのさ。でも、自分が貴族的な振る舞いをするにあたり、すべてにおいて浪費しすぎたんだ。調べていくうちに明らかになったのだが、アルフォンスは派手な社交生活や豪華な美術品の蒐集などで、執筆しても追いつかないほどの莫大な借金を抱え込んでいたようだ。最近では思うように筆を進められず、精神的にも随分と追いつめられていたらしい。苦悩から逃避する手段として、次第に毒煙に溺れていったのだろう」

 床に落ちていた阿片入りの巻煙草からは、まだわずかに煙が立ち上っていた。ルシエは拾い上げた巻煙草を紫檀のテーブルに置かれていた灰皿の中でもみ消した。

「君が無事で本当によかった」

 ルシエは全身で包み込むようにして、もう一度私の体を抱きしめた。「君をこんな危険な目に合わせてしまったのは、元はといえば僕のせいだ。ああ、アルメル、本当に申し訳ないことをしたと思っている。どうか、後生だから愚かな僕を赦しておくれ」

 今更な話だが、私はこのとき初めてある事実に気がついた。ルシエだって男性なのに、私は彼に触れられてもちっとも恐怖を感じないのだ。それどころか、不思議なことに驚くほど安心出来て、心地良いとさえ感じられる。

 それは、ずっと昔にとうに忘れ去っていた感覚。たぶん、幼い頃にパパが私に与えてくれた、懐かしくも優しい温もり……。

「そうね。今すぐ焼き立てのピュイ・ダムールを食べさせてくれるなら、赦してあげてもいいけれど」

 わざと高慢な口調でそう告げると、ルシエは一瞬きょとんとした。でも、すぐにニヤリとした笑いを浮かべ、まるで従者にでもなったみたいに立ち膝で私の指先に口付けた。

「マドモワゼル、あなたのお気の召すままに」

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