第6話


 翌日学校に行くと、様子がおかしいことに気づいた。

 こそこそと俺の顔を見ては内緒話をしているが、視線を合わせようとしない。背後のオーラは昨日の鴇子の親父さんのように濁っている感じがする。こういう時はこの眼の力は便利だけど、正直居心地が悪い。その原因が判明したのはお昼休みのことだった。

「鴇子の家に、不法侵入したらしいな」

「は?」

 屋上で飯を一緒に食べていたら、いきなりアルファにそんなことを言われて、ちょっと固まってしまった。

「一応尋ねておくが……」

「冤罪だ!」

「じゃろうな」

「いや……冤罪というわけでもなかったか……予想以上に悪く見られているな俺……」

 周りの視線がいつもよりはるかに刺々しい。鴇子の根回しにより俺への反感が募っていく様子が感じられる。あいつはこの学園の女王だし、直接何も言わなくても取り巻きがそういう空気を作ってくれる。普通に話してくれるのはごっさんぐらいだ。

 しかし、この手のやり方は気に食わない。

 

「昨日は鴇子の家に行ったのか?」

「ああ、一応説明しておくけど行ったよ……その時、無作法したのは事実だけど……」

 アルファに俺は昨日の出来事をかいつまんで説明した。

「そういうことがあったのか……事実無根というわけではないのじゃな……」

「しょうがないだろ、あの家は直接行くには敷居が高いんだよ」

「だからって、迂闊に虎穴に飛び込むでない。女を篭絡するには、もう少し手練手管というものがあろう」

「自分から動けとか言ってたくせに」

「やらなくていい危険を冒すべきではないと言ってるのじゃ、結局は鴇子の両親は受け入れてくれたのであろう?」

「うん、それはまあ……ね……」

 おばさんは俺を快く受け入れてくれたけど、でも親父さんのほうはどうだろうか? 態度がかなり刺々しかったし、あの後に渦巻いていたどす黒いオーラは忘れられない。

 そんなことを考えていたら、いきなり聞き覚えの無い声に呼びかけられた。

「ちょっとそこの!」

「なんだあんたら」

 振り返ると、複数の女子が入口付近に立っていた。

 こちらを睨みつけて、敵意を隠さない様子。というか黒くて禍々しいオーラを背負っているためまる解りだ。先頭に立つ女の子には見覚えがある、たしか鴇子の関係者だろう。

「どなたですか?」

 と理由をしらないアルファが問いかける。

「私達は喜連戸さんの友人よ」

 さきほどから戦闘モードまるだしの先頭に立つ高身長の女子が、口火を切った。

「あやつに、ごっさん以外の友人がいるようには見えんがのう。そなた、知っておるか?」

「あいつは確か三組の宇津井だよ、友人というより取り巻きだけどな」

 鴇子の傍で対等な関係を維持するのは、かなり難しい。俺がその証拠だ。

 ごっさんがああも自然体で、鴇子に接しているのはおそらく人徳のなせる技だと思う。あの絶妙な間合いの取り方と、毒っ気のなさは、ちょっと見たことがないレベルだ。精神が清らかな乙女はかくも麗しい。

「ちょっと! 人が話しかけてるのに何、無視してんのよ、あんた!」

 そしてこちらはあまり精神が清らかではない乙女だ。もっとも鴇子は産業廃棄物レベルだったけど。

 

「宇津井さんだったっけ? で、俺に何の用事?」

「決まってるでしょ! 今日、喜連戸さんが休んでる理由についてよ!」

「ああ……」

 予想通り、鴇子が休んでいるのは、俺が鴇子の家に不法侵入してショックを受けたからと想像しているらしい。馬鹿め、あいつがそんな安い理由で学校を休むほど繊細なタイプか? あいつの傍にいながら、そんなことも解らないのかこいつは。

「あんたのせいで、喜連戸さんは傷ついてるのよ」

「なんとかいいなさいよ!」

「男のくせに、言い訳もできないの?」

 途端に後に控える有象無象が俺にほえかかり、抗弁する気力をなくしそうになる。

「それさ、何かの間違いじゃないの?」

「とぼけないでよ! 私はちゃんと掛井さんから聞いたんだからね! あんたが不法侵入してきたって」

 掛井のやつ……なに喋ってやがるんだ。

「だからってあいつが休んでいる理由がどう繋がる」

「不法侵入してきた相手と同じクラスなんて、女の子なら誰でも怖がるわよ!」

「そこまで鴇子は喋ったのか? 怖いって」

「は? あんたの頭使いなさいよ! それくらい想像出来るでしょ!」

 激昂する宇津井の顔をみて、俺はまたかと心の中でため息をつく。大体のところ数の勢いに一方的にやり込められる、そんな構図はこれまで幾度となく味わってきた。

 自分の正義を疑わない連中が、自分が決して傷つかない場所から総攻撃をしかけてくる、ネットの炎上にも似た心理。相手のトドメを刺すまでけっしてその手を休めたりしない。正直いって面倒くさいし、関わりたくない。

「まあまあ、ちょっと待ってください」

 と見るに見かねたのか、アルファが間に入った。

「聞くところによると、喜連戸さんが彼のせいで休んでいるのは推測にすぎないのでしょう? 彼を責めるのはいささか勇み足かと思いますが」

「何よあんた」

「申し遅れました、転校生の北条マキナといいます」

 宇津井の睨みにも怯むことなく、アルファは冷静な態度を続ける。

 だが、そのことが余計に火に油を注いでしまったようで、彼女達はさらに激昂した。

「北条さん? あなた、こいつとどういう関係なのよ」

「友人ですわ」

「だったら黙っててくれない? あなたには関係ないでしょ」

「そうよ! あんた、ちょっと評判いいからって調子に乗ってるんじゃないの?」

 女の子たちは、一緒にいるアルファまで狙いをつけてきた。

「なぜ私が糾弾されているのじゃ?」

「すまん……とばっちりだ……」

 何しろあいつらにとって、鴇子は正義。それに反抗する俺は決まって悪者で、小学校の学級会ではよくつるし上げられたものだ。

 そう……俺はその時、いつも一人だった。

「…………」

「? どうした、調子が悪そうじゃのう」

「いや、ちょっと……」

 女に囲まれているこの状況、どうも昔を思い出してしまう。

 それはかつて俺が鴇子にコテンパンにされた苦々しい思い出。俺は昔を思い出していた。一人でいる怖さ、一人でいる心細さ、一人でいる寂しさを。

 あの時の俺は、今のように強くなかった。複数の女子に囲まれ、その勢いに屈服した。どきんとまた胸が疼く、呼吸が乱れる、心臓の鼓動が早くなっていく。

「しっかりするのじゃ、あんな有象無象に押されるでない」

「わ、解ってるよ……」

 とは言いながら、俺は完全に腰が引けていた。

 このままではいかんと自分を奮い立たせ、一歩前に歩き出す。

「あ、あのっ!?」

「何よ」

「……!」

 だめだ……すぐに心が萎縮する。

「文句があるならちゃんと言いなさいよ! 情けないわね!」

「いや……えっと……」

 そんなつもりはない。毛頭ないのだが、いつの間にか俺の身体はすっかり萎えている。

「はあ? 何それ聞こえないんですけど?」

 激しい声が心を締めつける。その怒りの混じった目つきがひどく怖く思えた。普段なら、これくらいの逆境は慣れっこなのに。

 そうだ、忘れていた。誰かに強く言われたら萎縮する。俺はそんな子供だった。

 鴇子に反撃出来るまでの胆力を蓄えられたのは、それでも鴇子は俺を挑発してきたからだ。これでもかと俺にダメージを与え、それは俺の中に暗い澱のようなヘドロとなって貯まっていき、いつしか許容量を超えた。

 そうして、俺と鴇子のやり返しやり返されのバトルがはじまった。

 その前は俺と鴇子は普通の幼なじみだったのだ。関係が変わったのは……確か、朗月庵の法事の席であいつが、理不尽に俺を責めてきてからである。鴇子がきっかけで、俺は、いや、俺達はこの理不尽な関係が始まった。すべてはあいつが原因なんだ!

「……!」

 あいつを憎む、ようやく俺はその根源的な理由を見つけた。

 ドクンと心臓が鼓動する。

 これは復讐だ、あの女への。呪われた自分の人生への復讐……

 オメガと名乗ったあの女の言葉を思い出した。

 あいつのいうとおりだ、俺と鴇子は憎しみあう仲だった。今更それを無かったことになんて出来るはずがない。仲直りしてどうなるのだろう? どちらかが倒れるまで続ける、それが鴇子に対するけじめのつけ方ではないか?

 その瞬間、体を萎縮させていた重みがスッと消えて、体が軽くなった気がした。

「ちょっと、この期に及んでだんまり? もしかして逃げるつもりじゃないでしょうね?」

「黙ってれば許されるなんて思ってるの?」

 いいだろう。怒りはもう充分だ。行動するには充分な動機だ。そろそろ反撃を開始しよう。

「まずさ……何をそんなに怒っているのかな? 君らに咎められる理由なんてないんだけど?」

 俺は宇津井の目をまっすぐに見据えて言葉をつむぐ。

「私は友人だからよ」

「だから何? 俺と鴇子は幼なじみだけど」

「そんなの今は関係ないでしょ!」

「だったら君も関係なくない? あいつが文句言うならまだしも関係の無い人間にどうして糾弾されないといけないの?」

「い、いいのよ友人だし、友達を心配するのは当たり前でしょ?」

 それまで得意だった宇津井の勢いが一瞬弱まる。

 綻んだ理屈の穴を攻撃しようと、俺はここで一気に揺さぶりをかける。

「鴇子の友人?」

「そうよ、友人だから。喜連戸さんを心配するのは当たり前じゃない」

「心配してるからって。寄ってたかって、つるし上げるのが友人のためになるとでも思ってるの? だいたい俺のせいで鴇子が休んでるって情報は、誰から聞いたんだよ?」

「そ、それは……掛井さんから」

 相手が徐々に怯みだした、掛井が余計なことを言ったことはとりあえず頭の隅に置いておいて、ここぞとばかり俺は畳み掛ける。

「で、でもあなた喜連戸さんの家に侵入したってのは……」

「ああ、侵入したよ。したい話があったからね」

「ほ、ほら見なさい、やっぱり変態なんじゃない!」

「だけどその件に関しては、鴇子の親父さんに謝ったし、昨日は一緒に飯食って帰ってきたよ」

「え……」

「家の人には謝ったし、許してもらえた。この一件はもうとっくにカタはついてる」

 不意に宇津井を筆頭する女子達がざわつきだす。

「マジで?」「ちょっと話が違わない」なんていってるけどもう遅い。

「それで? もう一度聞くけど、第三者から俺が鴇子の家に忍び込んだって聞いただけで、どうして鴇子に何の関係もない君が、この件で俺を糾弾してくるの?」

「あ……それは……」

「そもそも、俺のせいで休んでるって聞いた掛井の推測? あいつどう言ってたの?」

「それは……その……」

「は? 聞こえないんだけど!?」

「ひぃ!」

 びくっと震えている宇津井は、既に涙目になっていた。ちょっと脅しすぎたかな……と少し罪悪感がかすめたが、すぐに心地よい衝動に埋め尽くされていく。

「で、そっちのあんたらは、どういうつもりなの?」

 と俺が強い口調で問いかけると、女子の皆さんは一斉に掌を返してきた。

「私達も宇津井さんから聞いただけで……」

「えっと……詳しいことは何も……」

 女子の連中の非難するような視線が、宇津井に集まりあっという間に構図が逆転した。

 まさに、人を呪わば穴二つ。

「要するに、推測だったわけね」

「ご、ごめんなさい」

「私達はその……宇津井さんに乗せられて……」

 簡単に掌返すなあ、この女子たち怖い。

「ちょ……」

 もはや宇津井の周りには誰も味方が居ない。先ほどまでの俺の苦境がよく理解できただろう。だけど、まだ足りない、もっともっとだ! 心中の飢えを満たすために、相手が泣き叫ぶまでこの衝動は止まらない。そうすることが当然だ。なぜなら、俺には復讐の権利があるからだ!

「そもそも友人だから俺を糾弾するって言うなら、鴇子が君達に相談してからだよね。その上で文句を言ってくるならまだわからないでもないけど。いきなり人のこと憶測で非難しといて、許されると思ってるの?」

「あ、あの……その……」

「友達って主張するならさあ、アイツに確認してこいよ!」

「だって喜連戸さんって……時々、近づかないよう言われたし」

「その命令に従ったってことね。それって本当に友達なのかよ?」

「あ……ああ……」

 宇津井は完全に、涙目になっている。

  

「うらああああああああっ!」

 突如として、野獣のような咆哮が空気を切り裂いた。

「あなたは……」

「後藤先輩!」

 空気を読まない代名詞たる後藤先輩は、周りの女子の視線をきにもせずに間に割り込む。もっとも、女子もかなり脅えていたが。

「女になんて口きいてんだこらああああ!!」

 突如視界が真っ白になった。全てが光に包まれた穏やかな彼岸の景色が見えたかと思うと、突如左頬からの鈍い痛みが現実へと引き戻す。

「げほぉ!」

 激しい痛みによって後藤先輩から殴られたと気づいたのは、ほんの数瞬だった。その間に俺は確かにあの世の景色を見たのだ。これはおそらく、後藤先輩のフィニッシュブローの一つ、一秒天獄(ワンミニッツアフターライフ)である!

 これをくらった相手は拳のあまりの衝撃により極楽が見えたかと思うと、その刹那、痛みにより現実へと引き戻される。破壊と仏性を兼ね備えた恐るべきパンチである。後藤先輩はまるで暴力もまた救済といわんばかりに、この殺人パンチをふるい、名だたる不良を調伏しまくってきた。そして、この拳をくらった人間はかなりの確率で先輩に服するようになる。

 俺も厭離穢土欣求浄土の悟りが垣間見えた気がした。まさしく大往生である。

 ちなみにこの手の伝説はまだまだたくさんあるので、後述する機会もあるかもしれない。

「ぐっ!」

 吹き飛ばされた体が二転三転して、俺はようやく現実へと帰還を果たす。

 すげえ痛い、頬がひりひりする。

「あの……彼を助けに来たのでは?」

 それまで、ことの成り行きを静観していたアルファが呆れたような声で問いかける。

「女に暴言吐く奴は許せねえんだよ、だがそれ以上に!」

「ひっ!」

「大勢で一人をかこむ、その根性が許せねぇ! 喧嘩の仕方がわかってねえみたいじゃねえか、オメェーら!」

 後藤先輩はひと睨みで、それまでいきり立っていた女子たちを黙らせた。

 先輩のマイルドどころではないヤンキー顔が眼前に迫り、みるみる宇津井が脅えていく。人間の形をした大理不尽の塊、いわば人の形をした厄災のようなもので、その本質は自然災害に等しい。女でも手出しをしないという保障はまったくない。

「ちょっと待ってください先輩! 相手は女の子ですよ!」

 と俺はとっさに後ろから後藤先輩の背中を抱いて止めようと試みる。俺が止める義理もなかったが、いくらなんでも目の前で獣の餌食になろうとしている人間がいたら、止めに入るのが人の道だ。

「だったらどうした? 今は男女平等の世の中だろうが!」

 怒った獣に理屈は通じない、解っていたことだけど。

「な、何よ! いくら後藤先輩でも関係ないなら黙ってて欲しいんですけど」

「んあああ? てめえ俺に喧嘩売ってんのか? この学園で俺に関係ねえことなんてねぇんだよボケ!」

「ひっ」

 あまりの眼の鋭さに宇津井も、腰が引けている。その一方で、俺は後藤先輩を抑えるのに必死だけど、そもそも俺と後藤先輩では力が違う。必死に止めようと羽交い絞めしている俺をものともせずに、じわじわと宇津井に近づいていく。

「いいから逃げて! 逃げてくれ!」

「で、でも……」

「この人、女でも平気でグーで殴るんだぞ! その顔ジャガイモみたいにされたいのか?」

「ひいぃ!」

 悲鳴をあげて宇津井が下がる。先頭に立っていた女子が崩れると、後の有象無象の女子達も続いて一気に屋上から去って行った。

 ふう……悲劇はなんとか避けられたか。

「おい、いつまで掴んでる」

「あ……」

 俺はといえば、そこでようやく自分が何をしでかしたのか理解した。

 三度の飯より人を殴るのが生きがいである後藤先輩から、喧嘩の機会を奪ったのである。

「先輩、怒ってます?」

「その答えはお前が腕を放してから教えてやる」

「絶対に怒ってるでしょ!」

「怒ってねえ!」

「いや、絶対に怒ってますよそれ!」

「怒ってねえっつってんだろが、ボケ!」

 後藤先輩は、獣の膂力で無理やり俺を振りほどいたかと思うと、振り向きザマに見事なフックを放った。

「はぐっ!」

 見事頬にクリーンヒット。

 口を切ったのか、舌に鉄臭い味が広がる。

「ま、けじめはつけねえとな」

「あ、ありがとうございまふ……」

 完全に殴られ損ではるが、この程度の体罰など当たり前に思えてくるから、この人は恐ろしい。

「キツイ先輩じゃのう」

「解ってるなら止めろよ」

「男同士の世界に女の口出しは野暮というものじゃ」

 と、アルファは妙に物分りのあるところを見せた。

「ふん、わかってんじゃねえか」

 先輩もしきりに頷いている。一応、うちのクラブは文系なのだが、後藤先輩からの理不尽に耐えているうちに、どんな体育会系よりも男気の度合いが遥かに上をいくようになってしまっていた。何を思って上げなくてもいいパラメーターのポイントをしきりに積み上げていくのか、今度じっくり考えてみたくなってきた。

 そんなことよりも、だ……

「先輩が割って入ってきてくれたことは感謝しますよ」

「ふん」

 後藤先輩は、照れくさそうに鼻を鳴らした。

 蛮勇を誇る後藤先輩だが、この人は侠気の度合いもまた激しい。俺が女の子の集団から糾弾されるのを見て、義を見てせざるは勇なきなりの理屈にのっとり、体が勝手に動いたのであろう。こういう時に真っ先に駆けつけてくる人だからこそ、敬まれもする。おせっかいであはるが、この人の面倒見の良さもまた人一倍である。

「勘違いすんなよ、決して女がムカついてたからじゃねえ、オメーも喧嘩の作法がわかってなかったみたいだったしな」

「あ……」

 俺はさっきまでの激昂していた自分を思い出す。

「落ち着いたみたいだけどよ、オメー、ちょっとやばいぜ。さっき完全にキレてたろ?」

「はい……」

 恥ずかしいことだが、さっきの俺は完全におかしくなっていた。昔の自分に戻っていた気がする。激しい怒りに自分の身を任せることが、ただただ気持ちよかった。それはかつて鴇子とガチで喧嘩をしていたあの頃の俺、そのものだった。

 俺は夢で会ったオメガの言葉を思い出す。自分と鴇子は喧嘩を続けるべきだと、あいつは主張していた。バカな……今更あの頃に戻ってたまるものか。

「オメガの策略にのせられたのかしら」

「策略?」

「そうやって、あなたの負の感情を増幅させて、暴走させるのがあの子の目的なのでしょう」

「暴走した先には何があるんだ」

「あなたと鴇子の憎しみを連鎖させていくのがあの子の狙いなのでしょう」

 後藤先輩の一秒天獄(ワンミニッツアフターライフ)……言いにくいなこれ……をくらわなければ、俺は感情にまかせるままに、宇津井を責め立てていたかもしれない。

「何話してんだオメーら」

 後藤先輩は俺達の会話がわからないのか、首をかしげていた。いきなり不機嫌になられても困るので、俺は咄嗟に話題を変えた。

「それにしても、よくここが解りましたね」

「掛井って一年いるだろ。あいつから聞いたんだよ」

「そうだ、掛井だ!」

 わざとかどうかわからないが、全てあいつの伝達ミスから始まったんだ。あいつに一言文句を言ってやらないと、気が済まない。

「先輩、掛井はどこに?」

「掛井なら、そこにいるぞ」

 と、頭をめぐらせば屋上の入口には……

「ひっ!」

 と引っ込む頭を見つけた。

「ちょっと待てコラアッ!」

 逃げようとしたので、俺はとっさに穿いていた靴をぬいで、掛井の後頭部へと投げつける。靴は見事に後頭部にヒットして、掛井はけたたましい音をたてて倒れた。

「ひ、酷いです、乙女の頭にあんまりです」

「おらっ! きりきり立つんだよ!」

 あまりに見かねたのか、アルファが口を挟んでいた。

「気持ちはわかるが、あくまでも冷静にな。さっき我が言ったことを忘れるなよ」

「解っている。冷静に殺してやるよ」

 当たり前だがこいつを、無事に帰すつもりなどさらさらなかった。

「まったく解っとらんではないか!」

「先輩が見てるぞ、素をだすな」

「く……!」

 と、アルファは後藤先輩のほうを振り返り苦笑する。

 それはいいとして、問題はこいつである。

「さて、掛井よ。何か申し開きはあるか?」

「えっと……その……」

「なければ、即有罪だ!」

「べ、弁護士の立会いを要求します!」

「却下だバカモノ! 貴様には弁護士を呼ぶ権利も黙秘権もない!」

 俺は掛井のコメカミへと両手を拳ではさみ、グリグリと押しつけていく。

「あいてててて、痛い痛い! ぐりぐりしないで! そこ、だめです!」

 やたらと艶っぽい声を上げ始めたので、放してやることにした。

「まったく命冥加なやつだ」

「時代劇みたいなこと言わないでくださいよ先輩、ここはどこのお白州ですか」

「正直に答えないと本気で石でも抱かせるぞ。おまえ、鴇子から何を聞いて、宇津井に何を伝えたんだよ」

 そうやってじろりと睨むと、掛井は後ろめたいことがあるのか、途端に眼を泳がせる。

「わ、私はただ……喜連戸先輩が疲れているから、休むって伝えただけで……」

「それだけで宇津井はああも勘違いしたのか? どうせ、いらんエンターテイメントを発揮してあることないことつけ加えたんだろ。この関西人気質め」

「うちの生まれは博多ばい。西日本やからて、ひとくくりにせんでよ!」

「黙れ。漫才につき合う暇はない、とっとと洗いざらい喋らないと刑を執行するぞ」

「えっと……その……記憶にございませんというか……」

「後藤先輩、よろしくお願いします」

「どおれ」

 と後藤先輩が一歩進んだ途端に、掛井は怯みあがった。

「ひいいい! 勘弁してつかあさい、許してつかあさい! いくらなんでも人間凶器はなかろうもん!」

「女の子に暴力いけません」

 とアルファが庇うように、間に入り込む。

「ううううっ、北条先輩ぃ……ぐすっ……」

「あら、私のことは知ってるのね」

「はい、ロリで綺麗な先輩がいるって噂になってましたから……ぐす……」

「信頼してもらえるのなら、事の次第を話して頂けないかしら? 大丈夫よ、決して悪いようにはしないから」

 とアルファはまるで子供をあやすように話しかける。

「ありがとうございます。こんな私に優しくしてくれるなんて、喜連戸先輩とは大違いです。あの人優しく見えても私にはいつも態度がきついんですよ。全部話します」

 とまあ、そういう次第で掛井が語りだした。

 後藤先輩が脅した後に、アルファがフォローを入れる。言うなれば飴と鞭、北風と太陽。こうやって役割分担しておけば、どんな相手も気を許しやすい。ヤクザまがいの方法だけどまあよしとするか。

「今日は新聞配達のバイトが終わってから、学校に行く途中に喜連戸先輩に会ったんです。顔色が悪そうだから、救急車呼びますかって聞いたら、苦笑してました」

「おまえは一々大げさなんだよ」

「それで、おなかがすいてたから、朝ごはんをデザート付きでおごってもらったんですよ。その見返りに、今日は学校をサボるから、適当に病欠しろって伝えておくように頼まれました。だから、私が言ったことは秘密ですよ」

「やはり仮病か」

「あの女、学校をサボるなんて許せねえな!」

「らしくないことを言いますね。先輩だって、よくサボってるじゃないですか」

「途中から抜けるのはいいんだよ」

 相変わらず後藤先輩の理屈はよくわからない。

「で、体調悪そうですねって尋ねたら、昨日は先輩が家に押しかけてきたって言ってましたから、きっと手篭めにされたのかと推測して」

「具合が悪いのを俺のせいにしたと」

「ひぃ! 暴力反対!」

 咄嗟に掛井はアルファの後に隠れるが、小さい背中にはみ出しているため、非常にアンバランスだ。まあ、さっきさんざん折檻したからそれでいいか。

「で、鴇子は今どこにいるんだ?」

 こうなったら、あいつに直接面談しないときがすまなくなってきた。

 俺の悪い風評を広めたことや、宇津井をけしかけてきたのは、あいつらしいけど、また同じことを繰り返すつもりかと思うとうんざりする。第一、鴇子には昨日直接気持ちをぶつけたつもりなのに、その返答がこれか。誠意を裏切られたようで気に食わない。

「残念ですけど、それはいえません、ニュースソースの秘匿はジャーナリストの義務ですから!」

「そうなの?」

 と事情の知らないアルファが振り返る。

「ちがう、こいつは茶道部だ。新聞部でもあるまいに、格好つけるな。あいつは何処にいる」

「パフェ奢ってもらったんで、それ以上のことは言えません」

「安い奴だなあ」

「馬鹿にしないでください! パフェってパーフェクトの意味なんですよ! つまり、あれほど完成されたスイーツはないってことです」

 パフェってことは、どこぞの喫茶店がファミレスだろうが、候補が多すぎる。

 やはり特定するために、もう少しこいつから情報をしぼらねばなるまい。

「どうしても言えないってことか?」

「それはもちろん、女の約束ですから」

「じゃ、その奢ってもらったパフェというのは?」

「あんたれすの劇甘デリンジャーパフェです。クリームとラズベリーソースが絡まった絶品ですよ、おススメです」

「そのファミレスにいるわけだな」

「ってあれ?」

 これで鴇子の居場所がわかった。それにしても簡単にひっかかる奴だな。

「彼女に会うつもりですか?」

 とアルファが疑問を呈する。

「当たり前だろ。あいつに文句言わないと気が済まない」

「ちょー待っちゃってん! 後で文句ば言われるとはうちなんやけど!!」

「そうか、死なないようにな」

「フォローしちゃらんね! 先輩らしく!」

 そういって、掛井が肩をつかんでがくがくと揺らしてくる手を振り払う。

「じゃあ対鴇子のスペシャリストである、俺が助言しといてやる」

「きゃー! 先輩頼もしい!」

「黙って聞け。正座な」

 と俺は掛井をコンクリの上に正座させる。

「はい、座りました」

「よし、じゃあよく聞け」

 ごほんと咳をして、俺は掛井をにらみつける。

「逃げろ」

「え? それだけ?」

「それだけだが何か?」

「もっとこう……何かあるでしょう? プロのクレーム対処係並みの手練手管が!」

「基本的にあいつの怒りを沈めることなんて無理なんだよな。なだめようとしても、余計に怒るだけだし」

「祟り神レベル!?」

「いっそ、腹でも切れば」

「そんな! 来世まで逃げたくなかー!!」

 と泣きながら掛井は走って屋上から消えていった。

「はあ……」

 なんだか、余計な時間を過ごしてしまった気がする。

 

「気を取りなおして行くか……」

「それは結構。ですけど、何を話すつもりなのか、ちゃんと決めておくべきです」

「何を?」

「思い直してほしいのですけど、あなたは一度仲直りを断られているんですよ。その失敗を踏まえたうえで、何らかの工夫はあってしかるべきでしょう?」

「ぬ……」

「さもなければ、おそらくあなたはああなってしまうでしょうから……」

「あれ?」

 とアルファが指をさす先には……

 

「っしゃあ! 殴り込みかー!」

 チャゲアスの『YAH YAH YAH』を歌いながら、後藤先輩はどこからともなく取り出した金属バットをフルスイングしていた。

「ちょっと待って、殴りに行くんじゃありませんから!」

「そもそも、金属バッド担いで、公の場所を歩くのは不許可ですわ」

「俺はこのスタイルで電車乗ってんぞ?」

「……ちなみにそれはロマンなんですか?」

「おでかけには金属バッド! 常識だろうがよーおめー!」

 それはあなたの中のだけの常識ですと、叫びたかった。が、先輩がバッドを担いでいることを思い出してやめておいた。

「だいたいよー、対決しに行んじゃねえのかよ」

「鴇子の場合、言葉で殺さないと意味は無いんです。暴力振るってもこっちが悪者にされるだけですよ!」

「だから俺をつれてけ」

「先輩、話聞いてましたか?」

「バックにケツ持ちがいたほうが、話し合いもスムーズだろ? ゾクのナシのつけ方と同じだ」

「む……」

 確かに……一理ある。しかし、後藤先輩の意見はいつも一理があるだけあって、始末に悪い。

「さっき見てたけどよ、オメーのキレ方ってあやういんだよな。ありゃ完全に人格変わってたぜ」

「確かに、後藤先輩の心配もわかりますわね。先ほどのあなたは明らかに何かに憑かれていたようでした。第三者がいたほうがスムーズかもしれません」

「そ、そうかな……」

 自分ではそんな自覚はまったくなかった。ただ、当たり前のように目の前の厄介を処理しただけにすぎなかったのに、二人からここまで言われるのはかなり意外に思えた。なにより暴力をコミュニケーションに使用する後藤先輩だけには言われたくなかった。

「そんなに酷かったかな、俺……」

「ええ、酷いものだったわ」

「おめーよ、余計なこと考えてっから、そういうことになるんだべ。そもそもキレどころ間違えてねえか」

「先輩がそういうこといいますか? しょっちゅうキレまくってるくせに」

「俺はいいんだよ! そもそも俺はキレて当たり前なんだべ、だけどお前は違う!」

「はあ……」

「キレるってのはよー、自分の怒りのレベルが上がるとか強くなったとか思ってんじゃねえか? 勘違いすんじゃねえよ、相手がビビっただけで、そもそもキレる前のテメーも後のテメーのレベルはまったく変わらないわけよ。そりゃー相手をビビらすなら構わないがよ、その後はテメーの手で終らせるまで引っ込みつかなくなるぜ、オメーこのまま喜連戸と喧嘩腰でぶつかって、ケリつける気があんのかよ」

「あ……」

「喧嘩だからよー、やっぱ勝つの負けるのはいつもついてまわるわけよ。そこんところ解ってるならやってみたらいいじゃねえか。ムカついたから殴る、顔が気にくわない、喋り方が気にいらねえ、生理的にムカつくでも、妹に説教されたでも、朝食のパンがバターを塗ったほうが落ちてイラついたでもよ、殴る理由は何でも構わねえ、喧嘩なんだからよ!」

「最後のは八つ当たりでは?」

「それが喧嘩ってもんだろ。基本的に理屈にあわねえから殴り合うんじゃねーのか?」

「言われてみれば……」

 後藤先輩らしいと言えばらしいが、もっともな話である。

「喧嘩ぐらいよ、テメーの好きにしたらいい。テメーらの因縁知ってる限りはよ、殴り合いでもケリがつけられるだけ上等じゃねえか」

「乱暴な言い方ですが、一理ありますわね」

「だべ、おりゃーいつでもマジだからよ」

 と、後藤先輩はアルファに褒められて、少し照れくさそうに笑う。

「…………」

 そうなのだ、後藤先輩の喧嘩信条はかなりはっきりしている。普通子供の喧嘩というものは、親や教師の介入がはいって、うやむやになったり、そのうち疎遠になってお互いが憎しみあっていたことすら忘れてたりする。後年、お互いが成熟したら笑い話のタネになったりもする。

 だが、俺と鴇子はそうはならない。なぜなら生活に費やすすべての労力を、お互いが憎しみ合うことに傾けてきたのだから。一方、後藤先輩の場合は勝つか負けるかケリがつくまでやる。この人は決してなあなあではすまさない。それが喧嘩としての作法であると主張する。

 俺と鴇子の場合はお互いが決定的な打撃を与えたことはなかった。それはお互いがこの関係を維持するための最低保障を暗黙の了解として、ひたすらに労力を消費するにとどまった、そうやって続く、永遠の憎しみの絆。それが俺と鴇子の関係だった。敵は一人だけでよく、また味方は一人もいない。誰もいない世界に二人だけで俺達はゲームをプレイしている。

 それはよく考えると、やっぱり寂しいのだ。

 俺には友人は少ないけど、一応、後藤先輩も心配……してくれているのかどうかわからないけど、ごっさんもいるし、アルファもいる。尊敬する父や母もいる。掛井は天然だからアテにはしてないけど、悪い奴でもないし、それなりに人つき合いは出来るようになった。

 鴇子はどうだろう? あいつはごっさん以外に、友人と言える存在がいるのであろうか?

 いない。

 まったくといって一人。マッターホルンのあの美しい頂のように一人気高くそびえる孤峰。それが喜連戸鴇子という女だ。

 だが、最近はあいつと会話が増えてきた。

 殴り合ったり、相手を貶める以外の表現が出来るようになってきた。

 まだ間に合う。俺達が当たり前の人間らしくなれるはずだ。オメガのいうような憎しみの絆に陥るのを回避するには、まだ間に合う……そう、これは仲直りなんだ。

 なんてことを俺は二人に説明した。

「要するにこれは、ボーイ・ミーツ・ガールということじゃな」

 とアルファはドヤ顔でつっこみを入れる。そして、いつの間にか話し方が素に戻っている。

 おそらく、途中でめんどくさくなって、とうとう自分を偽るのは止めたみたいだ。

「じゃ?」

 と変な語尾に突っ込みをいれたのは、先輩のほう。

「それも、トラディショナル・ボーイ・ミーツ・ガール、ロミジュリじゃ」

「ロミオとジュリエット?」

「実家が仲たがいしているのもそうじゃろ? バッチリはまってるの。お互い隠れて慕いあっているのもそうじゃ」

「だったら俺と鴇子は最後に死んじゃうじゃねーか! バッドエンド直行かよ!」

「それを回避するための新種じゃ。そのための汝じゃ。そして、そのためのアルファであり、オメガである」

 まるで聖書の一冊のようにアルファは口を開く。

 こいつが役に立ったことなんて、今まであっただろうか?

「なにやら不愉快な想像をしているようじゃの」

「そう思うのなら、実際に何かしてみろよ。お前のアドバイスって役にたたないし」

「若者のくせに年寄りを働かせるでない。見たくもない現実を教えるのは年長の役目じゃ」

「…………」

 要するに自分でなんとかしろといいたいのね。

 アルファもオメガもアレコレ言うけど、実際に俺には手をだしてこない。それは彼女達が傍観者であることを自覚しているのだろう。俺の与りの知らない所では、何かしているかもしれないけど、この件に関して俺も鴇子も当事者意識はかなり強いし、仮に動いても何も出来ないだろう。よって、彼女たちの言うとおり、鴇子をどうにか出来るのは俺しかいない。

 それよりさっきから静かになっている後藤先輩のほうが、今は気になるのだが……

「…………」

 後藤先輩は呆けるようにしてアルファの横顔をながめている。アルファがネコを被っていたことがそんなにショックだったのか。

「やべえ、ロリババアとかマジやべーわこれ……」

 どうやら、ストライクだったようだ。この人の趣味って本当にわからないなあ……

 

 その後、ついてきそうな先輩とアルファと押しとどめ、俺は鴇子の元へと急いだ。

 場所はあの猪狩の話をみんなで聞いた街道沿いのファミレス。

 あいつにどんな顔をして会うべきなのか、少し考えながら歩いた。

 

 

「いらっしゃいませー、お一人ですか?」

 元気よく俺に話しかけてきた店員に、ツレがいるのでと案内を断り中に入る。

 喫煙席はスルーして、禁煙席のフロアへと歩を進めると、窓側の机の並びの隅のほうに、文庫本を広げて、一人で四人掛けのテーブルを占拠している鴇子の姿が見えた。

 本を広げて、一人たたずむ黒髪の乙女。見た目の雰囲気はそんな感じだ。

 文庫本を読みふけっている鴇子の姿は正直、絵になった。まるで映画のワンシーンのように、おさまりがいい。その美しき世界を壊してはいけないような気がしてくる。

 眼を通して伝わってくるオーラは、柔らかな青を示していた。機嫌はおそらく、悪くない。

「…………」

 鴇子のオーラが見えているということは、俺の能力が上がっているということなのだろうか? だとしたら、鴇子が俺をああいう陰険な手を使って攻撃してきた理由も察しがつくというものだ。

 その姿を遠巻きにして眺めたくなる気持ちを振り払って、俺は鴇子の対面に座った。

「あら……」

 俺に気づいた鴇子は文庫本をたたんだ。本のタイトルは『すばらしき新世界』。イギリスの小説家オルダス・ハクスリーの代表作だ。しかし、タイトルに反して内容は暗い。確か、機械文明の過度な発達により、人間が尊厳を失っていく姿を描いたと、昔ごっさんからすすめられたことがある。ジョージ・オーウェルの『1984』と共に、ディストピア小説の傑作といわれているそうだ。まあそれはいいとして……

「掛井が喋ったの?」

 といかにも不機嫌そうに俺を睨みつけながら鴇子が口を開く。

「カマかけたら、あっさり喋りやがった。あんまり苛めてやるなよ」

「嫌よ、腹いせにこれからお茶会の菓子は、あいつだけ塩昆布にしてやるわ」

「掛井なら喜んで食べそうだけどな」

「だったら、盛り塩ね。犬みたいにはいつくばって舐めればいいのよ」

 掛井が四つんばいになって、皿の上に乗った塩を舐めている姿を想像しちょっと興奮した。

「おい、話をそらすなよ」

「ち……乗ってこないわね」

 はき捨てるように言いながら、ぷいっと横を向く。子供のようにふてくされるように見えて、俺を避けていることを隠しているように思えた。

「おい、こっちを見ろ」

「…………」

 黙ってお互いを見つめ合う。しばし流れる、緊張した空気。

「何よ」

「そんなに俺が怖いのか?」

 そう、怖いのだ。俺に脅威を感じるからこそ恐れ、卑怯な手段も使ってくる。

 何も思ってなければ、先日のように無視するはずだ。

「は? 怖い?」

 威嚇するかのように、眼を大きく開き俺を睨みつける。

 今日の鴇子はかなり表情が豊かに思えた。

「寝言言ってるの? 貴方程度が私をどうにか出来ると考えてるなら、脳みそ洗って出直してきても無駄なレベルね。いっそこの場で死んで来世からやり直したら? なんだったら、私が窓をあけてあげるから、あなたはそこから飛び降りればいいわ」

 よくもまあ、ここまで人を悪し様に言えるものだ。少し感心する。

「そういう、ガキみたいな真似はやめろよな」

「私達法律上はまだ成年じゃないわよ。私をどうにかしたいなんて思ってるなら条例違反ね、この犯罪者」

「だからといってガキでもねえだろ」

 本気のこいつと会話してると、徒労感にさいなまれる。ちっとも向こうの扉が開いているような気がしない。それでも俺が諦めないのは、背後のオーラに温かい光が灯っているからだ。おそらく、鴇子はかなり機嫌がいい。俺が鴇子を探しにきたことを、好ましく思っているのかもしれない。だから俺は話をさらに先に進める。

「鴇子!」

「何よ」

「話があるから、とりあえず窓を閉めろ、店員さんこっち見てるぞ!」

「ファミレスの窓って簡単に開くのね」

 そんな感想はいらんからとっとと座れと言いたい。

 鴇子はソファに座りなおして、こちらに向き直る。

「で、何よ。私と仲直りしたいとかまたふざけたこと言うつもりなら、回れ右して帰って」

「…………」

 仲直りというのなら、この前断られたところだ。素直に言っても聞き届けてくれない。

 鴇子の気持ちもわかる。実際のところ、オメガの言うとおりだ。

 俺から鴇子に優しく友好を呼びかけても、承知するはずが無い。もし、立場が逆だったら『なにスカしてんだよ、このヤロー』とか言って、差し伸べてきた手をはたき返す。

 お互いが憎しみを積み重ねたのに、それが俺達の一番の絆なのに、俺はそれを否定した。

 俺は自分の負けでもいいから仲直りして欲しいと言ってしまった。鴇子が怒るのももっともだ。だからもう、俺はこれまでの鴇子との絆を否定しない。その絆が憎しみで結ばれていたとしても、否定はしたくない。だから、本気で正直に、俺の今の気持ちを伝えようと思う。

「俺はお前が好きだ」

「あっそ……」

 まずは軽いジャブ。背中のオーラの色がぱっと明るくなった。ただし、表情は変わらず。

 もっともな態度であると思うので、この反応は予定通り。単なる好きでは、こいつは落せない。

「頼む! 俺と結婚……」

「ちょ……!」

 一生の一度の言葉に、流石に鴇子が気色ばんだ。

「け、結婚……して……」

 顔が赤い。緊張で胸の鼓動が早まる。頭の中では、ここ十年の来し方行く末が走馬燈のように流れていった、人間が死ぬ一瞬の間に見るアレだ。

 要するに鴇子へのプロポーズは死と同じくらいのストレスが掛かる。けだし、結婚とは人生の墓場である。

 

「くれなくていい! つーかしたくない!」

「はあ?」

 鴇子があっけにとられる顔をしている。

「何それ? このタイミングでそういうこと言う? あなた私のことが好きなんじゃないの?」

 背中のオーラがあっという間に真っ黒になった。今度は表情と気持ちが一致している。

 つまりこいつは俺を怒る時だけは、正直になれるってことだな。

「お前、俺と仲直りしたくないんじゃなかったのかよ」

「だからと言って、目の前で結婚したくないなんて、言われて喜ぶ女の子がいると思う?」

「まあ……自分の気持ちに従うとやっぱそうなるんだよな」

「やっぱり窓を開けようかしら」

「待て待て、最後まで聞け」

 鴇子をなんとか落ち着かせて、俺は改めて向き直った。

「正直に言ったらやっぱりそうなんだよ。お前が好きだし、もうお前のことしか見えないし、正直俺はお前しか見ていない。生活の中心はお前なんだ。だけどよ……」

「…………」

 背中のオーラが灰色になっていく。

 これは恐らく迷い……だろうか? 喜ぶべきか怒るべきか微妙な心境。

 

「やっぱり、お前のことはムカつくんだよ! 俺だって仲直りしてくれって言うまで、相当葛藤したし、我慢して言ってる。正直、このグラスの水をおまえにぶっかけたくてうずうずしているんだ」

「最低のくどき文句ね」

「自覚してる、どうあがいても俺達は憎しみあっているほうが似合っている。俺だってそうしたほうがいいと気づいている。でも、お前が好きなんだよ」

「…………」

「好きだから怒らせたい。興味を引きたいから、イタズラしたい心境なんだよな」

「あんたも子供じゃない」

「そうだ。でもそれを認めないと一歩も進めなくなる。だから仲直りだ」

「ふうん……」

 鴇子はため息をついて、後ろのソファにもたれかかる。

「まあ、言いたいことは解ったわ。でも、言っておくけど、私もあんたと結婚なんて、生理的というより生物的に無理だから」

 生理的ですらないのかよ。

「新種がどうとかそういう話がしたいのかお前は」

「そんなのどうでもいい。あの子たちとあんたが裏でこそこそしていたのは知ってるし、新種がどうとかほんっとどうでもいい!」

 大きく息を吸って、俺を睨みつける。

「重要なのはあんたよ! あんたは何がしたいの?」

「だから仲直りだよ」

「やっぱり生まれ変われば? ほらこっち」

「だから窓を開けるなって」

 窓を開けようとする鴇子を止める。さっきから店員さんたちの視線がかなり痛い。

「そういう諸々のことは横に置いといて、とりあえずは仲直りしたいってことだよ」

「あっさり言わないで。全然信用できない」

「勘違いするなよそれで終わりにしない。第一俺はお前と別れるつもりはない。俺とお前でこの関係にケリをつけよう、その後で俺と結婚してくれ」

「プロポーズのつもり? 喧嘩売ってるようにしか聞こえないんだけど?」

「だってなあ……」

「何よ」

「お前の怒った顔って、すっごく綺麗だから」

 その時の鴇子は仏頂面を浮かべ、何も言わなかった。

 

 

 それもまた偽らざる気持ちだった。鴇子は綺麗で美人で、初恋の人だった。

 恋愛よりも複雑な絆で結ばれ、うんざりするほどの子供じみた応酬の果てに関係を築いてきた。

 そう、俺達はもう、因縁めいた憎しみの絆でとっくに結ばれていたんだ。この前はそれに気づかず、一方的に仲直りと言ってしまった。

 だから、この仲直りはどうしても俺と鴇子の離縁状……みたいな文脈になってしまう。

 重要なのはその後なんだ。絆がきれたら、後に俺達には何も残らない。

 ゆえに、俺達が絆を持ったままで居られるように、俺は結婚という答えを選んだ。

 

「私には婚約者がいるのよ」

「解ってる。でも、それがどうした? 恋愛的な意味じゃないけどお前は俺以外と結婚出来るのか?」

「確かにそうだけど……消去法って嫌いよ」

「安心しろ、本当のこと言うと俺も同じだ」

「安心できないわよ。痛みわけだからって大目にみろって?」

「さっき言った好きというのも本当だ」

「ん……」

 ようやく背中のオーラが暖かな光を発するようになってきた。この眼はなかなか便利だな。

「その理由じゃダメか?」

 少し考えてから、鴇子は……

「……いいわよ」

 と微かな声で囁いた。

「何て……?」

「水、ぶっかけてもいいって言ったの」

「…………いいの?」

「すっきりさせる必要があるでしょ。今回は私の負けだしケジメをつけたいならそうさせてあげる」

 鴇子は負けたと言うわりには、ふてぶてしく宣言した。

「それは確かにそうだけど……」

「だったら早くしなさいよ」

 背中のオーラは暖かく白い光のまま落ち着いている。ということは本気……だろうか?

 女の子に水をかけるのは外道の所行だが、俺も鴇子には遠慮したくない。鴇子のいうことももっともだし……これからの新しい関係を築くためには、一旦この不毛な戦いを終らせる必要があるだろう。

「それじゃ、遠慮なく」

 と俺は水の入ったグラスをつかんで、横に薙いだ。

「と、そう来ると思ったわ!」

 鴇子はいつの間にか机の下に用意していたグランドメニューで水をガードし、素晴らしいタイミングで俺に張り手を放ってきた。

「ぐっ!」

 カウンターが効いている……なかなか痛い。

「きったねーなお前!」

「ありがとすっきりしたわ」

 鴇子の気持ちと行動が一致しないってことを忘れていた。

 こいつの背中のオーラが光っているといえどもまったく安心できないみたいだ……この能力ってそんなに万能じゃないかも。

「くそ……安心してたのに」

「何が見えていたかは知らないけど、その眼に振り回されるようじゃまだまだね」

 と嬉しそうに鴇子が笑う。騙された。こいつは新種の能力に関して先輩だったんだよな。

「人をビンタしておいて、よく笑ってられるな」

「あなたの背後から楽しそうな光が見えるの。本気で怒ってないでしょ。っていうかむしろ喜んでない?」

「……俺はマゾじゃねえぞ」

「実はマゾだったりして」

 と鴇子は楽しそうに。本当に楽しそうに笑っていた。

 表情とオーラが珍しく一致した瞬間だった。それを見て俺も口元が緩んでしまう。

 張り手で笑いあうとはいかにも俺達らしい、けじめのつけ方だった。

 

「それじゃ行きましょうか。エスコートしていただける。旦那様」

「旦那様……?」

「ええ、結婚するなら旦那様でしょ?」

 旦那様―俺への呼び方にしては鴇子の口から出てきた言葉とは思えない。まるで天上の音楽が如きその妙なる調べにますます頬が緩んでしまう。

「あれ? 旦那様じゃいやだった?」

「もちろん! あ、いやそうじゃなくて……もちろんというのは結婚することに関してであって! 決して嫌なわけじゃないから。むしろ嬉しいっていうか……え、マジで?」

「マジよ」

「っ……!」

 これが鴇子か?

 普段から美人だとは思っていたけど……こいつ、素直になるとこんなに可愛くなるのか?

「だから挨拶に行きましょう」

「は?」

「お嬢さんを僕にくださいって奴よ」

「え……今から?」

「私と結婚してくれるんでしょ? だったら、逃げられないわよね?」

 ニヤニヤしている鴇子。

 明らかに、これから修羅場に臨む俺の様子を楽しませようという腹だろうが、こちらも覚悟がまったくなかったというわけではない。

 楽しませてやる。俺が笑わせてやる。

 それで気が済むなら、いくらでも割のあわないパフォーマンスを実行し、ピエロを演じよう。

 崖から飛び降りた猪狩のことは、もう笑えなかった。

 俺もあいつも単なる馬鹿だ、大バカモノだ。その場の衝動で人生の一大事を決しようとしている。だが、好きな女子を目の前にして馬鹿をやる以外に、俺のような知恵も力も地位もコネも権力もない男子には何が出来るだろう? 身体を張ってパフォーマンスするしかない。言葉に尽くせぬなら行為で示そう。俺にはお前が必要だと、背中で存分に語ってやろう。お前の気が済むまでな!

「行くか」

 俺は差し出された鴇子の手をとった。

「……?」

 その手の中に紙が一枚挟まっている。

「レシート?」

「男の甲斐性よね、あとよろしく」

 鴇子は支払いを俺に押しつけて、悠々と先に外に出て行った。

 まあ、あいつはそういう奴だよな。

 

 

 

 ついに俺は主人公となる日が来た。

 勇者でもなく、世界を救うヒーローでもなく、猪狩と同じように、あの割の合わないパフォーマンスを演じることになるのだ。目的はただ一つ、好きな女のために。

 

 展開が速くて申し訳ないが、鴇子の家にやってきた俺達は挨拶も早々に中へと通される。

 出迎えたおばさんは、鴇子が俺と連れ立って帰ってきたのを見て、非常に嬉しそうに歓迎してくれた。

「案外と簡単なものだな」

「問題はここからよ、ここから」

 その通り。親父さんに挨拶しないと何も始まらない。

「案内はしてあげるけど、私は手助けしないわよ」

 と、鴇子は板張りの廊下を歩きながら言った。

「私が欲しいなら自分の手で掴んでみなさい」

 鴇子の声は楽しげな調子ではずんでいた。

 

 俺はそのまま喜連戸家の数ある座敷の一室に通された。

 座敷の真ん中には艶やかな光沢を放つ年代モノの食卓。俺と鴇子は並んで座り、その対面には親父さんがどんと座って難しい顔をしている。

「はいお待たせ~沢山食べてね」

 と言いながらおぼんをもってやってきたおばさんは冷えた麦茶と冷たい草もちを振舞う。さっきから笑顔がすごい、背中のオーラも光り輝いている。対して親父さんの表情は曇りばかり。胸中にいかなる思いが渦巻いているのかオーラを見ずとも想像出来る。

 俺は全員が揃ったのを見計らって、話を切り出した。

「え~~本日はお日柄もよく」

「そういうのはいいから」

 と横に座っている鴇子は肘鉄をくらわしてきた。かなり痛い。

 出だしの軽いジョークのつもりだったのに。

「で、話というのは?」

 見かねた、対面の親父さんが切り出してきた。

「鴇子さんと結婚させてください」

 と言った瞬間、おばさんは嬉しそうに笑い、親父さんは眉間に皺を寄せた。

「すまないが、もう一回言ってくれないか?」

「鴇子さんと、結婚を前提としておつき合いさせてください」

「いきなりだな……」

「もちろん今すぐではありません。大学の卒業を待って結婚します」

「最短で進学したとしても……あと五年と半年か」

「望むなら入り婿でも」

「兄さんの店のほうはどうする?」

「親父は俺が職人になってくれたら、どこで菓子を作っても文句は言わないでしょう」

「経営者としての仕事もあるぞ」

「勉強させていただきます。そのために大学の進路を選ぶつもりです。さし当たっては、城西大学の経済学部へと進もうかと」

「ふむ……」

「相応しくありませんか?」

「いや、娘婿の進学先としてなら充分だが……」

 おそらくそう言うだろうと思っていた。それなりの難関大学で、経営に関しても勉強出来るなら、そこが最適だ。

「あわせて、菓子の修行も続けるつもりです。その際には『朗月庵』で働かせていただけないでしょうか?」

「経営者が現場に立つ必要はないぞ」

「それはもちろんですが、複数の職人を差配するに足る人物になるには、現場での修行も必要かと。うちの父もお義父さんも、キャリアはそこから始まったわけですから」

 お義父さんと読んだ瞬間、親子さんの眉間がピクリと動いた気がした。

「うむ……それはその通りだが……」

 ここまではまあよし。実際のところ、俺も和菓子の修行は親父からしこまれているし、知識や経験もある。友達が少ないために、打ち込めるものがそれしかないから成績も悪くは無い。もとより、神ロ研の活動は学業を妨げるほどのものでもなかった。

 同じ年代の男子で考えれば、和菓子屋の跡取りとしてこれ以上のない物件であることは、親父さんも納得しているはずだ。だとしたら後の問題は……

「むぅ……」

 と親父さんは腹のそこからのうなり声をあげる。

「いい話だと思うわよ」

「そうは言うがな、お前……」

「孝之さんのこと?」

「う、うむ……あちらの約束が先なんだぞ」

「それはそうなんだけど……あちらさんもどこまで本気なのかしら」

「それがわからんから悩んでいるのだ」

 とまあ、当然のことながら、この話題がでてくるわけだ。

「大丈夫なの、本当に?」

 と隣の鴇子が小声で耳打ちしてくる。

「安心しろ、我に策ありだ」

 と俺は笑って答えた。

「僭越ながら、よろしいでしょうか」

「うむ」

 とおじさんは俺に話を続けるように促す。

「既に婚約者がいる鴇子さんに、結婚のお願いをする……これが無作法にあたることは、百も承知しております。しかし、私はむしろそのことを危惧しております」

「……?」

 と対面のおじさんたちは不思議な顔をしている。

「どういうことだ」

「というのは、鴇子の人格に関してです」

「人格……だと?」

「はい、さらに失礼を承知で言わせていただきますが……」

 といって俺は言葉を切り、万感の思いを込めて口を開く。

「鴇子さんの夫が、私以外の人間に務まるでしょうか」

「む……」

「それは……」

 二人ともますます難しい顔をした。鴇子の人格が尋常では扱えないくらい難しいものであることは、この二人の両親なら承知のはずだ。親父さんたちはおそらく、大学にいかせる間に花嫁修業なりで多少の矯正をほどこすつもりだろう。

 だが、三つ子の魂百までの言葉通り、鴇子は鴇子以外なにものでもない。例え矯正ができたように見えても、その変化は表面的なものでしかない。

 鴇子が婿を迎えるというのなら、それなりに仮面を被る必要がでてくる。親として、鴇子にそんな負担はかけたくない。俺はそんな親父さんとおばさんの心をくすぐった。

 そのままの鴇子を受け止め、夫として愛情を育める人間が俺以外にいるだろうか? 

「これが秘策?」

「効果覿面だろ」

 と自信満々に言ったが、鴇子はかなり不満そうな様子だった。

「鴇子には妻となるに相応しい教育は施している。心配は無用だ」

 と、おじさんは反論したが、その顔もやはり苦しそうだった。おじさんも鴇子がどんな性格なのか、解りきっている。

「確かに鴇子なら出来るでしょう。でも、それはもう鴇子ではありません。俺は今のこいつが好きなんです」

「む……」

 おじさんの顔がますます濃厚な苦渋とともに歪んでいく。

「こいつは他人を振り回してばっかりで、誠実さのかけらもないくせに外面ばっかりは良くて、その優れた能力を自分の欲望を叶えることにしか使わないし、初めてのデートにコスプレ着て嫌がらせをするくらい性悪で……」

「ちょっと! それいつ終わるのよ!」

 鴇子が怒りの声をあげる。

「そんな性格でも……俺はストレートなこいつが好きなんです」

 鴇子を含む全員があっけにとられていた。

 まさか親に結婚の許しにきた男が、結婚相手をこき下ろすとは思いもしなかっただろう。

「娘をもらいにきた男の言葉とは思えんな……」

「喧嘩売ってるの? ねえ」

 と鴇子も機嫌が悪い。

「でも、確かにそうね……」

「結論はさておき、鴇子の人格云々に関しては一理ある」

「そこ認めちゃうんだ……」

「親だからな……お前が本当はどんな人間かくらいは知っている。お前が私達の期待にあわせるよう努力してきたことも」

「ん……」

 鴇子は自分の性格がバレていることに、複雑な顔をしている。鴇子もやはり人の子なのだ。親に素のままの自分を認めてもらいたい、受け止めてもらいたい。だが、この家の格式を考えると、そんな自侭も許されなかった。 

「いいじゃない」

 と、おばさんが口を開き全員の視線が集中した。

「わたしはね、やっぱりこれから家族になろうって人に、そこのところ誤魔化しちゃだめだと思うのよ」

 おばさんからの援護射撃。いける! 流れはこちらに傾いている!

「おい、お前……」

 とおじさんはあっけにとられている。

「確かに結婚を許しにもらいに来た人間とは思えない挨拶だったけど、でも気持ちはきっちり伝わってきました」

 と、おばさんは俺に穏やかな笑みを浮かべる。

「あなたは、ちょっと歪んでいるみたいだけど……鴇子のことが本当に好きなのね」

「はい、正直、自分でもどうかと思いますが……散々悩んだりもしました。でもやっぱり鴇子のことは諦め切れません。それだけは否定できない。どうか素のこいつを見てください。そんな鴇子とつき合う俺を認めてください! 俺はこいつが魅力的に見えて仕方がないんです!」

  

 し~~んとした。空気がただよう。嵐のあとの静寂が訪れた。

「………………」

 雰囲気はあるけど、それを口にするには誰もが恐れて口にだそうとしない。

 どちらでもいい、言って欲しい。たった一言でいい。「許す」と言って欲しい。

「いいかと思うんだけど……」

 とおばさんが口を開いた。

「お前……」

 とおじさんが驚いた声を上げた。

「確かに彼の言うとおりよ。鴇子が普通の結婚生活を送るには鴇子の全てを受け止める人間が必要だと思うの」

「正気か? だが、こいつは鴇子と……喧嘩したいのだろう?」

「彼は確かに、鴇子と争っていたけど、でも鴇子との関係を途切れさせることはなかったわ。この子たちは自分達なりのコミュニケーションをしていたと思うの」

「それを言われると……」

「だからね、後はあなたたちの気持ち次第だと思うの」

「おまえの気持ちは解った。だが……」

 と親父さんの目が鴇子に注がれる。

「一応鴇子の気持ちも聞いておきたいのだが……」

 全員の目が鴇子に集中した。

 鴇子にしては珍しい態度だが、周囲の空気を推し量るかのように、おずおずと口を開く。

「いいの?」

「私はいいと思うの。結婚って二人の気持ち次第だと思うのよね。さもないと、私達みたいに余計な苦労を背負いこむことになるでしょうし……」

 妙な発言だと思った。おじさんとおばさんは二人とも両想いだったと聞いたが……

「ごめんね鴇子。私達の期待を押しつけてしまって……もう、あなたの好きにしていいのよ」

「ふざけないでよ!」

「と……」

「とき……こ……?」

 横を見ると、鴇子が怒りの形相で立ち上がってきた。いきなりの鴇子の反応に親父さんたちも驚いて……いや、おじさんのほうは苦々しい顔のままだ。

「どうして……今更そういうこと言うの?」

「今更って……でも、私は良かれと思って……」

 おばさんは慌ててとりなそうとする。

「私はお父さんとお母さんのために、今まで自分を磨いてきた、老舗の跡取り婿を迎える相応しい嫁になるように、ずっとずっと努力してきたのに……それなのに、どうして今更それを否定するの?」

 鴇子の怒りが部屋に充満していく……だが、その声には魂切るような悲壮感があった。

「『朗月庵』に相応しい子女となれって言ってきたじゃない……それなのに、どうして私のやってきたことを否定するの? だったら初めから期待しないでよ!」

「鴇子! やめなさい! お母さんになんて口をきくんだ!」

 と鴇子は自分の言った内容を初めて理解したかのように驚いた顔をみせる。

 そこで俺は初めて鴇子が泣いていることに気づいた。

 自分の本音を、ありのままの自分を両親の前に曝け出した鴇子は、俺は幼い子供のように思えた。そして、その涙は例えようもなく美しいと感じた。

「……!!」

 鴇子は止める間もなく、表情を隠すようにして、走り去っていってしまった。

「えっと……」

「…………」

 部屋に気まずい沈黙が流れる。

「あの……大丈夫ですか?」

 枯れススキのようにたたずむおばさんは、まるで生気を感じられない。流石に、ちょっと心配になってきた。

「…………」

「あの……澄子さん?」

 反応が無い……これ、やばくないか?

「ダメね……私……」

 とようやくおばさんが口を開く。

「娘の気持ちくらいは理解出来ると思ってたのに……全然ダメだったわ……」

 内容が重過ぎる。どうやって慰めればいいのか……

「ごめんなさい、暫く一人にさせてちょうだい……」

 そのままおばさんは、頼りない足取りで部屋を出て行った。

「あの……追いかけなくていいんですか?」

「心配するな。澄子は君が思っている以上に気丈だ。それよりも……」

 と親父さんは俺に頭を下げた。

「鴇子を好きでいてくれてありがとう」

「え……あ、はい……」

 俺は唐突だったので、気の利いた返しもできなかった。

 だが、この場で頭をさげるということは、すなわち……

「手を見せてみなさい」

 不審に思いながら、両手を差し出すと、親父さんはその手をとってじっと見つめて、指で押したり様子を確かめ始めた。

「ふむ……皮が厚くなったな」

「餡を扱ってますから」

 熱い餡子を扱うと和菓子職人の手は自然と分厚くなる。そうして熱にも負けない熟練の手を作っていくのだ。加工のために熱い飴細工を扱う洋菓子職人も、事情は同じようなものらしい。

「修行している証拠だ。職人の手になってきたな」

 とここで親父さんは今日始めて、俺に慈しむような顔をみせる。

 その時の親父さんは、俺が初めて菓子を作ったときの親父の顔に似ていた。

「修行をしていた私の手に似ている。今はすっかりなまってしまったが、あかぎれや細かい傷でいっぱいだった」

「えっと……」

「修行時代の話だ、兄さんと私がまだ純粋に菓子の腕を磨き合ってた頃の昔。私達は澄子を取り合って似たような悶着を起こした」

「悶着って……おじさんとおばさんは両想いだったんじゃなかったんですか?」

「違う、そもそも澄子と仲が良かったのは、兄さんのほうだったのだ」

 そう言って、おじさんは自分の口から昔話を始めた。

 

 

 あの頃の兄さんは、菓子作りに独自の道を見出そうとしていた。だが、それは朗月庵の菓子ではなかったために、師匠とよく衝突していた。

 だが、師匠はそんな兄さんの向上心を否定していたわけではない。師匠を超えられぬ弟子などいないほうがいい、そんな風に考える人だったからな。

 一方の私は菓子をもっと安価で、お客様に提供しようとしていた。兄さんの工夫が職人の思考にとどまったが、私は商売として工夫した。兄さんは確かに腕のいい職人だった。掛け値なしの天才だ。あれから私がいくら修行しても兄さんにはかなわなかっただろう。

 だが、老舗の和菓子屋を切り盛りするにはそれだけでは足りない。先代が娘婿に望んだのは、腕よりも商才だったのだ。

 

 確かに望んでない結婚であったのは確かだ。澄子もおそらく望んではいなかっただろう。だが、澄子はよく尽くしてくれた。妻として母として、女将としても不詳は何もなく、いつの間にか澄子が隣にいる生活が当たり前になっていた。

 澄子のほうも私の妻としての仮面を被りつづけ、その顔を自分のものにしたのだ。でなければ、長年連れ添い、娘を生み、育て、ああまで愛情を注げるものか。

 さきほど、お前との婚姻に許可をだしそうになったのもその仮面を被っている自分を思い出しそうになったのだ。『朗月庵』の格式も家の歴史も関係ない。そんな選択が当たり前の世界に生きてもいいのではないか、ついさっきまで、私は本気でそう思っていた。

 待て、早まるな……残念ながら、状況が変わった。鴇子だ。

 あそこで鴇子が怒ったことは当たり前な話だ。私達は鴇子に期待をかけて育ててきた。この家の歴史を背負う相応しい子女として育ててきた。

 娘は私達が思っているよりも、この家のことが好きになっているらしい。

 うむ、鴇子はこの家を愛している。あれが周りの期待に背くことを病的に恐れるのも、家を愛しすぎたせいかもしれぬ。澄子が私との結婚生活に馴染んでゆく姿を、傍で見ていたせいかもしれぬ。わかるか? 家というのはこういうものだ。家風は人に醸成されて、また人格に香りを出す。長年続いたこの家の香りは当然強い。そして住む者に生きがいを与える。

 ゆえに、家というものはそんなに容易いものではない。重代に染みついた家の歴史というのは、個人で自由に出来るほど軽くは無いのだ。


 鴇子は優しい子だ。家の歴史を捨てられない。喜連戸の家を離れても後ろ髪はひかれよう。

 そして、お前が好きなのと同じように、この家を愛している。だからお前と争い始めたときは私はそれを知っていながら、止めることができなかった。

 そもそも、私たちに男子に恵まれていれば、このようなことを言わなくてもすんだだろう。だが、こればかりは天からの授かりものだ。澄子も気にしていたが、その分鴇子には愛情を注ぎ、期待をかけた。その結果……少し人格に問題があることは認める。あれは傍若無人に振舞うことが当たり前のように思っている節があるからな。私の悪い影響であることも認めよう。鴇子はおそらく……務めて父の後継者たらんと私を真似たのだ。

 もし、もう一人生まれていれば避けられた悲劇かもしれない。

 だが子供は鴇子一人、人の心を二つに分けることはできない。

 あの子はこの家に望まれているのだ、自分で選ぶことなく、この家に認められた。先代から娘婿に指定された私のようにな。私はその事実は尊いと考えている。鴇子もそう考えている。

 ここまで言えばわかるだろう。すまないが、お前と鴇子の仲を許すことはできない。

 許すことはできないのだ。家を継ぐ。そのための鴇子なのだ。おそらく、鴇子はお前のことは好いているだろう。でなければ私に話をもってくることもなかったはずだ。

 だが、それでも鴇子は私達を選んだ。自分でも気づいていないのかもしれない。自身の存在の基(もとい)となる根源的な何かに、鴇子は素直に従った。

 父として、鴇子が自分自身を全う出来るように私は手助けしてやりたいと思っている。

 相応しき婿を与え、この家を継ぎ次代の礎となれるようにな。こうしてお前が鴇子と結婚したいと言いに来るとは……私は因縁を感じずにはいられない。

 だが、どんな誠実な願いと言えども、それだけは叶えるわけにはいかないのだ。

 どうか、お帰りいただこう。

 

 

 その後、俺はどうやって部屋を出たのかさえ覚えていない。

 鴇子とは結ばれることはない。そんな現実が巌のように俺にのしかかってくる。

 個人の感情よりも、もっともっと重いものに、俺はぶつかってしまった。

 時に理不尽に振舞ったかと思えば、とてつもない幸運を運んでくるその複雑な現象を人は運命と呼ぶ。

 背後で喜連戸の家の扉が閉まった瞬間、俺は確かに運命の歯車が軋む音を聞いた。

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