第14話 何があったのか。

 その日の夜遅く、今田と新井は、酔いつぶれた高田をタクシーで自宅まで送った。

「大丈夫……大丈夫……」

 二人に両肩を抱えられた高田は、もう何度目かのセリフを吐きだす。

「大丈夫じゃないでしょ? そんなに飲んで……」

 高田は酒に強かった。しかし、あれだけ飲めば泥酔しても仕方がないと今田は思う。彼がそう思うほど、この日の高田はよく飲んだ。

 飲ませる苦労など全くなかったのだ。

「高田さん、鍵は?」

 新井の声に、もう高田は反応しなかった。いびきが聞こえてくる。

 新井は高田のスーツのポケットを探った。右のポケットにそれは入っていた。玄関の鍵と車の鍵、それと何か別の鍵がキーホルダーについていた。

「今田さん。ちょっと高田さんをお願いします。鍵を開けます」

 新井が玄関でガチャガチャと音をたて、高田家の鍵を開けた。

「開きましたよ」

 今田が高田を家の中に運んだ。

「おい、ちょっと風呂を沸かせ。俺は高田さんを横にしておく」

 今田はそう言うと、ぐっすりと眠っている上司を抱え、廊下をまっすぐに進んだ。奥のドアの向こうがリビングだろう。新井がその廊下の右側に並ぶドアを一つずつ開けて、中を確かめる。

 脱衣所と、奥には風呂場だ。

 今田が高田をリビングに運んだ時、和風の部屋の真ん中に、コタツがある。彼は高田をそこに寝かせて、こった肩を手でほぐす。

 その時、風呂場のほうで派手な音が聞こえる。風呂場の中で何かをひっくり返したような乾いた音が家に響き渡る。

「うわああああ!!!」

 新井の叫び声に、寝ていた高田も飛び起きる。

「どうした?」

 今田が風呂場のほうへ足を踏み出した時、泥酔状態の高田が立ちあがろうとしてよろめく。それを慌てて彼が支えた。

「ちょっと、高田さん。寝ていてください」

「馬鹿……、勝手に……」

 馬鹿野郎、勝手に人んちをつつくなと言いたいのだろうと思って、今田は笑った。

「高田さんの為に風呂を沸かせと言っておいたんです」

「馬鹿」

 高田は風呂場へ向かおうとする。しかし、足取りがおぼつかない。それでも彼は必死に風呂場へと向かう。そこに風呂場から新井が飛び出してきた。

「い……今田さん」

 顔面が蒼白だ。今田に抱えられた高田の息も荒くなる。

「高田さんを見てろ!」

 新井に向かって叫ぶと、彼は猛然と風呂場へ駆け込み、引き戸を開けて浴室を見た。

 その瞬間に、彼の鼻を強烈な匂いが刺激した。何か鉄に鼻を近づけたようなそんな匂い。今田は目の前の浴室の壁をじっと見つめた赤茶色いシミ。足元を見る。赤黒く変色したタイル。

 今田はこの浴室の匂いと、変色した壁とタイルの原因に気づくと、すぐにその場を離れ、廊下に飛び出した。

 高田と目が合う。しかし、それは一瞬の事で、高田は床に視線を落とした。

 震える手で今田は携帯電話を取り出す。操作もままならない。

「今田……」

 高田が喘ぐように、彼を見た。その目は怯えと怒り。相反する感情が入り乱れて混乱しているといったほうが正確か。

「もしもし、管理官。今田です。今、高田警部補の家です。すぐに応援と鑑識を回して下さい」

 新井が、今田の電話を聞きながら、呆然とする高田の腕を掴み、身動き取れないように組みしだいた。

 電話を終えた今田は、ゆっくりと浴室に入り、改めて中を見渡す。

 その浴室の壁は、パッと見はカビ汚れにしか見えなかったが、そうではないかと疑って見ると、やはり血による汚れであると分かる。

 高田警部補は、ここで誰かを殺した。もしくは……

「新井、さっきの鍵を寄こせ」

 新井がロボットのようにぎこちない動作で、今田に鍵を投げた。高田の持っていた鍵。

 今田は家から出ると、表の駐車場に停まっていた車に近づく。白い車。そうだ。高田の車が、野島弘の見たという車だったのだ。

 今田が駐車場の奥を見ると、小さな庭の端っこに、プレハブの物置を見つけた。

 無言でそれに近寄り、キーホルダーを鳴らして、車でも、家のものでもない鍵を合わせてみる。

 ガチャリ。

 物置を開く。

 そこには、除草剤やら、ゴルフバッグ、暗さのせいで何か分からないもの、それらの一番手前、開けてすぐのところに、大工道具入れを見つけた。その隣に両刃のノコギリがある。今田は、手袋をして、それを手に取った。

 月明かりの中で、その刃についた赤茶色い汚れが不気味に光って見せた。

 今田は応援を待つ間、玄関に腰をかけて頭の中を整理する。

 高田警部補の妻と娘は行方不明ではない。この家で高田に殺された。彼は二人の死体を車で、あの池に運んだ。そして、死体を捨てているところを山田直樹に見られて、彼を殺害したと推測した。

 深く呼吸をして、動揺を抑えるように息を吐き出す。

 今田が顔を上げ、疲れた体を労わるように立ち上がったのだった。




 十月九日。午後九時過ぎ。

 高田警部補は、重い気持ちで玄関のドアを開けた。家の居間に、まだ明かりが灯っていたからだ。家族と顔を合わす事は、彼にとって苦痛でしかなくなくなってから、どれくらい経つだろう。いつからこうなったのか。娘の非行が始まってからか? 中学受験に失敗したころから、彼ら家族はおかしくなっていった。特に娘は、失敗の原因は父親にあるとまで言い放った。あの時、高田は本気で娘の頬を平手で殴った。それ以来、目も合わせてくれない。

 高田が家に入り、廊下を進むと、居間で娘と妻が彼を待っていた。

 妻はすがるような目で高田を見上げた。娘のしつけもできず、かといって仕事をするわけでもない。家事もろくにしなくなった。一体、何のために生きているんだと、怒鳴ってやりたくなる。

 そして、娘。警察官の娘だというのに、髪を金色に染め上げ、十代だというのに派手な化粧と短くした制服のスカート。胸元は大きく開けられている。売春婦にしか見えない。どうして俺の娘はこうなった? 全部この、なにもしない妻のせいだ。せめて警察沙汰にならないでいてくれと祈る高田を、この娘は何度か裏切った。夜の繁華街をうろついていて補導された事が二度。無免許運転の助手席に座っていた事が二度。そして今夜は何を言われるのだろうか。こうして、二人が自分を待っている時、それは厄介事を娘がしでかし、対応に困った妻が自分を頼るといった時しかない。

 帰った夫に妻が語ったのは、到底、彼には信じられない内容だった。

「今、何と言った?」

 高田はふてくされた娘と、懇願するような視線を向ける妻を交互に見た。

「だから、裕子に子供ができたのよ……」

 妻は何度も言わせないでとつぶやくと、夫から目を逸らし、お茶をすする。その正面に座った娘は、「めんどくせぇ」と言葉を吐き出し、立ち上がった。

「待て。どこへ行く?」

「部屋」

「待て。そこに座れ」

 娘は溜め息をついて、腕を組み高田を睨む。

「ていうか、何? あんたには関係ないじゃん」

 裕子は高田に聞こえるように舌打ちをして、高田を押しのけ階段を上がる。

「おい!」

 高田の声を無視して、階段を駆け上がった娘は、自分の部屋のドアを、家中に音を響かせて閉じると、そこにこもってしまった。

 子供ができた? 俺には関係ない?

 高田は怒りを抑える為に、呼吸を意識的にゆっくりとする。俺はいつまでこんな生活をしなくちゃいけない? なんで俺が……俺が何をした?

「とにかく、たまには父親らしく、あの子を説得してよね。私はもう無理。何にもしないんだから、こういう時くらい役に立ちなさいよ」

 妻の顔が視界に入った瞬間、彼は彼女の髪を無意識に掴んでいた。

「ちょっと……やめて!」

 妻の声が、彼を余計に逆上させる。高田は左拳を妻の顔面に叩きこんだ。鼻の潰れる感触。妻のくぐもった悲鳴。

 俺の人生、めちゃくちゃにしやがって! 誰の為に仕事をしてると思ってんだ。お前が買いたいと言った家だって、苦労して買ってやったじゃないか。娘の為にというから、小学校低学年のうちから、塾通いもさせて、中学受験もさせてやった。受験に失敗した時は、家の事は何もしない俺のせいだとののしりやがった。そして今、お前のその言い様はなんだ! 馬鹿にするな! ふざけるな!

 彼の暴力は止まらなかった。これまで彼の中に少しずつ、確実に溜まっていたものが、その出口を見つけたかのように、一気に吹き出していて、それは火山の噴火のようであった。

 彼は妻を殴りつづける。

 金のかかる事ばかり言いやがって。お前も娘も、その金はどこから出てるのか知っているのか? 俺が必死になって稼いだ金だろ? 違うか? 仕事もしないで、一日ブラブラしてるくせに、口だけは達者になりやがって。ユウコのしつけぐらい、お前がやるのは当たり前だろうが。それすらできない母親に、存在価値があるっていうのか?

 高田は、自分の腕が誰かに掴まれている事に気づき、背後を振りかえった。そこには、裕子が蒼白な表情で立っている。

「やめて! やめてよ!」

 やめて? 何を?

 高田がゆっくりと自分の左手を見た時、その拳は赤くぬめっていた。右手は妻の髪を掴んだままだ。その妻はぐったりとして動かない。

「離せ!」

 高田は渾身の力で娘を振り払った。

 白目をむいて動かない妻を抱え起こした時、背後でにぶい衝突音がしたが、彼はそれを無視して妻を揺さぶった。妻は息をしていない。

「俺が……?」

 高田は動かない妻を床に置いた。

 そうだ、娘。

 背後を振りかえった高田は、テレビ台の傍に倒れて、あえぐ娘の姿を見つけた。テレビ台の角が赤くぬめり、娘の頭を支えた高田の左手に温かい液体の感触が伝わる。

「裕子!」

 娘は苦しそうに口を開け、自分の力で起き上がろうとした。彼女の制服のポケットから携帯電話が転げ落ちる。

「痛い……」

「大丈夫か?」

 高田は台所に行き、製氷機から氷を取り出し、タオルにくるんでリビングに戻った。娘を抱き起こし、後頭部にタオルを押し当てる。

「大丈夫か?」

 高田が娘の顔を見た時、その目は力なく宙を見ていた。

「おい、裕子」

 返事はない。高田はすぐに首に指をあてる。

 脈がない。

 高田は娘の顔をじっと見つめた。

 自分でも驚く事に、悲しさよりも、どこかスッキリとした、安心したというか、妙に落ち着いた気分だった。

「解放された……」

 リビングの時計は午後十時を回ろうとしていた。

 動かない妻と娘。

 高田の目に、娘の携帯電話が入りこんできた。そっと手に取り、操作する。

 指紋による認証セキュリティが売りの携帯電話であったが、持ち主がこうなってはそれも役に立たない。彼は携帯電話のセンサー部分を、娘の指にあてた。

 メールを読んでいく。

 娘の相手は、しまなみ高等学校の生徒で弘という名前らしい。娘はまだ、この男の子には妊娠を告げていないようだった。さらにメールを調べる。

『Lから入金催促あり』『了解』『回収班を動かす』『Lはかなり怒っている』

「何だ?……これは」

 さらにメールを調べる。

 どうやら、インターネットで何かの取引をしているようだ。Lというのはリーダーの事だろう。それだけならまだいい。しかし、気になる単語をいくつも見つけてしまい、さらにそれは、警察官の彼には、すぐに違法行為である事がわかった。

「ネットで騙し売ってるじゃないか……」

 警察官、妻と子を殺害。娘は違法行為に手を染めていた。明日の新聞に載るだろうか。なぜ、救急車を呼ばなかった? 呼んでいれば、殺すつもりがなかったと分かってもらえたかもしれない。いや、俺は警察官だ。こんな事……捕まりたくない。そうだ。なぜ、俺がこんなやつらの為に、冷や飯を食わなきゃならんのだ? 悪いのはこいつらじゃないか。俺の立場も考えず、勝手な事ばかり、権利ばかり主張する寄生虫。父親の立場も考えず、平然とこんな事をしている娘。そうだ。何もこんな事で、俺が犯罪者になることはない。

 さて、どうするか……?

 高田は立ち上がった。そうだ。殺害そのものがばれなければ良い。死体があるから、殺人事件が起きたことが発覚する。死体が無くなれば、事件は表に出ない。死体を見つからないようにしよう。

 かといって、この家に隠すのは危険だ。山に埋めるか? どちらにしても、このまま埋めるのは大変だ。分解しよう。確か、物置にノコギリがあったはずだ。とりあえず二人を風呂場へ運ばないと、居間が汚れてしまう。

 意外と重いな。食べてばかりいるからだ。結婚した時は痩せていたのに、こんなにぶくぶくと太りやがって。死んでも俺を困らせやがって。

 こいつも重いな。脛かじりのくせに生意気な口ばかり聞きやがって。

 物置の鍵はどこにやったかな?

 お、あった。

 よし、ノコギリも大丈夫そうだ。少し刃が欠けているが、大丈夫だろう。

 どっちからするか? まあ、どっちでもいい。

 意外と切れないな。死んでるのに血は出やがる。もっと時間が経ってからするべきだったか? いや、こんな事、早く終わらせたい。とにかくバラして、重りと一緒にゴミ袋に入れて、その上からビニールシートでくるんで置いておこう。そういえば、近くの学校の前に池があったな。あそこに投げ捨てちまおう。沈んでしまえば、見つからんだろう。

 骨って固いな。

 ああ、内臓の事を考えてなかったなぁ。ちょっとこれをすくって袋に入れるのはしたくないなぁ。でも、しなくちゃあな……。

 脚の膝のところは切りにくいな。くそ、ノコギリの切れ味が悪くなってきた。一回洗うか……おっと、お湯はまずい。水でと……おお、冷たい。

 くそ、臭いな。ちょっとマスクを取ってくるか。ああ、このタオルを巻いとくか。ああ、くそ、血がつきやがった。くそ! 

 なんか、太ってると切りにくいな……。もうこのノコギリだめか? もう一回、洗うか。ああ……くそ、何で俺が……くそ……くそ!

 重りは何を入れよう? ……そうだ。庭の砂がいい。

 重いなぁ。ゴミ袋、破れないかなぁ。

 ふんふん♪ ふんふ~♪

 あれ? なんでこんなに晴ればれとした気分をしているんだ? 俺は。

 俺は……俺は妻と娘を殺してばらばらにしてるんだぞ? どうして……どうしてこんなに楽しんだ?

 ふふふ……

 ふはは、ふははははは!




 高田が車に荷物を積み込み、しまなみ高等学校の近くに来た時、時計は午前五時を少し回っていた。一睡もしていないが、アドレナリンが出ているせいか、全く睡魔は襲ってこない。

 車を池の傍に停めて周囲を窺う。

 高等学校側の歩道には街灯があるが、池までは照らしていない。服も上から下まで黒で統一してきた。ビニールシートは青いが、まあ、大丈夫だろう。完全に夜が明ける前に片付けたい。日を改めようかとも思ったが、こんな事に時間を何度も使うのは馬鹿げている。さっさと片付けよう。

 大きく息を吐き出すと、高田は運転席からゆっくりと出て、トランクを開けた。軍手をして、五つのビニールシートを一つずつ運ぶ。

 胸まで池に入り、ビニールシートを池へと沈める。念入りに土を入れたせいで、高田の心配をよそに、ビニールシートとゴミ袋に包まれた娘と妻の頭部は、音も立てずに沈んだ。

 思ったより時間はかからないだろう。

 高田は、車と池を四往復した。

 残りはあと一つ。

 彼は肩に荷物を担ぎあげ、最後だと気合を入れて脚を踏み出した。さすがに疲労のせいか、彼は草地に足を取られ、水際の草地で派手にこけた。幸い、痛めたところはないが、水で濡れた上下黒のジャージはどろどろになってしまった。手で払うが、汚れは取れそうにない。

 最後の最後まで、手間かけさせやがって。

 高田はよいしょと荷物を抱え、池に入っていく。腹のあたりまで水が迫ったところで、ビニールシートを持つ手を離した。

 その時、水面に光る何かを見た。

 ゆっくりと振り返る。

 高田は目を細めた。

 新聞配達員か? いや、違うな。わざわざこっちを見るような事はしないだろう。

 見られてはいけない場所を見られた彼だったが、自分でも驚くほど冷静だった。

 高田はゆっくりと池から上がり、立っている人影に近づく。

 なんだ、学生か? なんでこんな時間に、ここにいる? 

「あの……何してたんですか? 池に何か捨てたんですか?」

 こいつは……まずいな……。

「君は? ここで何をしている?」

 高田は池から上がり、ジャージの胸ポケットから取り出した警察バッジを見せた。どんな時でも携帯してしまう。つくづく俺は刑事なのだ。絶対に、この事件が表に出る事は許されない。

「俺は捜査をしてるんだ。学生がこんな時間に何をしている?」

「いえ……」

「身体検査をする。後ろを向け」

「……はい」

 制服姿の男の子がゆっくりと背中を見せる。両手に缶コーヒーを持っていた。

「それをそこの植え込みに置け」

「あの、その池は僕らが毎月、地域の人達と清掃してるんです。ゴミを捨てていく人がいるから。だから、そうだと間違っ」

 植え込みのところに缶コーヒーを置くタイミングを見計らい、高田は背後から男の子の首を絞めた。柔道有段者の彼は力に自信があった。渾身の力を込めた。男の子が彼の腕を掴み、必死に引き剥がそうとする。

 そんなやわな腕じゃ負けないよ。

 高田は笑みを浮かべた。

 自分の妻と娘を殺したんだ。他人を殺せないわけないだろ。一人、増えようが関係ない。こうなれば隠し通すだけだ。俺はもう一線を越えているんだ。

 高田が口端をゆがめた時、遠くで原付バイクの音が聞こえる。

 今度こそ、新聞の配達だろうか。

 絞めた首の持ち主が、力なく手を宙にぶら下げた時、高田は男の子を植え込みに倒すように手を離し、急いで車に戻った。学生の死体を処理できなかったのは痛いが、今は姿を見られるほうがまずい。運転席のシートが汚れてしまうが、しょうがない。とりあえず、家に帰って、このずぶ濡れの服を脱いで、乾いたシャツと下着を着たかった。

 人を殺したというのに、こんな事を思う俺は、どうかしたんだろうか……? まあ、いい。靴も軍手も服も捨ててしまえば、証拠は残らん。今は車を見られる事。車種が判明してしまう事がまずい。

 高田は家へと車を走らせた。

 急ぎ帰った彼は、おそらく署から呼び出しがあるだろうと予想し、それまでに汚れた風呂場を綺麗に水で流そうと思った。

 しかし、いざ風呂場に入ろうとすると、脚が前に進まない。

 どうして……?

 体がそこへ、向かう事を抗っているかのように動かない。それでも、彼はゆっくりと脚を踏み出す。

 脂汗が噴き出る。

 体が震える。

 やっと風呂場に辿りつき、浴室と脱衣所を仕切る引き戸を開けた時、高田は叫んだ。

 真っ赤に染まった浴室。

 タイルの上に散乱する、千切れた内臓。

 吐いた。

 何も食べていないにも関わらず、絞り出すかのように胃液を口から吐き出す。

 涙が自然と出てくる。

 彼はシャワーを使って、水で浴室を洗いながら泣いた。

 この手で妻と娘を殺した。

 そうだ。あれは事故だった。

 しかし、ここで二人をバラした。バラバラにした。

 俺がした。精神異常者でもない。犯罪者でもない。

 この俺がした。俺が……。

 高田は浴室を洗いながら、泣き続けた。寒さは感じなかった。

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