陰王
暗闇の中に長い回廊が、無数の灯明に照らされて浮かび上がっている。山肌に張り付くように城が建ててあり、回廊は折り返しながら緩やかに上へ伸びている。
そこを白装束に身を固めた子龍と百人の臣下達が、足早に進んで行った。その先の切り立った崖の上にはひときわ大きな廟があった。一行は廟の前までたどり着くと、速やかに整列し子龍だけが廟の中に入った。
その奥には見事な彫刻を施した白木の棺が据えられていて、周りには何段ものろうそくが並んでいた。子龍の目は棺にくぎ付けになった。
「叔父上」
不意に腰に抱きついてきたのは、十歳くらいの童だった。自分のことを覚えていたことに、軽い驚きを感じながら 膝をついて抱きしめた。
「
兄の忘れ形見を抱き上げ棺の前に進んで行った。花に埋もれ真っ白な兄の体が横たわっていた。しかし、子龍はもう泣くわけにはいかない。この腕の中の子を守ることを兄の前に固く誓った。その傍らには、白装束ではあるが きらきらしく髪を結いあげ紅をさした女が、上目使いで子龍を見上げていた。
常山郡真定という所は、この戦乱の世にあっても民は飢えを知らず平穏に暮らしていた。不思議と太守や県令が代わっても暮らしは変わらない。もう何十年、いや何百年もそのようであった。住む人間も変わらないので皆気心の知れた者ばかり、悪心を起こす者もほとんどいなかった。それが偶然運が良いからでは無いことを察していても、誰もはっきりと語ることはしない。この生活がこれからも続いていくことをただ願っていた。
隠された血脈がこの土地を守っていたのだ。
その一族は
黄巾の乱で漢王朝が崩壊し始めた時、子龍の兄趙王、
漢王朝の復興、あるいはその志のある者と共に闘うことが、子龍に課せられた使命であった。漢の滅亡は、趙王家の存続にもかかわることである。
まさに、志半ばの趙王の死。まだ三七歳、太子の広は十歳だ。趙広が意思を持って真定を治められるようになるまで、子龍は宰相を務めるつもりでいた。
「幼王が立つのは国が滅びるもとです」
文官の長、張林(ちょうりん)が言った。
「然り。今後軍を動かすことも大いにありうる。子龍様が王とならねば、兵も動きませぬ」
そのしわがれた声は騎兵の一員だった武官の長、陳真だった。
「われら村役も同じ意見でございます。子龍様、なにとぞ王位に……。民を安心させて下さいませ」
広間には、文官・武官十二名づつが左右に分かれ、その後ろには村役達が五十名程連なっている。子龍は正面の玉座には座らず、左の椅子に座して思案にくれた。
そこへひときわ高い声が響いた。
「わらわからもお願い致します。わが息子、広にはとても王など務まりませぬ。いいえ。幼いからではなく、王の器ではないということですわ」
子龍はまなじりを上げ、義姉の
「御遠慮なさらないで。本心からなのです。あなたにぜひ王位を継いで頂きたいの」
子龍は万妃を避けるように立つと、
「すまぬが日を改めよう」
と去りながら一同に言った。
かつてそこは、子龍のお気に入りの場所だった。小さな滝が流れ、その下に自然の石庭ができていた。その中の平らな石の上に橋を渡し庵(いおり)を兄がしつらえてくれた。
水の音、鳥の声、風の揺らぎ。その中で書物を読み、時には笛を吹き、時にはうたた寝をした。たまには兄が来て、語らうこともあった。
しかし、あの時を境にそこへ行くのは止めた。
十四歳。初夏の頃。昼の間散々槍の稽古をして、夕刻眠り込んでいた。思春期の男子の性衝動は、時おり甘美な夢の中で弾けたりする。子龍もそういう経験はあった。その時もその夢の中にいたはずだった。えも言われぬ快感の後、意識がはっきりして来るにつれ、いつもと全く違っていることを悟り目を開いた。
十歳年上の義姉が、乳房を揺らし子龍を見下ろしていた。
「な、何を……」
子龍は万妃を突き飛ばしながら後ずさりした。衣の前ははだけ、子龍のものはただれたように濡れていた。万妃はぬっと立ちあがり衣の帯を締めながら、妖しく笑った。
「兄上におっしゃっても構わなくてよ。わらわに男にして貰ったって。ふふふ……。どんな顔をなさるかしら」
無論、子龍は誰にも言うことは無かった。義姉の行為が理解できなかったし、わが身を汚された思いが強かった。今なら少しは察せられる。
趙王家の男子は生まれるとすぐ
趙広も王の忠臣が乳父となったが、三度も替わった。皆、斬首された。万妃と通じたのである。最初は妻を信じていた王も、やがて万妃の淫乱癖に気付き、万妃を遠ざけ広に会うことも禁じた。万妃は王を恨みその矛先を子龍に向けたのだろう。
それでも、城を離れている間に改心し、良き母、良き妻になっていて欲しかったが、母親を前にして子龍に駆け寄ってきた広の行為に望みの無いことを知った。それどころか、王の存命中に抑えられていたものが、この機に吹き出そうとしている。
子龍は今、ある決心を持ってこの汚れた場所を訪れた。すでに万妃は来ているようだ。甘い香りが庵の外まで漂っている。
戸を引いて中に入ると、万妃は窓際の長椅子に片膝を立て、白い足を見せるように座っていた。子龍は後ろ手に戸を閉めて言った。
「何を望んでおられるのか、お聞かせ下さい」
万妃は身をくねらせながら子龍に近づいてきて、蛇のように体に巻きついた。
「あなたよ……あなたが王位に就き、わらわはまた王妃となる。あなたの子を産めば、その子が次の王よ」
そう言いながら、万妃は子龍の衣の中へ手を忍ばせ目当てのものを探りあてた。
「広はどうなるのですか。広もあなたの子でしょう」
子龍は眉一つ動かさず、なすがままにさせていた。万妃は手を使いながら、子龍の耳元で囁いた。
「先王の子などいらないわ。邪魔なだけ……私が欲しいのは、あなたの子……」
万妃は気付いた。子龍のそれは万妃の手技に何の反応も示さない。子龍は動きを止めた手首をつかみ突き離した。
「無駄な事。三年あれば人は変わるのです。あなたは変わらなかったようだが。お望み通りわたしが王位を継ぎましょう。そして、王命をもって先王妃は追放、真定を離れていただく。ここにいては治らぬ病を抱えておられるようだ」
万妃はへなへなとその場にへたり込んだ。
王位に就いた子龍は、常に広を側に置いた。子供には退屈な会議や行事にも列席させた。また、政務の合間には学問や武術も自ら教え、時には身なりを変えて、麓の町や村に行き民の暮らしぶりを見せた。
その様子を不審に思ったのは、丞相の張林だけではなかった。
「王が広様に後を託そうとされているのは何故かご存じか」
会議を終えた王宮の廊下で張林は陳真を呼び止めた。陳真はため息をつき振り返った。
「劉備という御仁がおられるだろう」
「先ごろ献帝に認められた
陳真は頷いた。
「王はあの方にお仕えしたいと思うておられるのだよ」
陳真の言葉はあきらめの口調だった。驚いたのは張林である。
「劉氏といえどもあまたある傍流の一人。しかも、無宿者ややくざ者を集めた頭領であったと聞く。そのような者に趙王直系の子が仕えるというのか」
思わず張林は声を大きくしていた。
「落ち着かれよ」
手をかざし一息置くと、陳真は言った。
「言葉にすればその通りだが、お会いしなければ感じ取れない気を持っておられる。その気の下に皆引き寄せられるのだ。この乱世の闇にあって、たった一つの灯りを求める羽虫のようにな」
二百年
初めは親子のようだった子龍と広だが、七年を経て広が成長し、兄弟に見えるようになった。来月には広は十八歳になり、子龍程ではないが背も高く顔立ちも大人らしくなっていた。
七年前兄の棺があった廟で、子龍は一人位牌に向き合っていた。王の装束ではない。真定に帰り着いた時と同じ一介の武者の出で立ちだ。子龍は膝まづき丁寧に拝礼をした。ゆっくり立ち上がり、小さくはっきりと言った。
「行って参ります」
身をひるがえし、薄暗い回廊を降りてゆく。真夜中である。誰にも会うことなく武器庫に入ると、灯りは無かったが迷わず一本の槍を持って出た。それはひときわ長く、子龍の背の二倍はあった。真定に帰ってから作らせた
それを携えて厩舎に向かうと、待ちきれないように白竜が前足で地面を蹴った。音を立てさせないように首を撫でて手綱を引き小門の脇まで来た時、いきなり大門がきしみながら大きく開かれた。子龍は目を見張った。
開かれた門の外には、臣下達が左右に並び、かがり火が焚かれていた。中央には広が立っている。
「お別れは覚悟しておりました。せめてお見送りをさせて下さい」
子龍はふっと笑って、白竜を引き広に近づいた。広はせき切ったように子龍に抱きついた。子龍はそのままじっと目を閉じた。
「もはや思い残すことは無い。そなたは立派な趙王になる。離れてもわたしは真定の、この中華の平安を願い続けているからな」
広は顔を上げて子龍を見た。すでに頬は涙に濡れていた。
「ありがとうございます。叔父上の教えに従い、命を懸けてこの地を治めてまいります」
そう言って広は名残惜しそうに子龍から離れた。するとすばやく一人の武者が、子龍の前に膝まづいた。乳兄弟の陳礼だった。
「子龍様、われら騎馬隊をお連れ下さい」
そう言うと、後ろの九十九人の武者が一斉に膝まづいた。子龍は静かに言った。
「ならぬ。騎馬隊は真定の守りの要。一兵たりとも供は許さぬ」
子龍は颯爽と白竜にまたがった。
「さらば」
言うと同時に白竜の腹を蹴ると、はじかれたように走り出した。広は手を合わせ呟いた。
「どうかご加護を賜わりますよう」
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