Ⅰ-5
真由美はソファーに膝を抱えて丸くなり、つけているだけのテレビをぼんやりと眺めながら、ずっと幸也のことを考えていた。
「お母さん」
テーブルでテストの問題を作成している八重子に声をかけた。
「何?」
「私って幸せだよね」
「何言ってんの。この子は」
八重子が苦笑して顔をあげる。
「幸せに育ったものには、他人の痛みはわからないと思う?」
真由美の真剣な声音に、八重子が探るような視線をよこしてきた。
「……幸ちゃんがそう言ったの?」
「……ん」
丸くなったままの真由美は、視線をそらして足元を見つめた。
八重子にはここ二、三週間ほど幸也の家へ通っていることを伝えてはいたが、そのことに関して彼女からは何も言わなかった。
勘のいい八重子は、直接幸也に会わなくとも真由美の日々の様子から、今の幸也の状態をある程度察していただろう。でもなにも言わずにいてくれた。いつもそうだ。真由美の方から相談しない限り、いろいろと口出ししてこない。ほったらかしにしているようで、ちゃんと気にかけてくれている。
忙しいのは知ってるから、いつもなら何も言わないけど、今回は自分でどうしていいかわからない。
そんな思いをくみ取ってか、八重子はやおら立ち上がってペンを置き、真由美の隣に並んで座った。
「確かに、心の痛みっていうのは、その同じ痛みを味わったことのある人にしかわからないかもしれないわね」
真由美は小首を傾げて八重子の方を見た。
「でも、たとえ同じ傷を負ったとしても、本人以外にはその傷の痛みはわからないのよ」
八重子が真由美の頭を引き寄せようと伸ばした手を、首を捻ってよける。いつまでも子ども扱いするんだから。八重子は肩をすくめて話を続けた。
「つまりね、同じ傷でも人によってこんなのは掠り傷だと思うかもしれないし、また致命傷のように思ってしまう人もいるかもしれないってことよ。誰だって自分の物差しで他人をはかることはできないんだから」
八重子が顔をのぞきこんで、真由美の肩にまわしてくるのを、今度はされるままにする。
「忘れちゃならないのはね、他人の痛みに鈍感になっちゃダメってことよ。その人の傷の深さがわからないのなら、自分の思う最大限の痛み──それはあんたの持っている物差しで測れる最大限のものよ? そのさらに二倍も三倍も深いのだと思いなさい。実際に同じ痛みを感じることはできなくても、想像することはできるでしょう? 彼のために心を痛めてあげることはできるでしょう?」
真由美は深く頷いて小さく「ありがとう」とつぶやいた。
やがて八重子がテーブルへ戻ると、さっきのの言葉を記憶に刻み付けるために何度も反芻した。
他人の痛みに鈍感になったらダメ。
同じ痛みを感じることはできなくても、想像することも、一緒に心を痛めてあげることもできる。
真由美はふと窓の外を吹き抜ける風の音に耳を傾けた。
窓一枚を隔てた外の暗い夜の寒さと比べてて、家の中に点っている灯りのなんと暖かいことかと、しみじみ思う。そして八重子の力強く温かい言葉に、胸の内にも小さな灯りが点ったかのように思い、丸くなって考え込んでいた真由美はいつしか微笑んでいた。
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