Ⅲ-3
真由美は佳代の帰った後、昔のままにおいてある弥生の部屋に入った。よく彼女が座っていた大きなゆったりとしたロッキングチェアーに、膝を抱えあげて丸くなる。
弥生の死から三年もたっているのに、この部屋に入るといまだに彼女が生きているのではないかという気がしてしまう。この部屋には彼女の匂いが染みついている。
真由美は懐かしい弥生の匂いに包まれて、佳代の言葉を思い返した。
「真由美ちゃんのおかげなんです。こんな風に決心できたのは」
穏やかな微笑みを浮かべて真由美はそれが本当なら嬉しいと思った。
「ここのところ、ずっと考えていたんです。幸也のこと、生まれてくる赤ん坊のこと、夫のこと、自分のこれからのこと。でも、どうすればいいのかわからないままに日は過ぎてしまって……」
「妊娠したこと、そんなに前からわかってたの?」
「一カ月くらい前です。ほとんど周期が変わることがないので」
「一人でずいぶん悩んだのねぇ」
溜め息まじりに八重子が言った。
「……そんなとき真由美ちゃんがまた訪ねてきてくれるようになって、私は不思議に思ったんです。親の私でさえ気味が悪いのに、真由美ちゃんは怖くとも何ともないのかしらって」
問うように真由美の顔を見る。
「怖いなんて……思ったことないです」
真由美は正直に答えた。真由美にとって幸也はかわいい弟みたいな存在で、幸也が
「そうよね。あなたとやよいおばあちゃんはそうだった」
思い出すようにゆっくりと言う。
「だけど私は、ただただ畏怖の念であの子を見ていて、逃げることばかり考えていてそんな風に思ったことはなかったの」
「どうして怖くないのかって?」
「そう。近寄らなければね、遠くから見る分には可愛いいと思えたの。でもあの子が近寄ってくると、無意識に身体が震えてしまって。やよいおばあちゃんや真由美ちゃんが平気なことに疑問も感じなかった。……なんて酷い母親かしらね」
自嘲気味に嗤う佳代に優しく八重子が声をかける。
「そう思えるようになっただけでも、十分に成長したじゃないの」
「ええ、自分でもそう思います」
自信を持ってはっきり言い、真由美の顔を真っ直ぐに見る。
「でも、それもこれも本当に全部真由美ちゃんのおかげなの。ありがとう」
「え……? いえ」
真由美はいきなり話をふられて言葉に詰まる。その様子をみて柔らかく微笑み、真由美の眼を見て続けた。
「夕方、真由美ちゃんのお友達がきて真由美ちゃんが熱を出したって聞いてね、恥ずかしいなと思ったの。真由美ちゃんは幸也のためにこんなに一生懸命になってくれているのに、自分は一体どうなんだろうって。今まで幸也のことを思って真剣に悩んだことがあったかしらって」
それから視線をおろし下腹に手を添える。
「この子のことも、本当に産んでもいいんだろうかって。ここに来るまで、まだ迷ってたんです。……背中を押してもらいたかっただけかもしれませんが」
とても柔らかい優しい笑顔で自分のお腹を見つめ、それからもう一度真由美に視線をうつした。
「お友達にも言われたの。『もうそろそろ動きだしませんか』って」
「あかりが……」
「彼女が帰ってから、ゆっくり考えて……ここに来ることにしたの。そう、背中を押してもらうために」
帰り際に佳代は鞄の中から一冊の本を取り出した。
「幸也をこちらで預かっていただくようになってから間もなくして、うちに来られた時に『落ち着いたら、読んでみなさい』って置いていかれたの」
真由美に本を手渡す。
「あの頃はまだ他のことなんてまるで考えられなくて、そのまましまっておいたのを思い出して。今日初めて読んでみて、おばあちゃんがこれを読んでみるようにおっしゃったわけがわかった気がしました。長いことお借りしたままですみませんでした」
「お母さんも今頃安心して笑ってるわね」
「今日は本当にありがとうございました」
生まれ変わったような綺麗な笑顔を残して佳代は帰っていった。
ロッキングチェアーの上に丸くなって座っていた真由美は、きちんと座りなおして佳代の置いていった本を手にとった。
表紙のイラストは淡いパステルカラーで柔らかなタッチで描かれている。
「秋吉葵詩集『ポケットに夢と希望を詰め込んで』か」
ぱらぱらとページを繰ると栞の挟んであるところがあったので、真由美はそこを読んでみた。
扉をあけて
目前に立ちはだかる大きな壁を
見ずにすますのは
目を閉じて 気づかぬふりをすればよい
行く手を遮る高い壁に
背を向けるのは
膝を抱えて 丸くなって眠ればよい
目を塞ぎ 耳を塞いで───胎児のように
けれども人は 前へと進むもの
すべての困苦を乗り越えて
壁の高さに
耳を澄ませてごらん
ほら 誰かが壁を叩いてる
越えられないなら
扉の向こうでまっている
探してごらん 見えない扉を
あなたがその気になれば
きっとすぐに見つかるはず
だってほら
ようく耳をすませて聞いてみて
壁を叩く音は一つじゃない
扉はたくさんあるのだから
皆あなたを待っているよ
さあ 扉を開けて
勇気を出して一歩前へ歩いてごらん
ほら 世界が変わる
壁から逃げるのは 本当に
だけどあなたは逃げないで
行く先には大きな壁がたくさん待っているけれど
一つ一つクリアーしていこう
いつだって 一人じゃないから大丈夫
前へ前へと進んで行こう
たくさんの壁を通り抜けて
その度に世界が変わるよ
ほら 新しい世界が開けてる
さあ 扉を開けて
真由美はなんだか胸が暖かくなったように感じて、幸也にこそこれを読ませたいと思った。そうして幸也に知ってもらいたかった。たくさんの手が幸也に向かってさしのべられていることを。
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