第二話

 何度も電車を乗り継ぎ、到着したのはすっかり日が落ちてからだった。

 自動改札機も、券売機もないボロボロの無人駅。

 切符が車内で回収されたことには驚いた。

 僕たちを運んできた一両編成のディーゼル車が、唸りをあげて発車する。

 プレハブ小屋みたいな駅だ。切れかけの蛍光灯が瞬き、そこに無数の蛾が群がり、ちりちりと音を立てる。気持ち悪い。

「バスはもう無いみたいだから、伯父さんが迎えに来てくれるみたいなの。ベンチに座って待っててね」

 母はそう言うと、携帯電話を取り出し電話を掛けだした。

 端っこに設置された黒ずんだベンチを見ると、干からび、ひっくり返った虫の死骸が幾つも転がっている。

 流石に座りたくはないな……。

 そう思い、外へ出る。

――真っ暗だ。

 相当な田舎といえど、多少の民家や施設なんかはあると思っていた。

 本当に何もない。目の前に広がるのは、ただ真っ黒な暗闇。

 それと横に走る、一本の道を照らす頼りない街路灯の光だけ。その筋も、やがては闇に飲み込まれてしまっている。

 駅の前にはバス停があった。こっちにもベンチが設置されているようだ。木製で、朽ちかけているけれど中の虫だらけよりはマシだろう。

 僕は荷物を下ろし、長旅で凝り固まった身体をほぐすため、大きく伸びをしてベンチに腰掛けた。

 流石の弟も虫には耐え兼ねたようで、少し離れて座ってくる。ベンチが少し軋んむ。暫く整備されていないのか、随分風化している様子で壊れてしまわないか不安になった。

 今日は疲れた。僕は目を閉じる。

 澄んだ、心地の良い夏の夜風が僕の頬を撫でた。

 夜のにおいがする。それと、草と木のにおい。


 なんだか懐かしいような、そんな気持ちになる。ノスタルジーというやつだろうか。

 ふと、夜空を見上げた。

 

「――ぁっ……」

 不意に出たその小さな感嘆は、僕を包み込む深い闇の静謐せいひつに溶けてゆく。

 

 星だ。

 それも、見たこともないくらいの満天の星空。

 雲も月もないその夜空には、言葉にならないほどの美しい星空が広がっていた。数多の星々が放つ繊細な輝きが漆黒を飾り、まるで透き通る羽衣のように、鮮烈なまでの美しい情景を織り成している。

 

 すごい。

 興奮。高揚感。なんとも言えない感情が、胸のあたりで何かが溢れていくような、そんな感覚が、僕の身体をひた走る。

 

「迎えに来るまでもう暫くかかるみたい。」

 母の声がした。振り向くと、母も弟も同じように空を見上げていた。

 顔に出ていただろうか、なんだか恥ずかしい。


 それから小一時間ほどしてからだった。まばらな街路灯の頼りない光の中を、二つの光がこちらの方へ疾走して来るのが見えた。その光は時折上下に不自然に揺れる。車だろう。その光景はさながら子供の頃に見た映画を彷彿とさせる。雨が降っていて、となりに大きなフカフカした妖怪が立っていれば完璧だった。

 その光が近づいてくると、その正体は一台のバンだったということが分かった。軽快にクラクションを一つ鳴らし、一度駅を通過してからUターンをして土埃を舞わせ停車する。

 運転席から一人の男性が降りてきた。

 夏といえ、夜は冷え込み少し肌寒いくらいの気温だ。それなのに白いタンクトップ一枚で、人当たりの良さそうな笑みを浮かべこちらへと歩いてくる。

 健康的な浅黒い肌。伸びる腕は筋肉質で、年齢は四十代後半といった所だろうか。いかにも働く男、という印象だ。

 この人が母の言っていた僕の伯父なのだろうか。

 その男性は僕の方を向くと、さらに満面の笑顔になり口を開いた。

「おお~!久しぶりだなぁ、!しばらく見ないうちに随分大きくなりやがって」明朗快活な声で言うと、そのまま僕の方へと歩みを進める。

「ぇあっ、えっと……ど、どうも」誰だこのおっさん。

 唐突すぎて変な声が出てしまった。顔が熱くなるのを感じる。

 どうやら僕の名前を知っているようだ、初対面では無いらしい。思い出そうと記憶を辿るが全く思い出せない。

 

 

「久しぶりって、兄さんが会ったのはまだつかさが生まれたての頃じゃない。当たり前よ」母が呆れたように笑う。

 覚えていないわけだ、生まれたてということは以前会ったのは十五、六年前だろう。ほぼ初対面じゃないか。

 ともかくとして、この人が僕の伯父ということで間違えは無い。

「いやぁそれにしても、この前まで赤ん坊だったヤツがあっという間にこんなデカくなってるんだもんなぁ!」伯父はそう言うと、僕の背中を軽く叩いた。

 大きくて、ごつごつとした手。

 ぎこちない愛想笑いをして、目をそらす。

「おお、弟のほうは初めてだなあ!」伯父が言うと、弟は笑顔で礼儀正しく頭を下げ挨拶をする。

 どうもできた弟を持つと肩身が狭い。

 特に兄が不出来な場合。

母とも幾つか言葉を交わし、伯父は車に乗るように促し、母が助手席、僕と弟で後部座席へと乗った。

 ずいぶんと乗りこなしている車のようだ、車内には釣竿やスキー板、いろいろな工具のようなものなどが積んであり、釣りやバイク雑誌なども散乱している。多趣味……なのかな?

 車が走り出す。どうやら母の実家までは一時間ほどかかるらしい。田舎おそるべし。

「眠たくなったら遠慮しないで、寝ててもいいからな」そう言うと伯父は、ラジオを付けた。

 音楽番組のようだ。丁度曲が終わったところなのかどこかで聞いたことのあるポップソングがゆっくりとフェードアウトし、ラジオのDJが小気味が良いほどに陽気な声で話しだす。

 よく知らない昔のバンドの話、流行りの歌の話。あまり興味のない話題だ。

 けれどなぜだか自然と耳を傾けてしまう。

 一通りトークが終わったのか、DJが次の曲を煽った。耳慣れた英語のタイトル。

 ベースの軽快なリズムが真っ暗な車内に響く。

 誰もが知っている。僕の知らない世界の音楽だ。

 昔、映画を見たことがある。

 英雄になりたい少年たちが、死体を見つけるために線路沿いをどこまでも歩いて行く。なんて話だったと思う。グッドエンドでは、たぶん無い。

 

 舗装が悪いのか、狭い車内が時折大きく揺れる。

 薄汚れた車窓からは、まるで何かの警告灯のように街路灯が流れていた。

 


 そんなこんなで、到着したのは夜の十時を少し回った頃だった。

「さあ、ついたぞ」

 伯父のその声で目が覚める。どうやら少し寝てしまっていたようだ。

 車はすでに停車していた。

 隣に目をやると、弟はまだ涎を垂らして爆睡している。

 伯父と母が車を降りてドアを閉めると、ハッとしたように目を覚まし、きょろきょろと辺りを見回している。なにしてんの。

 とりあえず僕も降りよう。足元に置いた荷物を抱え、車を降りてついていく。

 弟もすぐに理解したようだ。すぐ後をついてきた。

 ずいぶんと立派な家のようだ。暗くて全様は見えないが、家の周りは白壁と板張りの塀に囲まれていて、玄関先には小さな門がある。いかにも格式高い荘厳な日本家屋という感じだ。とは言っても日本家屋なんてほとんど見たことが無いのだが、一般的な、というには相応しいとは言えないと思う。

 礼儀や作法に厳しい家主じゃなければいいんだけれど……。

 そういえば母の実家と言ったが、祖父が死んだ今、この家にはだれが住んでいるんのだろうか。祖母は僕が生まれるずっと前に亡くなったと、ここに向かう道中で母が言っていた。

 門をくぐり、石畳を進む。なぜだか少し緊張してきた。

 伯父が玄関の引き戸開け、僕らに指示を出す。

「俺は車しまって来るから。部屋に荷物置いて、今日は遅いから風呂入って寝ろ。明日はたぶん忙しいから。あ、子供らは一番奥の和室な」

「部屋……。私の部屋ってまだあるの?」

 なんだか少し懐かしそうに母が訊く。

「ああ。埃かぶってるかもしんねえけどな」そう言って笑うと、車の鍵を指で回し、口笛を吹きながら歩いて行った。

 靴を脱ぎ、玄関ホールへ上がる。かなり古い板張りの廊下だ。体重を乗せるとみしりと軋む。

「この廊下をまっすぐ行って、突き当り左に曲がって一番奥の部屋だから。荷物おいて――こっちの廊下をまっすぐ行って左にお風呂があるから。すぐに入っちゃいなさい」母は右に伸びる別の廊下を指差し言った。

 軽い道案内レベルだな。本気で家の中で迷ってしまいそうだ。

「わかった。明日は何時に起きればいいの?」弟が訊く。

「お通夜は夕方だからそんな早起きする必要はないと思うけど、何か手伝ってもらうって言ってたから……。でもいつも通りで大丈夫」

「わかった。じゃあおやすみ」弟はそう言い頷く。

 弟のいつも通りって、僕からしたらすげえ早起きなんだけど……。野球部の朝練があるとかで、いつも六時前には起きているようだ。僕は絶賛爆睡中だからわからないけれど。

 ともかく母の指示通り僕らは歩き出す。二人分の足音が、静かな屋敷に響く。

 それにしても随分と長い廊下だ……。優に三十メートルはあるんじゃないか?まるで旅館みたい。

 僕の祖父は一体どんな人だったんだろう。一般的な家庭じゃこんな家に住むことなんて出来ないだろう。経営者?医者?

 屋敷はしっかり手入れはされているが、かなり古い建物だと思う。

 そうこうしているうちに部屋につく。どうやらここが屋敷の一番端の部屋みたいだ。なんだか落ち着く。

 襖を開ける。既に布団が二つ敷いてあった。……弟の隣で寝るのか。いいけどさ。この年で誰かと寝るなんて中々無いから、気恥ずかしい。

 広さは六畳くらいだろうか、ごく普通の和室って感じだけれど、床の間にはよくわからない掛け軸と、値の張りそうな花瓶のようなものが飾られている。玄関や廊下にもいろいろ飾ってあったけれど、もしかしたら一つ一つが信じられないくらい高いものかもしれない。気を付けないと。

 とりあえず部屋の隅に荷物を置き、着替えや洗面用具を取り出す。

「兄ちゃん先に入っていいよ」弟が言う。

「あ、うん」僕が言う。

 今日最初の弟との会話だ!一瞬で終わったけど。

 とりあえず風呂へ向かう。どんなお風呂なんだろう?薪風呂?いやまさかな。

 そんなことに胸を膨らませながら歩いていると、丁度玄関から歩いてくる伯父に会った。

「風呂か、しっかり肩まで浸かって温まれよ!あ、場所分かるか?」相変わらずのトーンで僕に言葉を掛けて来る。

「はい、そこの廊下をまっすぐ行って左。ですよね?」

「おしそうだ。タオルは棚から適当なの出して洗濯機に放り込んどけ」

 そう言うと伯父は。と軽く手を上げ僕が歩いて来た方向へと歩いていく。

「わかりました。ありがとうございます」伯父に軽く一礼し、僕も風呂へと歩き出す。

 気さくな人だ。初対面だけど、いつものような妙な気まずさみたいなものは感じない。あの他人の意を介さないような性格か、屈託の無さそうな笑顔と目のおかげだろうか?

 風呂についた。少しは迷うかと思ったのだが、洗面所があってすぐに分かった。

 洗面所から風呂場を隔てている扉は木製の引き戸で、窓には磨りガラスがはめ込まれている。驚きだ。今までの人生、プラスチックか金属製以外の風呂の扉を見るのは初めてだ。カビとか大丈夫なのかな?

 脱衣所で服を脱いで洗濯籠に放り、扉を開けた。

 お湯の湯気が立ち込めている。お湯を張っている真っ最中みたいだ。タイル張りの湯船に、すでに半分位溜まっている。

床もタイル張りで、腰位の高さからは板張りの壁になっていて、天井付近には磨りガラスの小さな窓と換気扇。それほど大きな浴場とは言えないが、一人で入るには十分すぎる大きさだ。

「つめたっ!」足をひっこめる。

 想定外の床の冷たさに、思わず声を上げてしまった。これはなかなか覚悟がいるな……。

 意を決して踏み入れると、急いでシャワーからお湯を出しで床を温めて、身体を洗う。

 そろそろ湯船もいい頃だろう。お湯を注ぐ蛇口ひねってお湯を止めて、湯船に浸かる。

 大きく息をつき、ゆっくりと目を閉じた。

 今日は疲れた。ほとんど移動だけだったけれど、よく眠れそうだ。

 遠くから蛙と、虫の声が聞こえる。

 風が時折、窓にあたる音。

 ぽたり、と滴が落ちる音。

 古い木のにおい。

 石鹸のにおい。

 微睡へと僕をいざな


 そうして僕の夏休み七日目が終わった。

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りふれいん! 米崎夏月 @yonesaki_natsuki

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