第15話 残骸ー8

「逃げてっ、鈴!」


 直感的に緋水は鈴を背に庇うと、目の前の少女へと右手を突き出す。


「ふふっ、遅いよー。お兄さん」


 しかし、その動きはもう一人の闖入者によって遮られる。

 緋水の体は盲目の女性によって押え付けられ、そのままに地面に叩きつけれてしまったのだ。


「…………」


 女性の顔には何の感情も浮かんではいない。いや、それはむしろこの状況を鑑みれば、操られていると言った方が適切だろう。


 ――浅はかだった!


 魔物という存在には細心の注意を払っていたつもりでいた。道中でも気を張り続け、この宿に泊まってもそれを怠ったつもりはない。

 魔物が影であり、あの存在と同類のものだと考える事が出来たなら、自ずとその答えに辿り着いてもおかしくはなかった。  

 

 ――こいつ等は人間に擬態する事が出来る!


 歯噛みする緋水を尻目に、少女はゆっくりと緋水の前で腰を下ろした。


「うーん……。お兄さん、やっぱり全然覚えてないんだねー?」


 その顔には何かに失望したかの様な色が浮かんでいる。

 緋水の事を見つめるその視線は、酷く悲しいものだった。


「くっ、君は……」

「緋水っ……!」


 状況は予断を許さない。

 緋水と少女がそんなやり取りをしている間に、鈴もじっとしてはいなかった。

 手近にあった椅子を持ち上げ、緋水に跨がる女性へと振り下ろす。


「緋水から離れなさいっ!」 

 

 しかし鈴は知らない。

 その女性は盲目でありながらも、過去に凄惨な修羅場をくぐり抜けた一流の戦士であることを。 

女性はあろうことか、自身に放たれた椅子に肘打ちを打ち込み、その攻撃をバラバラの木片へと変えてしまう。


「……え!?」


 唖然とする鈴に追い打ちがかかる。

 女性は緋水の拘束を解くと、その細首へと手刀を繰り出した。


「止めろっ!」


 緋水は身を起こすように女性の蛮行を喰い止め、二人から距離を離そうと飛び退る。  

 もちろん、鈴を背に庇うことは忘れない。

  

「……ふうーん。思ったよりも動けるんだー?」


 少女は訝しげに首を捻っているが、それには緋水自身も驚いていた。 

 自身に奇妙な力が宿っている事は知っている。だが、白兵戦に関しての知識はなかったはずだ。咄嗟の事とはいえ、よくもまあ、あそまで機敏に動けたものだ。

 

 ――それとも、これも忘れてただけなのか……?


 しかし、そんな事は今はどうでもいい。

 目の前の脅威を何とかしない限り、緋水はおろか、鈴の未来まで閉ざされてしまうのだ。

 

「……鈴、いますぐここから出るんだ。ここは僕が……」

「ふざけないでよ、私は緋水を見捨てない」

「そんな事言ってる場合じゃ……」

「嫌だよ! 絶対に私は離れない! だって、緋水は……」


「いい加減にしなよー。おまえ、何様のつもりなのー?」

 

 問答を繰り返す二人に、魔物である少女が釘を刺す。

 その顔は歪みきっており、怒りを覚えている事は間違いなかった。


「おまえさあ、私とお兄さんの遊びを邪魔するつもりー? 傍観者は傍観者らしく大人しく端で見てなよー? それがおまえの為何だからさあー?」 


 粘りを持つ視線は鈴の体を絡め取る。

 さしずめ、その姿は蜘蛛の巣にかかった蝶の様だ。  


「……ごめんね、子供の言う事はなるべく聞いてあげたいんだけど、君のそのお願いは聞けない。私は緋水の事を守ると決めたの。だから、私は君の邪魔をする」


 それでも鈴は虚勢を張り続ける。

 足は震え、歯はガタガタと音を鳴らしているのに、その目はしっかりと少女の事を見据えていた。


「そう、それじゃあ、お兄さんも報われないねー。――死ねよ、おまえ」


 少女の合図とともに、控えていた女性が鈴へと飛びかかる。

 当然、緋水はそれを拒もうと拳を構えたのだが……


「お兄さんの相手は私だよー?」


 少女から伸ばされた影の触手が緋水の腕に絡みつく。


「……っ!?」

「吹き飛んじゃえー」


 影はその外見に見合わず、凄まじい力で緋水の体を引きずり回す。

 元々残骸だらけの一階は、緋水の体で瞬く間に蹂躙されていった。

 

「うああぁああ……!!!」

「きゃははははははっ……! 楽しい? ねえ、楽しい?」


 一方、鈴は鈴で危機を迎えていた。

 盲目でありながらも卓越した運動能力を持つ女性は、鈴の目の前まで駆けてくると、そのまま鈴の首を両手で握り締めていた。


「うぐっ、くがっ……」

「…………」


 視界が虚ろになり、鈴の意識は徐々に摩耗していく。 

 

 ――苦しいっ……! こんなとこで死ねないのに! 緋水、緋水、緋水っ!


 鈴はうわ言の様に、頭の中でくり返しその名前を呼んでいた。

 それは助けを呼ぶ声ではなかった。

 鈴はただ、この状況が緋水にとってあまりにも好ましくないと感じていたのだ。 

 そしてそれを裏付けるように、凛とした声がその場に響きわたる。



 ==Le nom de la femme n'a pas été〈その女には名前が無かった〉



 力ある言葉はそれだけで、緋水にまとわりついていた影を霧散させていく。



 ==Pour vivre, elle avait une arme〈故に、生きるためには武器を持つしかなかった〉



 不可視の力は盲目の女性を貫き、その体を侵食していた影すらも消失させる。

 ようやく息が出来るようになった鈴は、その場に崩れ落ちていく。


 ――――駄目だよ、それ以上その力を使っちゃ……


「緋水っ、もう止め……」

「鈴、そこで大人しくしてて。すぐに終わらせるから……」


 緋水は傷だらけになりながらも、ゆっくりと少女の前まで歩み寄っていく。

 優しげな口調とは裏腹に、その顔は憤怒に歪みきっていた。


「あははっ、お兄さん、やっぱり……」

「もう黙れよ、君」


 緋水は右手を伸ばし、少女の前で手を開く。


「真相も真実もどうでもいい。君にはもう、生きている価値がない」


 ==Le passé〈それは癒えない過去の……〉


 力の使い方を悟った緋水は、さらに力を開放しようと祝詞を解く。

 しかし、それはあまりにも浅はかな行動だった。力の使い方は理解出来ようと、その代償までは理解出来ていなかったのだから……


「えっ……!?」


 緋水の視界から色が褪せていく。

 元より白黒でしか構成されていなかった世界が、徐々にひび割れて崩れ落ちていくのだ。

 それは薄皮を一枚一枚剥がすかのように、緋水の世界を剥がし落としていく。


「……がっかりー。お兄さん、やっぱり何にも覚えてないんだー?」


 少女は動揺する緋水の懐まで潜り込むと、意味深に囁いた。


「それじゃあ、私が教えてあげるよー。お兄さんと私達の関係、それに、その力の在り方をねー」

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