Ⅰ-4

 団欒にはほど遠いただ食物をとるだけの夕飯をすませると幸也はさっさと自室に戻り、読みかけの本を手にとったが、続きのページを開きかけたままぼんやりと考えていた。


 孤食……この言葉を聞いたのはどこでだろう。テレビのニュースだったろうか。共働きの家庭で遅くに帰る親を待たずに一人で食べるさみしい食事。本当に一人きりで食べる子供と親がそこにいるのに一人で食べる自分と一体どっちが孤独なんだろう。すぐ隣のキッチンにいるのに決して顔を出さない母。湯気の立ちのぼる温かいシチューでも、幸也には温もりが感じられない。


 幸也は小さく溜息を吐いて軽く頭を振り、その考えを隅においやって本に目を落とした。


 

 コンコン、ココンコン


 しばらく読みふけっていると、独特な調子のノックの音が真由美の訪れを告げた。


 まさか今日すぐにやってくるとは。そのうち来るだろうと予測していたものの、こんなにすぐに来るなんて。


 幸也は黙ってドアを凝視していた。


「開けるよ」


 返事を待たずにノブが回るのを見つめながら、幸也は嬉しさで高鳴る胸を抑えている自分と、「入らないで!」と叫びたくなるほど怯えてしまっている自分とが、身体の中に同居しているのを感じていた。そんな幸也の思いに関係なく、ドアはさっと開いて真由美が入ってきた。


「ごめんね」


 入るなり謝る真由美に幸也は返事をしなかった。

 真由美はいつもしていたように自分で座布団を持って上がってきていて、幸也の隣に並んで座った。


「何を読んでるの?」


 真由美が幸也の持っている本に目を落として訊くと、幸也は無言で手にしていた本を渡した。


「『時の彼方』? 面白い?」


 真由美はぱらぱらと本をめくっていたけれど、ふと顔をあげぐるりを見回した。


「ずいぶん本が増えたね。この本棚、前はなかったよね?」


 返事をしない幸也など気にもかけずに、真由美は立ち上がって背の高い方の本棚に歩み寄った。日本文学全集に世界文学全集がずらりと並んでいる。伝記シリーズに、推理作家のシリーズ。


「この半年で、かなり増えたよね。ずっと本ばかり読んでたの?」

「…………」

「ごめんね。ほったらかしにしてて。……ごめん」


 幸也の隣に戻って謝る真由美の瞳には、はっきりと後悔の色が浮かんでおり、自責の念が表情にも滲み出している。幸也はなんと答えていいのかわからず、真由美のまっすぐな視線から眼をそらし俯いた。


「怒ってるの? ずっと来なかったから」


 一言も口をきかない幸也の顔を、真由美は下から覗き込んだ。


 そうじゃない。


 心の中で幸也は答えた。でもそれを声に出すことはできなかった。幸也自身が気づいてしまったから。もう一つの気持ちに。真由美に今のこの心の平安を乱してほしくないと思っている自分がいることに。


 幸也は真由美に対してどう接したらいいのかわからなくなってしまっていた。以前のように、思っていることを素直に話すことなんてできない。かといって他の人にするようにまるっきり無視することもできない。


 幸也はただだまって真由美の瞳を凝視した。幸也の視線を受け止めるその瞳は、無限の宇宙を奥に秘めているようで吸い込まれそうになる。真由美のこの瞳に出会ったとき、幸也は自分が一個の人間として向かい合っているのではなく、その奥に広がる無限の世界へ吸い込まれてしまうちっぽけな塵のような気がしてくるのだった。


 いつまで待っても幸也が返事をしないので、諦めたのか、真由美が自分の話をしはじめた。


「中学校に入ってから、バスケットボール部に入ったの」


 知っているよ。何度も見かけたから。真由美はいつも僕に気づかなかったけれど。


 幸也は心の内でそう思い、即座にそうではないと打ち消した。


 真由美が気づかなかったんじゃない。僕がいつも気づかれないようにすぐに隠れていたんだもの。


「練習は毎日とっても厳しくてね、いつも帰る頃にはよろよろになってるの。疲れ果てていて……来るのを忘れちゃってたの。本当にごめん」


 真由美はもう一度謝ると、そのあとは他愛もないことを一人でたくさん喋って、一時間ほどで帰っていった。幸也はそれをただ黙って聞いていた。

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