第16話 残骸ー9

 そう言うと少女はおもむろに緋水の目の前へと身を躍らせる。


「!?」


 いつの間に握っていたのだろうか、その手には光を反射するかのように輝く、銀のナイフが握られていた。


「でも、その前にー……」


 突きつけられたナイフは緋水の横を通り過ぎ、その背面へと己の身をめり込ませる。


「邪魔なワタシにはここでご退場願おうかなー?」


 歪に嗤う少女が捉えたのは、それまた歪に歪みきった虚数の存在であり、


『成程、ソウ来ルカ』


 そこには、もう幾度目の邂逅となる影のような存在が浮かび上がっていた。


「あははっ、ワタシがお兄さんの傍にいるのは知ってたしねー」

『然ラバ、コレモ当然ノ所業ト言ッテノケルカ』

「当然だよー。だって、私は私だけでお兄さんと遊びたいんだからー」

『シカシ、ヨモヤ魔物如キガ自我ヲ持ツトハ、コレニハ我モ驚イタワ』

「分かたれたワタシが、そのまま私にとり憑いただけだよー。こっちとしてもいい迷惑なんだからー」


 少女と影は二人だけで何やら意味深な会話を繰り広げている。

 当然、傍で見ている緋水には、自分の周りで何が起きているのかさえ理解が出来ない。


 ――でも、これは好機だ。いまなら……


「駄目だよー、お兄さん」


 倒れ伏した鈴の下へと駆け寄ろうとした緋水の体が、少女の放つ影の触手によって絡め取られる。


「まだお話の最中……ううん、始まってもいないんだからー」

「くっ……」


 この窮地において、もはや逃げ出すという選択肢は残されていない。

 そう考えた緋水は、再び力ある言葉を練り上げようと自分の中へと神経を集中させていく。


==Le garcon etait en amour avec le peintre〈その少年は名も知れぬ絵描きに恋をした〉


「あはっ、物分りの悪いお兄さんは大好きだよー」


 緋水から放たれた力は、一直線に少女へと解放されていく。

だが、触れるものを全て消失さえ、破壊すらも生温く感じるほどの力を前に、少女は不意に、ニヤリと唇の端を歪めた。


「――でも、それじゃあ全然足りないなー」


 その狂気に満ちた口調とは裏腹に、緋水の力は少女の左手半身を完膚無きまでに滅ぼした。

 しかしそれでも、少女の顔から不敵な笑みが消える事はない。

 少女は半身を失いながらも、その場で微動だにせず、佇んだままでいた。


「……君は……不死身なのか?」


 破壊された部位からは、霧のように黒い靄が溢れ続けている。

 緋水には、それが少女……いや魔物にとって血なのかどうかすら判断がつかなかった。


『我ガ伴侶ヨ、ソモソモ其レハ生キ物デハナイ』

「うふっ、記憶をぜーんぶ失くしちゃったお兄さんにそんな事言っても分かんないよー」

『貴様ハ少シ黙ッテオレ。是レハ我ト伴侶ノ物語ジャ』

「何それー? 自分だけがワタシの気分を味わうの? そんなの許せるわけないじゃーん。だってー、お兄さんを愛するのも、お兄さんに殺めてもらうのも、もう全部がぜーんぶ、私にとっても悲願となりえてるんだからー」


 少女はニヤリニヤリと不気味に嗤うと、今度こそ緋水に方へと体を向ける。


「ねえ、お兄さん。私は魔物だけど魔物でもない影なんだー。だから、今度会う時までには、きっちりとその力を使いこなせる様になっておいてねー? ――じゃないと私、何時まで経っても、そこにいるお母さんみたいな人に寄生し続けるからー」

「なに!?」


 少女はそこまでを口にすると、壊れた半身から徐々にその身を風化させていく。

 

「じゃあねー、お兄さん」


 そして、そのような場にそぐわぬ軽い挨拶を最後に、少女はその場から姿を消してしまった。  

 後に残された緋水は呆然としたまま、その場に立ち尽くしている。


 ――何だ、何なんだこれは……! 

 

 酷い頭痛に襲われながらも、緋水はもう一つの存在へと怒りの矛先を向けなおす。


「お前もやっぱり同類か……」


 緋水はまたしても右の手を水平に伸ばし、力ある言葉を紡ぎだそうと集中し始めた。


『其レニ関シテハ謝ル他ナイ。我トテ、アノ存在ノ事ハ知ラナンダ』

「ふざけるなよ。お前等の目的は僕なんだろ? これ以上、他の誰かに手を出すような真似は……」

『是非モナイ。我ニトッテ大切ナノハ、伴侶殿ダケダ』


 影からは悪びれた様子も、それを反省している様な素振りすらも伺えない。

 それはまるで、それ以外の何者にも興味がないかの様な無関心ぶりだった。


『伴侶殿ガ真実ヘト辿リ着クノハ、些カ早急過ギル。アノ者ニ、ドレダケノ悪意が潜ンデイルノカハ分カランガ、ソレモマタ運命』

「御託はウンザリだ。僕にはもう、お前達を許す手段が見当たらない」


 そうして緋水は力を解き放つ。

 だが、全てを破壊せざるを得ないはずの力は、その影に一片のダメージを与えることすら出来なかった。


『所詮、我ト伴侶ハ運命ノつがい。逃レラレヌ運命ト知レバ、其レモマタ雅ナ想イニ変ワロウテ』


 ともすれば愛の告白とも受け取れる言葉をその場に残し、影はその身を徐々に霧散させていく。


『忘レルデナイゾ。其方ハ全テヲ思イ出シ、全テニ懺悔スル必要ガアルノジャカラ』 


 そうして、影はその場から跡形もなく消え去った。

 長い朝が終わる。

 緋水は脱力感と途方もない無力感を抱え、その場で膝をつく事しか出来なかった。

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