第7話


 『愚行権』という言葉がある。

 他人から見てみれば、愚かな振る舞いに見えても。その行動の価値判断は行動した自身にしかくだせないとする考えだ。アニメでよくある「ここは俺にまかせて先に行け」と言ったせいで、そのあと死んでしまう展開。例えるなら、死罪が待っていたとしても主君のあだ討ちをした赤穂浪士。生涯をかけて隧道を掘り続けた男や、他人に馬鹿にされながらも木を植え続け、ついには禿山に森林を戻した男もいた。

 みんな馬鹿にされたり、他人から見れば不必要なエネルギーを使い人生を浪費しているように見える。もしかして、道半ばにして倒れるかもしれないのに、他人の意見は気にしなかった。勇気があり覚悟もあった。もっと賢く生きられないのかと人は言うかもしれない。

 だが彼らは一貫してやり遂げたのだ。突き詰めると、人の幸せは他人には決められない。

 俺が鴇子に求婚するのも周りからみたら馬鹿のように見えるかもしれない。というか、俺と鴇子の仲の悪さをしっている学校の連中は馬鹿だと思うだろう。

 しかし、自分の中に息づく確かな鼓動は、鴇子に向かって走れと俺に囁いていた。

 『鴇子になんて興味ねえよ、あんな性格ブス』とか言っていた一年前の自分がいたら殴ってやりたい気持ちだったが、今はそれが正しかったのではないかと思っている。

 なにしろ、俺と鴇子はどうあがいても結ばれる運命ではなかったのだから。

 何度も俺との仲直りを拒否した鴇子が、今はとても正しく見える。

 結局のところ、俺と鴇子は結ばれない。

 鴇子は正しかった。俺は間違えていた。

 俺は分不相応な望みを抱き行動した報いとして、他人に嗤われるだろう。だが、そんなことより、今は自分の見通しの悪さに腹が立っている。

  

 そう言えば、鴇子はどこに? 

 ふと歩みを止めて考えるといつのまにか、自分の家とは反対方向に歩いていたことに気づいた。親父さんも心配している節はなかったけど……俺は少し心配している。それよりなにより、原因を作った俺が見つけだすのが筋だと思った。

 

 そんなことを考え、とりあえず公園へと向かおうとすると、ポケットに入れているスマホが振動した。スマホの液晶画面にはごっさんの名前が表示されている。

 いま、ごっさんと喋る気分ではない。

 と言うわけでしばらく放置しているのだが、一向に振動が終わる気配がない。

 電池の残量も心配なので、俺はいやいや通話のディスプレイボタンを押す。

「はい」

『さっさと出てよ! 今どこ? 何してるの?』

 ごっさんの声に混じって、その背後から調子の外れた『津軽海峡冬景色』が聞こえてきた。あいにくとこっちの心象風景も冬景色である。

「そっちはカラオケか?」

『質問してるのはこっち! トッキーと何かあったの?』

「……もしかして、鴇子といるのか?」

『いるよ、急に電話でカラオケに呼び出されてさ、さっきからエンドレスでサイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』歌ってて、超怖いの』

 よりにもよって……その選曲か……

 あれはサイモン&ガーファンクルのヒットナンバーとして有名で、映画の『卒業』にも使われている。

 確か、恋に破れた若い男を歌ったものだが……今それを歌うか?

『これってやっぱり、そういうことなのかな』

「鴇子に伝えろ『Love is over』のほうが似合ってるって」

『やっぱり何があったんだね』

「まあな……一言で言うと、失恋した」

 色々とあった。だけどそれを全部説明するのが難しい。

『失恋して、これを歌っているってことは……』

「ん、どうかしたか?」

『なるほどねえ……やっぱ、そういうことかな……うん、そうだよね』

 不思議なことに、ごっさんの声が妙にはずんでいる。

「おい、一体どうかしたのか?」

『いいから早くトッキー迎えに来て。新町の東商店街にあるカラオケだから』

 そう言うと、電話は切れた。

 途中から態度が変わったのが気になったが、当事者としては無視するわけにはいくまい。

  

 近場だったので電車に乗る必要もなく、目的地のカラオケ屋まで数分でたどり着いた。

 受付で追加分の料金を払ってから、指定された部屋まで歩くと、その前にごっさんが立っている。

 今日の彼女の服装は、ノースリーブのブラウスに裾がひらひらしているフレアスカート。学外で見る彼女の服装は少し新鮮だった。

「やー早かったね」

 ごっさんは俺を視界に発見すると、かつてないくらいにこやかな笑顔で近づいてくる。

「でさでさ、トッキーと一体何があったわけ、そこんとこ詳しく!」

 ややウザイと感じたが、俺は今までの一連の出来事をごっさんに話した。

「ふうん……やっぱりそういう意味か……」

「あいつはどうしてるんだ?」

「相変わらずAKBじゃないほうの意味でヘビーローテーションしてるよ。可愛いもんだね」

 可愛い……だと?

「そんな感想を抱く曲じゃないと思うが」

「そうだねー当事者だもんねー、男の子は大変だ。うんうん」

 としきりに頷いている。

「なあ……あいつが歌ってるのって『スカボロー・フェア』なんだよな」

「そうだよー、悲しいけどいい歌だよね」

「…………」

 なんだかすれ違いがあるような気がするけど……

「『スカボロー・フェア』って失恋した男の歌だろ?」

「そうだよ」

「さっきあいつの家に行って、結婚を前提につき合いたいって親父さんたちにお願いしてきたんだぞ。その後にそういう意味の歌を歌ってるって怖くないか?」

「私も初めはそう思ったけどさ、前後の状況を確認したらちょっと意味が違うかなーって思って」

「何が?」

「サイモン&ガーファンクルのほうはそういう意味にとれるんだけど、元々の歌詞のほう、知らないでしょ?」

「あれオリジナルじゃなかったのか」

「そうだよー、元々はイギリスの古い歌で、失恋した男にその相手の女が塩水と海砂の間の土地を見つけて、そこを羊の角で耕して、胡椒を植えろとかそういう感じで無茶振りする歌なの」

「ろくな女じゃねえなそいつ」

「違うんだよね、真実の愛ってやつは困難に満ち溢れている、それでもあなたは私が欲しいのって問いかけなの。これは愛し合うことの不条理を歌いつつ、それにも負けないで欲しいっていう応援歌なんだと私は思うんだね」

「…………」

 そうなんだろうか……ごっさんの話を聴いて、少し希望が胸に去来する。

「でも、鴇子がそれを知って歌っているのかどうかは解らないけどな……」

「知ってるに決まってるよ。前にお茶のお稽古で、先生が話してたもの」

 だから……ここまで詳しいのか。

「にしても鴇子がそういう乙女らしいパフォーマンスをするとは思えないのだが……」

「だからさっさと行って来たら? そういうの確かめ合うためにも、君達二人には会話が必要だよ。私は消えとくからさ、ささ、ずいっと奥へ」

 と言って、ごっさんは鴇子が歌い続けているであろう部屋の扉を指差した。

 いくしかないか……

 

 部屋の中には透き通るようなソプラノが響いていた。

 意外と中は広い。二人で利用しているなら小部屋で十分なのに、部屋はうなぎの寝床のように長い。八人程度なら難なく座れるような長いソファが壁に沿って両側に伸び、その先には、こぶりのステージが備えつけられていた。

 部屋の照明を落として、スポットライトを浴びたまま、鴇子はステージに立っている。そして流れている切々とした歌声……俺はしばし、自分の立場も忘れて、鴇子の歌に魅了された。

 鴇子の歌声は、山から流れる雪解け水が砂漠を潤わせるように、俺の心に染み渡る。

 哀切を帯びた悲しい響はどこか艶っぽく。その歌は悲しい色に満ちているはずなのに、希望を捨てずにお互いを想いあう恋人たちの一途な純情を募らせ、強く強く心を揺さぶる。

 何かを失った者だけにしかだせない歌声で、彼女は俺に語りかけている。

 悲しみの極まった人間にのみ許される、神聖な儀式。

 今の鴇子には芸術の神が降りている。そのようにしか思えない。

 決して自分の本心を正直に話さない、いかにも鴇子らしいパフォーマンスのように思えた。

 

 そして歌が終わる。鴇子がマイクを口から離した途端、世界は現実の色彩を取り戻した。

「お見事」

 心から鴇子の歌を賛美するように、俺はぱちぱちと手を叩く。

 観衆は俺一人だけだが、彼女は満足したように微笑んだ。

「瑞希は?」

「帰った」

「あいつ……お金払ってないわね」

「おまえの部活って人に金を払わせる決まりでもあるのか」

「そんなことないわよ。今日の私は機嫌がいいから。ここは奢ってあげる」

 と言いながら、鴇子はテーブルの上にあるスナック菓子の入ったバスケットに手を伸ばし、ぼりぼりと食べ始める。

 俺にも勧めてきたので、丁重に断った。

「で、お父様はなんて?」

「断られたよ」

「そう……」

 やはりあまり驚いていない。鴇子にとっては解りきった結論だったのだろう。

「お父様なら、そう言うと思ったわ」

 とぽいとバスケットを放り投げた。

「なんか……大丈夫かお前」

 何かが振り切れたのか、普段の鴇子とは思えないくらい行儀が悪い。どこか、やけっぱちになっているようにも見える。話の途中で中座して、こんな場末のカラオケボックスまで走ってきて、延々と『スカボロー・フェア』を歌っているのもおかしい。

「大丈夫よ、まだ大丈夫」

「まだ……?」

「ちょっと似合わないことしようと思っているの、だからこれはその影響なのよ」

 と聞いて、俺はいやな予感がしてさっと身構える。

「そんなに警戒しないでもいいわよ。私はね、そろそろ、あなたに本心を打ち明けようと思うの」

「は!?」

 鴇子が本心を打ち明けるときた。あの鴇子が。

 例え地獄の釜の蓋があこうとも、決して動ぜず、泰然と冷たい微笑みを浮かべるのが鴇子という女であるはずが、この方向転換はどういうことだろう? 確かに今日の鴇子はいつもとちょっと違う。

 俺は、後藤先輩が博愛精神に目覚めるのと同じぐらいの違和感を覚えた。

 俺の驚きを無視して、さらに鴇子は続ける。

「本当のことを言うとね……私はあなたに告白されて嬉しかった。お父さまたちの前で交際を許しに行った時も、デートの時に私に好意を示してくれた時も、正直に言うと胸が久しぶりにときめいたわ。自分が……こんなに甘い気持ちになれるなんて思ってもみなかった。自分の気持ちを解放して、あなたについていく。家の行く末を考えるより、それはとっても素晴らしいことのように思えたの」

 とここで言葉を切って悲しげに俺に眼を合わせてくる。

「でも……私はそう思える自分が怖かった。あなたと一緒に居ると、今までの私の人生が価値のないものだと思えてしまう。家のこととか関係なく、喜連戸鴇子自身の幸せを追い求めることが、自分の人生に必要ではないのか? 私は誰かにそう告げられることが、とっても怖かったの。だからあなたを避けていた」

 鴇子が何を言おうとしているのか、俺は薄々ながら気がついていた。

 おそらく、それを言われたら俺は決定的に立ち直れなくなる。輝かしい未来を信じられなくなる。俺の信じてきたものは本当に壊れてしまうだろう。

 聞きたくない。

 だが、真摯な鴇子の表情を見ていると、耳をふさぐことは出来なかった。

 なぜなら彼女は本気になっている。

 俺のために、あれだけ隠していた本心を包み隠さず告白している。

 そして鴇子は決定的な言葉を口にする。

 

「ごめん、あなたとは一緒になれないわ」

 

 ああ……鴇子。

 お前はそういう女だと解っていたはずなのに、答えは薄々気がついていたはずなのに。俺は奈落の底に突き落とされていた。

 振られたあとで、自分がどれだけ鴇子のことを好きになっていたかがわかる。

 俺は彼女を愛している。だが、その方法は知らない。彼女も知らなかった。

「お母様の言葉に反応して怒ってしまったあの時、はっきり解ったの。私はあなたを選べない。家を捨てる事が出来ない。この生き方しか選べない。私達の恋は結ばれる事がないの」

「鴇子……」

「だから、私はあなたと特別な関係になりたかったのよ。憎しみあうのもまた愛情なのよ。あなたが好きよ」

 このタイミングで彼女から初めて本心を述べられた。

 やった、両想いだ。俺は鴇子を愛し、鴇子も俺のことを愛している。

 だが、数日前の自分ならまだしも、今はそのことを素直に喜べない。

 個人の感情がどうあれ、動かせない現実があることを知ってしまったからだ。

「絶望の色をしているわ、あなたの背景がわかる。あなたが見えるわ。あなたは現実に絶望している」

「そうだ……」

 俺達は追い詰められた。どん詰まりだ。どうあがいても俺達の関係が発展することはない。そのことはもう素直に認めるしかない。

「素敵……」

 そう言って、鴇子は俺の両頬をつかむよう両手を添えた。鴇子の瞳は悲しみの色をたたえているのに、何故か彼女は笑っている。

 いつの間にか、彼女は笑っていた。

 ぞっとするような笑顔で、とても美しい顔で、笑っていた。

「くくっ……くくくくくっ……」

 そうだ笑うしかない。こんな状況にきたらもう笑うしかないのだ。笑えるほどの悲しい現実。これは傑作だ!

 ピエロを演じて本当にピエロになった男は、さぞ滑稽だろう。俺と鴇子の物語はボーイ・ミーツ・ガールでもなく、ロミオとジュリエットでもない。単なる俺の妄想だ! 道化の一人芝居だ! 笑え! 笑え” 観客よ! 天よ! ご照覧あれ! 無様な俺を思いっきり笑ってくれ!

「ははははははははははは!!」

 笑い声が響く。無明の闇へと響き渡る。しじまを破り、西方十万億土を超えて、耳を聾する大音声で三千世界が満たされる。鴇子も笑う、俺も笑う。素晴らしい! 二人の気持ちは今一つになった。なんて素晴らしき相互理解だ。世界は笑いで満たされている。

 

 そして、気づいた。

 俺達があの夢の中の世界に立っていることに。アルファとオメガに初めて出会ったあの場所に。

 

 そうだ……

 俺達はこうしてこの場所にたどり着いたのだ。

「ああ、素敵……素敵よあなたは! 私達は結ばれない、決して! 未来永劫! どうあがいても無理なの!」

 鴇子も興奮している。

 それもそのはず。俺達はここにたどり着くために生きてきたのだから!

「キスも出来ない、手もつなげない。それでもあなたは私が欲しいの?」

「ああ、欲しい……大好きだ鴇子」

「そうよね、同じ気持ちに同じ絶望! でも本当は気づいているんでしょ? そのためにどうすればいいのか!」

 

 俺は気づいていた、ここにいたる俺達の因果、その全てがこの場所へといたる道しるべになっていることに。

「なっ……!」

 唐突に金色のナイフで切り出したように闇が開ける。

 そして、光の中から現れるアルファとオメガ。

 聖衆来迎のように神々しい光を背負いながら、彼女達は現れた。

 闇が払われ光が満ちる。目の前の景色が一変するほどの一大ページェント。太陽が夜明けを打ち払うように、世界が一変した。

「等しき夜と等しき昼を分かち合う運命の子供らよ」

 とアルファが叫ぶ

「運命の時は来たれり!」

 とオメガも叫ぶ。

「お前ら……」

 このタイミングで来るかこいつら……

 どういう原理なのがまったく解らないが、俺はどういうわけかひどく落ち着いていた。

 ここで彼女たちが現れたことに、どういう意味をもつのか……なんとなく解りかけてきた。なぜなら、そうでなければこの場所へはたどり着けないからだ。

「ここは我らが家、運命がたどり着く場所。救われなかった魂の集積場所よ」

「とうとう、自分の意思でここにたどり着いたか……一回目は我の助けで、二回目は無意識で、三度目の正直というか自からここに足を向けるようになるとはの……」

 アルファは苦々しげな表情だった。

「ダメダメ、そんな顔をしてももう手遅れよお姉さま。勝負は私の勝ち、彼女達は現世のしがらみを越えて結ばれるの、それこそ、この世で唯一の絶対の形。もっと喜びなさいよお姉さま、この日を迎えるために私たちは存在したんじゃないの!」

「勝負……だと?」

 光からたち現れた二人はなにやら不機嫌な様子だった。

 そういえば、この二人が同時に揃って現れたのは初めてだと気がつく。

 

「勝負……? 魂の集積場所?」

「解っているくせに、この場所にたどり着くことがどういう意味をもつのか、あなたはもう知っているはずよ」

 とオメガが続ける。

「新種としての力に目覚めた……ということだろう?」

 知っていることのようにも思えるが、俺は今、自分で考える力を放棄していた。

 何故なら認めたくもない結論が、俺の目の前に展開されているところをすんでのところで、思いとどまったからだ。

「いかにも、我ら運命に分けられた子供が住む。黄金分割の部屋じゃ、等しき夜と等しき昼は今こそ交わる時が来た……いや、来てしまったのじゃ……新種の力がどういうものか、説明をしたのを覚えているか?」

「眼の力……だろ? 他人の気持ちが色でわかるという……」

「それは表面でしかないわ。他人の存在をも一元的に処理する脳を持つ人間は、誰よりも暗く深き精神の海溝へとたどり着くことが出来る、それがここよ、この場所なの!」

「眼で見る、ただその行為が世界にフィードバックを起こす。それは自らの脳が世界のあらゆる因果律エンジンと定める行為にほかならぬ。つまり世界を思い通りに書き換える力じゃ。ここでこそ、精神は物質を超越する」

「それこそ私たちが待ち望んでいた奇跡。新種としての力の顕現。もちろん宇宙規模の改変が出来るとは思えないけど、それもあなたの認識次第。例え地球上すべてというローカルな範囲であっても、あなたは全てを思いのままに世界を作りかえられる。まさしく人を超越した新しき種よ」

 新種、新しい種、新しき人。

 例え新しくても、人というからには生命があり、運命に縛られる人間のはず……

「一体……それのどこが人なんだ?」

 俺には神の如き全能を聞かされた気がした。

「神と呼んでも差し支えないならそう呼ぶがいい。今ある物理法則が気に食わぬなら、新しい宇宙を作ってみるのも一興かもな」

「そしたら、この世はどうなる?」

「あまりおすすめできんが、この世界は確かに不完全であり、歪みと不条理が存在する。そなたにその意志があるなら、対称性は保たれ、エントロピーが減少し、初恋が実り、世の格差と不条理が一掃された好都合な世界を作ってみるがよろしかろう。繰り返し言うが、おすすめはせぬがな」

「そんな力を与えて一体……俺に何をしろと……?」

 それまで黙っていた鴇子がふいに、口を開く。

「解っているでしょう? あなたはそのためにここに来たのだから」

「ここに……?」

「そうよ、私たちの遊びを終らせるのよ」

 光が強く輝く。空が黒から藍色に色彩を帯びていく。

「鴇子……?」

「ようやく望みがかなう! 私たちの素晴らしい人生が始まるのよ! 愛し合っていた私たちが、どうして憎しみあうまでに到ったのか? 諸々の因果は消滅して、新しい可能性の卵が孵るのよ!」

 鴇子のオーラが増大する、天を摩する光の身柱。周囲の闇を切り裂いてそそり立つ、一筋の光明。その先にはまるで、アンドロメダの大運河のような光の大渦巻きが現れた。

 闇はすでにその威容を失っていた。まるで、太陽を迎える直前のような藍からオレンジへのグラデーションの中に暁の空が広がる。

 天の光がすべての星であり、星に運命が宿っているのならば、あの大渦巻きは今を生きるすべての命と、消えていったすべての命が渦巻く因果の大螺旋。命の軌跡を示す大星雲。今の俺の目には一人一人の生命の瞬きが見える。それぞれの命が綾なす物語が、一瞬の光芒となって俺の眼に飛び込んでくる。

 人、動物、そして植物、その他諸々の生物たち。それぞれの一生が複雑に絡まりあって、大いなる連なりを成しているのが眼に映る。洪水のような情報量が、新種の眼を通して処理され、理解していく。

「これが……新種の力……」

 まさしく全能に匹敵する、全てを透徹した力が、俺に宿っていることを自覚した。人のままであったら、視界に入っただけで脳が焼けるほどの情報量を俺は平然と処理していた。

「わかるでしょう? 自分が何者になりつつあるのか」

 鴇子は大渦巻きを指差しながら、笑っていた。

「ああ……」

 いかにもその通り、俺は……いや、俺達は人を超越しつつあるのだ。

 だからわかる、すべての因果の果て、あの渦巻きの先に何があるのかが。

「さあ……一緒に行きましょう」

 鴇子が俺の手をとる。その手つきはとても優しく、生来の鴇子の性格が素直に現れているように思えた。鴇子の背中の光は渦と同じように、虹色の輝きを放ち、とても美しい。

「一緒に行きましょう、あの先へと運命の彼方へと。大丈夫、宇宙を変えようなんて私は思わない。私たちにまつわる因果律をほんの少し歪めるだけ」

「ほんの少し歪める……?」

 その歪めるという単語が心にひっかかる。だが、俺に構わず鴇子は続ける。

「そうよ、ほんの少し歪める。ただそれだけで私達が結ばれる、私達が望ましい世界が待っているの。だって、あなたはそれが望みなんでしょう? 私たちの子供じみた無益の争いをやめさせて、私と結ばれるためだけにここまで頑張って歩いてきたのでしょう?」

「それは……そうだけども……」

「私はあなた好みの女になるわ。喧嘩したり罵倒したり、あなたを貶めるために嘘泣きしたりもしない。素直に恋心を告げられる乙女になれるの、それこそ私の望み」

「お前……」

 鴇子は本心を告げるといった。この後に及んでまさか嘘はつかないだろう。

 にしても俺は、ここまで素直な鴇子を見たのは久しぶりだ。まるで子供の頃の俺達に戻ったかのように、屈託なく俺に笑いかける。

 俺は想像する。鴇子と手を繋いで登校する姿を、一緒に昼飯を食べる姿を。デートに行っても、これは罠なのかと気を張りあう必要もない、穏やかで当たり前の恋人と過ごす日々。

 それは確かに、俺が追い求めてきたものではなかっただろうか?

「一緒に行きましょう、今の私たちならそれが出来るのよ。だって、この時のために私たちは罵り合ってきたのじゃない」

「この時のため……」

「そうよ、私は解ったの。あなたとは今のままでは結ばれない。だからこうすることが必要だったの! 私たちが対立することには意味があったのよ!」

 光を背負った鴇子の姿が、初めて出会ったときのアルファと重なった。

「ち……違う……」

 対立することに意味はない。殴り合いでしか認めることができない関係などなんの可能性がある。

「意味があったというがそれは違う。俺達のあの喧嘩に何の意味もない」

 俺は咄嗟に否定した。

「俺はそのままのお前が好きだ、だから親父さんに頭を下げて頼みにいったんだ! 俺達が解決しようとしていたのは、全て現実の話だ! なんだって俺達がつき合うのに、世界を改変したりする必要がある? 恋愛話がどうしてSFになる? つーかなんだよあの渦巻きは、帰ってもらいなさい!」

 恋愛問題だというのにスケールが大きすぎるきがしてならない。俺はどうしてもそこに違和感を覚える。何より、納得できない理屈を聞かされた気がした。

「今の状況が気に食わないからって、俺達の気分で世界の運命を変えていいのか? 誰しも厄介ごとを抱えて生きているけど、周りが気に食わないからって自分で動かず、周囲を変えるのか? そんなのやっぱり間違っている!」

「そうじゃ、よく言うたわ」

 俺に呼応するように、アルファが賛同の声を上げた。

「そもそも世界を改変するだの、新種の力は人に余る。大きな力は責任が伴うものじゃ。世界の運命など、人に背負いきれるものではない。世界をどうこう出来る存在などもはや人ではない」

 

 空に渦巻くあの巨大な光の螺旋に向かったが最後、俺は人ではない何かになってしまいそうな予感がする。その後、果たして今までと同じように鴇子と一緒に日常を過ごすことが出来るのか、いまいち確証が持てない

「俺もそう思う、人の望みを得るために人を捨てる必要はない」

「はあ? 今更何を言ってるの?」

 とオメガが笑う。

「人を捨てるもなにも、そもそも、あなたはもう死んでいるじゃないの」

「は?」

「聞こえなかった? あなたはもうこの世にいないのよ」

「……生きてる、けど?」

 一体、オメガは何を言ってるのか? 俺は普通に生きて生活をしている。その事実は疑いようもない。

「だったら、御覧なさい、頭上に渦巻く星々が人の命を宿すものなら、あなたの星はどこにあるの?」

「どこってそれは……」

 と俺は自分自身で自分の運命を探そうとしたが……

「あ、あれ……?」

 無かった。

 どこにも、俺が俺である証明の光を放つ星がなかった。

「そう、ないの! 今更気がつくだなんて、馬鹿ねあなた」

「嘘だ、そんなはずはない!」

 ここには地上に生きるすべての運命、そして生きていたすべての命が集まっているはずだ。光は命にやどる可能性。つまり俺の眼の力はその人にやどる可能性の光を捉えていたことになるが、今その話はどうでも良かった。

 一代で身を興して、大企業の社長となった男の光は恒星のように強く輝き、その周囲には、男に自分の運命の影響を与えられた光が集まっている。まるで、巨大な惑星の周囲を公転する衛星のようだった。その反面、つつましい光を放つ星は、光と同じように慎ましやかで平凡な人生を送っているし、弱々しい光は今にも命運が尽きそうな病人だった。

 こうして眺めていると、それぞれの星の近くには、その伴侶や、子供、企業の社長ならその社員など、影響を強く受けるその人の光が伴っているのがわかる。

 であるなら、俺と鴇子は? 鴇子の周囲には俺の星が光り輝いているはずだ。俺は鴇子の背中と同じように、明るく虹色に光る星を探した。

「いた……」

 あの光は鴇子だ。ひときわ大きく輝く虹色の超新星の周囲に、俺が見知った人たちもいた。鴇子の親父さんもおばさんも、『朗月庵』の職人達も、クラスメイトやよく鴇子にくっついている取り巻きの人間たち。

 しかし、俺の星がなかった。いくら探しても、俺の光が見えない。

 あるはずなのに、鴇子と同じように新種の証としてひときわ大きく虹色の光を放っているはずなのに……

「無い……」

 俺の光はどこにも無かった。

 これは……どういうことだ?

「ないでしょ?」

 鬼の首をとったつもりか、オメガは勝ち誇るような笑みを見せた。

「どこにもないの。つまりあなたは死んでるの」

「いや、でも、だって……俺はここにいるし、こうして生きてるし」

「でも、死んでいるのよ、あなたには可能性の光がない、他の人間と関わりをもてない。つまりは、死んでいるのも同然よ」

 死んでいる? この俺が? まったく理解できない。

「そんなわけあるか、これは何かの間違いだ!」

「だっだら……尋ねるけど」

 

「あなたはどうして名前が無いの?」


 その言葉に、体がびくっと震える。

 何か、自分の全てをひっくり返されたような、決定的なことを言われたような気がした。

「気づいている? あなたやお前としか呼ばれてないでしょ? 人称でしか呼ばれていないのよ。あなたのご両親でさえ、あなたを名前で呼んでないじゃない」

 そう言えば、そうだ……だが、だからといって……

「あなたは一体何者? どこのどなたさん? この質問にあなたは答えられる?」

「お、俺は……」

 俺は和菓子屋のせがれで、鴇子の幼なじみで、神ロ研の部員で、高校生で……それから……それから……

 思い出そうとする。自分の存在を思い出そうとする。

 だが、しかし、いくら自分の頭の中にあるプロフィールをめくっても、俺の名前は記載されていない。そもそも自分の名前を思い出そうとする時点で、自分の状況がかなりおかしいことに気づいた。オメガの言うとおり、俺は名前を呼ばれた記憶が無い。

「名前……」

 空に眼を向けても、俺の光を放つ星はどこにも見当たらない。

 俺はただ、呆然と空を眺めることしか出来なかった。

「もう一度言うわ、あなたは死んでいるの」

 

  

 ○

 

 それはまだ、私たちが仲が良かった昔のこと。

 

 あんまり認めたくない事実だが、その日、私はあいつが尋ねてくるのを密かに待っていた。

 学校でバドミントンの授業があるので、その練習を兼ねて遊ぶ約束をしていたからだ。あいつは私のサーブの打ち方がなっていないと注意し、自分が教えてやろうと自信溢れる姿で笑っていた。よくある間違いだが、バトミントンではなく、バドミントンであり、正しくは『ト』に濁点はつけない。

 ところがあいつは、バトミントンだと言い張って自説を曲げなかった。

 そんな些細な間違いが私との喧嘩に発展した。

 父とあいつの父親との確執が極まっていた頃でもあり、私は父親の気持ちがそれとなく影響し合っていたのか、かつてない激しい言い争いをしてしまった。だから、あいつが本当に来るのかどうか、判然としなかった。どんな顔をすればいいのか解らなかったので、出来ればこないで欲しいとさえ思っていた。

 謝ればいいのだろうか? それとも怒ればいいのだろうか? あの時の私はあいつに対する心構えができていなかったのだ。だが、考えても仕方がない。練習をしないわけにもいかないので、私は納屋からシャトルとラケットを取り出し、一人で蔵の壁を使って壁打ちをしていた。

 しばらく、一人ラリーを続けていると、家の様子がおかしいことに気づく。

 大人たちが騒がしい。

 職人たちが仕込みもしないで、さっきから廊下を早足で行き来している。この時間はいつも全員、調理場で御菓子を作っているはずなのに、型どりにつかう木型を振り回して慌てている者もいる。道具の始末に煩い先輩の職人が、それを見てももなぜか咎めず、それより重要な何かに気をとられているような様子だった。

 ……とても不吉な予感がする。

 不審に思った私は、慌てている店員を一人つかまえて、なにかあったのかを尋ねた。

 しかし、何かを隠しているのか言いよどむ苦しそうな顔を浮かべるばかりで、さっぱり要領を得なかった。

 そのうち父がやってきて、職人から私を遠ざけるように調理場に戻れと指示を出した。

「実はな鴇子……よく聞いて欲しいのだが」

 そして、父は私に難しい顔をして口を開いた。

 予感は当たった。父の口から衝撃的な事実を告げられる。

「交通事故?」

「信号待ちをしていたところに、トラックが突っ込んできて……即死だそうだ……」

 あいつの手には、バドミントンのラケットが握られていたらしい。おそらく、私と遊ぶためのものだ。私は最初、父が何を言っているのか、意味がわからなかった。

「あいつが死んだ?」

 父親は苦しそうに頷く。

 あいつが死ぬ、魂がぬけて、死体となる。そして死は、永遠の別れ。早すぎる……

 では私との約束はどうなる? 私と遊ぶためにここに向かっていたはずのあいつは、どうなる? 

 私にサーブの打ち方を教えてくれる約束ではなかったのか? ここがあいつと私の終着地点なのか、喧嘩したまま別れて、それで終わりなのか? 認めたくない、そんな未来は認めたくなかった。

 だから私は自分の力をつかった。

 それがいけないことだと知りながらも、自分を止めることなど到底できなかった。

「何を言ってるの? お父さん」

「鴇子?」

「あいつは死んでないわ、ほら」

 と私が指をさす。

「お前……いったい何を……」

「よく見て、あいつがそこにいるでしょ?」

 彼が象られる。私の言葉のままに、私の見たままに、私の思うがままに。私は世界と対峙してその理を把握する。彼は存在する、私と遊び約束を守るために、存在し得るのだ。なぜなら私がそう望んだから!

「あ……」

 その時、私の父親の目に映ったのはまぎれもないあいつだったのだろう。

 私にも見える。

 彼はその場に立っていた。彼はこの世へと帰還したのだ。

 そうして彼は名前をなくし、仮初の命で生きながらえる。私は自分が特別な存在であることを自覚した。

 バドミントンのサーブの打ち方を、私はまだ知らない。

 

 

 〇

 

「と言うことなのよ、了解したかしら?」

 とオメガが笑っていた。

「さっきの映像は?」

 鴇子もアルファも黙っている。彼女達は鎮痛な面持ちで沈黙を保っていた。

「鴇子を通して時間と空間のパスをつなげて投影したの。あれはまぎれもなく、数年前の鴇子とあなたよ」

「そりゃ確かに、鴇子とバドミントンで言い合いした記憶はあるけどさ……」

 死んだ時の情景と、復活を目の前で見せられて、俺は意外にも冷静だった。

「どうだったかしら? ロードショーのご感想は?」

「魂消(たまげ)たな」

 渾身のシャレである。こんな時にユーモアを忘れない自分を褒めてやりたい。

 よく見ると、鴇子はかなり微妙な顔をしていた。こんな時にくだらないこと言うなと、表情で突っ込んでいる。

「文字通りあなたの魂が消えたわけだけど、その割には驚いてないわね」

「うん……なんか……実感できてしまうんだよな」

 『お前は死人である』と説明されたら、納得できてしまう自分がいた。それを実感出来るのは、やはり俺が仮初の命なのだろう。

 そして鴇子が、俺をこの世に縁を結びなおしたのだ。

「俺は、死んでいたのか……」

「そのとおり! だけどあなたは不完全な人間、名前なしの出来損ない! だからこそこの世に縁がなかった! でも、今なら全てを打ち消して結び直すことも可能なのよ!」

 ならばこそ、俺が鴇子と結ばれない理由も納得出来る。

「鴇子は既に新種の力を使ってしまっている。でも、今のあなたなら鴇子の望むことが出来る。人じゃないあなただからこそ、人を超えられるのよ!」

「アルファは……知っていたのか? 俺が死んでいたことを……」

「無論じゃ」

「なのに俺と鴇子を結ばせようと?」

「じゃが、そなたが新種の力に完全に目覚める前に、鴇子をモノにするやもしれん。不可能を可能にするやもしれぬ。鴇子を死人と結ばせれば、新種を残す可能性は死ぬことになる。ゆえにそなたに賭けたのじゃ」

「自分勝手な話だな……」

 だが、アルファはこの状況を利用したにすぎない。彼女に当たるのも何か違っているように思えるが、だからと言って不快な気持ちは消えなかったが……

「でも、残念ながら賭けは失敗したのよ。だから今は私の出番、人類の責任者の立場として言わせて貰えば、これでいいのよ!」

オメガが笑う。我が意を得たりと、笑いながら、独擅場を演じている。

「だから……俺に選べと……」

「そうよ! 新しき人は来たれりってわけね!」

「……!」

 事実を聞かされても驚かなかった俺が、今更ながら混乱してきた。

 俺は一体どうすればいい? 自分のすすむべき道はどこにある?

「しっかりしろ! 我を睨み返したあの胆力はどうしたのじゃ」

「無理よお姉さま。自分が死んでいるなんて聞かされて、平然としていられる人間なんていると思う? そもそも。人にそれを求めるお姉さまが傲慢なの」

「なんじゃと?」

「人は弱いのよ。お姉さまと違って、私はそのことが良く解るわ。お姉さまの勝手で人がそう都合よく動くなんて、思わないことね」

「おのれ……言わせておけば……」

 アルファが悔しそうな顔をする。

 だが、今の俺には姉妹喧嘩には興味がなかった。

 オメガのいう事が全て真実とするならば、俺の全ては無駄だったのか?

「可愛そうに……」

 いつの間にか俺の傍にきていたオメガが、そっと手を差し伸べてくる。

「オメガ……」

「貴方は良く頑張った、でもダメなの、どうあがいても運命を覆すことはできない。ハムレットは死ぬ、マッチ売りの少女は凍死する。ネロは天に召される。ロミオとジュリエットは死に別れる。不条理よね、そうでしょう? どれだけ努力しても、ちっともままならない、いったい誰がこんなくそったれな世界を作り上げたのかしら! だから新しき人よ来たれりなの! 今までの世の中を壊して、新しい世を開く! この世には救世主が必要なのよ!」

「たわけ!」

 オメガの得意な声に、アルファが突っ込み返す。

「例えどれだけ力を持とうとも、それは反則じゃ! 今現在運命を享受し、あるいは購って生きる命への侮辱じゃ! 自分の境遇が気に食わぬからと、周囲を作り変えるなど、そもそも子供のわがままに過ぎぬ!」

「何を言ってるのよお姉さま」

 今度はオメガが反対の声を上げた。

「自分を救う手段があるのに、それを放棄するの? 解決する方法があるのに、それを手前勝手な倫理感で縛ることこそ傲慢よ!」

「傲慢ではない! これは、全ての命あるものが貫くべきけじめしゃ! 人は揺りかごから離れ、自分の足で生きるべきじゃ! そもそもこの世は繊細微妙なバランスで成り立っている、誰もが何らかの役割を担って、この世界は存在している。それを自分の都合で作り変えるなど、生命に対する冒涜に過ぎぬわ!」

「でも、その役割に気がつかなかったら? そしてその役割に気づいても、自分の使命に納得がいかなかったら? 誰もがキリストになれるわけがないのよ、お姉さま」

「人はキリストになる必要はない。聖人らしくあろうとすれば良いのじゃ」

「それがどれだけの犠牲を強いるのか、解ってて言っているなら、やはりお姉さまに人類に対する責任なんて背負えないわ!」

「同じ夜と昼を分かち合う妹よ。そなたは背負った荷の重みを忘れておるのじゃ!」

 互いににらみ合い。一歩も引かない。

 この二人の関係は俺と鴇子に似ているような気がしてきた。

 互いに相容れない。そしてその争いをおそらく途方もない昔から続けている。

 それこそ、俺達が生まれる前……ずっとずっと昔から。人類の責任をかけて争っている。

 そうでなければ、精神が物質を超越するというこの場に立っていられるはずがない。

「あんたたちって一体何者なんだ?」

「人類の責任を背負う者、初めに言ったとおりじゃ」

「そして、人の望みの行き着く先がここ。その積み重ねが私達よ、私達を産んだのよ」

「いかにも我らは、等しき絶望と等しき希望に分けられた運命の姉妹。人の行く先を見届ける者」

「あなたと鴇子が結論を出せずに、争い続けたパターンが私たち、新しい種へのなりそこね」

「お、俺もお前たちのようになるのか? 人間だかなんだかわからない存在に!?」

 俺達が恋愛を争ったように。

 二人も人類の行く末という荒唐無稽なものを巡って争い、こんな誰も知れぬ場所までやってきている。

「そうなるかもしれなけど、あなたたちはどうかしら?」

「いずれにせよ、遥かに過去の出来事じゃ、我らがどこから来たのか、そんなことはもう忘れてしまったし、そなたもどうでもよかろう!」

「その通りね」

 とそれまで黙ってアルファたちの喧嘩を眺めていた鴇子が口を開く。

「問題はどこから来たのかではない、どこに行くのかなのよ」

 そう言って鴇子は指差す。

 その先には光渦巻く大星雲。星がまたたくメールシュトーム。人ひとりの命など、こんな大宇宙の前では塵にも等しいはずなのに。実際、そう思えるのに、俺達はその常識を覆そうとしている。この身に宿る小さい可能性で、この世の理を覆そうとしている。

「あの中に吸い込まれたら、普通は死にそうだな」

 俺は、ポーが書いた大渦巻きに飲まれた男が登場する短編小説を思い出した。

「でも、死なないわ、流れに呑まれる前に、私たちが流れとなるから」

 観念的な言葉で鴇子が答えるのは、新種に進むという上の次元の話で、おそらく人の言葉では表現できないのだろう。

「さて、そろそろ時間よ。物語には幕引きが必要よね」

 とオメガ。

「そうね……」

 と鴇子。少し離れて、アルファは苦々しく俺達を見つめている。

「お願い、私の手をとって。あそこまで連れて行って」

 そうなれば……きっと俺と鴇子は、俺と鴇子以上の存在になる。

「………………」

 

 

 選択の時が来てしまった。

 正直に言うと、鴇子の手をとって、あいつと一緒にアセンションだかなんだか知らないけど、新種へと発展するしか方法はないと思う。

 だが……だがしかし!

 本当にそれでいいのか?

 死に直面した俺が結ばれる方法はもはや、それしかないはずなのだが……

「なあ……もし、俺が断ったらどうなるんだ」

「どうって、何もならないわよ」

「現状維持ってこと?」

「そうじゃ、鴇子の新種の力は消えて、そなたは死人として土にかえり、人々からはそなたの記憶が消える」

「それじゃ、俺が損じゃないか!」

「正しい現状とはこうじゃ。灰は灰に土は土に。死人は死人に帰る。この場にて死を思い出したそなたが、通常の状態で現世に顕形出来るわけがない。ネタが割れたら、手品は仕舞いじゃ」

「ちょ、ちょっと待て……」

 鴇子がここに来て、初めて鴇子がうろたえる表情を見せる。少しいい気味だとは思うが、自分の命とは比較できない。

「彼が死ぬ……?」

「そうよ引き換えに、あなたたちは失敗の教訓を得るわけだけど、その教訓を生かす機会は永遠に失われるわけね。すなわち、命短し恋せよ乙女ってね」

「それは、若干意味が違うような……」

 まあ、今はそんなことはどうでもいい。

 要するにここを出ると俺は死ぬってことだ、クソ!

「オメガ、私に今ここでそれを説明するのは少しルール違反じゃないかしら?」

「勘違いしては困るわね、世に永遠に生きるものなし。それが理。そのルールを曲げたのはそもそもあなたのほうじゃない」

「それはそうだけど……でも……」

「何をうろたえているの? 自分と一緒に来てくれないかもしれないって? 彼がそんなミスジャッジを犯すはずがないじゃない。だって、自分の命が掛かっているんですもの」

 その時、すがるような眼を向けてきた鴇子の視線を、俺は真正面から受け止めることはできなかった。

 これだけ、弱気な表情をみせる彼女は非常に珍しいが、この状況に驚いているのは彼女だけではない。喜連戸家に許婚のお願いにあがってから、鴇子とのカラオケ屋での再会、唐突なこの場所への場面転換に、俺が死んでいた事実が発覚し、幼なじみからアセンションに誘われる。

 一体なんなんだこのイベント目白押しは。頭が混乱してくる。鴇子にとっては予想外の出来事が起きているが、俺にとっても同じことだ。人生の先はまったく見えない。いや、俺にとってはもはや人生の時間は残されていなかった。

 

「そろそろ私たちの物語を終らせましょう」

 鴇子の悲しい瞳が、涙で揺れていた。

 俺達の遊びもいよいよ終わりを告げる。その時が近づいてきているのだ。

「初めは花が欲しかった、ただそれだけだったわ」

「鴇子……」

「覚えている? 庭に咲く桔梗が欲しいとあなたにお願いしたあの時のことを」

「ああ……覚えているとも」

 考えてみれば俺達の断絶は、あそこから始まっているのかもしれない。

「でも、あなたは与えてくれなかった」

「そうだな」

 美しく咲く星型の桔梗。けなげに咲く、一輪の花の命を惜しんで、俺は鴇子を飾るために自然を壊す罪を犯せなかった。

 例え、鴇子の不興をかうかもしれなくとも、俺は自分の節を曲げなかった。

「でも、もう花はいらない。あなたさえいれば何もいらない」

 全ての虚飾をすてて出てきた、真実の言葉。

 ここは精神が物質を超越する世界。ならばこそ、鴇子の告白には言霊がやどり、真実の響となって世界を満たす。

 彼女はゆっくりと俺に手を伸ばす。

「さあ、私を選んで」

 涙を流しながらも、声ははっきりとしていた。まるでその罪を自覚しているかのように、眼から涙が流れる。

 鴇子が流す涙は、恐れのためでもない。それは常識への決別。それまで過ごしてきた来し方行く末の思い出、今まで積み重ねてきた歴史。その時間を惜しんだのだ。

 常識を離れて、俺達は天上を舞うあの大渦巻きの天元を越える。誰も到達したことのないどこかへ。

 その距離の隔たりを、膨大な時間を感じずには居られない。

 ああ、俺達はちっぽけだ、大宇宙の芥子粒だ。微粒子に過ぎない俺達が、その自然の胎動を超える分を犯す。火を恐れる獣のように、本能からくる忌避感が俺の心に躊躇を与えようとする。ミクロからマクロへ、有限から無限へ、一瞬から永遠へと!「人よ危ぶむ無かれ」と言うが、この跳躍はさすがに人のレベルを超えていた。渦巻く混沌を超えて、完全なる秩序へとたどり着くためには、神を敬して遠ざける良識を今こそ捨てなければならない。全て鴇子のために!

「何を躊躇しているの?」

 オメガが俺に語りかけてくる。

「あなたは鴇子がいれば何もいらないのでしょう? そう叫んだことを忘れたの? あの絶望を忘れてしまったの? 神がいないなら、あなたがこの世の神になりなさい!」

 ああ、その通りだ。エレエレサバクタニ(神よどうして我を見捨てたもうた)だ。救いの神が天上より降りてこないのであれば、誰かが神の如く振舞わねば地上に救いは無い。

「ならぬ!」

 アルファが反論する。

「この世に神はいない。だが、創造主という前提なしにこの世に我々を立たせるものこそが神と謂われるものの正体じゃ。神は存在するが実在を求めてはならない、神の介入を期せずして生きよ! 例え死の影の谷を歩もうとも、我々は神の御前(みまえ)で、神とともに神なしに生きる」

 

 二人の言葉はそれぞれ俺の心に響いた。一方で追い詰められた現実からの脱出方法。すがりつきたい希望。一方では、峻厳にして絶対的な原則。人として生きるために守らなければならない摂理。理性は警告を告げているが、本能は解決してくれる神を求めていた。神が不在の世界なら、自分が神になれば良いとオメガが言う。アルファは神を求めるなと、人に節度を求めている。

 どうしよう……双方ともが正しく聞こえる。俺には判断がつかない。

 

 俺は鴇子が好きだ。だが、このままでは俺達は永遠に結ばれない。

 それ以前に、アルファの言葉が本当なら、俺自身が消えてなくなる可能性がある。

 現実面での解決が不可能であれば、非常の手段に走るのは、致し方ない……だが、この方法はいささか非常すぎやしないだろうか? 全世界とか全人類とか、そんな言葉だけではまかないきれない、果てしなく大きな原理を曲げることになるのだが……それは果たして正しいのか?

 その後に俺達は本当に、俺達のままでいられるのか?

 どうする?

 鴇子と結ばれるために、新たなるアダムとイブになるか? それとも……

「…………」

 その時、天がかすかに揺れた。

 俺が世界を改変する力のある新種であるなら、俺の心の揺らぎはすでに外の世界に影響を与えていたのかもしれない。心の動揺を反映するかのような細波。それは水面に一滴の波紋が広がっていく光景に似ている。

 光が一つ、流星となって落ちていったのが見えた。

 空から落ちていった星が雫となりて、星が渦巻く天球に波紋を揺らしたと思ったら、無数にある星雲の一つから、ささやかな光が生まれ、無数にある星の一つとして輝き始める。

 命が流れ落ち、また生まれ輝き始める。

 そのはかなき一滴では、表面を揺らすことは出来ても、大渦巻きの流れを変えることなど出来やしない。それが人の限界であり、人の宿命であるはずだった。

 だが、美しい。

 無名の命が大いなる螺旋へと帰るこの光景は、何万年、何億年と続く命の営みの歴史。

 その一つ一つが星であり、一つ一つがささやかながら、可能性を秘めている。

 

 美しい。

 そう思ってしまった瞬間、俺の答えは決まった。

 全ての命がそうであるように、俺はあの大いなる流れに帰る。

「花はもういらないか?」

「ええ、一緒に来て欲しい。それだけが私の望み」

「そうか……」

 その時、俺の体が光りだす。

「なにを……しているの……」

 鴇子の顔に動揺が走る。鴇子に心配をかけまいと俺は優しく語りかける。

「それでも、俺は……」

 ようやく解った。俺の光がどこにあったのか、俺の存在は誰によって規定されていたのか。

 それは俺だ。俺自身が光となって、魂魄が物質を超越して、現世に存在していたのだ。

 俺の体から放つ光はやがて俺の手の中に、水色の桔梗となって現れる。

「お前に花を捧げよう」

 俺は桔梗の花を、鴇子の黒髪にそっと添えると、髪飾りのように収まった。

 黒髪に添える水色の一輪の花。俺が鴇子に捧げる、命の全て。

「俺は一緒に行くことはできない。だからせめて、命の花を、俺の命の形、俺の全て、それをお前に捧げる」

「……どうして?」

「気づいたんだ、お前が傷ついていたことに。お前は、俺が生きていくために俺と喧嘩して、この世に俺が存在する縁を作ろうとしていた。俺の心はお前のものだ、だけど、もう亡霊につき合って生きる必要は無い」

 どうして鴇子があんなにも俺との喧嘩を続けようとしたのか、俺の仲直りを拒み続けたのか、それはもう解っていた。全ては俺のためだったのだ。

 そのために、彼女は新種への道を開き、世界を改変するまでの力を得た。まさしくアルファの言うとおり、フランケンシュタインの創造主は俺だった。ならばこそ、俺はその責任をとらないといけない。

「それを私に捧げると……あなたは死んでしまうのよ? なのにどうして!」

 すがりつくような眼。

「わかっている、でもな……」

 これはお前に捧げる俺の本心。お前だけに捧げる唯一の心。

 

「死ぬほど好きなんだ」

 

 そう呟いた瞬間、空にヒビが走った。まるでそこに透明のガラスのドームがあったかのように、空に浮かぶ星々の世界がひび割れていく。

 

 

「バカッバカッ! この大バカ!! せっかく助かったのに! せっかくここまで来たのに! 一体何を考えてるのよ!」

 ガクガクと俺の肩を揺らしながら、鴇子は詰め寄ってくる。

 彼女らしくない語彙の乏しいストレートな言葉だったが、それだけに彼女の発言は本心から出るものだと信じられる。

 俺は彼女に真実の言葉で迫った。だから彼女も俺に真実の言葉で語りかけてくる。

「すまないな……鴇子……」

 俺は選んだ。

 自分の命よりも鴇子を選んだ。

 新種として真に覚醒して、あの星々の向こうに行き着くよりも鴇子一人の命を惜しんだ。

 だから、お前と行けなかった。

「…………!」

 そして、鴇子も俺の目をみた瞬間、俺がそれを選択したとわかってしまった。

 世界を回天させるほどに、関係が極まった俺達に言葉は不要だった。

「どうして……どうして死んでしまったのよ……!」

 そうだ、鴇子……

 お前はずっとそれを言いたかったんだろう?

「私を残して、どうして……」

 鴇子は新種として覚醒し、俺の魂魄、魂と呼ばれるものを実在化させ、精神が物質を超越する奇跡をずっと続けていた。

 だが、その積み重ねがついには神の如き奇跡に手が届くまでに到った。

「例え仮初の命だったとしても、お前と喧嘩して過ごしたこの十数年は長かった。途中で退場する俺が言うことじゃないが、その思い出をお前に押しつけることになるだろう。それは悪いと思っている」

 俺はそっと鴇子の顔に手をあて、人差し指で、そっと涙を拭う。

「もう、こうやってあなたと話すことは出来ないのよ? それでもいいの?」

「そうだな……でもな、きっとその涙が俺達の思い出を洗い流してくれる。鴇子、お前には、涙は別れの時に流せる人生を過ごして欲しい」

 鴇子よ、愛しき君よ。

 キスさえ出来なかった俺達だが、君の愛情は本物だった。今はそれを確かめることが出来て、本当に満足している。

「もういいわ……」

 と鴇子は俺の手を掴んで、下におろす。

「あなたに約束する。次からは一人で涙を拭うことにするわ」

「うん……」

 そうだ、鴇子、それでいい。

 俺はもう君の涙を拭うことができない。

 だから鴇子、君は俺を忘れて前へ歩き出してくれ。

 

 

「……っ……!」

 鴇子が何かを喋った気がした。

 だが音が何かに遮られているようで、はっきりと聞こえない。周りの風景がにじむ。意識が徐々に曖昧になっていく。

 俺は消える。

 死んだ人間だからこそ、あの大いなる螺旋を超えて旅立つことが出来る。生身でたどり着くことが出来ないどこかへ、俺は今日、鴇子を連れずに一人で旅立つ。

「ち……いち……!」

 鴇子が何かを叫んでいる。おそらくそれは俺の名前でいまだ何モノでもなかった俺の名前。

 世界で一つだけの俺の存在を表す指標。俺が俺であるための証。

 だが間に合わない、消えてゆく、俺の存在の全てが消えてゆく。

 だが恐怖はない。

 短い生涯だったはずなのに、俺は何かを残せたのではないだろうか。

 自分は何のために存在するのか? 自分がどこから来てどこへ行くのか? 自分とは何者なのか? 

 その答えは、全て鴇子が教えてくれた。

「悠一!」

 鴇子の声が心に響く。

 そうだ、悠一だ。

 門田悠一(かどたゆういち)。

 それが俺の名前。

 和菓子屋のせがれで、頑固な親父と、苦労人の母親、その一人息子。好きなものは、明治屋のコロッケ。嫌いなものは生のトマト。トマトソースは好き。好きな音楽がサイケデリックミュージックなのは母の影響。学校では神ロ研に属し、特に親しい友人はごっさん、掛井、後藤先輩。これが俺のプロフィール。門田悠一の全て……

「いや……一つ忘れていた」

「何? 何が言いたいの?」

 鴇子が一言も聞き逃すまいと、俺の体を支えようとする。

 だが、つかむ先から消えていく。焦っている鴇子が、戻れ、お願いだから戻ってと痛切な声で繰り返す。

 ああ、いいんだ鴇子……

 俺はこうなる運命だったのだから。

 それよりも聞いてくれ、さっき気づいたんだ。

 俺の俺である証を……

「好きな人……喜連戸鴇子……」

「……!」

 自分が何者だったのか。

 最後の最後で俺はその答えを知った。

 

 

 

 ●

 

 そうして、彼は去っていった。

 一人の人間として、門田悠一としての名前を思い出し、個人として死んでいった。

 一人の魂が空に帰る。一つの光となって、大いなる螺旋に吸い込まれていくその神聖な光景を、私は敬虔な気持ちになって見送っている。

 あの状況で、驚くべき精神性を発揮した魂に敬意を表し、一人の人間に頭をたれていた。まさしく彼は世界を救ったのかもしれない。

「嘘……信じられない……」

 オメガのほうは、目の前の事実を受け入れられないのか、呆然と魂が消えていった空を見つめていた。

 彼が新種の力を使って、あの星々の彼方へと行き着くと信じていたのだろう。

「信じたくなくとも、これが現実じゃ。喜連戸鴇子と、門田悠一の物語はここで終わる。これは、ボーイ・ミーツ・ガールではない。別れ話ということじゃな」

「お姉さま……」

「オメガよ、我が妹よ。おぬしの敗因は人の力を読み損ねたからじゃ。おぬしは人の弱さを熟知していた。じゃが、人の儚きを知ると同時に人の強さも理解すべきじゃったな」

 そう、人は弱いし、どうしようもなく愚かではあるが、時に比類なき強さを見せる。

 不条理へと立ち向かう勇気をもって、自分の足で立ち上がり、例え一人になっても世界と対峙して、その気高さを貫こうとする。

「あの誇り高き姿を見たであろう! 例え自分の命が亡くなると知っても、己を貫く。こういう人間が居る限り、我は決して人類に絶望せぬ。人を導くに神はいらぬ! どんなに愚かしくとも、ただ一人、勇気ある義人がいればいい!」

「そんなの……そんなのまったく、理解できないわ! 定められた運命で死んでいく、それが人間の限界なの! それを超えようとする手段を、自ら放棄するなんて……」

「知らぬが仏と言うであろう。知らぬからこそ神の如きその座につくことが出来るのがそなたじゃ。人類を終らせる役目を背負ったそなたには、人の強さ、その本質が理解できぬのであろう」

 そう、私の妹はここより先に行くために人類を終らせる、私はここにとどまるために人類を続かせる。そのためにそれぞれ責任を持ち、それぞれの願いを積み重ねる。異なる力のベクトル。その線は交わることがない。

「わかったわ……私たちは徹底的に分かり合えないということがね」

「それは同意しよう。そなたは我とは別の道を行く者じゃが……」

「何よ」

「こうして会えたのは楽しかったぞ」

「ふん……」

 とそっぽを向くその姿は、年相応の子供のように見えた。

 ここは精神が物質を超越する場所。ゆえに、我らはここで生まれた。人類の責任者として、それぞれの願いが集約した魂の形。

 それが我ら運命の姉妹。願いという命を運ぶ、アルファであり、オメガである。

 世界に刻みつけられた鋳型として存在する、唯一の姉妹だ。

 普段はなかなか出会うことがないが、久しぶりに会えるのはやはり嬉しい。顔が少し綻ぶ。

「ぬ……?」

 気がつくと鴇子が傍に立っていた。

 張り手されたと気づいたのは、体が横に倒れてからだった。

「ぐっ……」

 左の頬がヒリヒリする。強烈な痺れが頬に残った。

「ちょ! ちょっと鴇子! 一体何してるのよあなた!」

 オメガが慌てて私の傍にやってきて、様子を覗き込む。

「な、なかなか痛かったぞ……」

「あなたが……あなたがいなければ……」

 なるほど、それが鴇子の怒りか。

「あなたがいなければ、上手くいってたのに! あなたが悠一を殺したのよ! あなたが利用したんでしょ! そうでしょ!」

「それは違うわよ鴇子! お姉さまも私も自分の役割に忠実だっただけ! それに最終的に死を選んだのは彼自身よ! 勝負はついたの! それ以上暴れて、彼の死を汚すつもり?」

「言うな、アルファよ。我が妹よ」

「言葉に出来ぬ怒りを受け止めるのも、人類の責任者たる我の務め。そのために我は存在しているのじゃ。張り手の一つくらい当然のものと受け入れようぞ」

「ぐ……あなたは……」

「八つ当たりでも構わぬ、じゃがそなたはこれからどうするのじゃ? 彼は去っていった。だが新種としての力は失ってはおらぬ。このままここにとどまり、自分独りの力であの渦巻きの先を目指すのか?」

「それは……」

 鴇子はやや逡巡したが、やがて口を開いた。

「帰るわ、自分の家へ」

 鴇子がそう宣言した瞬間、空間が閉じられた。

 今こそ遊びは終わったのだ。

 

 

 

 ○

 

 校外の山すそにある霊園の一角に、その墓は建っていた。

 季節は初夏を迎えようとしている。

 墓の隣に埋葬された人物の一覧があった。

 

 門田悠一。

 

 因縁深きこの名前。

 彼と別れてから、私は現実へと帰って来た。

 不思議と学園の連中は彼の名前を覚えていた。だが、死んだ話をすると、どうも記憶が曖昧なようで、その詳細ははっきりしない。

 これはおそらく、新種として私が力を使った残滓なのだろう。世界にその存在を、鋳型のように魂を落とし込む。その力が微かながら残っていたのだろう。

 もっとも今の私はその力は失われた。力を失う前に、また彼を復活させる手段もあったのだろうけど……それはどう考えても、死んだ魂への侮辱だとしか思えなかった。

 以前の自分なら、何の躊躇もなく、その力を自侭にふるったのに、結局彼の存在が私自身を、私という存在を規定した。

 あの気高き振る舞いをみて、新種の力を魅力的に思えなくなった。彼のために使えない力など、何の意味もない。そして力を求める理由を無くしたと同時に、私は新種の力を失ったのだ。考えてみると、彼がいたからこそ、新種の力が私に備わったのであり、彼がいなくなれば消える。当然の帰結だ。

 

「悠一……」

 そっと彼の名前を呟いて、私は彼の墓碑銘をなぞる。

「悠一……悠一……」

 名前を呼ぶと愛しさが募る。悲しみが込みあがってくる。

 だが、いくら名前を呼んでも抱きしめてくれる人はもういない。あの、私の涙を拭ってくれた優しい指使いを思い出して、私は泣きだしそうになる。

「ごめんね、大丈夫、大丈夫だから……」

 両足に力を入れ、大地を踏みしめる。悲しみをぐっと堪える。その強さは彼が与えてくれたものだ。

 門田悠一。

 死ぬほど好きになった恋をして、彼は本当に死んでしまった。

 私は彼の墓前に、そっと和菓子を供える。

 家の庭にある築山の中で私と彼が分け合った菓子と同じものだ。今回は家の菓子ではなく、私が職人から作り方を聞いて、自ら作った菓子である。

 体面や虚飾を捨てさり、身一つで私にぶつかってきてくれた彼には、朗月庵の職人が拵えた出来上がった菓子より、多少味が落ちても、自分の手作りの菓子を供える。それが彼に対する礼儀だと思った。彼との出会いと別れによって私は様々な教訓を得たが、これはその一つだ。私はその教訓を永遠に忘れたりはしないだろう。

 

「報告があるの。許婚の件だけど……やっぱり、断ることにしたわ」

 家の体面や周りの期待に応えることを考えていた私にとっては、これは大きな心の変化だった。

 両親は反対するかもしれない。家の商売に悪い影響を及ぼすかもしれない。だけど、私は自分の気にのらない結婚はしたくない。不誠実な道を歩みたくない。それになにより、彼の愛情に触れてからと言うもの、どうしても悠一以外の男性に寄り添う気分にはなれなかった。

「難しいと思うけど……でも、決めたの。頑張るから、そこで見ててね」

 私は家に縛られない自由を得たいと思った。新種の力に頼ることなく、健全な方法で私の可能性が広げていきたい。そう思うようになったきっかけも、おそらく彼が与えてくれたものだろう。

「また会いに来るからね。それじゃ……」

 私は彼の恋人になれなかったけど、彼は確かに私の心に足跡を残した。

 これから生きていくうちに、彼の居ないこの世を嘆く時もあるだろう、悲しさに押しつぶされそうな時も来るだろう。

 だけど、私は負けない。泣かない。例え倒れても、再び立ち上がってしぶとく前に進む。取り巻きも、学園での評判ももういらない。彼がそうであったように、私は私の命を貫いて生きようと決めた。

 私の髪には、彼が捧げてくれた桔梗の髪留めが光る。

 

 終

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太郎とジュリエット @nisidahajime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ