第四章 旅路の絆



       一


 翌朝早くユングムルトの家を出た。


「いっちまうんじゃろ」

 老人はすでに起きていた。

 出がけのおれに声をかけ、返事を待たず、つづけて言う。

「ルゥファナを頼む。今後どんな人生を歩もうと、ここで送った日々よりましじゃろう」

「……わかった。世話になった」

 昨夜のその後は訊ねなかった。


 ユングムルトは無言でおれに小さな布包みを手渡してくれる。音と重さから中身は貨幣の類だろう。賃金の残りのつもりか、ルゥファナへの餞別か、そんな意味と推察した。

 

 無言で軽く会釈を返し、ふところへその布包みを入れると、それ以上挨拶もせず外へ出た。


 もっと気のきいた別れ方もあったろうが、別れってのはつらいからな。

 時間短く、ことば少なく。つまり、素っ気なくすませた方がお互いのためになるってことだ。


 ルゥファナはとっくに用意をすませ、監視小屋の中心となる、村はずれのあの家屋でおれを待っていた。

 長い髪を質素な飾りピンで留め、短くまとめている。

 動きやすそうなスズラ麻のシャツにズボン。頑丈そうな革製の長靴は、長旅を想定しての選択だろう。彼女の体格にあった巨大な背負い篭には布包みがいくつか放り込んであり、右の手には例の金槌を持っていた。

「そいつは置いてけよ。旅には不向きだ。剣ならいずれおれがなんとかする」

 彼女は長柄の金槌をしげしげと眺め、やがて返事をした。

「いいわ。……でも、それなら寄っておきたいところがあるの」


 おれたちは山中のあの練習場を目指した。

 山道の途中、彼女はおれの背中の楽器に気づいたらしく、言う。

「そのキリューグ、とうとう持ってきたの?」

「ああ、今後はこれも必要になる」

「よかった。それにもまた役割が出来たのね」うれしそうに声を上げた。


 練習場に着くと、ルゥファナは荷物を降ろし、手に持った金槌を構えた。目の前の擬敵に向かい、気合いと共にそれを振り下ろす。

「えい、えいっ!」

 擬敵は強烈な打撃につぶれ、割れ、裂け、破片となり、つぎつぎと地面に散っていった。

 最後に残った擬敵に、彼女は金槌を振り上げ、そこで溜めると一気に打ち下ろした。

 <ばりばりばりばり>

 金槌は擬敵の中ほどにまでめりこみ、ついに柄は折れる。

 長柄の持ち手は一部分、彼女の手に残っていた。

 彼女はその切れ端をなぜか大事そうに持つと、汗をぬぐいつつ、おれを振り返った。

「すっきりしたわ……これは持ってく。いい?」

 おれは肩をすくめた。

「ご自由に。でも、きみはなぜ金槌なんか使うんだい?」

 かねてからの疑問だ。

「あ、これ? これは金槌じゃないわ。練習用の『ドゥーリガン』よ」

「え? ……それが? あの『豪剣ドゥーリガン』だって?」

 驚いて、おれは伝説の豪剣と謳われる『剣王ドゥール』の得物と同じ名を持つ、その金槌の柄を凝視した。

「ユングムルトはそう言ったわ。彼はウーケでこれの本物を見たそうよ」

 そうか、ユングムルトはそこにいたのか。だから例の初歩連撃の指導も出来たわけだ。

 

「いたいた! おーぅい!」

 練習場の端から声をかけられる。

 驚いて振り向くと、おれの楽隊にいた村の青年たちが走ってくるところだった。

「きみら! ……いったい?」

「大変ですぅ、センギィぃ! いま村にストルングの剣士団が来ていますぅ!」


 昨晩ルゥファナが懲らしめた巨漢の剣士はオルスワムという札付きの乱暴者だった。

 やつは信じられないことにれっきとした主君もちの剣士らしい。つまり、ストルング郡の選王に雇われているってことだ。

 酒の入らないときのオルスワムは、剣士団内でも指折りの実力者で、キスル国王――現民王――への推挙すら約束されている男だったという。たしかに場慣れて才能ある剣の遣い手とは思った。でも酒に飲まれるようでは所詮二流の部類だ。


 昨日の騒ぎを調査するとのことだが、その目的はルゥファナの捜索と逮捕であることは間違いない。ストルング郡を代表する華も実もある剣士が、田舎村落の給仕女にかなわないとなれば、剣士団の威信や存廃に関わると短絡的に考えているに違いない。

 おれも以前そうだったように、女じゃ剣士は務まらない……男の剣士ってのはみんなそんな風に考えるやつばっかりだ。


「下の道はみんな剣士たちに封鎖されています。幸い、ここのことはまだ知られていません……いつまで隠し通せるか分からないけれど」青年のひとりは言う。

「隠す? 隠す必要なんてないのに? 村のひとたちはここのことを黙ってるっていうの?」

 ルゥファナは不審そうに声を出す。

「ルゥファナ。村のみんなは無事旅だって欲しいと願っているんだ。昨夜の事件が起こったとき、みんな、ふたりがこの村を出て行くって予感してた」

「うそだわ。本当は村を出て行かせる、ちょうど良い機会だって思ってるんでしょ?」

 彼女はその発言をすっぱり切り捨てた。

「……村長はじめ、村のおもだった大人たちはみな、無事出立するまでは一切ルゥファナのことは知らぬ存ぜぬで通そうって――」

「ほらね、あたしと関わりがあると、なにされるか分からないから」

 青年は彼女のことばを遮るように、つづきを話す。

「――あの娘はこれまでもう充分村で苦しんだ、だからせめて旅立つときくらい、今度は村全体で守ってやろうって」

「……え?」

 意表をつかれたようにルゥファナは口をつぐむが、しかしすぐ苛立ち混じりの声で青年に噛み付いた。

「ふざけないで! あたしは『呪われた子』よ。そう言って、みんな、あたしをこの村に閉じこめてたじゃない! 見張ってたじゃない!」

 巨体に迫られ、青年は困惑気味に答える。

「いや、そうじゃない。ルゥファナはやはり英雄ドゥルクの予言の通り、大いなる使命を持つ子だったと……理不尽な暴力に立ち向かう昨夜の姿を見て、村のだれもがそう思ったんだ。あのオルスワムみたいなやつから、この国の平和を護るために」

「くだらない! あいつはただの酔っぱらいだったわ」

「そうかも知れない。でも、もう呪われた子と考えているものはだれもいないんだ。それは本当だよ。もうずいぶん前から!」

「うそつき! いい加減なことを言わないで!」ルゥファナは怒鳴った。

「……前はみな、身体の大きさを恐れていたことは事実だった。ぼくらもいろいろ聞かされて育ったし。正直言うと、少し前まで、ぼくも怖かった。でも、それだけだよ。酒場で働くようになったら、ただ大きいだけでぼくらと少しも変わっちゃいないってことはすぐに分かった。それに、ユングムルトはみんなに話しつづけていたよ。見ろ、あの娘がいて、何か悪いことは起こったのかって。流行り病で村の人間が家族を亡くしたことを災厄というなら、あの娘の両親だって死んでる、同じじゃないかって」

「ユングムルトが……」

 青年は彼女の誤解を解こうと必死だった。

 真剣なそのことばに、怒れる巨娘の反応は、次第に弱まっていった。

「……それじゃ、なぜだれもあたしに近づいてこないの? 酒場でお愛想振りまいているときに世間話はしてても、村のだれともちゃんとしたつきあいはなかったわ。それは呪いのかかったあたしとか、その、呪いそのものを恐れていたからでしょ!」

「それは……」

 青年は口ごもった。


 その理由はなんとなくわかる。

 人間ってのは、自分のやり方をなかなか改められないもんだ。相手に負い目があるなら、なおさらそうだ。話しかけなくちゃ、とかなんとか思ってるうちに時は過ぎ去り、ますます時期を逸す。

 両方とも遠慮しあって、お互いを理解する機会をなくしちまったってことだろう。

 さすがユングムルトは元村長だけあって、ことの本質を良く見抜いてたみたいだ。


「信じてもらえなくても、仕方ないかも知れないけど……いろいろ思うところもあるだろう、けど……ここはやはりルゥファナのふるさとで、だから、いつか必ず戻ってきて!」

 青年のことばにルゥファナはぐっと息を詰まらせた。

 何か言おうとして、声は出てこない。たぶん泣いちまうからだろう。

 彼女の気をそらすため、おれは青年たちの楽団のリーダー、アズムントの消息について訊ねた。中のひとりは不本意そうな口ぶりで教えてくれた。

「彼は無事です。最初はもう助からないかと思って。顔中血だらけだったし……実際はただ気絶していただけで、血はつぶれたニキビから出ていたんです。血ニキビ野郎って言われてます」

 思わず笑っちまうところだった。

 ルゥファナもようやく気持ちの整理をつけたようだ。

「……あなたのことばが本当かどうか、確かめにまた戻ってくる。いい?」

「その時にはきっと英雄の凱旋になるよ。ぼくらの楽団はお祝いの曲を奏でるから。胸を張って戻ってきて。その時までに、もっとうまくなっておくから!」

 それはちょっと想像しがたかった。

 涙をこらえているせいもあるのか、ルゥファナも、いくぶん引きつった微笑みを浮かべた。


 ふもとの様子を探っていたらしい青年のひとりは、下界でなにか動きのあることを我々へ告げに来た。どうやら急を要する事態になってきたらしい。

「捜索の剣士たちはぁ、いよいよ山に入るらしいとのことですぅ!」

 やはり別れはつらい。

 おれは愁嘆場を避けるため彼女を促した。

「下が封鎖されてるとすると……やはり」

「山を越えるしかないわ。ここを抜けると聖主国ミーナスのすぐそばよ」

 おれは目の前の山を見上げ、嘆息した。

「だが、この山には例のコケが……」

「大丈夫、怖いならおぶってってあげるわ」

 ルゥファナはそう請け合った。


 青年たちと別れ、山中に分け入ることにした。

 そこは彼女の庭のようなものらしく、ずんずん進んでいく彼女の後ろからただついていくだけでよかった。

 おれたちは追っ手を巻くため道なき道を登ったり降りたり、最後は山腹を迂回してひたすら歩きつづけた。相手の体勢の整う前に動いたおかげか、追っ手の気配はまったく感じられない。小休憩を取りながら二昼夜ほど歩を進め、結局だれにも遭遇することなくストルングからほかの郡へ入った。


 ルゥファナの勧める聖主国ミーナスには入らなかった。

 おれの計画にいまのところ、ミーナス行きはない。

「どうして? どうして安全な方に行かないの!」

「まだ早いからだ」

 ルゥファナは自分の提案を受け入れられなかったので、何回もそのわけを問いただそうとした。しかし何度訊かれても答えは同じだ。

 ふくれっ面をする彼女に真顔で言った。

「いいかいルゥファナ、良く聞いてくれ。おれはきみを剣士にすると約束した。きみもおれに剣士になりたいと言ってくれた。だからどんなことをしてでも、必ずその約束を果たす。しかし、そのためにはおれの言うことを黙って聞いてくれ。たとえそのときには信じられなくても、言うことに従ってくれ」

 彼女は不満げに聞いていた。おれの話が終わると、小生意気そうな表情に眉をしかめた。

「……いいわ。その代わり絶対にあたしを剣士にして。もし約束を破ったら……」

「破ったら?」つられて訊きかえす。

「ネッケーゼ英雄楽団の常任指揮者になってもらうわ」

 毒コケの茂みに投げ込まれるほうがマシだ。



       二


 最初の目的地はおれの生まれ故郷、キスルの東南に隣接する国、ケネヴに定めていた。

 そこはおれがかつて拠点にしていた土地だったし、そしてなによりルゥファナの巨体が目立たない国でもあったからだ。


 学問の国ケネブは商業国家ウーラに次ぐ交易のさかんな国としても知られ、護国連合のみならず、それ以外の国からも多種多様な人種、人間が大勢領内を行き来している。

 ルゥファナは、女性としてはおれが驚くほどに大きい。――しかし巨大な人間はまだまだ世の中に大勢いて、別に不思議はない――ケネヴの国は、そこに住んでいれば、そんな風に思える雰囲気を持っているのだった。


 できるだけ大きな街道を避け、山に登り、川を渡りながら野宿を繰り返した。

 ストルング郡の剣士団も、さすがにネッケーゼ村へ送り込んだ規模の捜索隊をよその郡にまでは出さないだろう。他郡での目立つ捜索はかえって自分たちの不名誉を喧伝することになる。しかし、もし少人数の追っ手を各地に派遣していたら、という不安も拭えない。


 キスル国境を越え、ケネブに入るまでは、なるべく彼女の巨体を人目に触れさせないほうがいい。目撃情報から進路を読まれ、先回りされてはなんにもならない。

 ただ、旅慣れたおれはともかく、かわいそうなのはルゥファナで、いくら男勝りの彼女でも初めての旅が野宿の連続では、心身ともに疲労の蓄積は顕著だった。


 案の定、山づたいやら山越えやらの逃亡生活を一週間も過ぎたころ、彼女は音を上げた。

「ね、センギュスト、この山を越えたら、今度は宿屋に泊まらない? あたし生まれてからまだ一回も宿屋に泊まったことないの」

「ルゥファナ、すまんがそれをできない理由はもう話したはずだ」

「目立つと困るから、でしょう? でもわたし、もう目立ったっていいから、清潔な服に着替えて、暖かい寝床で、干してないマジューを食べたいの」

 彼女の懇願をはねのけ、おれは変わらず山道を、その奥へ分け入った。


 目を覚ますと、とうに夜半過ぎのようだった。

 結局、日の暮れるまでに山越えはかなわず、今夜も山中の深い森で野宿している。

 思った以上にふたりとも体力を消耗しているらしい。

 たき火をはさむ向かいにルゥファナの姿はない。

 用を足しに行ったのかも知れないと考え、しばらく待ってみたが、彼女はいっこうに戻ってこなかった。火の勢いは少しずつ衰え、じんとくる寒さは疲労した身にこたえる。

 いくらキスルが他の国に比べ暖かいとはいえ、やはり冬の山中は相当冷えてくるものだ。

 何度も鼻汁をすすりつつ、傍らの薪を足して両手を炎にかざし、暖をとった。


 それにしても遅い。


 つらい逃避行に耐えられず逃げ出したのかと一瞬不安になり、炎に照らされた彼女の荷物を見て思い直す。動きの鈍い体と心をなんとか鼓舞して立ち上がると、おれはルゥファナを探しはじめた。


 たいまつ代わりの薪は、進む先を少しだけ照らし、吐く息の白さと森の闇の濃さを峻別する。

 森の大きさに比してあまりにも微細な灯火だけでは、なかなか先を見通すことはかなわない。


 業を煮やし、とうとう大声を出した。

「ルゥファナ!」

 森のしじまは声を吸収し、空しい沈黙がつづくだけだった。なにか焦りにも似た思いに駆られ、あたりかまわず彼女の名前を叫びながら、森の中を歩きつづけた。


 しばらくすると湖らしき場所にたどり着く。

 黒い湖水の上をもやがうっすらと流れ、冷たい湿気をはらんだ湖の空気に思わず身震いした。


 ルゥファナはすぐ近くの岸辺に倒れていた。

「ルゥファナ、どうした!」

 呼びかけに応答しない彼女をなんとか背中にかつぎ、必死の思いでたき火の場所まで運ぶ。炎のそば近くに彼女を横たえ、毛布や替えの衣類、小さなてぬぐいまで使い、ずぶ濡れの冷え切ったその大きな身体を温めた。

 火を絶やさないように気を配りながら、たき火と意識の戻らない彼女の番をする。

 全身をつぶさに確かめたわけじゃないが、外傷はないようだった。

 もちろんだれかに襲われたわけでもなさそうだ。

 とすると疲労か。

 いや、湖のほとりで用を足しているときに凍えて貧血を起こしたのかも知れない。

 そんなおれの呻吟を知ることもなく、彼女は眠りつづけた。


 朝日がおれたちの姿をはっきりと照らし出すころ、ようやくルゥファナは目覚めた。

「センギュスト……センギィ」彼女は弱々しくおれの名を呼んだ。

「ああここにいるよ」

「ねえ、やっぱり宿屋に泊まりたいわ」青白い顔で彼女は弱々しく微笑んだ。


 湖畔で倒れた理由は、彼女自身も思い至らないという。

 緊張を強いられながらつづける強行軍で、知らず知らずのうちに疲労がたまった結果としか考えられなかった。

 彼女の身を案じ、おれは自分の判断を曲げて宿に泊まることにした。といってもひとの往来の激しい巡礼街道を外れ、裏街道の旅宿で粗末な、まるで山小屋のような屋外の納屋を借りた。その方が彼女の姿を見られにくいからだった。

 幸いにも宿の主人は吟遊詩人という人種にある程度一定の理解を持っているようで、一晩納屋を借りたい、食事もそこで取ると言う、面倒くさく、大してもうけにもならないおれの要求に快く応じてくれた。実際は、臭気ただよう汚い身なりのおれに、客室や敷布を汚されてはたまらないと考えたのかも知れないが。


 おれは日の落ちきったころ、夜闇に乗じ、近くの森中に置いて休ませているルゥファナを納屋に連れてきた。

 はじめ彼女は納屋に泊まるというと、ぶうぶうと不満の声を漏らした。

 けれど納屋にしつらえてあった干し草は充分乾燥していたし、ふかふかしていて暖かった。

 宿から運んできた食事も思いのほかうまそうに見え、彼女も村の脱出以来、初めて屋根のある場所で外泊するということだけで、ひとまず満足したようだった。


 さすが農業国というだけあり、場末のこんな旅宿でさえ、食事はふつうの二人前以上ある。おかげでおれも彼女も満腹になった。

「ようやく実感がわいてきたわ」

 熱い土鍋のシチューを食べ終わると、鼻の頭にうっすら汗を浮かべ、笑顔となる。彼女のそんな表情は、ここ数日来だ。

「何の実感だ? 生きているってことにかい?」

「違うわ。あたし、ネッケーゼを出られた。いま、村の外にいるわ」

 今朝まで青白かった彼女の顔は、納屋の壁に据え付けられたたいまつの灯りで見る限り、少し血色も良くなっているように思えた。

「うーん。村のと同じ干し草のはずなのに、まるで違う匂いみたい」

 失った体力を納屋の空気で補おうとするかのように、彼女は両手を高く上げ、のびをしながら深呼吸した。周囲を板壁に囲まれた安心感からか、すっかりくつろいでいるようだ。おれでさえも少しばかり開放的な気分になっている。油断するのはまだ早すぎるのに、満腹感と逃避行の疲れで、ふたりとも緊張の糸がぷっつり切れちまったんだろう。

「考えたこともなかったけど、これが自由ってことなんだね」

 ルゥファナは座ったまま背後の干し草の山に上半身を寄りかからせ、そこに埋もれた姿勢のまま、とろとろと話しだした。

 おれも地面に敷いた干し草の上に横向きで寝転がり、ほおづえをついて彼女の話を聞く。

 内容は、たいがいユングムルトに聞いていた、彼女自身の身の上についてだった。

 呪われた子として生まれ、育ち、恐れられ、疎まれ、人々に避けられた子ども時代。

 村を襲った恐ろしい流行り病の話。

 両親の死んだときのこと。そのあとの村人たちの仕打ち。

 そのひとつひとつに口をはさまず、黙って聞いていた。目新しい情報は特にない。が、他者を通すのと、本人の口から直接聞くのとでは、やはり違う。


 情報にその本人のなんらかの感動が加わると、それはおれたち吟遊詩人の目指す歌奏にすごく似通ってくる。剣士の売り込みだろうがなんだろうが、だれかのことを歌にするには、その人間への自分の理解や感動なしには、聞き手の心を揺さぶることはできない。

 たとえどんなに凡庸な剣士でも、どこかにひとつくらいはだれかを感動させられる部分はあるもんだ。だからおれはそれを見つけるまで粘ることにしている。時には、なかなかそれを見つけられなくて、一年やそこらかかることもある。

 ヴォルフェーのときなどは――


「……ギィ、センギィ!」

 ルゥファナの話を聞きながら、少しまどろんでいたようだった。

「ん、いや、ちゃんと聞いてたぞ」

 そう答えたにもかかわらず、彼女はおれに疑いのまなざしを向けていた。

「そうじゃないの。なぜ、あなたは吟遊詩人になったのって聞いたの!」

「お、おれ?」

「そう、あなたの番よ」

「……話すつもりはないな。それを知らなきゃきみが剣士になれないわけじゃない」

「なれないわ」

 彼女は恐ろしげな声で、おれの発言を否定した。

「あたしはなぜ剣士になりたいか、話したわ」

 そんなことを話していたのか。

 記憶に全くない。

「あなたの動機を聞いておきたいの。なぜ剣士を育てるのか、そもそもなぜ吟遊詩人を仕事に選んだのか……それがはっきりわからないと、あなたにどこまであたしを任せられるか分からないもの」


 えらそうな言い方だ。

 たしかにそうかも知れない。悪い吟遊詩人にあたり、ひどい扱いを受ける剣士の話も枚挙にいとまはない。

 だが、いままでおれと一緒にいて、おれの行動を見てさえ、いまさらそんな気持ちを持つのか。

「疑ってるのか?」

 多少腹を立て、おれはルゥファナに訊ねた。目もすっかり覚めた。

 彼女は干し草の中からまっすぐおれを見つめ、答える。

「いいえ……そうじゃない……でも、知りたいの。本当は、あなたがどういうひとか」

 おれはゆっくり息を吐き、少し考えた。

 わかったよ。それが必要ならそうするさ。

「……言っとくが、別に隠してるわけじゃない。こう見えておれは恥ずかしがり屋なんだ。人前で自分について語るのは……多少勇気も必要でね」



       三


 おれはケネヴのリガオンという町で生まれた。


 リガオンはケネヴいちの貿易港ナルカリイにほど近く、便の良いことから、手軽で安全に珍しい品を手に入れようと訪れる観光客目当てに、交易品をいち早く仕入れて販売する商店や、酒場、ほか遊興施設の林立する町だった。

 場末の売春宿が生家だ。つまりおれは売春婦の子だ。

 母親はおれを生んですぐ、おれを捨てた。父親は母親の客だったらしい。

 生まれたばかりのおれを置いて、ふたりは連れだってリガオンを出て行ったそうだ。だからおれは両親の顔を知らない。

 たいていの歓楽街にならどこにでもよくある、ありふれた話。

 それでも、おれには母親――たち――がいた。

 だれひとり身よりのないおれは、宿の売春婦たち全員を母親の代わりとして育った。

 同僚のありがたくない置きみやげにもかかわらず、彼女らは日替わりで幼いおれの世話をしてくれた。物心つくまでに、彼女らの幾人かは、おれの実の母のように男と町を出て行ったり、病死したり、客に殺されたり、衛士に捕まったりしたものの、残った女たちはみなおれを可愛がってくれた。

 それぞれ人並み以上の不幸を背負い、掃きだめに流れてきた女たちだ。けれど、彼女らの多くは、不思議なことに自らの過去や運命を呪わず、明日の人生にどこか希望を持ち、いつか苦界から解放されるという夢や期待を、どこか失っていなかった。


 はじめて使いに出されたのは、まだ六つになるかならないかのころだった。

 行く先はおれの住む売春宿にほど近い、これまた場末の酒場。

 おれは、ちょうどそこで歌奏しているひとりの吟遊詩人を見た。


「その男はキリューグを奏でながら、古詩による英雄譚を詠んでいた」

「そうか! あの『ドゥルクの記』ね?」

 ルゥファナはうれしそうに声を上げた。おれは、彼女の誤った先読みを訂正する。

「いや、その詩と出会うのはもうちょっと先なんだ」


 売春宿には様々な客が訪れる。一番多いのは商人、そして剣士たちだ。

 特に剣士の客は母たちに対し、しばしば暴力をふるった。殴られて泣き腫らした赤青とりどりの顔を裏井戸の水でぬぐう母たち。それを見ているとなんだか悲しくなり、泣きながらその背中に抱きついたこともある。

 そんな記憶ばかりだから、ふつうの子どもとは異なり、おれは常々彼らに対しあまり良い印象を持っていなかった。

 それなのに、そのおれの幼い価値観は、場末の酒場で聞いた、力強く、雄々しく、もの悲しく響く、古詩『剣王ドゥール正統紀』の一節、だれもがどこかで必ず一度は聴いたことのある『剣士の十法』によって逆転したのだった。


「……剣士の十法?」

 ルゥファナは意外そうな顔をする。思い出そうと黒い瞳をまぶたの上方に上げた。

「そうだ。全部言えるかい?」

 剣士と吟遊詩人を除けば、知っていても全部諳誦できる者は少ないだろう。

『剣士の十法』は、剣士と名のつく人種にとっては、この現世に存在する、遵守すべき唯一無二の行動規範とされている。

「……ちょっと待ってね、えーと。『汝の剣を義なきいくさに仕えさせてはならない』」

「それは第三法だよ」

 苦笑しながら、傍らの楽器に手を伸ばした。

 双首のキリューグを弾く気になったのは本当に久しぶりだ。

 革の覆いをとると、片首の弦は、四本とも伸びきっていて使えなかった。もう片首の弦を調弦し、指で拍子をとる。四弦だけではこの楽器本来の迫力は出ないが、まあ仕方ない。

 宿の人間にも聞こえづらくて、ちょうどいい音量だろう。

 おれは低い声で歌い始めた。


 <ここに剣士の十法あり>

 <人の世は常に戦渦と悲惨に満ち、非道と非業は地を覆う>

 <殺めるのも剣なれば、守護するのもまた剣によるなり>

 <故に、いくさに臨む者よ、己が義と技を剣に託し、汝の信のあかしとせよ>


 <汝の剣は己の鏡と知れ>

 <汝の剣を己が欲に捧げてはならない>

 <汝の剣を義なきいくさに仕えさせるな>


 <暴虐を働く者は、汝の剣によって討たれなければならない>

 <非道を働く者は、汝の剣によって討たれなければならない>


 <剣持つ者と戦い、剣なき者のために汝の剣を振るえ>

 <虐げられた者のために、汝の剣を使うことをためらうな>

 <信義ある者のために、汝の剣を振るえ>

 <義なき復讐を汝の剣で行ってはならない>

 <斃された者の義を遂げるため、汝の剣で復讐の誓いをたてよ>


 <もし汝と汝の剣が、この十法にあらざれば、>

 <汝の剣は必ずや他の剣をもて、討ち滅ぼされる運命と知るべし>

 <故に、いくさに臨む者よ、己が義と技とを剣に託し、汝の信のあかしとせよ>


『剣士の十法』部分のみ、抜粋して詠んだ。

 初めて見るおれの歌奏を、ルゥファナは身じろぎもせず眺めている。


「なんだか……胸が詰まる」

 演奏が終わると、彼女は歌詞にか、演奏になのか、その両方か、ともかくそう自分の感動を述べた。いずれにせよ幼い日のおれの気持ちが少しでも伝わったのなら、吟遊詩人として及第点はもらえたってことだろう。腕はまだ錆ついちゃいないらしい。

 満足して話をつづけた。

「……おっ母たちを殴るような剣士はくず剣士どもで、本当の剣士はここに謳われるような、立派な使命と目的を持っていると、おれは初めて知った。そして信じたんだ、本物の剣士は人々を生かすために、守護するために自分の才能や能力を使う人間なんだってね」

「だから、剣士を育てるのね!」

「いや、最初は剣士を目指した」

「あら……そうなの? ……また外しちゃった」ルゥファナは首を振る。

「ああ。その後『剣王ドゥール異記』……君の村の『ドゥルクの記』を聴き、おれは英雄ドゥルクみたいに、後世まで伝説として歌われるような剣士になってやろうと思った。ドゥルクは人を人とも思わないわがままでひどい人間として描かれているけど、正統紀、異記併せても最強の剣士ってことになってる。……男ってのは、一度は絶対的強さにあこがれるものなんだ」


 伝説のドゥルクは、剣のひとふりで一度に十人の敵を屠る。

 百人に囲まれても勝っちまう。とにかく、圧倒的に強くてすげえやつだ。

 おれはそんな強さを身につけ、母たちを守ってやりたかった。

 彼女らを下賎な存在と蔑み、虫けらのように扱うやつらから、自分のこの手で守る。当時のおれは、それを自分のなすべき正義と考えていた。


「で、剣士の端くれにはなれた。一応ね」

「なぜやめたの?」せっかちに訊ねてくる。

「……簡単さ。おれにはそんな才能はないってことがわかった」

 ルゥファナは少しだけうなずいた。

「そうね……失礼だけど、あなたはあまり強そうに見えないもの」

「たしかにな。分かっちゃいるけど、傷つくな、そうはっきり言われると」

「ごめんなさい……」

 そう言って、申し訳なさそうに目を伏せる。

「冗談だよ。事実そうさ。吟遊詩人になって、剣士育成を始めたのは、おれのできなかったことを代わりにやってもらいたいからだ」

 おれは笑顔を作った。

「代わりに? お母さんたち……のようなひとたちを助けさせる?」

 彼女は怪訝そうに目を細めた。

「違う。なんていうのか、一種の世直しだな。伝説として歌われるような人物なら、必ずその時代を良い方向に変革するほどの、大きな出来事を引き起こすもんだ。もっとも、その逆に悪名として残る者もいるけどね」

「それは……そんなことは、あたしに務まるのかしら」

 彼女は意気消沈したかのように肩を落とした。

「強制するわけじゃない。けど」

 おれは彼女の目をしっかりと見つめなおした。

「強い剣士ならいくらでもいる。ただ『剣士の十法』に殉ずるような立派な志を持ち、研鑽を重ねる剣士は少ない。もしそんな剣士がいるなら、いつかきっと伝説に謳われ英雄と称えられるだろうね。そんなやつが多くなれば、この世の中も少しはまともになる。おれはそう考えてる。……きみは、そんなことを期待されるのは、重荷と考えちまうか?」

「そうかも。あたしに……そんな才能はあるかしらって」

「もし足りなきゃ、なんとかする。それが吟遊詩人の役目なんだ」


 これまでだと、おれは面倒を見る剣士には期待の重圧をなるべくかけないように、また、おれ個人の理想を押しつけられていると感じさせないように、努めてこんな話題は避けてきた。


 なのに、なぜか今夜に限っては、請われたとはいえ、いささか話しすぎたようだ。

「これで、おれが何を考えているか、だいたい分かったろう。気になるところがあるなら言ってくれ。もしあまりにも大それたことだと怖くなったんなら、ここでやめるのも仕方ない。本人の望まないことをむりやり進めても、いずれどこかで破綻するからな」

 ちょっとした賭けのつもりでそう言った。すぐルゥファナは首を横に振る。

「ううん。やめるつもりはないわ。本音を言うと、あたしにそんな自信はないし、期待に応えられるかどうかも分からないけど、ここまで連れてきてくれたってことは、そうなれる可能性を持ってるってことなのよね?」顔を上げ、まくし立てた。

「もちろんさ。その証拠をひとつ教えよう」

「え?」

「いいかい? 伝説になろうかって人間は、たいてい、ふるさとで迫害を受けるもんだ。本人の才能は、身近な人間には理解されないんだ」

 彼女は大きなため息をつく。

「なあんだ。迫害はそうね。でも、理解されるどころか、追われてるわ」

「ああ、そうだ。そのくらいでなきゃ、大物にはなれない」

「たしかに、身体だけなら大物かも」

 おれたちは互いに肩を揺すり、声をひそめて笑いあった。



       四


 一泊だけとはいえ、宿の納屋で体力と気力を相当回復させたらしく、彼女はその後の野宿になんとか耐え抜いた。数日後、おれたちはキスルとケネヴの国境までたどり着いた。


 最後の難関だ。


 ケネヴに入れば、キスルの追っ手はもう手出しできなくなる。

 もっとも、農業国キスルの辺境に位置し、国内でもそれほど重要な地域とは考えられていないような、つまり権力的影響の小さいと思われるストルング郡が、自治的に独自の手を回し、重要な国境地帯にまで手配をかける可能性は少ないとも思える。わざわざ不祥事の噂を、自ら広げるようなことはしないだろう。


「国境を越えるために、いくつか申し合わせなきゃならない」

 ルゥファナはおれのことばを神妙な面持ちで聞いていた。

「君は国外に出るための許可証を持っていない。おれのような本人証もない」

「……どうするの?」

「どうもしない。ウソをついて国境を抜ける。だから口裏を合わせるんだ」

「例えば、あたしは男で、とか?」

「ウソを信じ込ませるには、大ウソの中にちょっとだけ真実を入れればいい。君が女であるってことは、その大事な真実のひとつだ」

 彼女のろくでもない思いつきをやんわりと否定し、おれは大ウソの付き方を伝授した。


 護国連合は、いがみ合う五国を結びつけるために、当時、ケネヴ国の宰相だったバロイゾが、開国の祖を同じくする兄弟国同士は、異国からの侵略に備え、それぞれかばい合い、護り合うもの、と提唱したことに端を発して設立された。

 聖主国ミーナスの聖皇(せいおう)がバロイゾの提案を強力に後押ししたので、他の三国もしぶしぶ『連合』することに合意したのは、ケネヴ国の外交的快挙と言われている。

 以来「五国」は「護国」と改められ、五カ国同士の融和政策は劇的に進んだ。

 今の暫定的な平和も、実はその賜物ってわけだ。


 けれど、国境に来るといつも、そんな政治屋の思惑やことばは空文に過ぎないと感じてしまう。

 国境守備に当たる衛士たちは、向かい合うそれぞれの国の出入国管理用建屋から、常時たがいに監視し合い、独特の緊張感を醸し出しているからだ。

 まるで膠着状態に陥った戦地のような、そんな場所。

 ここでは、平和な気分なんてたちまち吹き飛んじまう。


「つぎ!」

 キスルの衛士はおれたちをにらみつけながら指示を出す。

 いかめしい造りの、木製テーブルの向かいで睨むような視線を向けてくる衛士へ、おれは無言で本人証を差し出した。内容との差異を確かめるため、やつの無遠慮な視線はさらに体中へ突き刺さる。

 と、やつは権威ぶった重々しい、低い声を出した。

「……吟遊詩人か?」

「そうです」

 返事をすると、今度はおれの後ろにいるルゥファナへ目を向け、しばらく観察する。

「……女か!」

 彼女の大きさに男と勘違いしていたらしく、少し面食らった様子で、声も大きくなった。

「……キスルの人間だな?」

「さあ?」

「さあ、とはどういうことだ!」ばかにされたと思ったか、やつは血相を変える。

「しゃべれないんですよ。聞こえもしない」

「……なんだと?」

 眉間に何本もしわを寄せ、衛士はルゥファナにもう一度目をこらした。

 彼女はおれの言いつけ通り背中を丸め、前屈みに両手をだらんと垂らしていた。

 無表情に、部屋のあちこちをきょろきょろ眺めている。そのさまはいかにも鈍重で愚鈍に見えた。

 おれは彼女の顔と服を泥で汚し、背負い篭に自分の荷物まで全て背負わせていた。見た目にもくたびれ果てた従者然とさせるためだ。


「ちょいと立ち寄った村で、演奏料の代わりにむりやり押しつけられちまってね。どうにでもしてくれってさ。こんな図体で、しかも耳も口も不自由な女なんて迷惑なんだけど、まあ、ケネヴなら何とかなると思ってね」

「……行き先は?」

「ナルカリイ。こんなのを連れて行くのは、もうそこしかないでしょ?」

 実際、この衛士もそう考えたようだった。

「キスルの民を護国外へ売り飛ばすつもりか」

「なんなら、いまここで引き取ってくれてもいいんですが。お安くしますよ」

 衛士はいまいましそうに舌打ちしながら言う。

「……許可証や身分証などはあるのか?」

 やれやれ、もう一息だ。

 おれは最後にひとこと、だめ押しした。

「家畜同然だったのに、だれがそんなもんをくれるんです?」


 それでもキスルの衛士は、疑い深く、まともな女性なら怒るか泣き出すような卑猥で聞くに堪えないことばを投げかけ、ルゥファナの反応を見た。

 彼女はなんの反応も示さなかった。

 結局やつは、この大女はキスルにいても、なんの益ももたらさないと考えたようだ。おれたちに向かって荒々しく手を振り、先へ行けと促す。

「つぎ!」

 幸いにも予想通り、ストルング郡からの手配はなかったようだった。


 ケネヴ側の入国には思いのほか時間がかかった。

 おれたちのせいじゃない。

 ネッケーゼ村の酒場で盗み聞きした、例の貴族子弟誘拐事件、とやらのせいだ。


 やっと番が回ってくると、おれの本人証を見てケネヴの衛士はうれしそうな声を出す。

「あんた! あんたがあのセンギュストか!」

 どうやらおれを知っていたらしい。

 故郷の国なら多少おれの名も知られていて不思議はない。

 衛士は機嫌良く、聞いてもいないことを色々長々、延々としゃべり続け、おれをやきもきさせた。

 ルゥファナの演技はもう、そう長く持たない。

「いまの時期、身元不明の他国民は入れないんだけど、まあ有名なあんたの連れだし、それにその図体じゃ目立って、大それた犯罪に関わることもないだろうしね」

 親しみある、という以上に馴れ馴れしい態度で、衛士はおれたちへ入国の許可を出した。


 ケネヴでは、旅はぐっと楽になった。


 どの宿屋に泊まっても彼女の巨大さは群を抜いていて驚かれたものの、キスルの人間ほど物珍しそうにルゥファナを見る者はいない。

 交易の盛んなケネヴには珍しいものがたくさんあって、いちいちそれらに驚いていたら寿命がいくつあっても足りない、とまで言われ、ありとあらゆるものが商品、交易品となる国柄のおかげだ。

 出国審査を担当したキスルの衛士もケネヴのそうした事情をよく知るため、人身売買の可能性があると知りながら、おれたちの出国を黙認したのだった。

 自国に必要のない人間は、どうぞご自由にお売りください、ということだろう。


 しかしルゥファナはことあるごとに、あのキスル衛士へ、怒りのこもる、耳を塞ぎたくなるような、おぞましい呪詛のことばを吐いた。

 その激しさに堪えきれず聞き流していると分かると、おれへ食ってかかるほどだった。

「男って、みんな女をあんな風に見ているのね! けがらわしい!」


 おれはまっすぐ故郷リガオンにルゥファナを連れて入った。


 リガオンは戦火に一度焼滅している。

 おれの育った売春宿は焼失し、おっ母たちも、みな死んだり、どこかへ行ってしまった。古い知り合いのほとんどは離散していて、この町は復興後の、おれの知らないリガオンだ。

 港町ナルカリイの家賃は高額でとても支払うことはできないので、彼女の育成のためには、港町に近いここへ居を構えるしかない。

 斡旋屋の仲介で一軒家を借りると、そこを第一の拠点とすることにした。


 港町より低めの相場とはいえ、新参のよそ者然としたおれたちにふっかけられた、ぼったくりのような保証金はユングムルトのくれた餞別でなんとかまかなえたものの、週割の家賃は当座おれではなくルゥファナが支払うことになった。道中一度も日銭稼ぎの仕事をしなかったので、恥ずかしながら旅費や食費などの出費も、実は彼女の蓄えから支出されていた。

 彼女はそのことについて、不平や文句ひとつ言わないけれど、もちろん、いずれ借りは返すつもりだ。

 キスルを出るまでは日々逃げ延びるのに精一杯だったし、ケネヴに入ってからもペースを落とさずここへ直行したため、納屋での一泊を除き、落ち着いて会話もしていない。そこでおれは彼女に、これからの訓練計画案を説明することにした。


「まず、基礎力を上げなきゃならない」おれは切り出した。

「基礎力?」

「つまり剣士に必要な体力、知力、精神力、また、技倆、技術などのことだ」

「へぇー」とルゥファナ。

 よくわかってないようだ。ていねいに解説してみる。

「ルゥファナ。きみはほとんどひとりで剣術の鍛錬をつづけてきた。けれど、剣士になるには相手が必要だ。相手の力を推し量り、自分のそれと比べ、剣の技を磨いていくことがなによりも重要になる。それは独学では学べない」

「……でも、あたしの相手を出来る人はいるのかしら?」

 おずおずと、しかし自信たっぷりに彼女は答えた。


 危ういところで怒鳴るのを思いとどまる。以前のおれなら問答無用にそうしただろう。

 慢心はだれしも陥る罠かもしれない。

 ただし、剣士にとってそれに起因する不都合の代価は、他の職業と異なり、大きく、重い。

 肉体の欠損、あるいは生命の損失と引き換えになるからだ。


 内心の苛立ちを悟られないよう、ルゥファナから視線を外し、今後の方針を簡単に伝えた。

「いるさ。……まあいい。そのための教師の当てはある」



       五


 久しぶりに訪れたナルカリイ港は昔と変わらず喧噪につつまれていて、懐かしかった。

 荷揚げを待つ船たちの黒々とした偉容。

 海外からやってきた珍しい物品を買い付けに来ている商人。

 埠頭付近では人夫たちが忙しく荷物を出したり積み込んだりしていて、その監督を行う水夫の怒号は、遠くこちらの耳にも聞こえてくる。

 露店のひしめく港前の通りは売り買いをする人々の群れで、行き交うにも苦労する。


 ひとめで異国から来たと分かる、たくましい黒い肌をした男たち。

 小柄な身体に貴金属をたくさん埋め込んだ黄色い肌の女。

 真っ白な長い毛髪をたなびかせ、路上を闊歩する異形の剣士。

 あちらではケンカらしき怒声、こちらでは宝飾品をすり取られた貴婦人の金切り声も響いている。


 ここではどんな人種でも、どんな格好でも、どんな行為をしていても、だれも気にしない、気にされない、そういう暗黙のきまりのようなものがあった。


 ルゥファナとおれは、そういった喧噪のただ中を移動し、港の奥路地を目指していた。

 人混みでなかなか前に進めない。しかし、それはそのせいばかりでもない。

「あ、あーっ! あ、あれあれ、ほらほらセンギィ見た?」

 彼女は湖畔の件以来、おれをいつの間にかセンギィと呼ぶようになっていた。それをやめさせる時機を逸し、いまは努めて彼女の呼びかけを気に止めないようにしている。

 ルゥファナは始終おれの後ろできゃーきゃー声を上げていた。

 生まれてから一度も村を出たことのなかった彼女にとって、きっとこの港町は興味と驚異の宝庫なんだろう。

「あー! あれあれー! センギィセンギィみてみてみてみて!」

 いまも彼女は何かを発見し、指さしておれの肩をつかむ。……いや、痛いぞ、これは。

「いてて、つかむな! 指さすな!」

 目的地にはなかなかたどり着けなかった。


 港町は路地を一本隔てると、雰囲気もがらりと変わる。

 表の騒がしさとはうってかわり、静寂が空間を支配していた。

 鼻をつくのは湿った潮の匂いに混じる、カビとほこりの臭気だ。

 おれの調べた限り、目指す相手はまだこの港町にいて、いまも気楽な自由人のように振る舞っているはずだった。

 ルゥファナは奥へ奥へと向かうおれのあとからついてくる。

 激変した周囲の状況に不安と緊張の表情へと変わっていた。


 何度も道を折れ曲がり、やっと見つけたひときわ細い路地の突き当たりに、木製の大扉を発見する。金属を打ちつけ補強した、見覚えのあるその扉を、拳で拍子を取るようにとんとん叩いた。

 やつとの共通の符号だ。

 しばらく待って返事のないことを確かめ、背後のルゥファナを手で制し待つように指示すると、おれはひとりで扉の内側に入っていった。


「だれかと思ったな」


 ユルノス・エルブンスキは久しぶりに会うおれを見ても、なんの感慨もあらわさない。もっとも、おれだってこいつにまともな反応を期待したりはしない。そういうつきあいを望むなら、ほかの人間を捜したほうがいい。


「久しぶりだな、ユルノス」

「ま、あがれや」

 ユルノスは部屋の中央付近に広い、分厚い絨毯を敷き、その中央に寝転がっていた。

 絨毯に上がると鋭い声で注意を促される。

「靴を脱げ! ここの作法を忘れたのか?」

「あ、ああ、すまん」

 魚臭くなった皮長靴を脱いで遠慮がちに絨毯の端へ陣取ると、まだこちらに背を向けているこの部屋の主を見つめた。

 かつておれがマーガルの師匠にするべく発掘した男。

 南方のどこか王族の出……と本人は言っていた。


 こいつをひとことで表現するなら『天才』だろう。その前に『おかしな』とつくかもしれないが。

 

 おれと出会ったときはまだ十代、しかもすでに名人級の剣技の持ち主だった。

 さらに、努力家、勉強家でもある。

 趣味は武器の収集とその用法の研究だ。


 やつの、その研究の成果によると、すべての武術、剣技は『化かし合う』ためなのだそうだ。

 この世に存在する、どんな武器や技も、自分が有利に立つため、相手の盲点を突くために考案されているのだという。……ならば相手に『知られていない、知られない』武器や技を使うのがもっとも勝率は高い。

 そんな理由で、こいつは古今東西の武器、武術を収集、研究することが『最強』への早道であると信じ、日夜研究、研鑽を怠らないのだとうそぶいている。

 自分にとって思いがけない武器や技が存在しないなら、天性の素質と剣技だけで勝利できる。そして自分こそ世界最強となる。


 ユルノスはそんなことを考えているやつだった。


「なあ、センギィ。このあいだのうすら頭、死んだんだってな?」

 おもむろに口を開くと寝転がったままくるりと体を反転させこちらを向く。

 ユルノスは生まれつきの童顔にいたずら小僧のような表情を浮かべていた。

 ヴォルフェーのうわさを聞いたらしい。くくっと忍び笑いをする。

「なにがおかしい」

「だって、おかしいじゃねえか。衛士の群れに突っこんでったんだろ? そんなことはあのバカにしかできねえ快挙じゃねぇか。で、槍持ちを何人くらい殺ったんだ?」

「……ひとりも」

 さすがにうわさだけでは、詳細な事情までは知らなかったらしい。

「なんだと? ……あのうすら! バカ野郎!」

 急にユルノスは怒りだした。


 ――しまった、こいつの性格をわすれていた!


 ユルノスは指導する人間の、性別、年齢、人種、国籍、そしてその生死にさえほとんど興味を持たない。しかし自分の伝授した技術の使われ方や、その成果には異常なほどこだわる。

「せっかく<槍菱>や<折槍>を教えてやってたのに! 無駄になっちまった!」

 ヤリビシやセッソウがなにか見当もつかないが、たぶん技の名前なんだろうな。


 ユルノスはおもむろに立ち上がり、絨毯上をせわしなく歩き回りながら、聞き取れないくらい早口でわめきちらした。

 こうなるとおれにも止められない。激昂寸前の危険な状態だ。

「センギィ?」

 急に大きな声が聞こえたからか、ルゥファナはそろそろ扉を開けて中をのぞき込んでくる。


 ――やばい!


 <カッ!>

 その頬をかすめ、小刀が扉に突き刺さった。ユルノスの投げたものだった。

「なんだおまえ。殺すぞ」

 ユルノスは眉ひとつ動かさず恫喝した。

「ま、まった、まった! ユルノス! おれの連れだ!」

 おれはあわてて制止した。

 ルゥファナの顔面は蒼白になっていて、たったいま頬に出来た細い赤い筋が、その白さの中でひときわ目立っていた。


「つまり、その山女(やまおんな)が今度のおれの生徒ってわけか」

 おれのとりなしに、ひとまず場は収まった。

 ユルノスは客への非礼を特にわびることもなく、おれたちに相対している。

 ルゥファナにはそれが我慢ならないようで、場にはぴんと糸の張りつめられたように、不穏な空気も漂っていた。

「この人が、あたしの剣の先生なの?」

 怒気の充満する部屋は、いまにも爆発しそうだ。

 ユルノスはじろりと彼女を見ておれに言う。

「しっかし、こんな山女どこから見つけてくるんだよ、センギィ」

 とうとうルゥファナは部屋の主へ向き直り、怒鳴りつけた。

「さっきから山女って何よ! 聞いたこともないわ、そんなの!」

「おれの国じゃ、おまえみたいな山出しの田舎娘をそう言うんだ」

 ユルノスはしれっとした口調に、無礼極まりない言辞を返す。

「ふたりとも頼むからいい加減にしてくれ。……で、ユルノス。どうなんだ?」

 おれはふたりを仲裁し、話をなんとか先に進ませようと躍起になった。少なくともおれの知る限りルゥファナをまともに訓練できるのは、性別にこだわらず指導できるこいつしかいない。

「……まあ、いいだろう。見てやるよ」

 ユルノスはそう言うと、前置きもなくルゥファナの乳房をつかんだ。

 とっさの事で声も出せなかった彼女は、あわててその手をふりほどこうとする。しかし彼女の力をもってしても、その手ははずせない。

「はなして!」頬がみるみる赤く染まっていく。

「じっとしてろ」

 有無を言わせぬその声の迫力にルゥファナは黙り込み、柳眉を逆立て気味におれの顔を仰ぐ。

「ふ……む。よし、手を握れ、ぐっとだ。ばか、そうじゃない! ……そうだ」

 ユルノスは彼女の身体を触りながら次々と指示を出す。

 診断の最中、おれは居心地が悪くて立ち上がっていた。

 なんとなくその光景を正視するのに耐えられなかったからだ。

 触診が上半身から下半身に移ったとき、とうとう彼女はたまりかね、悲痛な声を出した。

「セ、センギィ!?」

 ルゥファナは抗議と非難と羞恥の入り交じった表情で、立ち上がったおれを見上げていた。

 無言のまま、同情のこもった目で彼女を見つめ返してやるほかなかった。


「……そうだな。ある程度はできあがっちまっているようだな」

 やつ『独自』の基準による、やつの『個人的』判断で、やつの『主観的』評価らしきものが、ようやく出たらしい。


 ルゥファナは触診が終わるとおれたちから急いで離れ、絨毯の端で身体を小さく丸めた。

 妖しく輝く瞳の光は、いまにも燃え出しそうな怒りの炎をたたえ、ユルノスから離れなかった。

「骨も太いし、筋肉も柔らかくていい。ただ、肉の付き方がなぁ」

 彼女の視線など気にも留めず、ユルノスはまるで食肉を品定めする肉屋のようにつぶやき、珍しくなにやら考え込んでいた。

「どういう指導が必要なんだ?」

 おれは沈黙に耐えきれなくなる。

「いや、指導というより……そうだな、実際に確かめてみるか」

 ユルノスはそう言うが早いか、絨毯をおり裸足で部屋の奥壁に向かって歩き出した。壁から取っ手を引き出し、それを両手で握ると、思い切り横に引く。

 <がららららら>

 壁は轟音を立てて開いた。

 背後に広い部屋が現れた。ユルノス専用の剣技練習場だった。つきあいの長いおれでさえ、その存在は知らなかった。

 やつは練習場に上がり手招きする。

 渋るルゥファナを促し、おれたちはそこへ足を踏み入れた。


「こ、これは……」

 壁一面に武器が陳列されている。

 左を向いても、右を向いても、武器、武器、武器の山だ。見たこともない武器や、武器と思えないほど妙な形をしたものもある。

「あんたが出て行っちまったあと、増築したんだぜ。すげえだろ?」

 なるほど、それじゃ知らないはずだ。

 ユルノスは陳列品の一角に近づくと、ひとふりの大剣を選び、床へ投げた。

 大剣はがしゃんと音を立て、練習場の床を滑ると、ちょうどルゥファナの足もとで止まる。

「おい、山女。そいつを使え。それでおれに打ち込んでこい」

 ルゥファナは無言で大剣を拾い、さやから抜き出した。切れ味の良さそうな両刃だった。

「あたしにはルゥファナって名前があるわ」

 その声音からおれは、彼女が目の前の相手にただならぬ殺意を抱いていることが分かった。

 ユルノスはそれを気にする様子もなく、細身の片手剣をサヤから抜く。

「名前で呼んでもらえると思うな。それをおれにちょっとでも当てられれば考えてやるがな」

 ルゥファナの生涯第二戦は始まった。


 借りた一軒家への帰り道、おれたちは互いにひとことも口をきかなかった。

 夜の港周辺では昼間以上に珍しいものも見られる。

 しかしルゥファナは来るときのように、もう、はしゃいだりはしない。

 借家に到着すると走って寝室にはいり、いつもと違って静かにその扉を閉めた。

 やがて嗚咽の声が聞こえ、こもった泣き声はだんだん大きくなる。それはもはや彼女が口に当てているはずの毛布か枕では抑えきれないほど大きくなり、家屋中に響きわたった。


 実はユルノスを剣技の指導教師に選んだのは、人種、性別への先入観無く指導できるということ以外、ほかに理由もあった。


 ユルノスは極端、強烈な自信家であり、同時にその自信に見合った天賦の才と経験、実力を兼ね備えた異能の天才。一方、才能はあってもルゥファナに経験と実力は乏しく、それなのになぜか自信満々という、初戦の勝利に舞い上がったままの、いわば、素人だ。

 そのふたりをぶつければどうなるか。


 おれはまずルゥファナの慢心を取りのぞきたかった。剣士として訓練を受けるための謙虚さを身につけさせたかった。

 ねらい通りユルノスは彼女の慢心を、いささか強引ではあったものの、完璧に粉砕しつつ、謙虚になるための重要なきっかけを彼女に与えた。

 あいつの態度はまさにそれにうってつけだった。


 ユルノスはまず彼女に『屈辱』を与えたんだ。

 

 翌日、ルゥファナは昼ごろ、いつもより遅く寝床から起き出してきた。

 食卓の椅子にかけると朝におれの用意していた、目の前の冷えた朝食に手をつける。

 おれは久しぶりに双首のキリューグを手入れしていた。

「おはよう」

 ふだん通りに挨拶。

「……おはよう」と彼女。

「きのうのことは気にするな。ユルノスに化かされたんだ、きみの実力はあんなもんじゃない」

 一応彼女を慰めてみる。


 自分のすべての攻撃をかわされたうえ、剣さえ一度と合わせてもらえなかった。

 その間、口の悪いユルノスの罵詈雑言を何度も聞かされ、結局最後は、剣も握れなくなり、床に膝をついて、『降参』と自分の口で言うまで、空振りで疲れさせられた。


 彼女はおれに自分の顔を見せまいとしてうつむき気味になっている。その理由は明白で、昨夜ひどく泣き腫らした顔を見られたくないからだ。

 おれは気づかぬそぶりをしていた。

 やがて、

「ねぇ……センギィ……」

 ルゥファナの声は消え入りそうだった。

「ん? なんだい?」

「……あたし……あたし……あいつに勝ちたい! あいつを負かしてやりたい!」

 大粒の涙が腫れ上がった目からこぼれ落ち、止めどなくあふれかえっていた。

 ルゥファナはあーん、あーんとあたりはばからぬ大声で泣きつづけた。

 おれの手はその背中をやさしく叩いてやった。


 頭では彼女をどう売り出すか、計画のつづきを練り上げていたが。

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