臥龍

二百七年 

 荊州に七年留まっている間、兵を集め修練も怠らず、農作業にも従事し劉備は新野の民に慕われ、信頼されていった。だが、劉表は病がちになり蔡氏・蔡瑁が力を付けていった。曹操も袁氏を根絶やしにしたというし、このまま荊州を放っておく訳は無い。ここにも戦乱の足音が聞こえてくる頃だった。

 ある日、劉表から使いが来た。病気の劉表に代わって、襄陽じょうよう(首都)での廟会びょうかいに赴いてほしいという。劉備は子龍を伴って出かけて行った。しかし、それは蔡瑁の罠だった。劉備をおびき寄せ暗殺を目ろんでいたのである。長男の劉琦はそれに気付き、不浄に立った劉備をこっそり逃がした。劉備は身一つで愛馬、的盧てきろに乗り逃げた。

 慌てたのは子龍だ。宴席で酒を勧められ断っている間に、劉備が消えたのである。子龍が後を追おうとすると、蔡瑁の配下が討ちかかってきた。もろともせず三人を斬り捨て、白竜にまたがり駆けて行った。このような時には白竜を頼りにする。必ず劉備と的盧を見つけるはずだ。

 的盧は荊州に来てから、劉表に授かった馬だ。子龍の白竜は一点の曇りもない白馬だが、的盧は白馬でも額に血しぶきのような黒い星が長く尾を引いていた。通りかかった占者が、持ち主に災いをもたらす凶馬だと言った。だが、劉備は気にせず的盧を愛していた。

 この的盧が劉備を救う。蔡瑁の刺客に追われ、渓谷に入り込んだ時 岩場を足がかりに崖の上まで駆け上がったのだ。その後、狂ったように疾走し、気がつくと竹林の中にいた。

 白竜が的盧を見つけたのは、もう明け方だった。竹林の奥にある古家の側に繋がれていた。丁度劉備が老師とその弟子らしき男と共に家から出てきて、子龍を認めると嬉しそうに手を上げた。

「思わぬ所で軍師を得た。徐(庶)じょしょ元直げんちょく殿だ」

 男は子龍と変わらぬ歳に見えた。少し影のある印象だ。

「趙子龍と申します。お見知りおき下さい」

 子龍は礼をした。徐庶も礼を返した。すると側にいた老師が言った。

「玄徳殿、この武者は稀なる者。きっとあなたの助けとなろう」

 劉備は子龍に笑いかけた。

「この水鏡先生は、人物を見る才がお有りなのだ。元直殿を紹介していただいた」

 子龍は老師にも丁寧に礼をした。


 徐庶を伴って新野に帰りつくと、城内はにわかに騒がしかった。劉表が病に伏していることを知った曹操が、荊州攻めの様相を示していたのだ。

 さっそく徐庶は戦略を立てた。曹操軍の将軍、曹仁そうじんは真っ向から新野に攻め込んだが、関羽、張飛、子龍にあえなく敗退。油断したことを反省し八門禁鎖の陣で対抗するも、徐庶にたやすく破られた。それでもあきらめず夜襲をかけるも、見破られ伏兵に遭い大敗した。曹操の元に帰った曹仁は劉備が有能な軍師、徐庶を得たことを報告した。

 劉備は改めて軍師の重要性を感じた。

「元直、この先を考えるに 我が軍にはもっとそなたのような才ある者が必要になろう。これはと思う人物を推挙して欲しい」

 徐庶は頷いて答えた。

「水鏡師の同門で鳳雛ほうすう(鳳凰ほうおうのひな)、臥龍がりょう(眠れる龍)と呼ばれる者達がおります。鳳雛の居所は存じませんが、臥龍はこの荊州、隆中りゅうちゅうの山奥に暮らしております」

「では臥龍という方に使者をやり、おいでいただこう」

と劉備が言うと、徐庶は首を振り

「臥龍を呼ぶことはできません。龍を起こすにはこちらから出向かなければ。それでも天意が無ければ会えないでしょう」

と言った。関羽と張飛はむっとしたが、

「それほどのお方なら、ぜひお会いしなければ」

と、劉備が言うので、しぶしぶ隆中へ付いて行った。

 子龍は徐庶と新野に残り、城を守った。


 子龍が兵に槍使いを教えていると、徐庶がやってきてしばらく様子を見ていた。一息ついて水を飲んでいるところへ

「子龍将軍は、ご自分の技をおしみなく伝授されるのですね。将は皆自身の価値を高めたい故に技を教えたりしないものと思っていました」

と、徐庶が言った。

「おしむ必要もありません。技を習得させれば、兵を失わずに済みますから。それに他の者が何と言おうと、わたしの価値は、わが君が決める事です」

と子龍は答えた。徐庶は頷いた。

「ところで、あの白馬の胸飾りは見事な勾玉ですね。馬に付けるにはもったいないほどだ」

 子龍は徐庶を見て柔らかく笑った。

「皆あれを見ようとしたり、触れようとしたりして、白竜に噛まれます。いたく気に入っているので、元直殿も迂闊に触れぬようお願いします。もう十五年程になりますね。あの守り飾りを付けてもらってから」

「ほう」

と言って徐庶は何か考えているようだった。子龍が再び槍を手にすると、徐庶も立ち上がり離れ際に、

「……あの持ち主を知っているかもしれません」

と聞こえた気がした。子龍は徐庶を目で追ったが、滑るように歩いて行ってしまった。


 劉備達が帰ってきた。臥龍は旅に出ていて、会えなかった。無駄足を踏み不機嫌な関羽と張飛をしり目に劉備はむしろ

「ますますお会いしたくなった。日を改めてまた伺おう」

と言った。それが秋のことだった。

 時おり隆中に使いをやって様子を覗っていると、正月頃に帰ってきたようだと報告があったので、劉備はさっそく出かけて行った。雪も降り 山奥でもあり関羽も張飛も渋ったが劉備には逆らえない。

 だがまた会えずに帰ってきた。使いが臥龍と思ったのは、弟の諸葛均しょかつきんと言う者だったのだ。

「春には戻るそうだ。楽しみだのう」

と言う劉備に、関羽と張飛はもうあきらめ顔だ。

孔明こうめい……試しているな」

と、徐庶が呟いた。子龍はそれを聞き止め、後から徐庶に声をかけた。

「臥龍とはどのような人物かお聞かせ下さい」

 徐庶は足を止め、子龍を見た。

「わたしなど、足元にも及ばない程の才を持っていますが、仕えるに足る主がいないと言い、山中にこもったのです」

「なるほど。ならば安心した」

 徐庶は眉を上げた。子龍は

「わが君にお会いすれば、必ず山を下りて来られます」

と言ってにっこり笑った。


 そして春、劉備はついに臥龍こと諸葛亮しょかつりょう・孔明を伴って新野城に帰ってきた。関羽と張飛は相変わらず憮然としていたが、劉備は満面の笑みをたたえていた。徐庶と子龍は揃って迎えに出た。

「お帰りなさいませ。臥龍を手に入れられて、良うございましたな」

 徐庶はそう劉備に言い、孔明に向かって

「待ちかねたぞ」

と言って肩をたたいた。子龍もその後ろから、

「わが君、お帰りなさいませ」

と進み出た。劉備はさらににこやかに、

「子龍、この方が諸葛孔明殿だ」

と紹介した。子龍と変わらぬほど背は高く艶やかな髪を流し、手には羽扇を持ち気品があった。しかし思いのほか若い。

「趙子龍と申します。お見知りおき下さい」

と言って礼をした。顔を上げた時孔明の顔が強張った気がしたが、すぐに微笑して、

「諸葛孔明と申します。玄徳様ご自慢の将軍にお会いできて、嬉しく存じます」

と礼をした。

 この時、子龍三十二歳、孔明は二十七歳であった。

「さあ、挨拶も終えたところで、しばらくは先生方と語らいあいたい。元直、孔明参りましょう」

 劉備はそそくさと二人を連れて行ってしまった。張飛は鼻を鳴らした。

「あんな若造に何ができる。勿体付けて、偉そうに」

 関羽は顔をしかめて髭を撫でていた。


 劉備はそれから三日三晩孔明を離さなかった。昼間は徐庶も加わり、夜は孔明と床に就いた。関羽、張飛はますます面白くなかった。

 そんな折、許都きょとの母親から徐庶に便りが届いた。

「母が曹操に捕らわれ、わたしが曹操に下らねば殺されると言ってきております」

劉備と孔明の前で、徐庶が静かに言った。

「なんと、卑怯な……」

 劉備は憤りはしたが、

「母御の命には代えられぬ。名残惜しいが、行きなさい」

と、言った。徐庶は目を潤ませた。

「敵に下るという者を、ここで殺されても仕方ないところなのに、なんと慈悲深いお方だ……あなたを裏切るようなことは、決して致しません」

と膝をつき礼をした。馬に乗ろうとする徐庶に、孔明がそっと寄り添って言った。

「頼んだぞ……」

 徐庶は小さく頷いて駆けだして行った。


 その夜は満月だった。孔明はじつは随分前から劉備こそ主と決めていた。劉表から荊州を奪おうともせず、新野を守り領民に慕われる様子を聞き心を動かされた。同門で志を共にする徐庶らと劉備を助ける策を練った。それが曹操に徐庶の存在を知らしめ、間者として送り込むことだった。孔明が劉備の軍師になり内と外から支えようとしたのだ。しかし劉表は高齢ですでに虫の息。曹軍が攻めてくるのは時間の問題だと思われる。劉備から軍を託された孔明は、少し馬を走らせ河岸に至った。水音を聞きながら思いを巡らすことが好きだった。

 上流に向かって進むと、小さな入り江の側に白馬が立っていた。そこまで行き、馬を降りて胸飾りを見た。赤黒の勾玉である。

「白竜……」

 孔明は右手で馬首をさすりながら、勾玉を手に取った。その時ざっと水音がした。見ると入り江の水面に腰までの人影が浮かんでいた。

 孔明をみとめ、水を掻き分けながら上がって来たのは子龍である。子龍は下穿き姿で水を滴らせながら、孔明の側まで来て

「よく噛まれなかったものです」

と笑顔で言い、鞍の上の衣に手をやった。孔明は無表情に子龍の濡れた胸を撫でた。子龍は何故か動けなくなった。孔明から微かに百合の香りがした。

「美しい……一つの傷も無い」

 そう言い手を滑らせながら、後ろに回って背中や肩も確かめるようになぞった。

「翼徳殿には、逃げ上手と言われます」

 子龍は動きを止めたまま顔を赤らめ、やっと言った。

「……真に強い武将だからこそ、無傷でいられるのです」

 そう言うと孔明は再び子龍の前に回り、肩に手を置いた。涼しげな目で子龍を見つめながら、唇を重ねた。が、その後掌で頬を包み、むさぼるように長い口づけをした。子龍は体の中を何かが走り抜けた気がした。やがて夢から覚めたように離れて、

「あなたを賜われるよう、わが君にお許しをいただきます」

と身を翻すと、馬に乗り早足で駆けて行った。

 子龍は呆然としていたが、胸は早鐘を打っていた。劉備にも、いや誰にも口づけはされたことが無い。再び走って水に入ると、がむしゃらに息が切れるまで泳いだ。


 次の日、劉備の居室には孔明の他誰もいなかった。人払いをしたのだ。孔明が口を開いた。

「わたしはまだ何の功も立てておりませんが、曹軍がそろそろ動きだした模様。曹軍を退けることができたら、ぜひ、賜わりたいものがございます」

 劉備は首を傾げ、問うた。

「軍師殿が、そうおっしゃるのなら間違い無いのでしょう。もちろんお望みのものを差し上げます。何でしょう」

 孔明はきっぱりと言った。

「趙子龍を賜わりたく存じます」

 劉備は驚いた。軍師にとってすでに武将は手駒。今さら名指して賜わりたいとはいかなる訳か。

「子龍の質を御存じか」

 劉備は探るように問うた。

「おそらくは……」

「一つだけ約して欲しいことがある」

 劉備と子龍は再会してからは何もない。すでに大人の男になり、子龍もそれを望む様子は無かった。だが、劉備が子龍を思いやる気持ちは変わっていない。

「子龍は息子も同然、あの清い魂を決して傷つけないでいただきたい」

 孔明は真剣な劉備の眼差しに向き合った。

「誓って。生涯大切に致します」

と言って深く礼をした。


 孔明は、小高い丘の上に見せかけの砦を建てさせた。

 徐庶を引き抜いてもう劉備を恐れることは無いと、曹操は夏侯惇かこうとん李典りてんを出陣させてきた。

 さっそく曹仁の仇打ちとばかりに砦を攻めに来た。劉軍はそれを見ると逃げ、夏侯惇は李典が止めるのも聞かず、追走した。

 砦の向こうには、なだらかな下りの林が広がっていて、兵馬は林に吸い込まれて行った。そこへ両脇から関羽、張飛が攻め寄せた。夏侯軍は驚き、前後に二分されたが、後方の砦から火の手が上がり、前方の林も燃え始めた。焼死ぬ者、討ち死ぬ者多数あり。

 しかし、李典に助けられ夏侯惇は何とか逃げおおせた。

 子龍はしばらく残兵を追っていたが、焼け落ちた砦の側に武将姿の兵を見つけた。その男はすすで真っ黒で、自分の体を抱くようにして伏せていた。子龍が近づいて来たのを察すると、固く目を閉じさらに縮こまって震えた。

「劉玄徳様は慈悲深いお方だ。帰順すれば、お許し下さるだろう。どうする」

 男は恐る恐る顔を上げて子龍を見た。

「……子龍」

 真っ黒い顔の中に白目が大きく際立った。

「わたしを覚えていないか。真定の夏侯蘭かこうらんだよ。子龍」

 言われてみれば、幼いころの面影があった。

「ああっ、蘭か。よく一緒に遊んでいた……」


 夏侯蘭は曹操の実家(曹操の父親は夏侯氏から曹氏に養子に出された)夏侯一族に名を連ねていたが、真定に住み落ち着いた暮らしをしていたので、親族の付き合いはあまり無かった。

 だが、曹操が勢力を持ち、夏侯氏として参戦することになってしまった。子供の頃から弓さえまともに扱えなかったことを、子龍は知っていた。


「わが君、夏侯蘭は勉学に秀でていて、法にも詳しいので文官としてはお役に立つと思います。どうか帰順を許し用いてやって下さい」

 子龍は劉備の前に膝まづいた。その後ろには真っ黒な夏侯蘭がひれ伏している。劉備は子龍の肩を持って立たせながら、

「わたしは許すが、文官の素質は判らぬ。孔明どうする」

 孔明は顎に手をやり、一息ついて言った。

「話をしてみれば、大抵のことは判りますので、顔をはっきりさせたうえで、わたしの処へ一人で来てもらいましょう」

 子龍はとりあえずほっとして、

「感謝致します」

と二人に礼をして、夏侯蘭を湯に案内させた。

 入れ替わりに関羽と張飛が入って来た。

「軍師殿、見事なお手並みでした。感服致しました」

と、関羽は尊敬の念を込めて言った。

「夏侯惇を逃がしてしまったが、気持ち良い戦だった。お見事」

と、張飛も今までとはうって変わって孔明に笑いかけた。

孔明も笑顔で

「お二人の勇猛果敢な働きがあってこその成功です。御立派でした」

と褒めた。

 劉備もやっと二人が孔明を認めたことに安心した。


 夜になり、居室に戻った孔明のもとに夏侯蘭がやって来た。もう真っ黒な鎧武者ではない。優しげな瓜実顔の額の広い男だった。

「どうぞ、お座りなさい。お茶を用意しました」

 孔明のまるで普通の客をもてなすような態度に、夏侯蘭はおずおずと机をはさんで座った。

「あなたにお尋ねしたいことがあります」

「な、何なりと……」

 何か難しい問答でも始まるのかと、汗ばんだ。

「子龍将軍とは幼馴じみと聞きました。あの方がどのようであったか、お話下さい」

 夏侯蘭はぽかんとして孔明を見た。いろいろ疑問は浮かんだが、とにかく真面目に答えるべきだと考えた。

「子龍……将軍は――」

「今は子龍で良いでしょう。そう呼んでいたのでしょうから」

 そう言われると話しやすくなった。


「子龍は何でも簡単にやってしまう子供でした。走ったり、飛んだり、仔馬に乗ったり、魚を捕ったり、弓を引いたり、出来ないことはありません。

 皆に慕われて、決して威張ったり、乱暴したりしなかった。わたしのようなおとなしい者も、仲間外れにならないように気を配ってくれました。

 でも、子龍の親や家族は存じません。家が何処にあるのかも、判りませんでした。

 遊んでいると、いつの間にか混じっていて、夕刻になるといなくなっていました。

 わたしのことを勉学が出来たと言ってくれましたが、子龍の方がはるかに出来たと思います。村の老師が子供たちに読み書きを教えているとき、子龍は後ろの壁際に背をもたせて本を読んでいました。時々、先生が出した問題に誰も答えられないでいると、子龍を指して必ず答えました。

 長じるにつれ、だんだん子龍を見なくなっていきましたが、ある日真定から義勇兵団が出征するというので、村人が総出で見送りに出ました。その先頭に子龍を見たときには、本当に驚きました。まぎれも無く騎馬隊長として兵を率いていたのです。

 その時、子龍はわたしより二つ上の十五歳ぐらいだったはずです。もちろん体は大人に見劣りしない程立派でしたが、他の兵は皆、子龍より年上に見えました。きっと名のある武将の子息だったのだと思いました。

 その後は、会っていません。わたしのほうも夏侯氏から呼び出され、逆らえなくて真定を出てしまいました」


 夏侯蘭はようやくお茶をすすった。もう冷めていた。孔明は閉じていた目を開いた。

「よくわかりました。では、明日から出仕してください。手配しておきます」

 孔明は手を差し出し帰りを促した。夏侯蘭は再び多くの疑問に包まれたが、

「ありがとうございます。失礼致します」

と言って部屋を後にした。


 子龍は他に用が無い時は、兵達と共に夕食を取り共に湯屋を使う。そうして兵達に目を配っているのだ。

 次の日の夜も、そのようにして居室に戻って来た。灯明が一つ点いている。側の椅子から孔明が、ゆらりと立ち上がった。

「わが君にお許しを頂きました」

 あの満月の夜のことは、もう月夜の戯れだと思っていた。あれ以来孔明は忙しく策を講じていたし、行きあっても軍師として振る舞い少しも思わせぶりな態度は無かったからだ。

「夏侯蘭のこと、ありがとうございました。どうぞ、おかけください。今、お茶を淹れましょう」

と火鉢の上に鉄瓶を置いた。孔明は厳しい顔つきで、子龍に近づき、

「本気ですよ」

と言って、茶器に手を伸ばした子龍の手を握った。子龍は孔明を見た。

 意外なことに孔明は、目を潤ませ叱られた童のように見えた。子龍が一瞬ひるんだ隙に、孔明は手の指をからませ、壁に押し付け口づけした。あの夜よりも一層激しく長く、子龍は抗えなかった。腰が砕けそうになり、やっと立っていた。そしてこんな激しさで、才長けた若く美しい軍師に求められて、誇らしい気持ちもあったのだ。

 寝台に移ってからの孔明は、性急で乱暴だった。おそらく孔明は男色は初めてだったのだろう。孔明にはすでに妻がいて、隆中に残してきたと聞いている。子龍は多少の痛みに耐えた。 それでも拒まなかったのは、劉備には無かった孔明の切実な想いが感じ取れたからである。

 孔明の動きにつれ、劉備が子龍の体に刻んだ記憶が呼び起こされ、吐息が漏れだすと、子龍を待たず孔明は達してしまった。

 孔明は深く息を吐き離れると、すぐに子龍を仰向けた。そして、子龍の熱を帯びたものを迷わず口に含んだ。これも劉備がしなかったことである。

 なぜこれほど自分を求めるのか、子龍には判らなかったが、すでに何も考えられない程の快感に包まれていた。

 それから少し落ち着いた面持ちで、肩肘を着いて子龍に寄り添うと、目を細め指先で子龍の顔をなぞり始めた。

 子龍は何か嵐に遭った後のように、ぼんやりとしていた。

「臥龍が目覚め、龍玉を賜わりました。この後共にわが君の望みを叶えましょう」

と孔明が低く言った。人が龍の好物の玉を捧げると、龍は返礼として願いを叶えるという。

「龍玉……」

 子龍は孔明を見上げた。

「あなたは、わたしの龍玉なのです。龍の心、龍の魂。龍玉無くしては、龍はただのけだものです」

 そう言うと、子龍の足の間に体を割り入れ、唇を求めながら、今度は急がなかった。後庭の位置を確かめ、ゆっくり滑らせた。

 子龍は緩やかな動きを堪能し、孔明は動きながら、子龍の顔をしばらく眺めていたが、にわかにお互い高まりを覚え、孔明が動きを速めると、二度目は同時に達した。

 二人はそのまま、明け方まで眠った。


二百八年 長坂坡ちょうはんは

 孔明は油断していた。 

 後継者を巡り、長男劉琦と骨肉の争いをしていた蔡姉弟が、劉表が死んですぐにあっけなく荊州を捨て、曹操に帰順したのだ。曹操はこの時とばかり大軍を率いて自ら荊州に進軍し劉備を討ちに来る。

 かくなるうえはと孔明は言った。

「わが君、襄陽に行き、蔡氏と子の劉琮(りゅうそう)を討ちましょう。城を取れば曹軍に対抗できます」

 勝負に出ようとしたのだが、劉備は

「この荊州で七年も世話になっておきながら、恩人の妻子を手にかけられぬ」

と固く言った。孔明は肩を落とし、

「ならば一刻も早くここを出なければ……曹軍はすでに出陣しております」

と言った。だが事はたやすく進まない。

 七年も善政をした劉備を慕って、新野の領民が付いて来たのだ。もちろん劉備は民を放っておくことは出来ない。

「皆を警護するのだ」

と兵達に守らせた。民達は整然とはいかない。遅れたり、へこたれたりする者も出て、やがて曹軍の先鋒が追いついて来た。

 孔明は関羽に言った。

赤兎せきと夏口かこうの劉琦殿の処へ行き、援軍を頼んでください。漢津かんしんに船団を着けてもらうように」

「承知」

 関羽は一日千里を走ると言われる名馬、赤兎馬で矢のように駆け去った。

 その時、騎兵が一騎駆けこんできた。

「曹軍の伏兵に遭い、奥方様の馬車を見失ってしまいました……」

 劉備には臣下糜芳びほうの妹、糜夫人とまだ乳飲み子の一人息阿斗あとの母、かん夫人がいた。子龍はすぐさま白竜をめぐらせ、

「参る」

と言って駆けだした。

 孔明は、歯噛みしたい気持ちを抑え、

「漢津に急ぎましょう」

と、劉備を促した。


 子龍は川のような民の流れをさかのぼりながら、兵達に、

「警護はよい。漢津へ急げ」

と言い渡した。どうやら今回曹軍は、劉備に狙いを定めていて、民には手出しをしていないようだった。徐州での蛮行が評判を落としたことに懲りたのだろう。

 しかし、劉備の妻子は逃さないはずだ。子龍の行く手に、曹軍が見え始めた。奥方の車を二十騎程が囲み、五人の兵が苦戦している。

 子龍はその中に分け入りながら、二人を一気に貫き、抜き取った涯角槍の柄で三人を馬から叩き落とした。いきなりの攻撃に驚きながら他の曹兵も向かって来たが、あっという間に討ち取られた。

 車を守っていた糜芳が言った。

「ありがたい子龍。甘夫人はここにおられるが、妹が若君を連れて逃げている。はぐれてしまったのだ」

「わかった。甘夫人を漢津へお連れしてくれ」

 子龍は再び白竜を走らせ、曹兵に荒らされて焼けた村の、煙と土埃の中で赤子の声を聞いた。白竜も気付き赤子を捜しあてた。

 井戸の側に劉備の子、阿斗を抱きしめた糜夫人が座っていた。

「……子龍、足を痛めてしまいました。阿斗君をお願いします」

 糜夫人はほっとして阿斗を差し出した。子龍はすばやく阿斗を胸板に入れ落ちないように体にくくり付けた。

 その時、さあっと一陣の風が吹き、立ちこめていた煙と土埃が引いた。辺りは曹兵に囲まれていた。

 子龍が立ち上がりざまに、涯角槍を横に滑らせると、近づいていた三人の兵が血しぶきと共に倒れた。後は、流れるように十二、三人の歩兵を斬り伏せ、糜夫人を振り返ると、子龍に頷いて井戸に身を投じてしまった。足手まといになるのを恐れてのことだ。

 子龍は思わず井戸に歩み寄ったが、背後に殺気を感じ、振り向きざまに刺し飛ばした。ふたたび覗きこむが井戸は深くもう何の気配も無い。劉備に付いて幾多の苦難を乗り越えてきただろうが、武将の妻としていつでも命を捨てる心構えはあったのだろう。

 子龍は思い直し走りだすと、すぐさま横に白竜が並び来て飛び乗った。


 漢津を目指す劉備のもとに、警護を離れた兵達が合流して来ていた。次々と情報が上がってくる中、一人の兵が

「子龍将軍が単騎で敵方へ逃げていました」

と言ってきた。

 劉備と孔明は眼を怒らせた。

「たわけ者。子龍は何があっても、わたしを捨てたりせぬわ」

 劉備のいつになく激しい怒声に、その兵士は思わずひれ伏し、

「も、申し訳ございません……」

と言ったが、張飛は

「よし、わしが確かめてくる。本当なら成敗してくれるわ。付いて参れ」

と言うと、二十騎程を率いて行ってしまった。孔明はうんざりした。

「良いのですか」

と、劉備に問うと、

「子龍に会えばわかるであろう。それに翼徳には子龍を討てまい」

と答えた。


 やがて、張飛は糜芳に行き会った。甘夫人も伴っていた。

「子龍が助けに来てくれた。阿斗君を捜しに引き返したのだ」

 糜芳からそう聞いて、張飛は自分を恥じて、すぐに子龍の救援に向かった。


 白竜を走らせながら曹兵を蹴散らしてきたが、その影は濃くなるばかり。ついに曹操のいる本隊を見た。漢津へ行くには、この長坂坡の先にある長坂橋を渡るほか道は無い。考える時は無い。

 白竜を躍らせ、曹軍に飛び込む。その間に矢を射られ、一本が左の肩口に刺さったが、そのまま行く。

 たちまち歩兵に囲まれ、白竜は足を取られ横倒しになった。子龍は阿斗をかばい仰向けに受け身を取る。その態勢のまま涯角槍で寄って来た兵の足をなぎ倒し、体を起こした。

 阿斗が泣いている。

―――わたしが必ず、父上のもとへお連れします。どうか御安心ください。―――

 子龍は他に何も考えなかった。ただ体が動くままに任せていた。疲れも痛みも無い。


「あれは何と言う者だ」

 曹操が側の者に訊ねた。徐庶だった。

「趙雲です。どうやら劉備の赤子を抱えている様子。あの忠臣を殺しては、後の世の物笑いになりましょう」

と答えた。

「然り、趙雲を殺してはならぬ。生かして捕えよ。帰順させれば十万の兵に値する者ぞ」

 曹操の命に兵達は困惑した。殺すつもりでかかっていっても歯が立たない相手を、どうしたら捕えられるのだろう。

 動きの鈍った敵兵に、子龍は我に返り、ひゅっと口笛を吹き白竜を呼んだ。白竜が兵の頭上に高く跳躍すると同時に、涯角槍を地に突き立て飛び上がった。白竜はその子龍をさっとすくい取り、敵兵の上を駆け抜けた。

 曹操の命に逆らえず、矢を射ることもできない。騎馬が慌てて追ったが、白竜の足には及ばない。

「逃がすな」

 大軍が長坂橋へ追撃を始めた。

 子龍が長い坂を下り橋を見やると、張飛が橋の向こうに構えていた。

「子龍、無事だったか」

 子龍は橋を渡りながら言った。

「来るぞ」

 張飛はにやっと笑い、

「行け。後はわしに任せろ」

と言ったので、そのまま走り抜けた。

 張飛は二十騎の兵に後方の林を駆けまわらせた。辺りに土埃が立ち込めた。そして時の声を上げた。

「おおっ、

 おおっ、

 おおおっ」

張飛の大声が岩肌にこだまし、さらに拡大した。

「我は燕人えんじん、張翼徳だ。命惜しまぬのなら、かかってこい。」

曹軍がいくら大軍でも、橋の幅しか兵は渡れない。張飛の後ろには土煙が立ち、伏兵も多くいるように見えた。橋を渡れば、あの張飛に討たれること必定となれば、誰も動くことが出来なかった。


「子龍将軍だ……」

「将軍が戻られた」

 この丘を越えれば漢津が見えるという所で、後方の兵の叫ぶ声が聞こえた。

「子龍」

 劉備達は振り返り目を凝らした。駆け足で追従する兵馬の中を、風のように駆け抜けて来るのは、真っ白な白竜に乗り白い胴衣に白い肩布をはためかせている紛れもない子龍だった。皆、足を止め馬から降りて到着を待った。

 近づいてきた子龍の、兜は無く髪はほどけ 肩には折れた矢が刺さって血が滲んでいる。それを見て孔明は、顔をゆがめ馬の手綱を強く握り締めた。

 子龍は馬を降りると、息をはずませ劉備の前に進み出た。丁寧に布を取り、胸板の中からそっと阿斗を出した。赤子は何も無かったかのように、寝息を立てていた。

 子龍は膝まづき、

「力及ばず糜奥方様は、若君を託され自害なされました」

と言って阿斗を差し出した。

 劉備は阿斗を受け取ると、足元に放った。子龍は驚き阿斗に手を伸ばすと、劉備はその手を引き寄せ抱きしめた。孔明が阿斗を抱き上げた。

 劉備は泣いていた。

「赤子などいくらでも作れるが、そなたのような忠臣は何処にもおらぬ。もう二度とこのような無茶をしてはならぬぞ。よいな」

 劉備にとっては妻子より、命をかけて自分に仕える臣下の方が大切だった。


 漢津に着く頃、張飛も帰って来た。

「橋を焼いてきたから、もう追っては来られんぞ」

と得意げに言ったが、孔明は、

「伏兵がいないと判り、橋を造ってでも追って参りましょう。急ぎ乗船を……」

と皆を促した。

 言う通り、船に乗り終えるとすぐに、崖の上に曹軍が並び立った。矢を放とうとしたときにはすでに岸を離れ、劉備一行は風に乗って遠ざかっていた。


 孔明は船倉に降りて行った。負傷した兵達が、手当を受けている。子龍はまだ甲冑姿で兵の間を行き来して様子を見ていた。孔明はつかつかと近寄り子龍の腕をつかんだ。

「来て下さい」

 孔明は隅の方に空いている台を見つけ子龍を座らせた。無言で用心して甲冑を外し、矢先を布で巻いた。青白い顔をして矢を握っている孔明を見やって、子龍は、

「わたしが」

と言って一気に引き抜いた。

 孔明は慌てて傷口を押さえ、しばらくそのままうつ向いていた。子龍も孔明の手に自分の手を重ね押さえていたが、熱いものが子龍の手の甲に落ちた。

「……傷跡が残ってしまう」

と孔明が震える声で言った。

「心配かけてしまいました。申し訳ありません」

 子龍はそっと孔明の髪を撫でた。

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