Ⅰ-7

 次の日の昼休み。

 真由美は親友の朱里にも、今まで言っていなかった弱音をとうとう吐いてしまった。聞いてほしいことがあるからと、朱里を空き教室に誘って。


「私、どうしたらいいのかわからなくなっちゃった」


 弱音を吐きたくなくて今まで黙っていたのだが、放課後が近づくにつれて昨夜母がくれた勇気も次第に萎えてしまい、真由美はだんだん不安なって話さずにはいられなくなったのだ。


「幸也くんのこと?」

「そう」

「いつになったら言ってくれるのかと思ってたけど。……あれから毎日会いに行ってるんでしょう?」


 隠すつもりはなかったけど、何も話してなかったのに朱里にはわかってたようだ。

 真由美は素直に頷いた。


「何かあったの?」

「……ん」


 昨日の出来事をかいつまんで説明すると、

「そっか」


 そう言ったきり朱里は窓の外に目をやって黙り込んでしまった。

 朱里の視線を追っていくと、その先の校庭の隅に等間隔に並んでいる銀杏の木々が目に入った。もうすでに黄金色に染まった木の葉たちが森閑とした秋の空気の中で風に吹かれて舞い踊るさまは、ブルーな気分の真由美の眼に妙にもの哀しく映った。


「……間違ってたのかもしれないね」


 朱里は窓の外を見つめたまま、小さく呟いた。


「もう、ずっと前から」


 また黙ってしまった朱里の横顔を見ていると、同じように窓の外を見ていても彼女の眼は真由美とは違った何か眼には見えないもの───風の流れのようなものを見ているような気がした。


「何が?」


 真由美の問いに、こちらを向いて答えた。


「やり方が、ね」


 朱里の言葉は、真由美の胸の深いところまで落ちていってかわいた音を立てた。


「幸也くんが全然喋らなくなったとき──三年前だった? あの時、マミはずっと彼のことを考えていたでしょう? 聞いた話だけど、週に一回は彼の家で一緒に食事をして夜まで遊んだんだよね? 泊まったりもしてたんでしょう?」

「うん」


 真由美は三年前、弥生が亡くなって自宅に戻った幸也を二週間後にはじめて訪ねたとき、部屋の隅に小さく蹲っていた少年の姿を思いおこした。何も食べず、誰とも口をきかなかったという幸也は、二週間会わなかったうちにずいぶんやせ細って顔も土色だった。


「幸也くんが心を開いてくれるように、あのとき手をつくしたんでしょう?」

「だって! あたしがもっと早く気づいてたら!」


 あの時のことを思い出すと涙が溢れてくる。


「おばあちゃんが死んじゃって、悲しくて悲しくて……。ず~っと泣いていたの。幸也が家に帰らされてることにも気づいてなくて……」


 ぽろぽろ涙をこぼす真由美の頭を朱里はそっと撫でた。


「うん、仕方がないよ。あんただって悲しかったんだから。あたしはさ、あの頃はクラスも違ったし、まだあんたとこんなに仲良くなかったけど、いろいろ噂は聞いてたよ」

「噂って……?」

「ああ、まぁいろいろ言う人はいるからね。やよいおばあちゃんってある意味有名人だったし……その……」

 

 余計なことを言ってしまったと思い、朱里は言葉を濁した。


 つまりその孫のあたしや本当の孫のようにかわいがっていた幸也も、みんなから見られてて噂されていたということか。


「とにかく、何日も何日も通ったんだよね? 言葉をなくした幸也くんを相手にいろんなことを話してたくさん笑って──そうしてまた笑顔を見せるようになったんだよね?」

「あたし、あのときとおんなじことしちゃったんだ。また幸也のことほったらかしに……」


 涙が止まらない。


「うん、だけどこれが転換期じゃないのかな」

「……?」

「三年前、幸也くんが笑顔を見せるようになったとき。マミに対してだけ、心を開いたんでしょう? 笑顔を見せるのも、マミにだけ。本当はあのときに、少しずつ返事をするようになった幸也くんの笑顔を、他にも向けるように努力するべきだったんじゃないのかな」

「笑顔を他に……」

「そう、マミは彼が微笑わらってくれたのが嬉しくて、その表情があんまり可愛くて、他の人に会いたがらないのを理由にして実際は、独り占めにしちゃったのよ。もちろん無意識のうちに」


 独り占め……。


「ってこれは今だから言えることだけどね」


 朱里はいったん言葉をきり、真由美の瞳をまっすぐに見据えた。


 「きついこと言うようだけどさ、幸也くんの心を外界と繋ぐ一本の糸だったマミが、いつの間にか外界から遮断する大きな壁になってしまってたんじゃない?」


 ──閉じ込めていたのは、あたし?


 朱里の言葉は、真由美に少なからぬショックを与えた。だが、真由美が何よりもショックだったのは、朱里の言葉そのものというよりもむしろそれを否定できない自分の心だった。


 真由美は、幸也が笑ってくれたのが単純に嬉しかったのだ。


 だけど。


 朱里が指摘したような思いがまったくなかったとは、……言い切れない。真由美は醜い異形のものが自分の心の中に潜んでいることに嫌悪を感じた。


「マミ、あんたを責めてるんじゃないよ。誰にもできなかったあの子の笑顔をとりもどしただけでもホントはすごいんだから」


 落ち込みそうになる心を掬いあげるように柔らかい声で言う。


「だけど……。だから、か。今回は間違えちゃいけないと思う」


 今度はきっぱりとした口調で。


「マミ、子供を巣から追い出すのは獣でもすることだよ。たとえ自然が厳しく外敵が多くても、一人立ちさせるために親は暖かい安全な巣から追い出すんだよ。……喧嘩をしてでもね」


 真由美はふと小さいころ弥生にに連れて行ってもらった『連獅子』を思い出した。


 あれは……崖から突き落とすんだったっけ。


「誰もが、強く生き抜いていく力を持っているんだから。いつまでも甘やかしていたら駄目だよ。マミがいつも言ってることでしょう?『人に頼るのではなく、自分自身の力で強く逞しくしなやかに。傷つくのを恐れていたら何もできない』って」


 自分だけにそれを課すのではなく、幸也にも……。全面的に守って庇護するのではなく、いざというときに支えてあげるだけでいい。

 真由美は躊躇ためらっていた背中を後押ししてもらったような気がして、力が漲ってくるのを感じた。

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