エピローグ 僕らはみんな爪先立ちする
「あめ、おはよう! 陸、おはよう! 土曜日ぴる! スーパーフレッシュお買い得デーぴる! 今日も張り切って行くぴる!」
ああ、今朝もまた、あめに負けてしまった。
どうしていつも朝の挨拶は、あめが優先されるんだろう。《一番の宝物》欄で《あめ》の上に《陸》が上書きされるのを、確かに目撃した気がするのだが。
悲しみに溺れるあまりの愚かな夢だったのか? それとも単にあいうえお順なのだろうか。
だとしたら僕は徹底的に不利だ。
ソラは10月のコスチュームを新調してもらってご機嫌だ。ジャンパースカートの裾にあしらわれたピアノの鍵盤を指で弾きながら鼻歌を歌っている。今日も特筆すべき愛らしさだ。
暫し見惚れたのち、大人げない父さんとの朝食を作るため、台所に向かう。
ソラ奪還をもくろむ僕が一世一代の(無駄な)熱弁をふるったあの日。
「なんで嫁に出すのはソラじゃないって教えてくれなかったんだよ。ていうか、完全にソラを嫁入りさせるフリ、してたよね?!」
と糾弾した僕に、父さんはこう答えたのだ。
「俺の最愛の女を16年も独占しといて何を言う! これくらいの意趣返しは当然だ」
大人げねえ! この人、超弩級に大人げねえ!
心の中で絶叫する僕をよそに、「他のやつらにも隠し通した俺は凄い。敵を欺くにはまず味方からというからな」だの、「0時ぴったりに一旦プログラムが停止するように、秘密裡に工作するのが意外に面倒だった」だの、父さんは大威張りで解説しまくった。
その蠢く小鼻、一度本格的に破裂してしまえ! とまで思ったが、事情を明かされた北城つららが相当ねちねち絡んでくれたようなので、ひとまず呪いは解くことにした。
北城つららと言えば、「北城つらら一世・二世合作」の触れ込みで発表した新作は大成功を収めた。掲載誌は発売初日に売り切れ、ネットで既に高値がついている。
北城つらら二世となったさやかちゃんのほうも、ティーン雑誌から依頼が来て短編が掲載されることになったそうだ。
世襲制プロジェクトは着々と進んでいる。
たっきーの努力もようやく実を結んだ。
「入江そら」騒動収束後、たっきーにも幾つかの事務所からスカウトがあったのだ。そして破格の待遇をちらつかせた大手芸能事務所を袖にしてたっきーが選んだのは、カーサプロモーションだった。
たっきーは事務所というより、「ほんとに歌が好きな子」の歌でぽろぽろ泣いた、マネージャーの後藤さんを選んだのだ。クビ寸前だった後藤さんはついに、二人三脚で頑張るに足るアイドルの卵を手に入れることとなった。
ここまではうっすら思い描けなくもなかったことだ。
が、予想外の展開も幾つかある。
うれしい不意打ちは、例のフェイクのメロディーラインに惚れ込んだ、カーサプロモーションの社長からもたらされた。所属アーティストに是非とも楽曲を提供してほしいというのだ。
かくして琥太郎は、ボカロヘビーユーザーから作曲家へと華麗な転身を遂げつつある。
反対になんとも悔しいのが、ドS王子佐々木駿の一件だ。
たっきーを救ったあの演説で、もともとあった人気がさらに沸騰したのだ。ファンクラブの会員数は倍増、しかも「あいつ意外に漢気あるじゃん」と男性層の好感度も大幅にアップしたらしい。
どこまで計算しての行動だったのか、あのドSカーブからは窺い知れない。
そして僕はというと。
薄っぺらい胸板の奥で、入江陸史上最大級の野望を沸々と滾らせている。ないものねだり選手権があったらセミファイナルあたりまでは勝ち進めそうな、僕にしてはかなりの高望みだ。
ソラは数時間後のスーパーフレッシュ目玉商品争奪戦に備え、テレビの前でラジオ体操に精を出している。見えない壁としておばさん軍団を牽制することに、このところ並々ならぬ闘志を燃やしているのだ。
壁か。体操しても揺れるもののないあの胸の、Aカップと呼ぶのもためらわれるような絶壁が、「きゅっきゅっきゅっ」から「ぼんきゅっぼん」へと進化する日が来たりするだろうか。
「ねえ、父さん」
半熟の目玉焼きの黄身をずるずる音を立てて啜っている大人げない人が、顔を上げた。鼻の頭にソースがべっとり付着している。
「ロボットがさ、愛する女性のために永遠の命を捨てて人間になる映画、知ってる?」
「誰に物を言ってる。『アンドリューNDR1114』だろ? トム・ハンクスのアンドリューも出色だったが、なんといっても女性ロボットのガラテアが……」
「うんうん、ガラテア、素っ気ないとこが逆によかったよね」
SF映画を自由に語らせようものならタイムバーゲン遅刻は必至だ。すかさず流れを斬る。
「あんな風に、ロボットが生体部品で人間に近づく日って来ると思う? 例えばだけど、ソラの意識を父さんが作ったアンドロイドに移植して、その部品をちょっとずつ有機的なものに替えてく……みたいなこと、いつか可能になるのかな」
「お前……さてはいかがわしいことを考えてるな?」
「いかがわしい? 陸、いかがわしいぴる? いかがわしいってどんな風にぴる?」
興味深い単語を小耳に挟んだソラが、瞳をきらめかせて追及の手を伸ばしてくる。
「ちちち違います」
父さんが想像しているであろう淫靡なあれやこれやなんて滅相もない。
万が一そんなチャンスが巡ってきたとしたら固辞する理由もない――というか、喜んで身を投じるけど。
僕はただ、リアルにソラを抱きしめたいだけだ。
本音を言えば、キスくらいは許されて然るべきだと思う。実際たっきーはお別れの際、してもらってるわけだし。――ほっぺただけど。
「自他共に認める天才科学者の父さんには遠く及ばないけど、僕もこの小さな脳味噌をフル回転させて、そういう分野を目指したいと思ってるんだよね。つきましては、情報工学が学べる大学を受験させていただけないでしょうか」
「ほう。偉大な父親と同じ道を目指したくなったというわけだな?」
枕詞の賛辞が効いたとみえて、父さんは満更でもない表情だ。
「ていっても、僕は父さんの優秀な頭脳も母さんのバイタリティーも全く受け継げてないから、受験まで漕ぎ着けられるかどうかすら定かじゃないんだけどね」
「いや、そんなこともないぞ? お前は時々妙なひらめきを見せるからな。柊子も『陸って考えるのには時間かかるけど、突然こっちが固まっちゃうような発見をするのぉ。ひょっとして天才じゃないかしらぁ』とか、親馬鹿発言しとったし」
え? じゃあ母さんの、あの一時停止って。
僕は母さんを、毎日毎日がっかりさせ続けていたわけじゃなかったのか。
似てない上に気持ち悪い物真似ではあったが、語られた事実は素直にうれしい。
「とにかくロボット作りにはいろんな分野が関わってくるからな。関係なさそうなことだろうが勉強しといて損はない。やるだけやって、人脈も使いまくって、偉くなっちまえ。そうすりゃ人を顎で使いながら、思う存分研究開発ができる。まあ、偉大すぎるこの父に教えを乞いたいと言うのなら、いろいろ教えてやらんでもないが。ふぁーっふぁっふぁ」
ふんぞり返る父さんの前に厳重に封をした大学進学費用試算表を恭しく差し出し、
「心強い応援ありがとう! じゃあ買い物行ってきまーす」
とソラの手を引いた。
今日もいい天気だ。
陽射しは充分に明るいけれど、アスファルトの地面に腰を下ろしても、もう尻を焼かれることはないだろう。
「陸、見て! 雲がぽこぽこしてるぴる!」
駐車場の真ん中で、ソラは爪先立ちして空を見上げている。
「うん、あれはうろこ雲っていうんだ」
「うろこ? お魚の? どっちかって言うと、お菓子にかけたお砂糖みたいぴる」
あの空を飛んで母さんが一時帰国してくるのも、もうすぐだ。
5カ月ぶりの国際電話を途中で切らせたソラに会うのを、母さんは異様に楽しみにしている。自分にはソラが見えないかもしれないなんて、微塵も考えないあたりが素敵だ。
「見えない壁作戦で卵を無事ゲットしたら、ホットケーキ焼こうか。今日はシロップじゃなくて粉砂糖をぱらぱら振って」
「ぴる! 今日の一回は、うろこ雲のホットケーキぴる!」
ホットケーキよりメープルシロップよりおいしそうな、はちみつ色の髪が揺れた。
ボーカロイドは爪先立ちする 猫乃緒さんぽ @nyan-m
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