Ⅶ-6
幸也が目を覚ましてから半時ほどたった頃、真由美もふと目を覚ます。夢まだ覚めやらぬといった状態で、すぐには幸也が腕の中にいないことに気がつかない。
大きく息を吸い込んで、布団の匂いから”ああ、おばあちゃんの部屋でねているんだな”と思い出す。同時に幸也がいないことに気づき、身を起こそうとして顔を動かすと、すぐに足元に座って窓の外を見ているのが目に入った。
月光を浴びてただでさえ白い肌がさらに蒼白く、透けてしまいそうに見える。
しんとした音のない世界。まるでそこだけが別の空間であるみたいに蒼い世界。一枚の切り取られた絵。時間が、止まってしまったみたいだ。
月を見上げる横顔がとても綺麗で、綺麗すぎて声がかけられない。
幸也は今、何を考えているんだろう。
まるで月からのお迎えを待つかぐや姫。今にも消えてしまいそうだ。
目覚めたままの姿勢で幸也を見つめていた真由美は、ふと不安になって起きなおり、きゅっと幸也の腕を掴んだ。
真由美は寝ているものと思って月を眺めていた幸也は、ぎょっとして目を見開いた。
「驚かせてごめん。掴まえてないと幸也が今にも消えてしまいそうに見えたから。……なんて変かな」
照れたように装っておどけてみせたが、真由美には本当に幸也が消えていなくなってしまいそうに見えたのだ。
「夢を見たんだ。懐かしい夢」
唐突に幸也が話し始める。
「どんな?」
「真由美やおばあちゃんが絵本を読んでくれてる夢。それから、僕が読んだ話を真由美にしてる夢」
そう言ってまた窓外の月を見上げる。
「また、聞かせてくれる? 今までにたくさん読んだ本の話」
横顔に話しかける。幸也は月を見上げたまま黙っている。
真由美はそっと幸也の隣に移動し、同じように月を見上げた。静かに時は流れて。
長い沈黙の後、幸也はゆっくり頷いた。真由美はそれを目の端でとえ、幸也に顔を向けた。
「昨日は、いろいろあったね」
「……うん」
「これからは、どんどん変わっていくよ。一つの歯車が回れば、他の歯車も回り始めるんだからね」
真由美は手を伸ばし、幸也の手の中の懐中時計の表面の模様をを指先でなぞる。たくさんの歯車が、この中で回っている。
幸也は老人に見せてもらった時計の中の歯車を思い起こした。
「みんなが動き始めたね。太一にあのおじいちゃん。あかりに、利美ちゃん。──それから、幸也のお母さん」
お母さんという言葉が真由美の口から出た瞬間、幸也の肩がぴくんと動いた。
「みんなが幸也に向かって動き始めたよ。もうそろそろ、幸也も動き始めないとね」
「違うよ」
ぽつりと呟いた幸也を、真由美はきょとんとして見た。
「お母さんは、僕に近づこうとなんて、しないよ」
その意味を、噛みしめるようなゆっくりとした言い方は、まるで自分自身に言い聞かせているように聞こえる。
「幸也のお母さんは、幸也に許してもらおうと思ってるよ?」
「そんなことないよ! だって僕は、僕はあんなお母さんを見たことがないもの! 僕には一度だって……」
一瞬声を荒げ、言ううちに尻すぼみになっていく。握りしめた拳に目を落とし、泣きそうな顔でそれを見つめる幸也の様子に狼狽して、問いかける。
「あんなお母さんって?」
拳から目をあげ、真っ直ぐに真由美の瞳を見返す。その瞳には哀しい翳が映っている。
「僕、見たんだ! 昨日、真由美の家のリビングでお母さんが楽しそうに笑ってたのを。僕には、一度もあんな笑顔を見せてくれたことないのに!」
悲痛な声で一息に言ってしまった幸也の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出た。昨日、門の前に立ちつくしていたときと同じ涙だ。
あの時、家を前にして入ろうとしなかった幸也。あれは、仔猫のせいなんかじゃなく……。
「ごめん。気づかなくって、ごめん」
あの涙の意味を悟った真由美は、喉の奥から絞り出すようにして声をだす。あの時、すぐにわかってあげられなかった自分が情けない。真由美も涙がこみあげてきて、嗚咽をあげそうになるのを無理に押さえつけるため、すぐには声が出ない。
幸也をぎゅっと抱きしめ、その背中をさすりながら真由美も涙を流す。ゆっくりと何度も背中をさすって、耳元に言葉を落とす。
「すぐに気づいてあげられなくって、ごめん。ごめんね。淋しかったでしょう?」
それから、おもむろに幸也の両肩に手をかけて身体を引き離し、片方の手でまだ俯いて泣いている幸也の頬を包み込んだ。
「幸也。顔をあげて話を聞いて。本当のことを教えてあげる」
幸也は涙でぐしゃぐしゃになった顔を真由美に向けた。
その顔を、窓から入ってきた月光が照らしている。
真由美は、佳代がやってきたときの様子を、始めから順を追って説明していった。
「あの日、幸也のお母さんがうちへきたのはね……」
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