Ⅱ-6

 ふっと目を覚ました真由美は、何か妙な夢を見ていたような気がして思い出そうとしたが、頭が朦朧としていてつい今しがたまで見ていたはずの夢の印象は、形を結ぶかと思えば曖昧な影となって消えてしまった。

 体が熱くだるい上に喉がからからに渇いているので、思い出すことを諦めて起き上がろうとした。しかし熱をもった身体は重く、思うように動かない。腕にも力が入らず、身体はまるでベッドに吸いつけられているかのようだ。重力が強まったかと思えるくらいに重い身体をなんとか起こすと、全身の関節がぎしぎしと軋む。立ち上がると逆に急に身体が軽くなったように感じ、ふわふわと宙に浮いているような奇妙な感覚にとらわれる。そのくせ気を張っていないと膝の力はすぐにかくんと抜けてしまいそうなのだ。


 真由美はカーデガンを羽織るとふらつきつつ階下のキッチンまで辿りついた。

 小さな頃からほとんど熱を出したことなんてなかった。久しぶりに熱を出して”こんな感覚は忘れていたなぁ”と思った。幼稚園の時以来だろうか。おばあちゃんが看病してくれたのを思い出す。


 コップ一杯の水で喉を潤すと椅子に腰を下ろした。一つ一つの動作にまで溜め息が漏れてしまうほどだるい身体は、いったん腰を落ち着けてしまうと今度はまるで根を張ったかのようで立ち上がるのも面倒臭くなってしまった。仕方がないのでしばらく休んでいこうとテーブルに肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せて視線を遊ばせていると、ふと時計が目についた。


 もう三時をまわっている。部活が始まっている時間だ。みんなは今頃はもう着替えてランニングをしているだろうか。

 幸也の所へは今日は行けないかなぁ。つい昨日、時間をつくって行くって言ったばかりなのに。今日行かなかったら幸也はどう思うかなぁ。でも、風邪をうつしに行くわけにもいかないし……。まだなんかだるいし。


 時計を眺めたままつらつらと考える。


 七時頃になってもこの調子だったら電話しようか。それにしてもこの私が風邪をひくなんて、思ってもみなかったなぁ。幸也だって信じられないんじゃないかな。


 ぽかぽかと暖かい小春の陽射しにうつらうつらしはじめ、眺めていた時計がだんだん形をとどめなくなり……。


 電話の音でふっと目を覚ます。いつの間に眠ってしまったのやら……また夢を見ていた。目覚めたときの感覚が同じで、さっきと全く同じ夢を見ていたような気がする。でも、今度ははっきり覚えている。とても綺麗な夢だ。色鮮やかで心があったかくなる夢。


 電話は朱里からだった。


「うん、大丈夫。今下に降りてきてたの。テーブルでうつらうつらしてて、おもしろい夢見ちゃった」


 今でも情景をはっきり覚えている。


「へえ、どんな夢?」


 朱里がくいついてきた。この頃夢占いに凝っているのだ。言うことはシビアで現実的な割に、星占いとか血液型占いとか乙女チックなものが好きなのだ。せっかくだから占ってもらおうと、最初からゆっくりと話した。


「うん、あのね。あたしの前に大きな川が流れてたのよ。水はかなり冷たくて流れは速くって。でもなんでだかあたしは向こう岸に行きたくて、ざぶざぶ入っていくんだけどすぐに背がとどかなくなっちゃってね、仕方がないから泳ぐの。向こう岸までずいぶん距離があるんだけどね」

「それ、現実にはやらないでね。溺れるよ」


 苦笑しながら朱里が茶々を入れる。


「しないよ。着衣水泳の体験、この夏やったじゃない」


 笑いながら返し、


「まあ、夢だし。で、流されないように頑張って泳いでると、あともう少しってところで急に雨が降りだして、水嵩がどんどん増してきて……もう必死。なんとか泳ぎきったらいつの間にか雨は止んでてね、立ち上がって空を見上げると雲がどんどん流れていって、晴れ渡った青空に大きな虹が架かるの」

「いい夢じゃない。綺麗だし。虹ってことは色もあったんでしょ?」

「うん、綺麗だった。でもまだ続きがあってね、天使が出てきて一緒に虹を渡るの。虹の向こうに着くとおばあちゃんがいてにっこり笑ってくれて、私が飛び込んでいくと抱きしめてくれたの。そのとき、おばあちゃんの肩にとまってた真っ白な鳩が飛び立って、振り仰ぐと真っ青な空に鳩の群れが舞い飛んでたの。白と青のコントラストがすごく綺麗だった」


 目を閉じるとまだありありと瞼の内に夢の残像が浮かぶ。


「その夢、大吉だよ。ちょっと待っててね」


 何やらごそごそする物音。


「夢解釈してあげる。えーっと」


 本のページを繰っているようだ。


「大きな川、だよね。悩み事や心配ごとが流れるってさ。吉凶どちらも……って流れて困るようなお祝い事とかないよね。それから、川を泳いで渡るのは……困難を乗り越えていく活力を持っているしるしだって。自力で泳ぐってのがあんたらしいよね」


 くすくすという笑い声。


「まあ、夢って言っちゃえばそれまでだけどさ。あたしなら、船に乗るとか橋を渡るとかするかも」

「えー、だってそんなのなかったもん」


 さらに笑う。


「わかってるよ、夢なんだから。それから、雨だっけ? 雨は……なんかいろんな解釈があるなぁ。あ、でも急に降ってきたって?にわか雨ってことだよね。なら、吉だ。思いがけない嬉しいことが待ってる」


 なんだかいい解釈になるように朱里がもっていっているような気もするけど、もしそうだとしても彼女のそんな気持ちが嬉しい。


「虹は、と。幸運。虹を渡るのは願い事がかなう。それから天使は、ん~マミ自身が天使のようでありたいって願望かな。純粋や慈悲深い心を持ちたいという願いだって。最後に白い鳩だっけ? 白い鳩は当然平和の象徴シンボルだけど、夢では友人や協力者など周りにいる人が誠実なことを示してるから、周りを頼りなさいだって。つまりあたしをもっと頼れってことね」


 にやりと笑っている朱里の表情が目に浮かぶようだ。


「ま、総合的にみてすごくいい夢じゃない?」

「あははは、ほんとにすごいね。ただ単に綺麗な夢だと思ってたけど、そんなにいい夢なんだ。なんか嬉しくなってきちゃった」


 本当に心が軽くなった気分の真由美に、少しトーンを落として。


「おばあちゃんに会いたいと思ってたんでしょう?」

「……わかった?」

「ふふっ。だからきっとおばあちゃんが応援に来てくれたんだよ。気合い入れてがんばらなきゃね」

「うん」

「だけど、誠実な友達を頼ることも忘れるなよ」


 茶目っ気たっぷりに言って電話を切った。真由美の心は充電されて元気いっぱいになった。


 両手を上に伸ばし、うん~っと背伸びをすると、さっさと風邪を追い払わなきゃと一人ごちておとなしくベッドに戻った。


 懐かしいおばあちゃんがすぐ側にいるような安心感と、大好きな親友が自分を丸ごと包んでくれている心地よさが、また真由美を深い眠りへ誘っていった。

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