第二章 素質あるもの




       一


 モジガジの宿を出てからおれはあちこち辺境をさまよい、キスル各地の村々を転々としながらその日暮らしをつづけた。路銀は底を突き、食べるもののない日もあったが、新しい村に着くたび農家の手伝いなんぞにいそしみ、なんとか食いつないだ。

 キリューグの覆いは、あれ以来一度も取っていない。たとえ請われても、もうこれをふたたび奏でることはないだろう。


 おれはもはや吟遊詩人ではなかった。

 演奏したり歌ったりしない以上、そう名乗る資格もない。

 楽器を奏でたり、歌を歌ったりする以外のなにかで日々の糧を得ながら、目的もなく、行く目当てもなく、ただ過ぎ去っていく季節と暦とに埋没していくだけの存在なのだ。



 いま、おれの眼の前には、ほこらがある。『名のない神』のものだ。

 伝承通りに呼ぶなら『名付けられることを厭う神』とも言う。


 すべての国の祖『剣王ドゥール』は、その神の命により諸国を興した。

 嫡男ドゥーエルには自分の治める諸州をゆずり渡し、その後、彼の孫である五人の子供たちがそれを受けついだ。それらの諸州はまた、ウーケ、ミーナス、ウーラ、キスル、ケネヴという北方五カ国の起源となった。

 護国連合ごこくれんごうは、いまもこの五カ国により構成されている。


「よく働いてくれるね」


 声をかけてきたのはネッケーゼ村の年寄り農夫だ。

 キスル奥地を彷徨っているときに知り合い、珍しく向こうから、ここ、ストルング地方にて、おれに住み込みの手伝いを依頼してきたのだ。


 日焼けした浅黒い顔から白い歯がのぞき、陽光にきらめく。

 結構な年らしいにも関わらず、丸太のように太くがっしりした彼の腕は、村はずれのほこらをふさぐ蔓草を軽々と引きちぎっていった。

 そんな彼に返事をする。

「契約の仕事だし、このくらいは当たり前だ。……ところで、なあ、ユングムルト。ここにまつってあるのは『名のない神』の碑だろ? おれはあちこち旅したけど、ほこらの中のこんな碑は見たことがないな」

「そうじゃろうね。ワシもそう多くの土地を知ってるってわけじゃないが、こんな碑があるのはストルングの中でも、この周辺だけじゃな」 

「何か由来でもあるのかい?」

「まあ、ないこともないがな……そら、落とすなよ!」


 ユングムルトは自分のむしった蔓草の束を勢いよくおれに放り投げてきた。

 それをなんとか空中で受け止める。外部の人間には話せない事情でもあるのか、碑の由来については語らない。おれもあえて同じ質問を繰り返すことはなかった。


「ところで、あんた、あんたの持っているあれ……」

 質問はどうも、おれのキリューグのことを言っているらしいと予測した。

「あれは……あんたは楽師か何かをやってたのかい?」

「違うよ。それに、楽器を持ってれば、だれでも音楽家ってわけじゃないぜ」

「ふん? ワシの親戚のせがれも楽師をやっておってな、最近、吟遊詩人どもがやたら騒がしい曲をがなりたてるから、楽師の世界にもかぶれるやつがいて、こまったもんだとこぼしとった」

「そうかい」と、おれ。


 たぶんヨツラたちのことだろう。


「そりゃそうと、あんた、ありゃそうとう珍しい楽器じゃろ? 首がふたつもある」

「そう珍しいとも思わないけど」

 身の上について質問されるのは煩わしく感じる。

 なのにユングムルトはさらにしつこく話しかけてきた。

「一度弾いてくれんかね、もうすぐ村の祭りがあってな。あんたがそのときまで村にいてくれりゃの話だが。もちろん契約は延長してもいい」

「ありがたい話だが、契約はいまので充分さ」

 居心地の良さそうな村だが、双首のキリューグを祭りで弾く気にはなれない。

 それに、長逗留していれば、何かの義理で弾く羽目になるかも知れない。

 雇用契約の切れ目に、さっさと村を出て行こうと決めた。


 <かっつーん>


 と、山の一角から大きな甲高い音がした。木に何かがぶち当たるような音だ。

 ユングムルトは音を気にする風でもなかった。普通に聞き流している。

「なんの音だ?」

「……ああ、あれかね。特に珍しい事じゃない。槌で木を打っているんだろう」

「槌で……木を?」

 <が、が、がつーん>

 まただ。今度の音は前よりも大きく、連続的な響きだった。

「木こりでもいるのか?」

 言いながら考える。木こりなら斧じゃないのか。それに斧の音とは明らかに違う。

 ユングムルトは顔を上げると、音のする方角を見つめた。なにか憂鬱そうな表情だった。

 おれはそのあとにつづくことばを待ったが、ユングムルトはそれ以上なにも語らなかった。

 山から聞こえるその音は、おれたちの作業中、断続的にずっと響きつづけた。


 ほこらの掃除を終えネッケーゼ村に戻ると、また酒場に誘われた。

 ここに来てから五日経つ。

 おれの雇い主はその間一日も欠かさず、夕方になると、必ずおれを誘うのだった。

「すまんなユングムルト。おれは疲れちまった。今日は遠慮させてもらうよ」

「今日、も、じゃろう? 若いのに、だらしないの」

 酒場やら、見知らぬ人間の大勢集まる場所は、苦手になっていた。

 放浪生活を始めたころは、酒場特有の臭気、喧噪、見知らぬ人間との出会いなどに懐かしさを感じてもいたが、いまではそういったもののすべてを煩わしく、疎ましいものと考えている。

「ま、今日はいつものように断れんぞ。ボヌンには外食と決めておるでの」

 キスル語で、区切り、という意味だ。

 転じて週の終わりをボヌンという。


 すべての国の祖『剣王ドゥール』は自分の死後、自分を信仰の対象にすることを禁じた。

 しかし彼を慕う人々はそれでも、彼に倣えば彼に使命と豪剣を授け万物を創造し秩序を与えた『名のない神』の祝福を受け、死後『剣王ドゥール』の御許に行けると信じている。

 そうした人々にとって毎週のボヌンは日々の実りを、その神とドゥールに感謝し、祝い、あらたに願いを祈念する特別な祝祭の日となっていた。

「……そうか、じゃ、つきあうよ」

 夕食はおれひとりなら手持ちの干し肉とマジューという干しパンだけで事足りるし、別にユングムルトの信仰やそれに付帯する生活習慣などどうでも良かった。

 ただ、こう連日誘いをむげに断るのは、角も立つように思われて、しぶしぶその誘いに乗ったってことだ。


 ユングムルトと連れだってこの村唯一の酒場に入ると、中はすでに大勢の村人であふれかえっていた。すっかり赤ら顔になったかれらは料理をほおばったり、飲み物の入った大ジョッキをぶつけ合ったり、あちこちでがなり立て、めいめい自分勝手に楽しんでいる。

 サナト麦を発酵させて作った軽酒エールやあぶり焼いた肉の香ばしい匂いに鼻腔を刺激され、すっかり粗食に慣れたおれの腹さえ、ぐうぐう鳴りはじめた。

 人の波をかき分け酒場中央に人のいないテーブルを見つけると、ユングムルトはおれを手招きして座らせた。自分も向かいに座り、片づけられていないジョッキで卓上をはげしく叩く。


 その底に残った軽酒は飛び散り、しぶきはおれにもかかった。

「注文だ、注文だ!」

 ユングムルトはかなりの大声なのに、あたりの喧噪にかき消され、店の者にちゃんと届いているかどうか怪しい。

 だが老人は気にもかけず、おれに向き直る。

「すまんな、かかっちまったかい?」

「別に、晴れ着じゃないから気にしないでくれ」

 その返答に、ユングムルトは顔をほころばせ、愉快そうに笑った。

「シューボヌン」

 背後の声。

 注文を取りに来た給仕らしい。

「シューボヌン、とりあえず酒をくれ、軽いのがいい。それからあぶった肉だ。山盛りにして、野菜もたっぷり付け合わせてな。黒いマジューはあるか? 干してないやつだ」

 矢継ぎ早に注文をまくしたてるユングムルトのことばを革紙に素早く書きとめながら、給仕の男は答える。

「黒いのはさっき切らしました。かわりにサナト麦のマジューでは?」

「じゃ、それにしてくれ、干してないやつだぞ。あんたはなんにするかね?」

「わからないから、同じものでいい」

「そうか、じゃ同じものを。二人分だぞ!」

「すぐにおもちを」


 人をかき分け厨房に向かう給仕を目で追いながら、おれはユングムルトに尋ねた。

「シューボヌン、というのはボヌンの前の晩にする挨拶じゃなかったっけ?」

 ユングムルトは耳に手を当て聞こえないというそぶりをし、続けてテーブルの端を両手で支えると、テーブル中央に頭を突きだしてくる。

 おれはいささか億劫に感じながらも、同じ姿勢で彼の方へ身を乗り出した。この姿勢はけっこう腰にくる。

 きっと昼間のほこら掃除の後遺症だろう。

 向かい同士、身を乗り出すかたちとなり、おれとユングムルト、男の頭がふたつ、ぶつかりそうなくらい近づいた。

 おれは大声で質問を繰り返す。

「シューボヌンって、ボヌンの前の晩にする挨拶じゃなかったっけ!」

「そんなに大声でなくても聞こえとるよ! なんだ、そんなことか!」

 おれに負けないくらいの大声でユングムルトも叫んだ。

「この村じゃ、明日もボヌンなんじゃよ!」

「なんだ! そういうことか!」

 明日も週末日だなんて、ちっとも理解できなかったが、一応納得したふりをする。

 

「シューボヌン! ずいぶん仲がいいのね。ふたりでキスでもするつもりなの?」


 頭上からの声に驚く。

 もう料理を運んで来たのか。

 おれとユングムルトはあわてて元の位置に座りなおし、老人は機嫌良さそうに挨拶を返した。


「シューボヌン、ルゥファナ。元気そうじゃね」

「ええ元気よユングムルト。おまちどうさま! ご注文の品よ」

 愉快そうな声で給仕女は答えた。

 テーブルに軽酒のジョッキと料理が並べられる。


 その間おれの目は、素早く手際のよい配膳をするその女に釘付けとなっていた。


 ――で、でかい……


 ユングムルトがルゥファナと呼んだ給仕女は巨漢、いや、女だから巨女おおおんなとでも言うべきか。

 ともかく、おれのこれまでに見た中でも一、二を争う大きさだった。


 七ファーブ半、違う、頭八つ分をゆうに超えていても不思議ではない。


 この種の巨躯にしては珍しく、大造りで間延びした顔だちではなく、目、鼻、口各部の均整はとれ、普通の大きさの人間とそう変わらなく見える。

 まつ毛の長い大きな目。その上には太く濃い眉毛が位置し、給仕という職にあまり似つかわしくない意志の強さ、強情な性格の存在を伺わせていた。ただ、笑顔には独特の愛嬌もあって、それが、ほどよくその特徴を中和しているようにも見える。

 量の多い茶褐色の髪の毛は後頭部で乱暴に巻かれ、手ぬぐいで縛るようにして押さえてあった。

 色気もしゃれっ気も、素っ気もない、普通の村娘のような――その大きさをのぞけば――格好だ。

 年の頃はいくつくらいだろう。当然、体格から判断することはできないが、しゃべり方や立ち居振る舞いなどから察すると、まだ若く、十七、八ほどじゃないかと思われた。

 給仕女というより、給仕娘といった方がいいかも知れない。それに――


 ――巨女じゃなく巨娘おおむすめか。


 注文した料理と酒を並べ、前客使用済みの皿とジョッキを片づけるのに、それほど時間はかからない、が、その短い時間ずっとおれは、自分の頭上を仰ぎ、巨娘をばかみたいに見つめていたのだと思う。


 彼女はおれの視線に気づき、こちらを見て微笑む。

 すすけた顔に白い歯が映えた。


「こちらのお客さん、はじめてかな?」

「五日ほどになるかな、この村に来て」ユングムルトは答えた。

 おれはいささか気まずくなり、すぐに弁解した。

「すまないじろじろ見て。おれはセンギュスト。この人のところで厄介になってる」

「いいわ。あたしほら、大きいでしょ。初めての人はみんなあなたと同じようにあたしを見るの。だから慣れてる」

 巨娘は微笑むと、あわてたようにことばを続けた。

「あら、あたしこそこんな高いところからごめんなさい。あたしはルゥファナ。一応、お店の看板娘って事になってるわ。だから、みんなは、あたしの体に店の名前を書いておけば目立っていいんじゃないかって……」


 彼女は前にかがみ、貴族風に膝を折り挨拶でもしようとしたのか、しかし、その大きな臀部が後ろに突き出したようで、背後の酔客二、三人をはねとばした。


「おい、ルゥファナ! かがむときにゃ後ろに声をかけろって!」

「ごめんなさい! 今度から気をつけるわ」

 給仕娘ルゥファナは屈託のない笑顔を、今度は背後の犠牲者へ向けた。

「ゆっくり楽しんでって旅人さん。シューボヌン!」

 くるりと身を翻し、その巨体に似合わず軽やかな動きで酒場内の人をかき分けると、厨房へ戻っていった。


 巨娘の後姿が厨房奥に消えた後、率直な疑問をユングムルトへぶつけてみる。

「この村には、彼女のような、その……大柄のひとは多いのかい?」

 年寄り農夫はたくましい腕で軽酒のジョッキを持ち上げ、ぐいとひと息で空けた。

「いや、あの娘みたいに大きな人間は、他にはおらんよ」

「そうか。それなのに陽気でいいな」

 ぶっきらぼうだが屈託のない彼女の表情を思い出して、言う。

「そう見えるなら、そうだな」


 気になる答え方だったが、それももうどうでもよかった。

 おれはよそもので、いずれこの村を発つからだ。




       二


 翌日、ユングムルトはおれに休暇を出してくれた。

 彼との雇用契約は二週間。

 おれはそのあいだ休みなく働くつもりでいたが、休みをとっても約束の賃金は減らさないと言うから、そのことばに甘えることにした。


 半日かけてネッケーゼ村とその周辺を端から端まで歩き、キスルの他の地方にあるような、なんの変哲もない村だと言うことを再認識する。

 気になるところがあるとすれば、きのう掃除をしたあのほこらの碑と、村を囲む山の一角から聞こえてきた謎の音だけだ。おれは足もとの影の具合から、もう少し村を探索する時間のあることを知り、村はずれのほこらへ向かった。


 うっそうと茂る森の中に再び足を踏み入れ、きのう来たとおりの道をたどると、ほどなく例のほこらを探し当てる。

 異境の国ではほこらの中に彼らの信仰する神の像を置くらしい。しかし、偶像を嫌う『剣王ドゥール』とその神『名のない神』のほこらには、中になにも置かれることはない。


 護国連合内で見かけられるこの種の祭壇には、長年拝むもののいないせいで、ちりやほこりが積もったり、小動物がねぐらに使ったりするものはあっても、中に碑が置かれているのは珍しい。

 蔓草を取り除いたので、扉の開けやすくなった石のほこらの正面に立つと、いまにも崩れそうな朽ちかけた木の扉をゆっくり開いた。

 きのう見た金属製の碑はその奥で鈍い光を反射させている。

 ユングムルトの手前、きのうは遠慮もあった。いまならじっくり碑を観察できる。

 頭を扉の内側につっこみ碑に刻まれた文字を眺めた。


 考古学者でもないおれに、その文字を読めるはずもない。しかし、文字の並び、行の取り方、行の空き、一行の文字数など、その文章の塊にはどこか見覚えがあるような気もする。

 必死で記憶を探るおれの耳に、またあの甲高い音が山の一角から聞こえてきた。


 <がつーん>……<かつーん>……<が、かつーん>、<ががが、かつーん>


 昨日は蔓草の除去作業にかかりきりで気づかなかったものの、こうやって落ち着いて聞いてみると、怪音はどこか一定の規則性を保っていた。

 やはり斧で木を割る音ではない。ユングムルトの言ったように、槌でただ木を打つのとも違うようだ。それに、そもそもだれがこんな山の中で、ただ槌で木を打つというのか。


 いったい何のために? 


 ほこらの扉を元通りに閉め、音のする山を目指し森の中を歩き出す。

 帰りの心配はすっかり頭から抜け落ちていた。

 休日の最後を締めくくる謎解きに夢中だったのだ。



 正直に告白する。


 おれはいささか山歩きをなめていた。

 山の斜面を歩くことがこれほど難儀だとは想像もしなかった。

 足もとの地面はあたりの木陰に守られ、コケで覆われ、じくじくぬかるんで足にまとわりつき、すべらせ、おれを転がそうとする。


 さっきまで聞こえていたあの怪音も、とっくに途絶えてしまった。


 そのせいで、おれは進む方向すら見失い、ただ山腹に茂る木立の中を闇雲に進んでいるだけだった。木立の隙間から入ってくる陽光の色と輝きは、だんだん弱々しく変わって、刻一刻と日の傾いている現実を、おれに否応なく突きつけてくる。


 ――まずい。これじゃ日の沈む前に帰れなくなる


 いまさら引き返すこともできない。

 というより、自分がどこにいるかも分からないから、引き返すこと自体不可能だった。気ばかりあせり、うっかり地表に飛び出た木の根に足を取られた直後、山の斜面を転がり落ちてしまう。


 斜面の木に激突しないよう、必死に頭をかかえ、横向きにゴロゴロと転がった。

 途中、身体は何度も地面の段差で跳ね上がり、そのたびに口からあうあうと、くぐもった情けない悲鳴も出る。


 最後に一回転し、おれの身体は勢いよく宙を飛んだ。


 浮遊感を一瞬だけ味わい、すぐ背中から地面にたたきつけられた。

 その衝撃と痛みに動けず、ただうんうん唸るばかりだった。


 どのくらい経ったか、ようやく手足の自由を取り戻した。

 全身の疼痛に耐え、ゆっくり起きあがると身体の各部を確認する。

 茂みの枝にでも引っかけたようで、大きなかぎ裂きは肩口と袖にできていて、裂け目の縁には血もにじんでいた。

 衣服は全身泥まみれ、コケまみれになっている。

 骨に異常はないようだ。


 幸い、日はまだ沈んでいなかった。


 あたりを見回すと、おれのいるところは山の斜面にできた窪地で、ちょっとした平地になっている。地面には草むらしかない。すでに暗くなりかけている周囲の木立に比べ、紅色の夕日は直接平地をぽっかり照らし、ここだけやけに明々しかった。

 腕で膝を支えながら立ち、全身にこびりついた泥とコケを払い落とす。


「擬敵……?」

 思わず声も漏れた。


 窪地の中ほどに、人間の背丈ほどの丸太が数本、垂直に屹立していた。

 不意に倒れないよう、寝転がした丸太で挟まれ、しっかり固定されている。


 剣の練習用に使う擬敵かもと考えたのは、丸太のちょうど人間の急所に当たる部分だけが『なにか』で打たれ、ささくれ立ち、割れ、えぐられていたからだった。中には原形をとどめないほど破壊された丸太もある。


 丸太に残る痕は剣による斬撃ではなく、もっと鈍く太い、たとえば戦槌や戦斧のような武器を使ったようにも思われた。ただ、もし戦槌であれば木には陥没痕が多く残るはずだったし、戦斧であれば、もう少し鋭利に切り裂けるはずだ。

「む……」

 おれは丹念に数本の丸太を調べ、ようやく『なにか』の正体を見出した。

 垂直に立てられた丸太に傷と裂け目があって、その裂け目の最下方に鍛冶屋がよく使う長柄の金槌らしきものの先端と、その短く折れた柄がしっかりはさまっていた。

 抜けなくなったので柄を折るしかなかったのか。


 裂け目は丸太の全長の中ほどにまで達していた。


 よほどの力、しかも拍子よく打ち込まなければ、たとえ剣であっても丸太のこの位置に刃先を届かせることは困難だ。

 ましてこの人物は金槌のような鈍器を使っている。


 たいした腕前らしい。


 おれは、ここでどういう訓練が行なわれたのか連想し、次第に興奮していった。

 ――すごい、こいつはすごい! 

 いつの間にか体の痛みも忘れ、地面に落ちている棒をつかむと、丸太に残った痕がどういう順番で打ちつけられたか、その棒で丸太のえぐれた痕を次々なぞった。


 そのうち、かつて雇っていたウーケの剣士が、剣士志望者の訓練につかっていた初歩的な連撃を思い出し、丸太を打ってみる。相手の急所を素早く順番に打つ練習だ。

 なんと、丸太に残る痕にぴたりと符合する。

「こいつは……ウーケ出身か?」思わずつぶやくおれ。

 丸太の急所にあたる部位を連撃の順番通り、決まった息継ぎをしながら叩くと、その音は耳に残る怪音の拍子と、ある程度一致することもわかった。


 ――だれかがここで丸太の擬敵を相手に剣技の訓練を行っていた。


 山間に響いていた怪音の正体はそれだと、おれは確信した。



 あたりはすっかり夜闇に覆われた。

 どこをどう通ったか、必死に下山し、酒場の明かりを頼りになんとか村にたどり着いたのだった。

 ユングムルトの家に戻り、このままぶっ倒れてしまいたい。

 絶望的な空腹感はどうにも押さえきれないのに、もう歩く気力もなくなりそうだ。

 疲労困憊の身体をひきずり、酒場の裏口にまわると水場で上着を脱ぎ、寒さに震えながら、両腕と顔を洗う。

 どこか近くから漂うひどいゴミの臭気に耐え難いものを感じながらも、全身汗と血と、泥とコケとでぐじゃぐじゃになっている自分の姿を思えば、最低でもこのくらいはしておかないと、酒場に入ることさえためらわれた。


 と、だしぬけに酒場の裏口が開く。

 室内から届く光が水場のおれを照らし出し、まぶしい。


「だれ? だれかいるの?」

 酒場の看板娘の声だ。

 汲み桶の水を断りもなく勝手に使った後ろめたさと、汗くさい下着姿でいる気恥ずかしさに、おれはがらにもなく口ごもってしまう。

「う、う、その……」

「あら? あんた……あなた? きのう来た……旅人さん?」

 彼女はようやくおれを認識したようで、詰問口調は多少弱まった。

「お店の入り口は反対だけど?」不審そうな声だ。

「あ、その、すまない、水場を借りて」

「ああ、そう、水場を使ったの。そういえば、ひどい格好ね」


 暗がりに目も慣れたのか巨娘はおれをじろじろ眺めると、眉間に寄せたしわを一層険しくした。

 彼女は厨房の中から生ゴミの入った、人ひとりはいれるほどの大きな木桶を出すと、軽々と片手で持ち上げ、水場近くに掘ってある大穴にその中身をぶちまける。

 目前を通り過ぎる巨体の風圧に、身体がふらりと揺らぎそうな錯覚さえ覚えた。

 大穴のまわりに散らばったゴミを片付け、彼女はこちらへ戻ってくる。


 そのときになって、おれはようやく他者に質問できる程度に思考力を取り戻した。

「な、なあ、この村にウーケ出身のひとはいるかい?」

 ルゥファナはおれの前に立ち止まり、瞬時に答えた。

「いないわよ。どうして?」

「それじゃ……ウーケの剣士と関わりのあるひととか」

「それは知らないけど、となり村の剣士さんなら、いまお店に来ているわ」


 ――な、なに、剣士だと?

 となりの村の剣士……おれの頭はにわかに明瞭さを取り戻した。


「ねえ、汗くさいわよ。それじゃ色男だいなしだわ」

 ゴミの臭気より、おれの汗のほうが臭うという、衝撃的な言辞を頭上から降らせ、給仕娘は作り笑いを顔に貼り付けたまま店内に入った。


 間断なく、裏口の扉はぴしゃりと音を立て閉じられた。


「どこに行ってたんじゃ、おそかったの」

 酒場にはいるとユングムルトはきのうと同じテーブルでおれを待っていた。

 今夜もボヌンだから夕食はここで、と約束していたのだ。

 空腹のあまり、倒れそうだ。

「話はあとでもいいか? とりあえずそこにある食いもんを分けてもらえると助かるんだが」

 年長者への礼も失し、彼の目の前に置かれた、食いかけのあぶり肉を手づかみで口に放りこむ。

「どうした、まるで山で遭難したみたいじゃな」

 突然の無礼に面食らいつつ、老人はいまのおれの状況をかなり的確に言い当てる。

 無言でひたすら食べ、飲むおれに尋常ではない雰囲気を感じたのか、ユングムルトはしばらく沈黙していた。

 しかし好奇心には勝てなかったようで、ついにその口を開いた。

「上着はどうしたね?」

 それには答えず、かわりにおれは給仕娘にしたのと同じ質問をし返した。

「この村にはウーケ出身のひとっているのかい?」

「ん、む。……いや、いないと思うが。この村の人間はみな生粋のキスル民じゃよ」

「それじゃあ、ウーケに行ってたやつとか、行ってたけど戻ってきたやつとかさ」

 ことば遣いはぞんざいそのもの。

 さすがのユングムルトもいらだったように声を荒げる。

「いったいどうしたんじゃ! ワシの質問にも答えんで、ウーケがどうとかばかりじゃ、さっぱりわけがわからん!」

「おれにもわけわからんぜ。なんでこうなっちまった」


 正直な気持ちだ。

 なぜこんなにうきうきしてる?

 なぜ謎の人物のことを知りたがる?

 おかしなことに、おれの身体は熱くなっている? 興奮してるのか? なぜ?


「なに? まだウーケとか言ってるの?」

 頭上からの声。

 ルゥファナだった。

「さっきあたしが教えてあげたでしょ? 剣士さんならほら、あそこ」

 食事のことに頭はいっぱいで、もらった情報のことをすっかり忘れていた。

 立つと酒場の壁ぎわを見やる。

 おれの頭は彼女の胸の真ん中あたりまでしか届いていなかった。

 人混みにはばまれ、向こうは見えない。

 どうしてか頭は重いが、仕方なく、つま先立ちで伸び上がった。


 急激なめまい。


 萎えたように足に力も入らなかった。

 その姿勢のまま後方へふら――

「ちょ、ちょっと!……」

 おれをささえた――のか?

 がっしりとしたなにかに両肩をつかまれる。

 

 おれの――後頭部は声の主の胸元に密着した、ようだ?――


 残念なことに、その感触を愉しむこともできず、意識はどこか遠くへ飛




       三


 目を開けると、視界は農家の天井に占領されていた。


 よく考え、ここはユングムルトの家に間借りした自分の部屋だと認識する。

 体を起こそうとして、ひどく背中が痛む。

 窓から部屋に差し込む陽光は、目にきつく、まぶしく感じられた。


 酒場にいたところまでは記憶にある。

 自室の寝床に入った記憶はない。

 もやのかかった思考をはっきりさせようと頭を振った。

 頭痛。

 だれかが部屋の扉を叩いた。


「ユングムルト?」

 小さい声だ。

 扉の向こうにいるのは女のようだった。

 ユングムルトにかみさんはいない、病死したと聞いている。

「だれ、だい?」

 入り口の扉へ向かい、呼びかける。

 相手は沈黙したままだった。


「……はいるわ」


 今度の声ははっきり聞こえた。

 声は名乗らず、扉が開く。

 見ると酒場の看板娘だった。


 ルゥファナは少し腰をかがめ、扉をくぐるようにして部屋へ入ってきた。

 目を合わせたとたん、険しそうなその表情が、少し緩む。

 相変わらずの巨体。

 寝床のおれからは彼女の頭が、いまにも天井へ当たりそうに見えた。


「起きてた?」

「ああ……たぶん」

「具合はどう? 吐き気は?」

「おそらく」

「なにそれ。あいまいね、自分のことなのに」

「そうだな。……おれの人生はいつもあいまいなんだ」

 ルゥファナはくすりと笑った。

 酒場で見た笑顔よりずっと自然な表情に思えた。

「いきなり倒れるから驚いたわ」

「そうか、おれは倒れたのか。……そんなに疲れていたのかな」


 後頭部に残る感触を少々思い出す。

 すぐ彼女から視線を外した。


「疲れのせいじゃないわよ」


 ルゥファナは窓辺に近づくと、腰をかがめ窓の外を見る。

 おれは彼女の後ろ首を見つめていた。

 窓の、そのあたりから例の山が見えるからだった。


「あの山に登ったのね」

「あそこには何があるんだ?」

「コケよ」

「……こけ?」

「あの山に生えているコケは危険なの」

「毒のコケというわけか」

「ほんとうは薬用なんだけど、じかに身体につくと危険なのよ」

 彼女はおれから一番遠くはなれた壁ぎわに移動するとこちらを向き、そのまま壁へよりかかる。


 両腕に巻かれた包帯に目を落とし、おれは山の斜面を滑り落ちたことを思い起こした。どうやらあのとき腕のすり傷にコケが付着したらしい。


「ものがコケだけに、山でコケるにもほどがあるってことだな。酒場でもコケたようだし、おれの人生はあいまいどころかコケ通しだよ」

「面白くないわよ」


 しかし、ルゥファナは声をあげ薄く笑った。


 昼間見るこの給仕娘は、すすけた顔をしていなかった。

 毛髪は黒みの強い茶褐色なので、その対比に際だち、顔肌はむしろ実際より白く見える。

 深緑色の野良着を身につけていた。

 落ち着いた色味で、どちらかというと、その私服の方が酒場での服装より、いまの彼女の雰囲気には似合っているように見える。


「ところで……ここへ何をしに? ユングムルトの居場所は知らないよ」

「あなたに用事なの。彼が枕元にいるのかと思って呼んだわ」

 見舞いか?

「おれに? 君に見舞われる理由はないと思うけど」

「ご挨拶ね。あたしはあなたをここまで運んできたのよ」

 無思慮に言ったおれのことばを聞いて、彼女は憤慨した様子だ。

「そうか……ありがとう。……たいした力持ちだ」

「知らなかった? 身体が大きいと、力もあるの」


 不機嫌そうなその声音に、うかつにも、また失言したことを悟る。

 なんとか挽回するため笑顔を作ろうとし、コケの毒のせいか、顔の筋肉はひきつったようにぎこちない感覚をおれにもたらした。


「面倒かけてすまなかった。でも、話があるなら、もう少しこちらに寄ってくれ」

「話なら、ここからでもできるわ」

 そのことばの調子に、起き抜けで頭の回らないおれでも、ようやく彼女の配慮に気づく。


 この娘は自分の大きさを是認しているわけじゃなかった。

 むしろそれを恥じている。

 その身体の圧迫感を感じさせないよう、あえておれから一番遠い壁ぎわに立ったのだろう。


「まあ、そう言わず、その椅子にかけてくれ。でないと起きあがったまま話をしなきゃならない。おれはまだ本調子じゃないんでね。頼むよ」

 何とか理由をみつけ、寝台の横の椅子へ座るよう頼んだ。

 巨躯がそこへ落ち着くと、それはまるで子ども用の椅子のように見えた。


 ルゥファナは、だしぬけに話を切り出す。


「ねえ……山で、……見たのね?」


 質問の意図を、直感的に理解した。


 うなずくと、彼女は天井を見上げ、それからうつむき、上目づかいにおれをにらむ。口だけ動かし、低く抑えつけた声を発する。


「なぜ、酒場でウーケって……ウーケの剣士を気にしたの?」

「山で見た。擬敵に残っている剣痕はウーケで使われる剣技のものだ」

「へぇ……なぜ、あれがウーケの初歩連撃だと分かったの?」

「知っていたからさ」

「あなたは――いえ、……ウーケのご出身?」

「おれの生まれはケネヴだ。たまたまウーケの剣士を知ってたんだ」

「……そっか」


 何を期待していたのか、彼女は当ても外れたというように肩をすくめる。


「ところで、おれからも質問だ。あの場所で訓練しているのはだれだ? この村の人間なのか? やはり、きのう酒場にいたという剣士か?」


 ルゥファナは黙っていた。

 おれはもう一度、今度は別な質問をしようとして――


「なんだと? ……ウーケだ?」


 彼女は大きな目でおれを凝視していた。


「君こそ、どうしてあれをウーケの……初歩連――撃だと――」


 とても重要なことが頭に浮かびあがりそうだ。

 彼女の答えるほうが早かった。


「あたしなの」


「――んだって? なんだって!」おれは絶句しつつ、聞き返す。

「あの場所はあたしの練習場。あたしは剣士を目指しているの」


 なんの感情もこもらぬ、平板で抑揚のない言い方だ。


 つい今しがた聞いた彼女の告白と、自分の常識、判断、思いこみ――なんでもいいが、ともかく思い描いていた剣士像との落差に戸惑い、混乱し、結果、おれは――落胆した。


「今度はこっちの質問。あなたの本当のお仕事はなに? どう見ても堅気の人ではないわね」

「仕事か。おれはあちこちの村々を自由気ままに放浪する、ただの自由民さ」

「うそ!」

 叱責のような激しい調子だ。

「ずるいわ。あたしはちゃんと話したじゃない」

「それを、知ってどうする?」


 ふたたび場を沈黙が支配した。

 話の口火を切ったのは、またも彼女だった。


「あの……壁に立てかけてあるのは? 楽器?」

「そう、キリューグ。楽器だ」

 彼女は口を結び、ことばのつづきを待っている。

 おれは仕方なく会話をつないだ。

「楽器に興味でもあるのか?」

「双首……のキリューグを奏でる吟遊詩人。センギュスト・テイル」

 ルゥファナは壁のキリューグを見つめたまま、たどたどしくつぶやいた。

「……知ってたのか」

「ええ、あたしたちは知っているのよ」

「あたしたち?」

 ばかにでもなったように彼女のことばを復唱する。

 仲間でもいるのか?

「おれが吟遊詩人だったら、どうだっていうんだ?」

 またも無言。

 にわかに彼女は口ごもりつつ、か細い声を出した。

「ん? なんだって?」よく聞こえなかった。


「あたしを剣士にして!」


 今度は大きな声。

 予感していたそのことばに、ついさっき決めたとおり回答した。


「おれはもう吟遊詩人を廃業してるんだ」

「あたしを剣士にして」

「聞いてないのか? おれはもう剣士を育てたりしない、斡旋もしない」

「あたしを剣士にして」

「わかった、本当のことを言おう。おれは、女は扱わない。それに、吟遊詩人は女を題材にしないんだ」

「あたしを剣士にして!」

「女は剣士には向かないんだぞ」


「あたしを、剣士にしてっ!」


 給仕娘はついにかんしゃくを起こしたようだった。


「……残念だがあきらめろ。剣士になった女はいない」

「どうして? なぜ女は剣士になれないの!」

「女は……男に劣るからだ」

 彼女は太い眉をわずかだけ、ぴくりと動かした。


「そこまでにしておきなさい」


 威厳ある口調にふさわしい雰囲気を身にまとい、ユングムルトはいつのまにか部屋の入り口に立っていた。

 ルゥファナも立って身をひるがえし、大股で扉に向かう。

 老人が扉の脇に寄り、彼女の通りやすいように道をあけると、ルゥファナはおれを振り返りつつ、両手を大きく広げた。

 つり上がったその目は、妖しく光ったようにも見えた。


「ねえ、あたしの身体をよく見て。ほら、ふつうの女の子とは違うのよ? いったいなにに劣るっていうの? 力? 技? それとも度胸? あたしはどれをとっても、そこらの男になんか負けないわ! それともあなたの目は節穴なのかしら? 高名なる吟遊詩人、センギュスト・テイル、さま!」


 荒々しい足音とともに巨娘が去ると、ユングムルトはいままで彼女の座っていた椅子に腰かけた。おれは、ちょっと滅入った気分のまま老人に語りかける。

「あんたも知ってたのか? ……はじめから?」

 彼はうなずいた。

「その筋ではそこそこ名の通った男じゃからな、あんたは。優秀な剣士の育成と斡旋なら、並ぶものはいない、とね」

「よせよ……そうか、あんたはどっか、剣士団にでもいたんだな」


 剣士を斡旋する『語り専門』の吟遊詩人は主に民王や選王の屋敷、各領地の剣士団兵舎に付随する食堂兼酒場など、いわゆる酒保での歌奏が多い。そのほうが斡旋の効率は圧倒的によい。


 一般人に剣士を売り込む歌を聞かせたところで、就職率が上がるわけじゃない。

 なので『歌奏専門』以外の吟遊詩人が昔のように町や村で歌奏する機会は極めて少なくなっているし、おれの昔の風評をよく知るということは、酒保に出入りする機会の多い、剣士関係者の可能性も高いわけだ。


「あの娘のことで、気分を悪くせんでくれ」老人は頭を下げた。

「ああ。別に気にしたりしない。剣士志願者ってのは、断わられると大抵はいろいろ捨てぜりふを吐いていくもんさ。おれは慣れてる」


 本当は心中に苦々しい、後味の悪い気持ちもある。


「ルゥファナには、才能……剣士としての素質はないのかね?」

 唐突にユングムルトは本質を突いてきた。おれがさっきから考えずにすまそう、心にとどめないようにしようと決意しているのに、だ。

「素質は……あるな」

 真顔の老人を直視できず、しぶしぶながら、正直に認める。

「おっとと、だからといってあの娘を剣士に、だなんて考えちゃいないぜ。さっきも聞いたろう? おれは女を育てる気はない、女の剣士なんて聞いたこともない」

 老人はぎょろりと目を剥いた。

「厳密に言えば、……ひとりいる」


 むろん、その話は知ってるさ。

 あまりにも特別すぎるから言わなかっただけだ。


「ここで歴史の講釈でもするつもりなのか?」

「いや……言いたいことはわかっとるよ。女の剣士はいない。それが常識じゃ」

「なら、いいんだが。……でも、あんたはあの娘の理解者で味方なんだろう?」

 ユングムルトは嘆息すると、窓の外に視線を移し、目を細めた。

「だれも……だれもあの娘のことを理解してやることはできんよ」


 この老人の話に反応するつもりはない。

 どうせ身の上話をするに決まってる。

 だが、結局そんなおれの心中を察することもなく、話題は勝手に転がっていく。


「生まれつき身体の大きかったあの娘は、八つになるかならんうちに、もう自分の母親ほどの背丈じゃった。……おないどしの友だちはだれもおらんかったじゃろ。なに、子どもたちのせいばかりじゃない。大人たちだってあの娘のことを気味悪がった。流行り病がこの村を襲ったときも、ルゥファナだけはあの身体のせいか他の村人よりも症状が軽かった。両親は病で死んじまったというのにの」

「他人よりも大きく生まれてきたのは、別に彼女のせいじゃないさ」


 仕方なく、というか、つい話に反応しちまう。

 やっぱり、身の上を聞かされるのか。


「そんなことはたぶん、みんなわかっとるはずじゃ。だがな、実際にあの娘の大きさを見て、あんただって驚いたじゃろ? あの娘はまだほんの子どものころから、まわりの人間のそんな顔ばかり見て暮らしてきているんじゃ」

 酒場での彼女の自己紹介を思い出す。

「両親が死に、病から回復したあの娘はワシを訪ねてきた。どういうわけか剣士になりたがっておった。昔とったなんとやらで少々、腕に自信もあったから戯れに相手をしてやったが……それでふた親を亡くしたことが少しでも忘れられるのなら、と不憫に思ってな。じゃが、半年もたたずにワシはかなわんようになった。年端もいかぬ小娘に、老いたりといえどこのわしが、じゃ」

「あんたの剣の腕がどうかとか興味はないね。それに……いくら身の上話を聞かせてくれても、おれの結論は変わらないよ」


 とりあえずおれはユングムルトにそう釘を刺した。

 女剣士? やめてくれ、ありえないぜ。


「同情を買おうとは思っとらん。あんたの噂は聞いた。直近の評判もじゃ」

「なら、話はこれで終わりにしてくれ。請け負った仕事の残りをかたづけたら、おれはここをさっさと出て行かせてもらう」

 すぐにも出て行きたいところだ。

 が、賃金の残りは惜しい。

「ワシが言いたかったのはな、あの娘の素質はいまのあんたにとってどの程度の価値を持つか、少し考えてもらえんか、ということなんじゃ」

 ユングムルトは部屋を出て行った。


 おれは老人がいなくなっても、彼のいた場所をにらみつづけた。




       四


 翌朝になっても、手足はまだしびれたままだった。

 起き上がって家具と壁づたいに歩き、居間に入る。

 朝食の置かれたテーブルの上に皮紙があった。

 ユングムルトの書き置きだ。


 ――昼食はルゥファナに頼んである――


「しつっこいぞ、おまえらぁ!」

 思わず怒鳴り声を上げ、おれはそれを床に投げ捨てた。


 あのふたりは身体の自由がきかないことにつけ込み、いずれおれをあのやくざな商売に復帰させようとしている。

 もう一刻の猶予もならない。

 仕事の約束を守るのはやめだ。この村から出て行こう!


 そう決めて、とりあえず、ユングムルトの用意してくれた朝食をむさぼり食うと、おれは苦労してまた寝床に戻った。

 食事をとったおかげで、多少気分も大きくなった。


 ――せめてあの巨大な娘に会うのだけは避けたい


 無理をしてでも、やはりいまのうちに村を出て行くことにした。

 たどたどしい動きで外着に着替え荷造りをし、ずっと壁に立てかけたままの楽器へ手を伸ばした。なぜかその手は宙に止まる。

 この特製キリューグはけっこう重い。

 これを持って行くのは得策ではない。


 ――どうせ廃業した身!


 思い切ると、おれは双首のキリューグをそのままに、寝床脇の窓を開け、荷物を外に落とした。つづいて窓枠に手をかけ身を乗り出す。

 下を見るとそれほど高くもなかった。

 乾いた土の上に生い茂る雑草は、落下の衝撃を弱めてくれそうだった。

「えい!」


 飛び降りる。


 着地した拍子に膝と手を地についてしまった。

 おれは両足をふんばり、そのまま立とうとするが、足に力がこもらない。

 必死にこらえ、なんとか前かがみの姿勢となる。

 だが身体の均衡はとれないままだ。

「おっとっとっと!」

 足はまだ自重を完全に支えきれず、おれは中腰の姿勢のまま、前屈みで小走り気味に数歩前に出た。

 たちまち庭木へぶつかり、後ろに倒れた。


「あ痛ぇ!」


 庭木ではなかった。


「あなたは本当に無茶な人だわ」

 巨娘は両腕を腰に当てたまま、自分にぶつかり無様にひっくりかえったおれを見て、頭を振った。

 おれを見下ろすその顔には、あきれたような表情も浮かんでいる。

「……なんだ、早いな。お昼に来るはずだったろ?」

 憎まれ口をたたいてみた。

「いまがそのお昼よ」

 

 彼女はため息まじりに報せてくれる。


 軽々と抱え上げられ、もとの寝床に戻された。


 なんとも屈辱的な気分だ。

 たぶん、相手が屈強な偉丈夫ならそうは感じないんだろうが。


 おれを寝床に置くと、ルゥファナは窓の外に放り投げた荷物をとりに行き、戻ってくると寝台の脇にそれを置く。

 置きざま、壁ぎわのキリューグに目を留め、言った。

「持って行かなかったんだ。本当にやめたのね」

 悲しそうな表情を浮かべていた。

「ああ、わかったろ。そんな顔をしてもだめさ……吟遊詩人あらため、廃業詩人じゃ君を剣士にはできない」

「そのことじゃないの。これ、あなたがいなくなったらだれが弾くのかなって」

「さあ、ユングムルトが弾かなきゃ、この村のだれかが弾くだろうさ」

「だれも弾けないわ、きっと。……珍しい楽器だし」


 もともと双首のキリューグの扱いは難しい。


 珍しく見えるのも奏者が少ないからだ。

 楽に爪弾ける単首のキリューグもあるのに、わざわざ苦労して体得しようってやつは少ない。おまけにこれは特注の品で、おれ以外のやつが弾いても、たしかにろくな音にはならないだろう。


「だとしても、壁のかざりくらいにはなるだろうさ」

「かざり……楽器なのに、音を出してもらえないなんてかわいそう」

「弾きこなせなきゃ仕方ないだろ。かざりになるだけマシってもんだ。珍しいって言うならな」

「でも、それはもう楽器じゃない。楽器としての価値はなくなっちゃう」

 おれのキリューグを見つめながら、なぜかルゥファナは苛立たしげな早口となる。

 議論するつもりはない。

 正直に認めた。

「ああそうだ。そうなるな」

 彼女の言った『価値』ということばが、妙に耳に残った。


 この娘はおれにとってどういう価値を持つか……


 ばからしい、他人の価値だなんて。

 そんなものはおれが決めていいことじゃない。

 彼女が自分で勝手に決めるもんだ。

「お昼ごはん持ってくる」

 悄然としていた巨娘は、突然そう言うなり立ち上がると、風を巻き起こしながら居間に向かい走り去った。

 その風圧で床のほこりは大量に宙へ舞い上がり、開け放した窓からおれの寝床に差し込む陽光の軌跡を、より際立たせた。



「あんた、逃げだそうとしたそうじゃないか? え、センギュスト?」

 夕闇迫るころ戻ってきたユングムルトは、おれの顔を見るなり、開口一番そう言った。ルゥファナから話を聞いたらしい。

 叱責を覚悟していた。

 だが彼の様子は違った。

「ま、病人に無理難題を押しつけとるようなもんじゃから逃げ出すのも無理はないて。しかしなセンギュスト、あんたはコケの毒を軽く見過ぎとる」

 彼の目は笑っていた。

 それから、いかにコケの毒が恐ろしいか、いろいろな例を交え、夕食をとるのも忘れ、こんこんと話しつづけた。


 おれはその話の間、別なことを考えていた。

 昼食後、ルゥファナと交わした約束のことだ。


『大切な楽器を置いて逃げるほどなら、あなたが治るまで剣士のことは言わないようにする。そのかわり治ったら、改めてあたしの話も聞いてちょうだい』


 あのとき、ふてくされたように唇を尖らせ、彼女はそう条件を出してきた。

 酒場から家まで運んでもらった恩に免じ、おれもその話へ乗ってやることにした。

 ただし、この先も出した結論を変えるつもりはない。


 彼女はこれから毎日おれの昼食の面倒を見てくれるという。

 その代金――礼――になにかしてやるというと、ルゥファナは少し考え込み、やがて村の外の話や、歴史の話をしてくれという。

 もと吟遊詩人としてはそんな話なら朝飯前だ。

 すかさず了承すると、彼女は天井に頭をぶつけるほど跳び上がって喜び、


 ――本当に天井で頭を打った。


「センギュスト、こら、ちゃんと聞いておけ。山にはほかにもまだいっぱい毒のあるキノコがあってな……」


 知らぬうちに、話は山の危険なキノコに移っている。

 生返事もほどほどにして、そろそろ話をまともに聞いておこうと思った。


 この村にもう少し滞在するとしたら、多少は役立つ知識かも知れないからな。

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