龍玉 ~三国志趙雲外伝~

乙無 良何

月下

~前記~

 

 今から約千八百年前、劉邦りゅうほうが統一してから四百年近く中華を治めていた漢帝国が黄巾こうきんの乱を機に衰退し始め、民は貧困と悪政に苦しんでいた。各地を治めていた諸侯らは新たな国の建国を目論む者・漢の再興を望む者などそれぞれの思惑で兵を起こし戦乱の時代となる。

 中でも曹操そうそうは、年若き漢皇帝、劉献りゅうけん傀儡かいらいにして、権力を拡大していった。

 その曹操に対し、漢室の末裔を称する劉備りゅうび(玄徳)が関羽かんう張飛ちょうひと同志を集めて立ち上がった。

 また、兵法書で知られる孫子そんしの血筋を引くという孫権そんけんは、父の孫堅そんけん・兄の孫策そんさくを亡くし後を継ぎ、兄の親友であった周瑜しゅうゆを大都督に据えて独自に江東こうとうを支配していた。



一九三年 徐州じょしゅう

 日は沈み、西の空にわずかに紅く名残を映している。小高い山の中腹に目を凝らせば、五騎程の騎馬武者がいた。月は満月だがまだ低く 山の反対側にあり、眼下に夜営を始めている曹操軍からは見つけられまい。

 ひときわ黒い馬影から声がした。

「かまどの数を数えるに、八千から一万というところでしょうか」

「父の仇打ちという大義名分を掲げて徐州を取ろうというのだ。朝までには倍以上に膨れ上がっていよう」

しわがれた声が答えた。

「行こう」

 闇の中でも微かにそれとわかる白い馬影が踵を返すと、他の四騎もそれに続いた。軽い足取りで道なき山林を緩やかに下って行く。林を抜けると明るい月光に満たされた平原が広がっていた。白馬の武者が軽く馬の腹を蹴り平原に躍り出れば、競うように他の四騎が追いかけた。しかし、駆ける毎に白馬との間は開いていく。老武者が白馬の行き先に目を凝らし、

「あれか……」

と言った。

 登りつつある月の下、北から南へ向かう民の列があった。ほとんどが着の身着のままの農民や商人たちだ。

 白馬の武者は中でも身なりの整った商人と思われる一行に問いかけた。

「わたしは徐州牧陶謙とうけん公の救援に参った常山じょうざんちょう(雲)子龍しりょうと申す。皆様は何処へ行かれるのか」

 馬車の先に乗って手綱を握っていた初老の太った男は、馬を止め武者に言った。

「この先のとまりから船が出ているらしいのです。泗水しすいを渡ればとりあえず戦火をまぬかれると思われますので」

「それは懸命だ。この速さでもあと三刻も進めば泊だ。早馬を出し、船の手筈を確かめさせておこう」

 そのやり取りの間に白馬の武者、子龍の周りを他の四騎が囲んでいた。子龍は右に付けた黒馬の武者、陳礼ちんれいに言った。

「泊まで行き、皆の船を手配してくれ」

「承知」

 言うが早いか黒馬は列に沿って南へ駆け去った。馬車の男は礼をしたが、顔を上げた時には白馬はすでに列の後方に向かっていた。

 騎馬兵たちはそれに続きながら、気遣いや励ましの言葉をかけたり、馬から降りて荷を積みなおしたりした。

 そのうち列もまばらになる中、一つの馬車が止まったまま動かずにいた。馬がいないのだ。傍らに十歳程のわらべが立っている。子龍は馬を降り近づいた。

「どうした」

 童は子龍をみると、子供特有の直感で安心した。

「昨日馬が死にました。兄上とここまで押して来たのです」

「そうか。兄は何処に」

 童は頭をめぐらせながら言った。

「今晩はもう車を引けないから、衣を食べ物に換えてもらうって」

 いつからか子龍の傍らには老武者、陳真ちんしんが立っていた。

「明日にはこの辺りを曹操軍が通るのだぞ。物品はみな略奪され、女子供も容赦なく殺されておる。車など捨て置き、今夜のうちに泗水を渡らねば命は無いぞ」

と言うと、

「御心配には及びません」

とよく通る子供の声が陳真の後ろから聞こえた。振り向けば挑むような眼で十二、三歳の少年が竹かごに食べ物を抱えて立っていた。

「私どもは大丈夫です。車には貴重な書物が積んであるので捨て置くことは出来ません。もうすぐ迎えのものが参りますからどうかお立ち去りください」

 少年はすべらかにそう言うと頭を下げた。陳真はあっけに取られながら、

「かと言って子供らだけを放っておく訳にもいかぬ。迎えが来るまで、わたしが付いていましょう」

と言って、子龍がいた方を見たが その姿は見当違いの処にあった。馬のいない車に白馬を繋いでいた。

「若……」

「この白竜はくりゅうならば二刻もあれば泊に着く」

 そう言いながら、子龍は弟の方を引き寄せひょいと車の先へ座らせた。兄は血相変えて駆け寄りながら訴えた。

「勝手をされては困ります。もうすぐ迎えが来ると……」

 子龍は兄の手からすっと竹かごを取り、弟の横に置いた。向き直ると 兄は青白い顔で唇を噛みしめ子龍を睨んでいたが、気に留めずに少年の前に膝まづいた。下から見上げる子龍のおもてが満月の光に照らされてあらわになった。りりしい眉の下には、くっきりとした二重瞼の優しげな眼差しがあった。鼻下にも顎にもまだ髭は無い。

「白竜は車を引いたことがない。あなたが背に乗り手綱を引いてほしい」

 子龍の柔らかな態度に少年も思い直したように落ち着いて言った。

「このような名馬を拝借することはできませんし、お返しするすべもありません」

 すると、白竜が首を振り軽くいなないた。子龍は少年に笑いかけながら抱き上げ、馬の背に乗せた。

 もう少年は、言葉も返せずただ子龍を見つめた。

「名馬と言われて喜んでいるぞ。なに、泊に着いたらたっぷり水を飲ませて放してくれ。風よりも速くわたしのもとに帰ってくるだろう」

 そう言いながら、少年に手綱を握らせると、白竜の尻を軽く叩いた。馬は少し前のめりに踏み込むと すぐに調子に乗り速足を始め、ゆるゆると列を追い越して行った。馬上の少年はその間ずっと後ろに遠ざかって行く子龍を見つめ、子龍は手を上げて見送った。

 陳真が馬に乗り子龍の側に寄った。

「久々に若と相乗り致しましょうか」


 子龍らが徐州城に戻ったのは夜半を過ぎた頃だったが、城内には煌々と火が灯り眠っている者は誰もいない。子龍は大股で奥の間に至ると、立って出迎えた劉備に礼をした。

「遅くなり申し訳ありません。徐州の民が逃げられるよう手配して参りました」

 劉備は頷いて、

「さすが子龍は心得ておる。曹操軍は落ち着いておったか」

と問うた。

「夜襲の気配はありません。進軍して来るのは二万以上かと思われます」

 劉備の右に立っていた張飛(翼徳よくとく)が勇んで言った。

「兄者、こちらから夜襲をかければ良いではないか。曹操め、たまげるぞ」

 左側の関羽(雲長うんちょう)が長く艶やかな髭をなでながらため息をついた。

「今回の戦、義は曹操にある。責められるを守るは良いが、こちらから打って出ることは出来ぬのだ」

 張飛はどんぐりのような目をさらに丸くして言った。

「ならばやられるのを待っているのか。それじゃあただの阿呆だ」

「幸い堅固な城だ。兵糧も充分ある。曹操は三日で落とすと言っているから、長期戦に持ち込めば向こうの兵糧が切れて引き上げるしかなくなるだろう」

 北海の援軍将、孔融こうゆうは諭すように言った。

「ちぇっ、つまらん」

 張飛は小さく吐き捨てた。そこへ先程子龍と共に偵察に出ていた武者が、息を切らし駆けこんできた。

「子龍様、常山から使いの者が……」

 そう言って膝まづき竹簡を差し出した。いくら直属の部下でも、他の将たちの前で騎馬隊長に膝まづく兵の姿に一同違和感を覚えた。その空気を察し兵の肘を持ち上げ立たせながら、子龍は竹簡を取り、目を通した。

 すると、子龍の表情はみるみる凍りつき、小刻みに肩を震わせ始めた。劉備はそっと前に立ち肩に手をかけた。

「何があったのだ」

 顔を上げて劉備を見た子龍の目から涙があふれ落ちた。

「兄が、亡くなったと……」

 劉備は子龍を抱き寄せた。竹簡を落とし、そのまま劉備の腕の中で泣いた。周囲の者は常に堂々と落ち着いている百騎隊の将が、まだ十七歳であることを思い出した。


「常山に帰らねばなりません」

 見張り高台で劉備と並び、月明かりの先に目をやりながら子龍はきっぱりと言った。

「さみしくなるのう」

「兄は幼いわたしを父に代わって育ててくれました。今度はわたしが兄の息子の後見となり、恩を返さねばなりません。このような時にお力になれず申し訳ありませんが……」

 子龍は劉備に深く頭を下げた。劉備は子龍の頬を両手で包み見据えた。

「そのようなことは良い。ただ、さみしいのだ」

「わが君……」

 子龍は目を細めてつぶやいた。

「そうお呼び出来なかったことが心残りです。あなたの御恩は、生涯わすれません」

 劉備はさも愛おしそうに子龍の眉を親指でなぞった。見つめ合う二人の耳に、かすかに馬の速く軽やかな足音が聞こえてきた。

「白竜が戻ったな。行ってやりなさい」


 子龍が門に駆けつけると同時に、疾走してきた白馬は後ろ立ちし いなないて止まった。手綱を取ると白竜は頭をこすり付けてきた。子龍も撫でさすりながら頬ずりをした。

 ふと胸掛を見ると、金の輪に縁取られた赤と黒の勾玉まがたまが掛けられていた。あの少年が首に掛けていた物だ。聡明な額と涼しげな眼元を思い出した。

「おまえに礼のつもりだろう。良いお守りを貰ったな」

 そう言ってまた白竜を撫でていると、またもや馬の足音が聞こえてきた。その黒馬に乗っているのは泊に使いに行った陳礼だ。子龍の前まで来ると息を切らして馬から降りた。

「ーったく、待てと言ってるのに見向きもしない。どうして白竜が離れていたのですか」

「馬を失っていた者に貸していたのだ」

 子龍は陳礼に目を合わせ

「兄上がお隠れになった。すぐに常山に発つぞ」

と言うと、陳礼は切れ長の目を見開いた。


 その後馬を休ませている間に、常山軍百騎が次々に旅支度をして門に集合してきた。劉備ら他の武将達も別れを惜しみ見送りに出た。

「喪が明けたら帰ってこいよ。待ってるぞ」

 張飛が言ったが、子龍は少し笑っただけだった。関羽が一歩前に出た。

「学び、鍛えること。怠るでないぞ、子龍」

 口を引き締め礼をした。劉備は手を握って言った。

「体に気をつけよ。命あれば、また会うことも叶おう」

「はい」

 多く言葉を発すれば、また泣いてしまう気がした。二年間共に闘ってきた同志達である。子龍が白竜に跨ると、後の騎兵も一斉に倣った。

「では、おいとま致します」

 さっと肩掛をひるがえし、白竜を進め隊の先頭に出ると、片手を挙げ一気に駆けだした。後を百騎が地を鳴らし続く。見る間に北方の丘陵に馬群は見え隠れしながら遠ざかって行った。

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