9. BROTHER OF THE SUN
2億年間蓄積された科学技術、アンジーが受け取った情報は科学技術だけではない。アンジーのライブラリに保存された情報のデータベース化は進行中だが、これには相当な時間がかかりそうだ。地球で分類される学問に収まりきらない情報が多く、アンジーとの会話に彼女らしからぬ遅れを感じるほどだ。アンジーは100年前のコンピュータとはアーキテクチャが全く違い、量子コンピュータとしての処理能力も太陽系随一を誇っている。そのアンジーを持ってしても分類に時間がかかっている。おそらく、言語の問題よりも概念の取り扱いにデリケートになっているのだろう。
人文科学、社会科学、自然科学、形式科学、応用科学、そして、アンジーが最も分類に苦労しているのが、人文科学と社会科学である。そもそもが、これら人類の持つカテゴリーに収まることが不可能な内容が多すぎる。2億年の開き、と言ってしまえばそれまでだが、科学そのものにしても、地球人類は、法則的な認識を目指しつつ、合理的知識の体系的整合性を良しとするが、科学全般を見た場合、その研究対象と手段の分類との違いにおいて、その整合性が破たんする場合が多々見受けられる。
例えば、この22世紀においても、まだ議論されているのが、クローンに対する倫理的問題である。過去、21世紀初頭にあった、クローン技術規制法や他の生殖技術関連の規制などがその最たるものである。あげくヒト胚に対する道徳的地位の確立などなど。
22世紀の現在においては、人類の作った悪しき法として、米国の禁酒法と同じに扱われている。
広義における科学の中で体系的整合性を保つことは不可能であるにも関わらず、それらの学問が多岐に分類されながら存続を続けている。
アンジーが落ち着きを取り戻すまでの間、6人は部屋の探索を始めた。と言っても、部屋の端から端を行ったり来たりするだけで、ベンチ以外何もない。少し薄いブルーの入った白い壁を触ってみたり、素手でなぞりながら歩いてみたりしている。
アンジーは皆に報告をした。「すべて完了です。しかし、2億年という期間の壁は大きいです。『何故』と言うことに関して、私に備わったアルゴリズムでは到底処理しきれません。速度の問題ではありません。あなた達人類の頭脳が必要です。科学技術に関しては極めて単純化されているので、今、これからでも大学の授業へフィードバックできそうです。ただし、人類の進歩速度で向う704年分だけです。」
タケルが言った。「たったそれだけ?2億年分のデータを取り込んで、たったそれだけ?」アンジーは誤解を招かないように、今度は詳しく説明し出した。「親の言うことがやっと分かるぐらいの子供に、MITの修士課程を学ばすようなものです。しかし、理解できる出来ないは別にして、2億年分の情報が詰まった図書館に座っていることだけは確かです。本棚から本を一冊取ることは子供でも出来ます。」今度はナブラが口を開いた。「なんだ、結局、2億年勉強しなくちゃならないわけかぁ。いや、本にはなってるわけだから、あぁでもない、こぉでもない、と悩むことはないわけだな。」
ずっと考えこむようにして話を聞いていたジースが初めて口を開いた。「これは、すごいことだよ。科学技術だけであったとしても704年先までの事がわかるんだもの。
ところで、アンジー、君は我々をこの空洞へ連れてこれたよねぇ。『何故』が処理できなくても、そういうことは可能なんだ。」アンジーは答えた。「はい、既に備えられている機能に関するプロシージャは私の中でのテストは無理ですが、すべて実行可能です。」
アンジーはそこで皆にその事を見せるために提案した。「ところで皆さんは、そろそろ昼食の時間ではないですか?」ジェフが答えた。「そうだけど、状況的に改まって取らなくても、各自が携帯食で適当に済ますよ。」
ジェフが言い終わると、突然、ベンチから少し離れたところに6人掛けのテーブルが現れた。全員、固まった。声も出ない。先ほど見た、ミニチュア銀河のホログラムではない。これこそ実体のあるテーブルだ。
そのテーブルの一番近くにいたジースが立ちあがって、傍に行き触れた。「ワァーオゥ!これ、テーブルだ。どうなってんだよ。
テーブルだ、椅子も、これもまさしく椅子だよ。」タケル達も傍に行き触れて、感嘆の声を上げている。
テーブルの上には普段地球上で食べている普通の料理が並んでいる。全員、ひとしきり驚き、感嘆の声を上げた後、ジェフは自身納得したように、そしてアンジーに話しかけた。
「要するに、構造や仕組みが分からなくても操作方法は、アンジー、分かるってことかぁ。」アンジーは然もありなんと言わんばかりに答えた。「そうなんです。我々はとんでもない情報を手に入れています。中には理解不能なまま操作できる機能もあるので、大変危険なことでもあります。今、皆さんが見た光景は、何事も無いように見えますが、わずか数秒間のあいだに核分裂と核融合が行われたようなものです。
使用されたのは、場に保存されていたエネルギーです。そしてこのあと、テーブルなど不要になった物は再びエネルギーに変換され、場に保存されます。それらの過程であぶれた素粒子は、さざ波となって場に吸収され、何事も無い空間が残ります。」
ジースが少し興奮気味に聞いた。「放射線はどうなるの?核分裂も起きたんだよねぇ?」アンジーはこともなげに答えた。「放射線不要素粒子と共に場に吸収されてます。安全無害です。現在の我々の認識ではこの宇宙で一番強い力は核力ですが、ニュルスの住人にとってはくっ付いた磁石を外すようなものなのでしょう。『何故』そのようなことが出来るのかを理解するためには、あと19062ステップの科学技術の理解が必要です。」
ジョディは、2億年の科学技術のすごさを目の当たりにしながらも別のことを考えていた。
当初アンジーが、スィニーがコンピュータでない可能性が30%あると言っていた、その事がどうも引っかかっていた。彼女の持ち前の直観がそれにこだわり続けているのだ。アンジーの講義が一通り終わったところで、ジョディは口を開いた。
「ねぇ、アンジー。最初あなたはスィニーがコンピュータでない可能性を・・・」アンジーは答えた。「30%と答えていました。その時は、怒涛の如く入ってくるデータの中にコンピュータらしからぬ扱いが見て取れたからです。」ジョディが聞いた。「それはどういうこと?」アンジーは答えた。「私のライブラリに収まると読み取れるデータなのですが、まれに読み取れないまま置き去りにされたデータをスィニーに確認すると、動作をフィードバックして、やり直します。その時に、人間で言うところの舌打ちをスィニーがしていたのです。バグではありません。そういう、コンピュータではあり得ないことを表現するのです。といっても0.1ピコ秒ほどのことですが。」ジョディはその先を言った。「それは、スィニー自体のアーキテクチャの問題だと。」アンジーは否定しなかった。スィニーが自分より2億年進んだコンピュータであることを。
ジョディは疑問は解けたものの、別の意味で、この状況に知性が関与している予感を覚えるのであった。ニュルス人が行くえ知れずとはいえ、これだけの装置を置き去りにされているのは解せないことではある。そして、この装置の目的を聞こうとした時、チーフが口を開いた。
「さぁ、アンジー。スィニーは現在、誰のために仕事をしているのだ?アンジーに対して、何者だとは聞かなかったのか?そして、スミーアにこのような空洞を作った目的は何なのか?そして、スィニーとは我々は直接話は出来ないのか?」矢継ぎ早とはこの事なのだろう。驚愕の経験の中、皆の興味本位の意見ではなく、ジェフは本来の空洞調査の目的とも言うべき本質的な質問をしたのだった。
アンジーもその事を順序としては話したかったのだろう。
「はい、チーフ。ひとつを除いて答えられます。スィニーはプログラムされたことを実行しているだけで、私のような人と会話するコミュニケーション機能は今のところ見受けられません。私が何者であっても、スィニーはデータをダウンロードさせたでしょう。この装置の存在理由は調査中です。技術的なことと違い、論理分野の内容になるかと思いますので、少し時間を下さい。ただ推測でよければお話はできますが。」ジェフは聞きたいと言った。他のメンバーも興味深々である。「この部屋の壁を隔てた奥に、巨大な装置があります。そこから細長いチューブが伸びて、メッセンジャー号の元あった場所に到達しています。その装置は重力波を扱う装置のようなのですが、その装置からチューブを通した延長線上に、今はその位置に存在しませんが、2161年の5月3日時点の冥王星とカロンの連星公転の重心に、数ミリ単位での誤差もなく交差します。」
ジェフはそれがどう言う意味かが分からず、ジョディの方を見たが、彼女もまた同じ表情のままだった。アンジーは皆の表情を読み取ったのかは分からないが、続けた。「2161年の5月1日から6月3日までの34日間、水星から海王星までの8個の惑星が、太陽を中心とした68.7度の範囲に並びます。私達が言うところの、惑星直列です。おそらく予想では、5月3日にこの装置から冥王星とカロンの連星公転の重心に向かって重力波を使って何か送るのではと推測できます。重力波そのものであった場合、それは、我々の理解を越えます。」
皆が黙りこむ中、タケルが言った。「冥王星。やっぱり惑星が欲しいんだよ。その装置でカロンもろとも持ってッちゃうんじゃない?」タケルは冗談のつもりで言ったのだが、思わぬ賛同者が居た。ジョディだ。「それは否定はできないわね。重力波を扱う装置だって言ったわよねぇ。アンジー?」「はい、現在、月と火星の間で観測装置として使っている我々の装置とはだいぶ趣を異にしてはいますが、構造的にそう見て間違いないでしょう。」
ジョディはアンジーに改めて聞いた。「スミーアの形が重力波の干渉縞で作られる交点の形状に似ているのは、その装置と関係あるのかしら?」アンジーは新たに発見したことを話し出した。「はい、実は取り込まれたデータの中に装置を動かすためのプロシージャがあったのですが、スミーアが太陽に対して完全に静止しているのは、装置が作動を始めたからなのです。と言っても、まだ出力自体は微々たるものですが、太陽の重力波ともうひとつの重力波の干渉縞交点にスミーアは収まってる形です。この装置を動かすことはできますが、今の段階でそれを行うことは危険です。そして、現在の作動自体にスィニーは関与していません。」今度はジェフが聞いた。「太陽以外のもうひとつの重力波って、何?」「源は不明です。位置はわかりますが、発信源は不明です。位置は2161年5月3日の冥王星とカロンの連星公転の重心です。」つづいてジョディが聞いた。「なにも無いところが重力波の発信源。今となっては、分からなくても事実として受け入れるわ。」空洞へ入ってからの驚天動地の経験が、皆に従順さを与えてきている。ジョディは続けて聞いた。「ところで、現在の装置の動作自体にスィニーが関与していないってどういうこと?じゃあ、誰が、あるいは何が動作させてるわけ?」
あるがままの事実を受け入れる従順さを学んだとはいえ、アンジーの答えに、6人は再び固まった。
「まもなく装置作動の責任者が現れます。」
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