第4話

その日は、得意先の社長からちょっといいワインを頂いて、今週末はチーズと生ハムでも買って、晩酌でもしようかな、と一人わくわくしていた。そしてまた、いつものようにマリのカフェへ立ち寄った。その日は少し混んでいて、マリは忙しそうに歩き回っていた。

私の隣には、黒髪の40代くらいの大柄な女性が座っていて、小さなメニューを見ながら、マリに話しかけた。

「私バナナケーキすごく好きなんだけど、生地に練りこんであるタイプのものなの?」

「はい。ワンホールたっぷり3本使ってあるからすごくしっとりしているんですけど、バター控えめでヘルシーなんですよ。上には輪切りにカットしたバナナを乗せてあります。」

「美味しそうね!それ、いただくわ。あと、カフェラテと。」

「はい。ありがとうございます。バナナケーキ、ちょうど出来立てですよ。」

そんな会話をして、またマリは忙しそうに準備している。今日は忙しそうだな、と思いながら私は本を広げ、マリが近くに来たときにいつものようにコーヒーを注文した。

しばらくして、大きなカップに注がれたカフェラテと、湯気が立って甘い香りが広がるバナナケーキをマリがその女性の前にそっと置いた。

「あー本当にいい香り。」その女性はそう言いながらケーキを一口食べた。次の瞬間、「あっつい!!」と叫んだ。どうやら、出来立てのバナナケーキの上に乗っていた輪切りのバナナは少し分厚くて、中がまだ熱かったようだった。「大丈夫ですか?!」マリはすぐに水を持って飛んできて、彼女に差し出した。

「大丈夫ですかじゃないわよ!!火傷したじゃないの!!!」

彼女はものすごく怒っていた。「私は猫舌なのよ!!お客に火傷させるなんてひどい店ね!」

周りの客もびっくりして彼女を見ていた。しかし、ケーキがそんなにひどく熱いものだろうか。仮にそうだとしても、大人の女性であればそんなにも感情を露わにするべき場面では無いと思ったのは、きっと私だけではなかっただろう。だが、マリは一生懸命に謝っていた。

「お客様、申し訳ございません。ケーキは出来立てでしたから、火傷なさらないよう、一言お声かけするべきでしたね…。」

「大体あなた!私がどんなケーキなのか聞いたときに、熱いバナナが乗っているなんて一言も言わなかったわよね!」

「いえ、ですが、輪切りのバナナを乗せていると申し上げたのですが…言葉が足りず申し訳ございませんでした…。」

焼いたケーキに生のバナナを乗せるだろうか。あまりに彼女が上げ足を取っている気がして、私もマリを庇うべく、口を挟もうとしたときだった。

「ケーキ代は支払いませんからね。火傷したし、一口しか食べていないんだから!それにこれがトラウマになって私はもうバナナケーキは食べられないわ。」

もう黙っていられなかった。「ちょっと、あなた、それはあまりに筋が通っていないのではありませんか?それに、彼女は出来立てと言っていたし、湯気が立っていたんだから、熱いのは分かるでしょう。」私が口をはさむと、彼女はますます怒りが頂点に達してしまったようだった。あるいは、後に引けなくなったのだろうか。「じゃあ火傷させられた私が悪いというの?!大体カフェラテなんて一口も口にしていないんだから、お金は支払いません!火傷したから、今日はもう何も口にできないわ!あー痛い!!」

これをまさにクレーマーというのだろう。私はマリを庇ったつもりだったが、私が口を挟んだことで、余計女性を怒らせてしまった事に申し訳なさを感じたのと、こんなにも言葉が通じない大人がいるのか、という驚きで黙ってしまった。すると黙って聞いていたマリが、口を開いた。

「お客様、申し訳ございませんでした。お代は結構です。一言、言葉を添えて出すという事を怠ってしまった私の責任ですから。本日はご来店、ありがとうございました。」

すると、女性は勝ち誇ったように店を出て行った。

「騒ぎを起こしてしまい、申し訳ございませんでした。」マリがほかの客に謝って回っている。

そして私のところへもやってきたときに、「庇っていただいて、嬉しかったです。ありがとうございました。そして、すみませんでした…。」と言って少し泣きそうな目をしていた。

「火傷するほど出来立てのケーキを食べれるなんて、温かみがあっていいお店ですよ。僕は好きですね。」私が言うと、マリは泣きそうな顔で嬉しそうに微笑んで、女性が残したケーキとラテを片付けていた。

この女性の事は今も忘れられない。彼女はもちろん、このカフェに二度とあらわれる事はなかったし、今となっては顔もあまり思い出せないが、強烈な印象を残していた。きっとそれは私だけではなかっただろう。きっと、本人は勝ったつもりなのかもしれないし、もしかすると時間が経って、自分の大人げなさに気付く時がくるのかもしれない。けれど二度と会う事のない人々には、そのシーンだけが克明に刻まれた事だろう。ただ、私とマリが少しだけ、距離を縮める事になった事件でもあった。

私は、マリに帰り際にこう言った。

「今日は疲れたでしょう。ケーキ代にはならないけれど。今日は美味しいワインでも飲んでください。また来ます。」

私は、社長に頂いたワインを彼女にそっと渡して、また仕事へ戻っていった。

世の中には、いろんな人がいることを改めて、感じながら。

ただ、ワインを渡したときに、マリが少しだけ、頬を染めていたことで、ささやかな幸せを感じたのだった。

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人生カフェ @sasuke

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