14:恐ろしい朝を迎えてしまいました

「――ちゃん、精霊の客人ちゃん」


 声が聞こえる。

 本当に小さなその声は、まるでゆりかごを揺らすそよ風のよう。

 それが、昨夜聞いたばかりの声だということは、かろうじてわかった。


「ん……んん……」

「うーん、今起きないと後悔すると思うんだけどなぁ」

「なんですかレットくん……」

「え、くんづけなんだ。別にいいけど」


 ふふっ、とこらえきれてない笑い声が聞こえた。

 もう夢からは覚めているのに、まどろみが心地よくて、目が開けられない。

 こうしていればまたすぐに眠りに落ちてしまうだろう。

 昨夜はなかなか寝つけなかったから、二度寝もしょうがないということにしてほしい。


「あとさんじゅっぷん……」

「長いね三十分。そんなに待ってたら血のシミが落ちなくなるよ」

「ち……、血!?」


 聞き捨てならない単語に、眠気が一気に吹っ飛んだ。

 ガバッと起き上がって周囲を見渡すと、ベッドからたった二メートルほどしか離れていない場所に、それはあった。


「え、な、なにあれ……」


 かすれた声は、何も寝起きばかりが理由じゃない。

 床に広がる赤黒いもの。その中心には紐のように長く、紐よりも太い、奇妙な色をした物体。

 寝起きの頭では、すぐには理解できなかった。いや、理解したくなかった。

 だって、なんでそんな生き物がここにいるのか。

 考えたくもなかったから。


「蛇だね。正確には蛇の死骸」


 さらりとなんでもないことのように答える声は、ベッドの下から聞こえてくる。

 どうやら私が寝たあとにそこにもぐり込んだらしい。

 侍女さんがお掃除してくれるときとかどうするつもりなんだろう。って全然関係ないことを考えてしまうのは、ただの現実逃避だ。

 そんなことをしたって、目の前の光景が消えてなくなるわけがないことくらい、わかってるのに。


「ナイフ、刺さってる……」

「まあ、さっきまで生きてたし」

「い、生きてた……?」

「うん、そこに置いてある箱からにょろにょろ出てきたよ。ほっといても精霊が守ってくれただろうけど、一応仕留めといた。毒蛇だからさわっちゃダメだよ」

「どく、へび……」


 ついでのように告げられた情報に、私は震え上がった。

 生きた蛇が、私の部屋にいたなんて。しかも、毒蛇が……。

 のろのろと首を動かして、少し離れたところにある丸テーブルに置かれた箱を眺める。

 包装紙に包まれていない、フタが開いている箱。

 簡単な作りのその箱は、蛇が自分で抜け出すことも難しくはなさそうだった。


「贈り物の形を取って相手を害そうとするのは貴族社会ではままあることだね。箱を置いたのは侍女だよ。中身があまりよくないものだってことは気づいてただろうね」

「……っ」


 声が詰まった。息がうまくできなかった。

 ぎゅっと奥歯を噛みしめないと、涙がこぼれてしまいそうだった。

 目の前まで迫っていたリアルな身の危険に、震えだす身体を抱きしめてこらえる。

 言葉が通じなくなったとき、世界に絶望した。世界を呪いたくなった。

 けれど私は、あのとき以上の恐怖があることを、今、知った。

 こんな、純然たる悪意に。

 この世界で、ただの一度も、晒されたことはなかったから。


「おい、お客人」

「……! 王太子……!」


 レットくんのものではない、不機嫌そうな声に、私はハッと顔を上げる。

 うっかり敬称を抜かして呼んでしまったことに気づいたときには、王太子は眉間に深くシワを寄せていた。


「この事態だ、無礼は許す。それより、こいつらを黙らせろ」


 こいつらというのは、見えないけれどたぶん精霊のことだろう。

 耳元で手を払う王太子の仕草からして、だいぶうるさくしているらしい。

 もしかしなくても私を心配してくれているんだろうか。

 私に迫った危機に、王太子に助けを求めに行ってくれたのかもしれない。

 王太子が来たところで、私を助けてくれるとは思えないけれど。

 それどころか、毒蛇に噛まれそうになる私を笑って見ていそうな気しかしないけれど。


「そんなの……私にどうしろって言うんですか」

「馬鹿みたいに笑っていればいいんじゃないか? 得意そうに見えるが」

「私だって、いつでも笑ってられるわけじゃないです……」


 むしろ、こんな状況でどうやって笑えっていうんだろう。

 誰だかは知らないけど、私を傷つけてやろうって人間が、すぐ近くにいるんだ。

 毒蛇の毒が、どれくらい強いものかはわからない。ちょっと苦しむくらいのものか……最悪、死んでしまうようなものなのか。

 そこまで考えて、ブルッと身体が勝手に震えた。


「……口ほどにもないな。この程度のことで怖気づくか」

「この程度、って……!」


 カチンと来て、言い返そうと王太子を睨むと、彼は冷たいまなざしで私を見下ろしていた。


「この程度、だろう? 怪我はなく、血を浴びてすらいない。どんな害悪が現れようと羽虫がお前を守るだろう。何を臆することがある?」


 認めたくはなかったけれど、王太子の言葉には一理あった。私はまだ何も、被害を受けてはいない。

 でも、恐ろしくて仕方ない。震えが止まらない。

 だって、今まで私は、精霊に守ってもらう必要がないくらい、徹底的に危険から遠ざけられていた。

 隊長さんや、砦の隊員さんや、使用人の仲間たちによって。

 こんな、危険が目の前までやってくることすらなかった。

 ちゃんとわかっていたのに。わかっていたつもりだったのに。私の気づいていないところでも、ずっと。

 私は、ずっと、ずっと――守られていた。


「今ここにお前の味方はいない」


 静かな声だった。冷たく鋭い、氷柱のような声だった。

 それは、確実に私の急所を狙う言葉だった。


「ぬるま湯から出してやったんだ。礼を言ってもらいたいくらいだが」


 ああ、本当に。

 あの砦は私にとってぬるま湯だった。

 たった一人で知らない世界に来た私を、優しくあたたかく包み込んでくれていた場所だった。

 自分がどれだけ恵まれた環境に置かれていたのか、今になって理解する。

 お礼を言うなら王太子じゃない。ぬるま湯にいることを許してくれた、あの砦の人々にだ。


「せいぜい姿の見えない羽虫に守られていればいい。命の心配だけはないだろうよ」


 言いたいことだけ言って、王太子は部屋から出て行ってしまった。

 結局何をしに来たんだろうか。精霊は静かになったんだろうか。

 ただ、私を追い詰めにきただけなんじゃないだろうか。

 入れ違うようにして入ってきた侍女さんが蛇の死骸を片付けるのを、私はただぼんやりと眺めていた。

 お礼を言い忘れてしまった、と気づいたのはもう彼女たちがいなくなってからだ。

 私がベッドから一歩も動くことなく、朝の事件は幕を閉じた。


「相変わらずいじめっ子だなぁ、王太子サマは」


 侍女さんもいなくなってから、ベッド下でポツリと落とされたつぶやき。

 いじめっ子、なるほどいじめっ子。

 この場にはあまりそぐわないその単語と、こちら側に立ってくれる人の存在に、少しだけ気持ちが軽くなった。


「レットくん……ありがとう」

「はいはーい、どーいたしまして?」


 お礼を告げると、レットくんは冗談っぽく軽い口調で返してきた。

 顔は見えないけど、きっと昨夜と同じようにニッコリ笑っているんだろう。

 そうだ。王太子は知らないだけで味方ならここにいる。

 でも……それでも、不安は消えてくれない。

 望んでしまう。心から求めてしまう。

 今、本当に傍にいてほしい人は、精霊でもなければ内緒の護衛でもない。



 隊長さんに、会いたい……。

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