Ⅲ-4

 ミィ ミィ


 小さなか細い声だ。しかし、その弱々しい鳴き声がこの猫にとって精一杯の生命の証しなのだ。そう思うとその声は力強くさえ思われた。

 幸也はその一匹をそっと抱き上げた。骨と皮しかないようながりがりに痩せた体。毛につやもない。だが、確かに生きている。肋骨がじかに手に触れるほど痩せてはいても、温かく幸也の手の中で何度も鳴き声をあげる。


「たくさん泣きなさい」


 幸也はふと、弥生の言葉を思い出した。弥生のことを思い出したのはこれがはじめてだった。弥生に関することはすべて、自己防衛のために記憶のひだに押し隠してしまっていたのだ。


「たくさん泣いて、いいの。心の中のものを全部流してしまったら、また笑って出発できるでしょう?」


 弥生にはたくさんのことを教わった。小さかった幸也には理解できたこともできなかったこともあったが、幸也はその言葉の通りをそのまま記憶していた。


「泣くことはね、生きるための力になるんだよ。自分で自分の内に溜まった哀しみを外へ追い出すんだからね。……泣いたら少しはすっきりしたでしょう?」


 幸也は自宅に食事に行ったり一泊してきたりすると、戻ってきて必ずやよいの膝でわんわん泣いた。その度にやよいは幸也を抱きしめ、頭を優しく撫ぜながら言ってくれたのだ。


 幸也が泣かなくなったのは、弥生が死んでしまってからのことだ。

 幸也は弥生のお葬式のとき、泣かなかった。──正確にいうと、泣けなかったのだ。

 幸也をいつも抱きしめてくれていた弥生はいなくなり、八重子も忙しく立ち働いている。幸也が自分をさらけ出すことのできるもう一人──真由美は、弥生のそばで泣きじゃくっていて幸也のことを失念していた。

 幸也は佳代の隣に座って、ただ流れてゆくときを眺めることしかできなかった。


「幸ちゃんはもっと笑わなくちゃダメね」


 幸也は、自分があのお葬式の日以来一度も心から笑ったことがなかったことを思った。


「嫌なときははっきり嫌と言うのよ」

「怒りたいときにはちゃんと怒らないとダメ」

「自分が正しいと思っているのなら引いたらダメ」


 自分の意見をはっきり言ったことなどなかったことを思った。怒ったことも、自分の意思を貫いたこともなかったことを思った。


「どんなときでも、自分から逃げたら負けだよ」


 幸也は、自分が弥生の死の悲しみを忘れるために彼女を思い出さないようにしていたことは、同時にこれらの言葉から逃げることだったことに思い至った。


 幸也の腕の中でミィミィ鳴く声に刺激されてか、順々に他の仔猫たちも目を覚まして同じように鳴きはじめた。幸也は抱きかかえていた一匹を箱の中に戻すと箱ごと抱えあげて家へ向けて歩き始めた。


 さっき明るく笑っている顔を見てしまっただけに、またあの怯えた瞳をする佳代を見るのは辛かったが、一生懸命に声を張り上げて空腹を訴える仔猫たちに何か食べさせてやりたかったので、幸也は夜道を急いだ。


 しかし、幸也は灯りのついた家の前に立ったとき、どうしても中へ入れず箱を抱えたままその場に立ちつくしてしまった。

 人通りの少ない道に打ち捨てられていた仔猫達は、幸也と同じ身の上に思われた。


 帰るべき場所がない……。

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