Ⅲ-2
間の悪いことに。ちょうどそのとき、幸也はこの窓の外に立っていた。
思い切って真由美を訪ねた幸也は懐かしい玄関の前に立ったとき、なんともいえない思いを味わった。ふんわりと胸の奥があったかくなる。その気分に酔いしれていると、ふと家の中から聞こえてくる声の一つに気づいて、耳をそばだたせた。
幸也が今まで一度も聞いたことがないほど明るい声だが、間違いなく佳代の声だ。
好奇心に駆られてこっそりと窓に忍び寄り、中を覗いてみて幸也は愕然とした。
そこで笑っている女性は、幸也の知っている佳代とはまるで別人だったのだ。母といえば印象にあるのは、陰鬱な雰囲気と怯えた目だけだ。白い顔にはいつも血の気がなく、生気も乏しかった。
ところが今目の前に見えている母は、怯えた目をしているどころか、笑っている。幸也には見せたことのない笑顔で!
幸也は怒りとも哀しみともつかない寒々しい心持ちでその場を離れた。無意識に家とは反対の方向へ歩く。
お母さんは、やっぱり僕が嫌いなんだ。──そんなことはもうとうにわかっていたはずだ。今更何をショックを受けることがあるだろう?
だけど、実際には幸也にとってそれは大きな衝撃だった。
佳代の笑顔は、幸也の考慮の外にあったのだ。母に嫌われ疎まれていることはしっかり理解しているつもりだったけど、母は元からあまり笑わない人なのだと思うことで幸也は自分を保っていた。──その心の均衡は崩れ、幸也はかつて感じたことのない大きな空洞が胸の内にぽっかりとあいたような気持ちになった。
ふらふらと歩いているうちに、いつしか涙が幸也の白い頬を濡らしていた。
いらない子なら、僕なんか産まなければよかったのに。
止めどもなく涙は溢れ出た。もう何年も流したことのなかった涙は、今まで心の奥底に沈めていたいろんな感情をごった返しにして押し流した。
切なさが胸を突き上げてくる。
秋とはいえ、夕刻ともなればかなり冷え込んでくる。寒さがそのまま幸也の心の中までも染み入った。
辺りには人影もなく、幸也は白々とした街灯のか細い光の中へ入っては闇へ向かって自分自身の影を踏みながら進み、また淋しい灯りの下へと足を運んだ。堰を切ったように溢れ続ける涙を拭おうともせずに、影との追かけあいを一人黙々と続けているうちに、幸也は一体どちらが影なんだろうと思い始めた。
本当は、自分が影だと思っている足元の黒い奴の方が本物なのではないか? その証拠に、そいつはさっきから自由自在に伸び縮みしているではないか。濃くなったり薄くなったり、大きくなったり小さくなったり、変幻自在。自由だ。──それなら自分は一体何なのだろう。
僕の方が影なのか?
無意識のうちに動かしている手足をまるで遠いところから眺めているように感じながら、ただ動くだけなら機械だって同じだものな、と考えた。
やがて影は次第に大きく薄くなり、いつの間にか闇に溶け合っていて、ふと気がつくと街灯のない川べりに出ていた。夜に包まれた川面の暗い色に対岸の仄白い灯りがゆらゆらと揺らめいている。
薄暗闇の中で草々がさやさやと葉擦れの音をたてているのを聞きながら、幸也は当てもなく川沿いの土手の上を歩いた。足元も見ずにぼーっと歩いていたため、何かにつまづきつんのめって転んでしまったが、草は柔らかく少しも痛くない。
そのままごろんと仰向けになって空を見上げる。街灯りに明るんだ空には星はあまり見えない。しかし目に映る数少ない星の一粒一粒は、負けじと一生懸命に光輝を発している。その力強さと美しさに、転んだ拍子に引っこんでいた涙がまた零れ出て、目尻から耳の方へと伝わって落ちていった。
ミィ
そのとき幸也の足元の方で微かに鳴き声がした。幸也は起き上がってみて、自分のつまづいたものが捨て猫を入れた段ボール箱であったのを認めた。
覗き込むと箱の中には五匹の仔猫が重なり合うようにして眠っている。目を覚ました一匹が箱のへりに足をのせて、覗きこんでいる幸也の顔を見上げてまた鳴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます