第3話

11月後半。季節が秋から本格的な冬に変わろうとしていた。私は当時、営業で外回りの仕事をしていて、担当のエリアがマリのカフェのある地域になった事もあり、空き時間には決まって彼女のカフェに訪れるようになった。ただその頃は、私とマリは他愛ない世間話をする程度で、私の方から特に自分の話をするようなこともなかった。というのも、私はこれまで至って平凡な人生を歩んでいたし、もちろん辛いことはそれなりに沢山経験してきてはいたが、きっとマリには特別な感情を抱いていただけに、自分を実際よりもよく見せたいという思いが強かったように思う。

ただ、彼女のカフェで彼女が特に何も言うわけではないのに、心の弱い部分を少し見せていくカフェのお客さんたちの話を聞くたびに、何となく自分の心がどこか救われる思いがあったのかもしれない。

あの日、私がいつものようにマリのカフェに訪れると、きっと30代後半くらいと思われる肩くらいで髪をまっすぐに揃えた色白でふくよかな女性が座って、マドレーヌを食べながらコーヒーを飲んでいた。私が入っていくと、マリはにこっと笑って会釈をし、自然といつもの私の定位置のカウンターにおしぼりと灰皿をそっと置いてくれた。

その女性は、このカフェに来る客としては珍しく、言葉を一言も発さなかった。ただ静かに、コーヒーを飲んでいるだけだった。ただ彼女の背中が何となくさびしそうで、少しだけ気になったのを覚えている。そしてその日は去り際に、「ありがとう」と言ったきりで、そのまま出て行った。この女性の事は、その日は強く印象に残ることはなかったが、その後、1年間にわたって1か月に1度くらいのペースで何度かマリのカフェでお会いすることになった。

何度目かの時に、初めて女性は自ら口を開き、マリに話しかけていた。

「ここのマドレーヌが好きでねー。」

きっとその一言は、ただマドレーヌが好きだという意味ではなく、マリに話を聞いてもらいたいという気持ちから発せられた言葉だったように思う。

「何度か来ていただいていますよね。いつもありがとうございます。」

マリがにこやかに答えた。

「ええ、そうよ。ほっとするの。」

彼女はそうして、その日から徐々に少しずつマリと話すようになっていった。

きっと毎回私は居合わせた訳ではないだろうけれど、彼女が女医であること、未婚であること。この近くの病院に勤めていること、服はワンピースしか着ない事等を知った。

彼女は決して美しい訳ではなかったけれど、すごく穏やかで、口数は少ないけれどマリには心を開いていたようで、二人は穏やかにいつも言葉を交わしており、その光景を見るとなんとなく私も癒されたものだった。

そしてまた冬になり、そろそろ街がイルミネーションで美しく光り始める頃、彼女が寂しそうにマリに言いだした。

「私、転勤になったのよ。」

マリの表情も少し曇る。「どちらへ行かれるんですか?」

「2つ隣の県になるのよ。だからここからかなり遠くなるわね。もう今みたいにはここには来られなくなるし、忙しくなるからもういつ来られるかわからないわ。」

「寂しくなりますね…。」

「まぁ一応、昇進にはなるから、ありがたいことなんだけれどね。私は独り身だけれど、こうやって手に職があるからね…。」

彼女は医師だから、収入も多いだろうし、独身貴族で楽しく過ごしているのだろうな、と私は気楽に勝手に考えていた。

「私はね、両親も開業医でね。昔から何となく医者になるのが当然だと思って小学校も中学校も高校も、大学もずっと勉強していたのよ。子供時代を振り返ると、私はいつも塾にいた記憶しかないわ。それを苦痛に感じたこともないし、やっぱり勉強しなくてはならないと思っていたし、今ももしも自分に子供が出来たなら勉強を同じくらいさせるのかもしれない。」

私の両親も、教育には熱心な方だったので、何となく彼女の気持ちがわかるような気がした。

最も、私は両親に反抗して、充分に遊びにも力を入れてきてはいたけれども。

「私ね、人生で一回だけ本気の恋をしたのよ。若かったからかな。好きでどうしようもなくてね。彼は同じ病院で働く医師だったんだけれど、仕事の話で熱く語り合ったり、価値観も似ている部分があったりして、一緒にいてすごく楽しかったのよ。」

思えば彼女が初めて自分の事を語った時だった。私は、そっとマリを見ると、マリは手を止めて目を少しうるませて、真剣に話を聞いていた。

「彼と知り合って2年が過ぎた時にね、私は人生ではじめて、告白をしたのよ。もう緊張して死ぬかと思うほどだった。自分の想いを全て伝えたと思うわ。そしたらね、彼は、私の事は女性として尊敬する部分が多いし、一緒にいて楽しい。ただ、これからも良き同僚として、切磋琢磨する関係でいれないか。と言ったわ。私は、彼に振られた以上、自分の気持ちを押し殺して、彼の望む関係になろうとしたのよ。」

「今も彼とは…?」マリがそっと聞いた。

「彼は、その日から3か月もたたないうちに、同じ病院の看護師の可愛い女の子と結婚したわ。」

何とも言えない切ない気持ちになった。彼女は努力して、目標を達成して、自分の力でいろんなものを手に入れていたけれど、恋というのはいつも残酷なものだ。

「恋はいつも思い通りにいきませんね…。きっと、それで悩んだり苦しんだりするということも、人生の醍醐味で後から振り返れば幸せな事なのかもしれませんけどね。」

マリが言った。彼女はそれ以上は語ることはなく、最後に「ありがとう。またいつかね。」と微笑んで、カフェを出て行った。

私はここでは、いつも傍観者でしかないのだけれども、その後ろ姿を見送りながら、彼女は本当に素敵な女性だったから、いつか必ず彼女の本当に欲しいものを手に入れてほしいと思わずにはいられなかった。

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