第15話 消せない記憶
十一月十四日。午後五時。
智はうずら屋のボックス席で康太と向かい合っていた。
どうしても確かめたい事があった。それはとても小さなきっかけで、それでも彼の中でその疑惑が次第に大きくなり、我慢できなくなったのだ。
「なあ、瑠香と弘が付き合ってるって、本人達から聞いたのか?」
康太は不思議そうな顔をする。
「まだ、こだわっているのか? もういいだろ」
「いや、ちょっと気になる事がある」
ちょっとどころではないのだが、はっきりするまで、康太に知られるわけにはいかない。
「本人達から聞いたわけじゃないよ。二人を見ていてそう思ったんだ。中学二年の秋くらいから、二人でいつもつるんでいたからな。登下校も一緒。学校の昼飯も一緒。普通はそう思うだろ」
智は新聞を取り出した。
「なあ、この高田という犯人の娘。これって、お前らの中学にいなかった?」
「ああ、髪を染めて、化粧も派手になってるから分からなかったけど、名前を見て分かったよ。いたよ。弘や瑠香と仲が良かった」
康太は新聞をまじまじと見ながら、コーヒーを啜って煙草に火をつけた。智にも差し出してきたが、彼は断った。
「ネットでの違法取引をしてた。弘も直樹もグルだった。新聞には名前は出ていないけど、この記事と俺らが知ってる事を重ねるとこうなる」
弘の言葉に、康太は煙を吐き出しながらうなずいた。
「記事にはこうも書いてある。違法行為をしていたグループの他のメンバーは捕まっていない。ここからは俺の推測だが、ネットバンクで出入金を管理していたのは弘と直樹で、その金を現金でメンバーに受け渡しをしていたのが犯人の娘。死んだ今となっては、確認しようがないけどね。ただ、弘や直樹、そして高田裕子と親しい人間が、関与している可能性が高い」
康太も馬鹿ではない。先ほどの話と、今の話を組み合わせると、智が何を言いたいか、聞くまでもなかった。
「池田瑠香も関与してるってか? お前、自分の彼女を疑うのか?」
「彼女でもなんでもない。俺がそう思っていただけだ」
智は苦悩と共に吐きだした。
そうだ。だいたい、お金をそんなに持っていないと言っていた瑠香。
あの時、この店で見た彼女のファッション。あれは金のない女の子に出来るだろうか? 智と違って、ユニクロで揃えましたというものではなかった。
あの日、彼女が身に着けていたコートやスカート、インナーに靴、そしてイヤリング。記念にと思って記憶庫にしまっていた彼は、それを頼りにネットでそれらの販売価格を調べてみたのだった。値段が分かって、疑惑が確信に変わった瞬間、彼は激しく後悔したが、しかし、放置しておくには、あまりにも疑惑が大きすぎた。
「おいおい、じゃあ、お前は学校に忍び込んだのも、池田瑠香は知っていたというのか?」
智は首を振った。
「分からない。でも、選挙管理委員に彼女がいたのは、二人のしようとした事と無関係じゃないような気がする」
智の言葉が終わらないうちに、康太が腰を浮かして手を振った。その先には、由香里が立っていて、二人を見つけると笑顔で近づいて来た。満面の笑みだ。
「康太くん。後藤君も急に帰るから、池田さん、怒ってたよ」
彼女は当然のように康太の隣に座った。
智は驚いたように二人を見た。
「なんだ。福間が選挙管理委員でやる気になってたのは、こういう事だったのか」
「だよ。このチャンスは活かすしかないと思ったからな」
智は、柄にもなく照れている康太に、じゃあなと言って席を立った。
一人で帰るのっていつ以来だろう。
智は家までどう帰ったのか覚えていなかった。ずっと考え事をしていたのだ。
じゃれつくビータンを抱きあげ、玄関で靴を脱ぎ、真っ直ぐに部屋に入る。
制服のままベッドに横になり、彼の疑惑が、よくない答えを導きだそうとしている事に冷静ではいられなかった。思わず本棚の漫画を手に取り、ビリビリに破る。部屋の中にバラバラになった漫画を放り投げ、目を閉じた。
池田瑠香、野島弘、山田直樹、高田裕子。おそらくこの四人はグルだ。
「お兄ちゃんがバイト代で買ってくれたの。ネットでオークションや、取引をしてお小遣いを稼いでるんだ」
瑠香の言葉を記憶庫からひっぱりだした。今となっては、ネットでの取引という言い方が気になってしょうがない。そして、一つの事実に気づく。
「彼女は俺と一緒にこの事件を調べたがったのは、自分に疑惑が向かないようにコントロールする為か……」
ここで、一つの壁。
直樹と弘は、なぜ、学校に忍び込んだ?
計画は予定通りに進んでいた。選挙絡みではない別の理由って何だ?
部屋のドアがゆっくりと開いた。
智と、母親の目が合う。
「どうしたの? ノックぐらいしてよ」
彼女は無言で、口を何度か開きかけたが、言葉が出てこない。
「野島くんがね……」
母はゆっくりと話し始めた。
野島弘の通夜には、クラスメイト全員が参列した。
自殺だった。
智は一人で歩いていた。もう夜だ。
涙は出てこない。特に悲しいという気持ちも湧いてこない。もしかして、自分は心が麻痺しているんだろうか。
ズボンのポケットでスマートフォンが振動している。
智は歩きながら手に取った。液晶画面を見る。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
「智くん。私」
瑠香だ。声が少し震えている。
「ああ、何?」
「何って……。どうしてそんな言い方するの?」
智は暗い歩道に明かりを灯す、自動販売機の前で止まり、硬貨を入れて缶コーヒーを買う。
「なあ、教えて欲しい事あるんだけどさ。瑠香はなんで俺にずっと嘘をついてるんだ?」
沈黙。
スマートフォンは、音以外のものを無線で運ばない。
智は静かに歩きだした。右手に海が見え始める。歩く彼の左手は、すぐにJR山陽本線の鉄道が走っていて、一人で歩く彼を、上りの電車が追い越して行った。
「瑠香、どうして二人はあの日、学校に忍び込んだ? 瑠香は知ってるはずだ……」
智はこう考えていた。
前提として、瑠香と弘、直樹と高田裕子は仲間であるとする。こうして考える根拠は、金だ。瑠香のあの高価な服やアクセサリを買う金は、どこから出ていたのだろうか。賢い彼女の事だ。服を買うだけではなく、奨学生に選ばれなかった時の為に、保険を用意していたに違いない。
自分で金儲けをして。
こう考えると、違法販売は瑠香を除く三人の仕業というよりも、瑠香を含めた四人の仕業という考え方が自然と浮かんできた。確実な証拠はないが、彼女を含めて四人は仲間という前提にすると、後の推理も無理がなくなる。
生徒会長選挙の不正が先にあったのではなく、本当の犯罪計画の派生で、生徒会長選挙の不正がもちあがったのではないかと智は考えた。
では、本来の計画とは何か。智は小山教諭と約束した一つの事を、記憶庫で見つけた。推薦入試の手伝いだ。推薦入試は文化祭が終わってすぐにある。在校生には振り替え休日が与えられ、その間に試験が行われるのだ。その試験問題が出来上がるのはいつぐらいだろうか。彼らの狙いは、推薦入試問題だったのではないか。
ここで彼らは考えた。
同じ時期に大きなイベントもある。生徒会長選挙だ。生徒会長になる事で、毎月の定期収入を得る事もできるではないか。予算の流用だ。部費で購入したものを、転売する事で可能だ。派手にやらなければ、まず表に出る事はないだろう。なぜなら、部費の運用を監視する生徒会のトップが、仲間なのだから。
こうして、二つの計画が同時に進行していたのではないかと考えるに至った時、彼はある疑問を感じた。
二人はなぜ、選挙管理委員室に忍び込む必要があったのか。
その答えは、学校の監視カメラの映像を、記憶庫から引っ張り出した時に見つけた。
試験問題の受け渡しに、あの部屋のロッカーを使ったからだ。監視カメラの映像には、ロッカーに何かを入れる弘の姿があった。最初に見た時、立候補届の事で何かをしていると思っていたが、今は違う。彼は推薦入試の答案用紙を盗み出し、ロッカーに入れていたのだ。
そのロッカーの鍵は池田瑠香が管理している。となると、やはり、彼女も彼らの仲間であると確信した。
智は携帯電話を持ったまま、夜道の真ん中で立ち止った。
瑠香の言葉を待つ。しまなみ水道沿いの道路は、海からの風が吹きつけてきて、彼はダウンジャケットに首をすくめた。対岸の造船所の照明が綺麗で、携帯電話を持ったまま、しばらく見入っていた。その場所だけ、闇夜に浮かび上がるようにオレンジ色の光彩に包まれている。それが海面に反射し、キラキラと波を輝かせていた。
智の耳に、瑠香の囁くような声が届いた。
「知らないほうが、いい事もあると思うよ」
電話は切れていた。
十二月三十一日。
生徒会長選挙も無事に終わった。
新生徒会長には、如月一太が選ばれた。彼は年末から年度末にかけて、現生徒会長からたっぷりと引き継ぎをされ、新年度からいよいよ生徒会長として、多忙極まる学校生活を送る事になる。それでも文化祭の壇上で、晴れやかな笑みで挨拶をしていた新生徒会長は、全校生徒から祝福の拍手を浴びて、容易くはないが自分で選んだ道なのだから、この学校の為に必ずやり遂げると宣言してみせた。
あれから一カ月以上が経つ。
智はビータンを連れて近くの神社に向かう。しまなみ市は寺が多い事でも有名だが、実は神社も多い。彼が向かう神社は菅原道真卿が太宰府に流される途中に寄ったとされる場所に建ち、学問の御利益があるとされている神社だ。
神社の鳥居が長い登り階段の先に見える。映画のロケにも使われた石の階段をゆっくりと登って行く。腰に負担があるといけないからと、智はビータンを抱きかかえた。ビーグル犬はヘルニアにかかりやすいと何かの本で読んだからだ。普段からそうしているせいで、ビータンは階段を登りたい時、吠えて知らせてくる。この時も階段を前にして、智を見上げて尻尾を振りながら一声吠えた。
階段を登りきると、参拝客はまだまばらで、そこに赤い派手な髪の持ち主がいる事にすぐに気づく。
「後藤。おまえもここか?」
康太が由香里と並んで、たき火を前に甘酒を飲んでいた。
「ああ、進学に決めたからお祈りをしておこうと思って」
「犬、持っててやるから済ませてこいよ。ほら、来い。チビタンク」
康太がビータンのリードを持つ。チビタンクとはひどい呼び方だが、後藤家の家族全員に甘やかされたビータンは、プリプリとしたお尻をしている。結構、的を獲た指摘かもしれない。
賽銭をなげて、智は祈った。
「首都国際大学の史学部に入れるように頑張ります。応援よろしく」
不思議なもので、彼は別に神とか仏を信じちゃいない。もしそういう存在が実際にいるのであれば、世界に戦争やら差別などあるはずもなく、宗教によって人が対立する事もないはずだと考えているからだ。それでも、いざ自分の事になると、こうして殊勝にもお参りをしてしまうのである。
二人がビータンを撫でているところへ近付くと、康太が真面目な顔をした。
「ネット販売グループ。捕まったな」
「ああ。結構な記事になってたな」
智は複雑な気持ちで、ビータンのリードを受け取った。足元でお座りをして、ビータンが彼を見上げてくる。垂れた耳が左右に動いた。
「でもまだ中心人物の特定には至っていないって言ってたな」
「捕まらないと思うよ。その人物はネット上に証拠を残してないし、リアルで接触していた人間はみんな死んでるんだから」
智は綺麗な瑠香の顔を思い浮かべる。なぜかこの時、思い浮かべた彼女は笑顔だった。
「今田刑事に教えてもらった事だけど、康太には話しておいてもいいと思う。お前、口は固いからな」
「なんだ? 嫌みかよ」
口をすべらせ、瑠香と弘の事を智に話した事への当てつかかと康太が苦笑したが、智は真面目な顔で首を振る。由香里にビータンをあずけ、二人は神社の敷地の隅っこに移動した。
「直樹と弘が、学校に忍び込んだのは、どうやら選挙とは関係ないみたいだ」
康太が目をむいた。
「何言ってんの? 本当か?」
「ああ、今田さんが推薦入試の手伝いが終わった頃に電話をくれて、その後にうずら屋で会ったんだ」
智は今田と話した内容を康太に話した。
それは今田達が監視カメラの映像を調べた結果、直樹と弘が学校に忍び込んだのは、職員室で何か作業をする為だったという事が判明した。それは二人が最も長時間、職員室に滞在していたからだ。二人は職員室で教員のパソコンを操作していた。学校側に確認してもらったところ、それは入試問題を作成していた教員のパソコンである事がわかった。
二人は入試問題を持ち出したかったのだ。
二人はそれらを印刷し、さらにUSBメモリにデータをコピーした。一連の作業が全て監視カメラに録画されていた。今回のような事件が起こらなければ、発覚する事はまずなかったのではないかと智は思っていた。監視カメラの映像は、定期的にチェックされていない。問題が発覚されて初めて、映像がチェックされるからだ。
今田が不思議がっていたのは、二人が持ち出した入試問題が出回っていないという事だった。もしかしたら、危険を察知した二人、もしくは首謀者が流出させなかったのではないかとも話していて、それは智の考えと一致していた。ただ、今田と智の違いは、今田は推理を話しているが、智は確信しているといったところか。
「二人が自分達でやった事なのか、誰かの指示でやった事なのか、それは今となっては分からないけどな」
話し終えた時、智は複雑な表情をする。それを見逃さなかった康太が喉を鳴らした。
「まさか、池田の指示だったとでも言いたいのか?」
「確証はないよ」
「お前、高校生にそんな事、できるわけないだろ」
康太は煙草を取り出し、火をつけた。
「なあ、後藤。考え過ぎた。どうしてそこまで池田を疑う? お前、裏切られたと思ってて、それで根に持っているんじゃないか?」
「いや、たぶん逆だ」
智はゆっくりと白い息を吐きだした。除夜の鐘が響き始めた。
翌年の、三月十四日。
智は千閣寺の境内を歩いていた。墓地へと続く細い登り坂を、右手に海を見ながら進んでいく。
池田瑠香とは、あの電話以来、二人だけで話したことはない。選挙管理委員会で会った際、二人はなんら変わる事のない態度を取り続けた。唯一、それまでと違ったのは、一緒に帰路につかなくなった事くらいだ。それでも、スマートフォンの電話帳には彼女の番号は残ったままだ。
消す事ができない、自分の意気地の無さが情けなかった。
野島家の墓の前に立つ。
今日は野島弘の月命日だ。智は、母親が持たしてくれた線香に火をつけ、花を添える。手を合わせて目を閉じた時、背後に足音が聞こえて、振り返った。
「後藤くん……」
弘の両親だ。二人とも複雑な表情を浮かべていた。
智は頭を下げて、その場を離れようとした。その背中に弘の母親の声が投げかけられる。
「あなたにこんな事を言うのは酷だけど、あなたの証言があの子を死なせたのよ。あなたのせいで、弘は学校を追い出され、秘密を暴かれ、死んでしまった。あなたのせいで」
弘の母親の手を、彼女の夫が掴んだ。「もうやめなさい」と囁く。
智は何も言う事が出来ず、肩越しに頭を下げて立ち去ろうとする。
「後藤くん。あの女の子とはまだ仲がいいの?」
弘の母親が、歩く彼の背中に声をかけてくる。
「自分だけ、幸せになれるって思っているの?」
智は、逃げるように歩いた。
自転車に飛び乗り、必死にペダルを漕ぐ。彼の独りよがりの正義感で、人ひとりが死んだのだと糾弾されたようだった。
ペダルをこぐ彼の顔を撫でる風は、瑠香と最後の電話をした時に比べ、随分とおだやかになっていた。春なのだ。しまなみ高等学校では、もうじき桜が咲き始めるだろう。彼の気持ちがそんなにそれを拒んでも、時間は進み、季節は移り変わる。巻き戻す事はできない。
うずら屋の看板が目に入り、彼は居心地の良い空間を求めるように店に入った。
「よお」
黒田が笑顔を浮かべた。そして、目で合図する。
智は、いつものボックス席で紅茶を飲んでいる、池田瑠香の姿を見つけた。
二人の視線が交差する。
智はゆっくりと近付き、彼女の正面に座った。
「ひさしぶりね」
瑠香の声。笑顔。
ひさしぶりに見た。
綺麗だった。
でも、今までの彼女とは思えない冷めた表情。しかし、それはこれまでの彼女が作りものであるかのような、自然な印象を智に与えてくる。
「あなたの質問に答えてもあげていいかなと思ってたんだ。そしたら、あなたが来た」
尋常ではない空気を察して、黒田が無言でコーヒーを置いて遠ざかる。
「あの二人は、どうして学校に忍び込んでいたんだ? 君の差し金かい?」
瑠香は吹き出した。
「まず、野島弘と私は付き合っていたわけじゃなかった。彼の恋人は高田裕子。で、夏休みの間に問題がおきたの。私は彼女に呼び出されて、二人で会った。野島くんの子供ができたって。どうしようってね」
彼女はそこで笑った。
「どうしようって言われてもね。選択肢は二つしかないじゃない」
瑠香から視線を逸らし、智はコーヒーの深い色合いを眺めていた。それはまるで、彼の心の色のように深く黒く、濁って見えた。
「私はどちらの方法を取るにしても、お金がいるって事を言ったわ」
彼女は目を閉じた。口は笑っている。
「だから私は、お金が欲しいなら、仕事をするしかないよねと言っただけ。もともと計画はあったんだけどね。どうしても、学校に侵入するのは嫌だって、意気地なしが言い張るから……その役目を野島くんがしてくれたら、取り分を増やしてあげるって話をしてあげたの。そうしたら、裕子が説得するって言うから、一緒に野島くんに事情を話して、仕事をあげただけ。山田くんは元々、する気満々だったから。でも、あの事件があってから全てが台無し……話せるのはここまでね」
智はコーヒーを飲んだ。
「ネット販売の事はどうなんだよ? 生徒会長選挙は? どれくらい関与してたんだ?」
「関与?」
瑠香は目を大きく見開き、それから大きな声で笑い出した。
ひとしきり笑った後、彼女は涙を拭いた。
「面白い事言うね。あんな事、あの人達に考えられるわけないでしょ? 口座の事とか、管理とか、計画全部、私が考えたんだから。彼らはそれに参加してただけよ」
智は目を閉じた。
「いい? 智くん。はっきり言っておくけど、全部、私が考えた事なんだよ。皆、それに乗っかってただけ」
瑠香は相変わらず、綺麗な顔だった。
「野島くんも、死ぬ事なかったのにね。責任とれって電話したら、まさかあんな事になるなんて、私も驚いてるよ」
瑠香の語尾に、含み笑いが重なる。
「そうだ。一個だけまだ謎が残っているよね?」
彼女が空になったカップを受け皿に置いた。智は何の事を言っているのか分からなかった。瞼を強く閉じ、聞きたくないと態度で示すが、彼女はそれを無視する。
「智くんが、どうしてあの二人に嵌められて選挙管理委員になったと思う?」
瑠香の表情が変わる。
二人で楽しく過ごしていた時の彼女の笑み。
引き込まれそうになる笑みを浮かべた彼女が唇を動かす。
「野島くんから聞いてたのよ。あなたの特技」
智は喉を鳴らした。彼女の言葉を待つかのように、じっと動かない。その彼に向かって瑠香の言葉が紡がれる。
「だから、私はどうにかして、あなたを仲間に引き込みたいと思ってたの。でも、私から近寄ったら不自然よね。これまで接点なんて無かったし……だから、私とあなたの接点ができるように、あなたを嵌めて選挙管理委員になってもらったんだよ。あなたの事が知りたかったから」
智の顔がどのような顔をしていたのか、瑠香は分かっていたはずだが、表情を変えない。
「あなたがどんな人か、価値観とか知らないと誘えないじゃない?」
彼女は小さく溜め息をつくと、ボックス席から立ち上がった。
「仲間に引き込もうとしてたのに、あんな事件があったし、あなたはよせばいいのに、首を突っ込むし……もっと反対しておけば良かったと後悔してるよ。まさかここまで辿り着いちゃうなんてね」
智は黙って、彼女を見上げた。
「でも、騙されているのに、誰かの為に必死になる智くんて、格好よかったよ。私は好きだったな」
彼は危うく、コーヒーカップを落とすところだった。彼は淀んだ目で、ぞっとするほど美しい顔をした女の子を見つめた。
瑠香は、智の心を見透かそうとするかのように、彼の瞳を覗きこんでくる。彼女の微笑みの中に恥ずかしさを含んだ表情が、彼の顔の直前で止まり、そっと智の髪に手を伸ばしてきた。
瑠香は、微笑むと口を開く。
「嘘で始まった関係だったけど、私、好きだよ。今も」
彼女は智から離れる。
彼女の背を追う彼の目は、動揺で激しく視線を散らした。
瑠香は一度だけ、肩越しに笑みを彼に見せると、黒田に手を振り、挨拶をして店から出て行く。
うずら屋の、ドアにかかる鈴が立てる音が、智の耳にしばらく残る。彼は一人、瑠香が座っていた場所を見つめていた。
そして、冷めたコーヒーを飲み干す。
楽しそうに笑う瑠香の顔が、智の脳裏で蘇った。
彼は決心したように拳を握ってソファから立ち上がる。
智はスマートフォンを操作して瑠香と表示された番号を見ると、発信ボタンに指をかけ、そっと力を込めた。
―おわりー
嘘をつく理由 ビーグル犬のポン太 @kikonraku
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