Ⅶ-5

 夕方にずいぶん長く寝てしまったからか、幸也は夜中にもう一度が覚めてしまった。懐かしい暖かい夢の余韻にしばし浸る。


 眼を開けてみると月明かりがカーテンの隙間から差し込んで、部屋の中は仄かに明るい。


 幸也は真由美が目を覚まさぬよう気遣いながら、そっと真由美の腕から抜け出した。そこはとても暖かく居心地がいいが、同時に少し息苦しくもあった。


 最初に抱きすくめられたとき、幸也の頬に真由美の胸があたり、息が止まりそうだった。胸だけではなく全体に柔らかくなった真由美の身体に、なんだかわからないけどどぎまぎして、頭の中が真っ白になってしまった。


 真由美はあの頃の真由美とは違う? 一緒に転がったり、抱き合って眠ったりしていた頃は、こんなじゃなかった。───真由美は大人になろうとしている。いつまでもあの頃のままじゃいられない。


 少しずつ、何かが変わっていく。そんな時の流れの中で、真由美は確実に成長していっている。


 僕は? 僕は──変わっていない。変わろうとしなかったから。扉という扉を全て閉めきって、誰にも逢わないようにしていたから。


 『傷つくことを恐れていたら、なんにもできないよ』と真由美が前に言っていたけれど、その通り、僕は傷つくのが怖かった。人を頼り、心を預けてしまってから、放り出されるのはもう嫌だと思ったから、誰にも近づかないようにしていたのに。それがそのまんま、自分の成長を止めてしまうことにつながっていたんだ。


 ふと気がつくと、幸也の耳元にとくんとくんと真由美の心臓の音が聞こえてきている。


 ──なんだろう。とても懐かしい感じ。


 幸也は目を閉じてその音に耳を澄ました。

 うとうとしかけた頃、真由美が何か話し始めた。夢うつつの中で幸也はそれを子守唄のように聴きながら眠りについた。眠りに落ちる瞬間、幸也の脳裏にふっと”お母さんってこんな感じなのかな?”という思いが浮かんだ。



 目を覚まして真由美の腕を抜け出した幸也は、真由美の寝顔を真上から見下ろした。よく眠っている。カーテンの隙間から洩れた月の明かりが、その枕もとのシーツに濃淡の模様を描いている。


 幸也はその光に魅かれて真由美のそばを離れて窓際へにじり寄った。カーテンを開こうとしてふと手を止め、差し込んだ月明かりで真由美が目を覚ましてしまわないように、もう少し足元の方へ移動した。

 足元側からそろそろとカーテンをひくと、さっと月明かりが差し込んできて、部屋の内は一気に明るくなる。幸也は中空に浮かぶ月を見上げた。


 満月。


 辺り一面をこうこうと照らす蒼い光。


 こうして月光だけによって照らされた世界を見ると、満月の放つ光というのはかなり明るいことがわかる。庭の木立や屋根の下、塀の裏側などにくっきりと影ができている。


 月明かりでこんなにもはっきりと影ができることに幸也はびっくりした。今まで月を見上げたことはあったけど、月明かりに照らされた景色を見るのは初めてだった。庭の小石の一つ一つ、木立の葉の一枚一枚までが見えるほどに明るいなんて、思いもしなかったのだ。


 幸也は眠っている真由美に視線を投げかけた。

 太陽のような真由美。自ら光輝く存在。暖かくって、誰もが恩恵を被っていて、みんなその存在を意識している。周囲を明るく照らし出す。


 それに比べて幸也は、自分を月みたいだとずっと思っていた。自らの力で光輝を発することをしない。暖かさもなく、誰かに何かを与えるわけでもない。辺りを照らすほどの光もない。


 そう思っていたのに。


 その月にも、影を作るだけの、物が見分けられるほどに照らすだけの力がある! 周囲に明かりが多いときにはわからないけど、他の明かりが何もなければ、こんなにもはっきりとわかる。


 幸也だって、ちゃんと輝いているのだ。放つ光は弱々しくっても。ちゃんと、光ってる!


 嬉しくなった幸也は、窓枠に肘をついて両掌で包むようにして顔をのせ、明るく輝く月を眺めた。


 しばらく眺めて。


 ずっと同じ格好をし続けていたために身体が痛くなったので、姿勢を変えようと少し動いたときに、コツンと何か小さな音がした。なんの音だろうと手で探ってみると、パジャマのポケットに入った懐中時計が壁にあたった音だった。

 取り出して、月光に透かしてみる。ふちが銀色に輝いてとても綺麗だ。

 ゆっくりとそれを耳元にもってくる。


 チックタック チックタック


 止まることなく動き続けるその音は、どこか真由美の心臓の音と似ている。幸也は耳にそれを押し当てたまま、長い間月を見上げていた。

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