Ⅱ-5

 翌日、下校中に幸也は後ろから声をかけられた。どこかで見たことがあるその顔が誰なのか、すぐに思い出せない。


「はじめまして、かな」


 そう言ってにっと笑った表情を見て、彼女がいつも真由美といる人だと気づいた。だけど、真由美の友達が何のために自分に声をかけてきたのか、皆目見当もつかなかった。


 真由美が来させたのか? それにしても理由がわからない。二週間ほど前に幸也が暴言を吐いてしまったときならわからなくもないけど、真由美はその後も何事もなかったようにやってきていた。それなのになぜ今頃になって友達を?


 疑問に思うことはたくさんあったが真由美以外の人間とこんな風に真正面から対峙するのは初めてだったので、幸也は居心地が悪くなって視線を下ろした。


「話があるの。ついてきて」


 簡単に自己紹介した朱里が促すように歩きだしたので、仕方なくついていった。


「マミね、今日学校休んだの」


 幸也の家の近くの公園に入ると、朱里は唐突に口を開いた。彼女の足元を見ながら後ろを歩いていた幸也が、耳に入った言葉につられて顔をあげると、視線はまっすぐに幸也に注がれている。

 幸也の心の中まで見透かそうとするかのような瞳は、強い意思の力をなみなみと湛えていてて、真由美の瞳に似ていると幸也は思った。


「熱を出して寝ているそうよ」


 幸也から視線をはずし小さく吐き出すように言ったその言葉に、幸也は耳を疑った。


 あの真由美が?


 幸也は真由美が熱で寝ている姿を想像しようとしてみたが、どうしても想像できない。真由美はいつだって元気に飛び回っていたから。


「あの健康優良児のマミがどうして熱なんて出したと思う?」


 朱里はブランコに座り、軽く揺らしながら訊いてきた。答えられない幸也はその側に所在無げに立ち尽くすしかできない。


「放っとこうと思ってたんだけどねぇ。部外者が口を挟むことでもないと思って。でも、もう放っておけなくなっちゃった。あの子、無茶しすぎるから。……疲れがたまったんだよ。マミ、毎日あんたの家に行ってたんでしょう?」


 ちらりと幸也のほうをみやったあと、視線をそらせて続けた。


「あの子、部活が終わってからあんたの家に行って、家に帰ってからは遅くまで勉強、朝は早朝練習が始まるより前にきて自主トレーニングして……。挙句の果てに熱なんて出しちゃって。まったく馬鹿だと思うけど、それがマミなのよね」


 朱里の口調には、幸也を責めている感じは受けない。ただ淡々といたたまれない気持ちになった。


「マミは強いでしょう? ──なんであの子があんなに強いんだと思う?」


 再び幸也に視線を戻した朱里は、幸也の答えを待ってか、少し黙った。普段何事にもあまり関心を示さない幸也だけど、この問いには珍しく興味を覚えた。知らず、意思を持った瞳で朱里を見返す。


「あの子が強いのはね、いつも”誰かのため”を想って動いているからだよ。人間ってね、自分のためでなく誰か他の──自分が大切にしたい人のためだったら、いくらでも強くなれるの」


 朱里ははっきりと言い切った。そして口調を変えて優しい声でつけたす。


「でもね、あの子もただのか弱い女の子だってこと、忘れないであげてほしいの。あの子は全部自分の中に背負いこんでしまうけど、その笑顔の下で人一倍傷ついてるんだよ? ねぇ、幸也。マミのこと、嫌いじゃないでしょう? だったら、あの子のために、強くなろうって努力してみない?」


 朱里は”あの子のために”というところを特に強調して言った。


 けれど幸也は、自分に何かができるとは思わなかった。自分一人のことさえ持て余しているのに、どうして他人のことにまで手を出せるのか。ましてや相手はあの真由美である。自分のどんな手助けを必要とするというのだろう。


「マミは誰にでも優しいよ。だけど、だからといってみんながみんなあの子の優しさに甘えてしまったら、いつかあの子はその重みに耐えられなくなってしまうよ。誰か、あの子を支える側になる人間が必要なの。わかるでしょう?」


 朱里はブランコをとめて、幸也がちゃんと聞いているのか確認するように幸也を見つめたまま小首を傾げた。


「マミはいつも”誰かのために”って思ってるけど、その中であんたが一番割合を占めているんだよ。そのあんたが、マミを支えてあげる側に回ってあげることはできない? ううん、それが無理でもせめてマミの負担を少しでも軽くしてあげられないかな」


 真由美の負担を軽くする。……どうやって?


「……マミにもっと心を開いてあげてよ。前みたいに。……それくらいは、できるよね?それだけであの子は幸せな気持ちになれるんだから。マミはいつだってあんたに対して心の扉を開けているよ。ね、勇気を出してみて。──マミのために」


 ”マミはいつだって心の扉を開けているよ”その言葉が、大きく幸也の心の中に響いた。”マミのために”という言葉にも心はひどく揺れ動かされていた。

 まるで、どんな強風にも揺るがない樫の大枝が一瞬にしてしなやかな柳の細枝に変わってしまったかのように、固い殻に閉じ籠っていたはずの幸也の心は大きく揺さぶられたのだ。


「じゃあね。考えてみてね」


 朱里は幸也の心に激しい嵐を残して、現れた時と同じようにさっさと帰っていった。

 幸也は、突然真由美に会いたいという衝動に襲われた。会ってどうしようと思ったわけではなかったが、ただ真由美に何か言わなくてはならないと思ったのだ。

 とりあえず、一旦家に帰ろう。それから、真由美の家に行ってみる?

 真由美に何かを言わなければならないという気持ちは依然としてつきあげてくる。でも一体何を言えばいい?


 幸也は家に向かって歩きながら、何を言うべきかを考えた。

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