Ⅲ 羽化
Ⅲ-1
意外な客に真由美はびっくりした。
佳代である。
真由美の記憶にある限りでは、佳代がこの家を訪ねてきたのは、幸也から逃げてきたあの日以来一度だけ。弥生のお葬式の時だけだ。
訝りながらも佳代を居間へ通してお茶を出すと、間もなく八重子も帰ってきた。
「あら、珍しいお客様ね」
「ご無沙汰しております。遅い時間に突然すみません。あの……ご相談したいことがあって……こんなときばかり申し訳ないのですけど」
八重子のちょっと驚いた様子を見て、佳代は本当に申し訳なさそうに小さくなって言った。
「遠慮なんてしなくていいのよ。頼られるのって大好きなんだから。血、かしらね」
片手をぷらぷらさせて微笑みながらいうと、八重子は佳代と
「私にもお茶を淹れてくれる?」
八重子の言葉に真由美はほっとして台所へ引っこんだ。
真由美は佳代が苦手だった。病人のように白い肌と暗い深淵な闇を覗きこんでいるようなどこか虚ろな瞳は、不気味にすら思えた。
できれば顔をあわせていたくはない。幸也を訪ねて行くときも、いつも台所にいるだろう佳代に声だけで挨拶し、そのまま二階の幸也の部屋に入っていた。無作法だとは思うが、佳代の方も出てこようとはしなかったのであまり気に留めてはいなかった。
そういえば。
まだおばあちゃんのいた頃、幸也が二、三か月に一度家に帰るときにはいつも幸也にくっついていっては一緒に食事をしていた。あのときは三人で食卓を囲んでいた。会話は──ほとんどなかったけれど。
時折真由美が幸也に話しかけ、それに幸也が相槌を打つだけ。静かな、とても静かな食卓。何かの拍子に幸也がひょいと顔をあげたり身じろぎしたりすると、佳代の身体にさっと緊張が走るのがわかる。真由美はそんな食事の時間が大嫌いだった。
「おばさん、やめてよ! また幸也が泣いちゃうじゃない!」
そう真由美は言いたかった。何度も何度もそんなことがあった。でも、それは結局口に出されることはなかった。
そうして、真由美の家に戻ってきた幸也は弥生の顔をみて泣き出すのだ。あの家では決して流さない涙。抑え込まれた幸也の気持ち。一緒についていってあげていてもなんにもできない自分。切ない思いを抱えて眠りにつく夜。
だけどそんな夜は必ず夜明け前になると、真由美のベッドに幸也は潜りこんできた。自分の部屋で寝つけずに弥生と寝るのに。幸也が何を思ってやってくるのかはわからなかったが、守ってあげられなかった幸也が自分に甘えてきてくれることが嬉しくて、幸也を抱きしめてもう一度眠りについた。
お茶を持ってリビングのドアを開けると、俯いていた佳代が顔をあげ弱々しい瞳で真由美を見た。視線に気づかないふりをしてお茶を出すと、真由美はさっさと退散した。
けれど、どうしても気になって、本当はダメだと思いながら、ドアの外で立ち聞きすることにした。少しだけ隙間を開けて、様子を伺う。
しばらく沈黙が続いたあと、佳代の声が小さく聞こえた。
「実は……子供ができたみたいなんです」
ええ!?
思わず声をあげそうになって自分の口を押さえた。八重子も驚いた声をあげたから、多分気づかれなかっただろう。
「それはおめでとう!!」
「おめでた……いんでしょうか」
八重子の弾んだ声と対照的に、佳代の声はまるで死刑宣告を言い渡されたかのように暗く沈んでいる。
佳代は喜んでいいのかどうか迷っているんだろうか。その憂いを吹き飛ばすように八重子は豪語した。
「おめでたいに決まってるじゃないの! もっと喜ばなくちゃ、生まれてくる子がかわいそうよ。ご主人にはもう伝えたの?」
「病院にはまだ行っていないので。はっきりしてからと思って。……たぶん間違いないと思うんですけど。……でも……私、怖いんです」
佳代はテーブルのティーカップからたちのぼる湯気に目を注いだまま、ぽそりと言った。
「怖い?」
「もし、生まれた子がまた幸也のような能力を持っていたら……」
「佳代さん!!」
八重子の声に、佳代はすまなさそうに目を伏せた。
「もう一つ心配なのは、幸也がその子のことをどう思うかなんです。赤ん坊には手がかかります。それを見て、幸也がどう思うか……」
佳代は続けて言った。
「あの子を愛してないわけじゃないんです。愛しく思う気持ちはあるんです」
真由美は意外な言葉に驚いた。
「ただ、どう接していいのかわからなくて──表情のないあの子の顔を見ていたら、いつかまたあの時のような恐ろしい目に遭うんじゃないかと」
そんなことしないよ! と飛び出して言いたい衝動をなんとかこらえる。
「……理屈ではわかっているんです。あの子ももう三才の子供じゃないし、そんなことをしないだけの分別はあるんだって。あの子から表情を取り上げてしまったのは私なんだって。わかっているつもりなんですけど、ふと何がというわけでもなく恐怖が込みあげてきてしまうんです」
佳代はどうしようもないというように首を振った。
「あの子を不憫に思ってます。これ以上あの子を苦しめるようなことはしたくないんです。赤ん坊が生まれて私がその子にかかりっきりになってしまったら、あの子は今よりもっと……」
寂しくなると言いたかったのか、孤独になると言いたかったのか、佳代はそのまま口を閉ざして項垂れた。
「佳代さん。今話したようなことを、ぎこちなくてもいいから幸ちゃん本人に言ってごらんなさい」
八重子は幼い子供を諭すような調子で話しかけた。
「怖いと思ってしまうことも事実だけれど、幸ちゃんに触れたい愛したいと思っていることも本心だと、思うままに素直に言ってあげてごらんなさい。分かり合えるはずよ。親子なんだから」
八重子の言葉に力を得て、佳代は顔をあげた。
「私……」
佳代は何度も言いかけてはやめ、目を伏せた。やがて意を決したように顔をあげた佳代が、一息に話すのを八重子は黙って聞いていた。
「私、本当は後悔していたんです。あの時、幸也を手放してしまったことを。勿論これは今だから言えることですけど。あの時に私は自分からあの子を捨てたんです。自分だけが現実から逃げたんです。あの子だってあんな能力を持ちたいと望んで生まれてきたわけじゃないのに、あの子は自分の持つ能力から逃げることはできないのに、私は自分だけ……自分だけ、逃げたんです。そんなことに最近になってようやく気づいたんです」
途中から佳代の眼にうっすらと涙が滲んできていた。真由美は佳代の表情が少しずつ変わってきているのに気づいた。
「よかったわね」
八重子の慈愛に満ちた言葉は、真由美に生前の弥生を思い出させた。暖かい、心に沁みる言葉づかい。
それは佳代にも伝わったんだろうか。
「……これからでもやり直せるでしょうか。幸也は、一度手を放した母親を許してくれるでしょうか。あの子が私の手を求めているときに私は背をむけてしまっていたのに……」
「大丈夫よ。きっと、ね。ただ、今までのわだかまりがあまりにも大きいだけに、すぐにというわけにはいかないでしょうけどね」
佳代の瞳にだんだん光が宿ってくる。
「それは、覚悟しています。こんなに長い間私が逃げてばかりで、あの子を傷つけ続けていたんですから」
「赤ちゃんができたことも悪く考えるんじゃなく、幸ちゃんと一緒に愛していくべき者が生まれてくるんだと考えればいいでしょう? 赤ちゃんとあなたと一対一になるのではなく、幸ちゃんと二人で生まれてくる子を愛してあげたらいいのよ」
佳代はこの言葉に少し安心したようにうっすらと笑った。
真由美はこの笑顔を見て、今までの暗く冷たい人だという見方を改めた。
本当はとても純粋な人なのかもしれない。ただ、少し脆くて壊れやすすぎただけで。
「幸せなりと名付けたあの子が、これから少しでも、今までの分も幸せになれるように努力します」
「笑顔を見せてあげるところからはじめなさいな。笑顔ってね、すごく力があるものなのよ。ほら、笑ってみて」
少しぎこちない笑みを浮かべる佳代を見てると、なんだか悲しくなってくる。幸也だけが被害者だと思っていたけど、この人もかわいそうな人なんだ。ずっと笑いを忘れてたんだろうか。
何度かの八重子のダメ出しの後、なんとか笑顔と見れる表情を作った佳代は、確かにいつもの陰気さはなくなっていた。
「そんな風に微笑んで幸ちゃんに接してあげて」
「やってみます」
この笑顔を向けてもらったら、幸也もきっと喜ぶだろう。真由美は想像しただけで嬉しくなった。
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