第八章 夢幻魔界とハーメルンの笛吹き


   1


 慎二の体は落下した。

 さっきまでなにもない宇宙空間のようなところを漂っていたのに、めまいとともに自分が奈落の底に落ちていくような気がする。そんな中、黒死館の嘲笑だけが耳にまとわりつく。

 しっかりしろ。落ちていくのは気のせいだ。これが現実のわけがねえ。

 そう自分にいい聞かせた。その瞬間、どこまでも落ちる感覚は消え去り、慎二は泥沼のようなところに立っていた。

 ずぶずぶと慎二の足が地面に潜り込んでいく。膝まで沈んだころ、止まった。今度はコンクリートのように堅くなり、抜こうとしてもびくともしない。

「ひ~ひっひひひ。動けるかね? 試しにその化け物のような銃で地面を撃ち抜いてみたらどうだ?」

 黒死館は宙に浮き、慎二を見下ろしながら挑発している。

「ふん、ずいぶん強気じゃねえか。現実の世界じゃ勝てねえからって、夢の世界作り出してやりたい放題か? 若いころはさぞかし女にもてただろうぜ、この妄想野郎が」

 どんなに減らず口をたたこうが、実際ここでは黒死館のやりたい放題だ。なにせここは現実の世界じゃない。深層意識の奥底であり、不覚にもやつに支配されている。この中では黒死館こそが神であり、やつの思い通りにならないことはないし、逆に慎二の思い通りになることなどひとつだってありはしない。

「ふふん、子供のころ君みたいなやつがクラスにひとりはいたよ。粗野で乱暴で、私のような運動のできない子供をいじめて喜ぶどうしようもない糞野郎がね。そいつらの頭の中に入ってちょっと悪戯してやれば、すぐノイローゼになって学校に来なくなったものさ。楽しかったなぁ、くくくく」

 黒死館は心底楽しそうに不気味な笑みを浮かべる。

「でも君はそんなものではすまさないよ。さあて、どうやっていたぶってやろうかな? 頼むから殺してくれっていいたくなる責めを、続けてやるよ。だが残念ながら現実の世界と違って、どんな過酷な拷問を長時間続けても死ぬことはない。君さえその気なら、最高の拷問を半永久的に受けられるんだよ。すばらしいだろう?」

 真性のサディスト野郎め。その狂気にゆがんだ顔こそが、貴様の本性そのものってわけだな?

 慎二がここまで敵を憎悪するのははじめてだ。今までも何人か『楽園の種』のメンバーを追いつめたが、それはあくまでも仕事だ。

 テロリスト集団というのは、一般人には理解不能でも、彼らなりの正義を信じて戦うものだ。それは彼らの信じるイデオロギーなり宗教なりの正義と、社会一般で信じられる正義とにずれがあることによって生じる悲劇ともいえる。正義感の決定的なずれは、お互いの共存を許さない。

 だがこの男の中に自分なりの正義はあるのか? 『楽園の種』の目指す楽園とやらを信じて、その実現のために戦おうとしているのか?

 とてもそうは思えなかった。

 こいつは他人を傷つけ、苦しむのを見て喜ぶ変態野郎でしかない。

「彩花にはなにをやった? もてない男の妄想でも試したのか?」

「知りたいかね? まあ、死んでいった者の名誉を汚すようなことをいう必要もないだろう? つまり、虹村は女としてとても同僚にはいえないような目に会い続け、屍となった魂を救済されたんだよ、マリア様にね。生きる希望も意味も完全に失った虹村には、理想社会の種になるということが生きるためのただひとつの意義になったんだろうね?」

 黒死館は好色な笑みを浮かべ、思い出し笑いした。

「あ、そうそう思い出した。最初のころは君の名前を呼んでいたよ。泣き叫びながらね。くくく、でもそれも最初だけだ。途中からは君のことなど頭になかったようだなぁ」

「この糞野郎が! てめえだけはどんなことがあろうとも必ずぶち殺してやるからな」

 視界が赤くなった。血の涙を流しているらしい。それを見て、黒死館は下品な笑い声を立てまくる。

「おまえはどうなんだ?」

「なにが?」

「おまえもそのマリア様とやらに洗脳されたのか? それとも自分の意思でやってるのか?」

「私が洗脳されているだって? 馬鹿め、そんなことがあるわけないだろうが。私は自分自身の意志でマリア様に使えているのだ。マリア様ほど私のこの能力や研究を高く評価してくださる方はいない。そしてマリア様に使えている限り、この私でも正義になれるのだからな。それにおまえは私の力を過小評価しているようだからいっておこう。私は他人の精神に入れると同時に、他人が私の精神に入り込めないようにバリアを張ることができる。だからたとえマリア様といえど、勝手に私の精神の中に入り込むことはできない。もちろん今だって張っている。おまえの仲間にどんなやつがいるかわからないからな。つまり、この世界の中にはたとえ誰であろうと入れない。この中では私こそが唯一にして万能の神なのだ」

 そういって、黒死館は狂ったように笑った。

「つまり貴様は慈悲を掛ける必要もない、生まれついての悪党だってことだな?」

「いいや、私は正義だよ。君だって自分が正義の側にいるつもりなんだろう?」

「正義? そんなものは知ったことじゃねえ。俺は傭兵だ。依頼主につくだけ。もっとも貴様らのようなクソ野郎を依頼人にするのは死んでもいやだがな」

「ならば貴様は私以下だ。自分の信じる正義に殉じる気概もない」

「黙れ、死に神野郎」

 あまりの怒りに、無駄だということも忘れ、慎二は『龍の牙』を抜き、特殊マグナム弾をぶち込んだ。

 弾は黒死館の体の前でぴたりと止まる。そのまま塵と化した。

「まだそんな気力があるようだから、遠慮なくやらせてもらおう。もうおしゃべりもここまでだ。あとは君の悲鳴と命乞いしか聞きたくないな」

 そのとき、慎二は地面が妙に揺れていると感じた。

 地震? いや、違う。自分の体は揺れていない。

 地面は揺れているというより、蠢いている。

「うわああああっ」

 慎二はいつの間にか、地面だと思っていたものがネズミの大群であることに気づくと叫んでいた。

 ネズミの固まりが自分の膝の高さまで溜まっている。それは自分を中心に、おぞましい声で鳴き、不気味な波のような微妙な上下運動をしながら無限の彼方まで広がっている。

 ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。

 いったい何億、いや何百億、何千億のネズミがいるのだ?

 まさしく世界中のネズミをここに集めてきたのではないかと錯覚してしまう。

「いや、君の仲間も同じ目に合うだろうから自分の体で感じておいた方がいいだろうと思ってな」

 まさか、学校にもこれほどの数が集まっているのか?

 慎二はとっさに美咲がネズミに襲われる様子を思い描いてしまった。

「ほう。学校に行っているのは君の大事な人らしいな。妹か? ふん、くだらない。そんなものに価値観を置くとは、君もただの一般市民だったようだな? まあ、いい。そんな価値観などはすぐにでも崩してやる」

 ここでは思ったことはすべて筒抜けなのか? 深層意識を共有している以上、とうぜんといえばとうぜんだ。

 突然脚に激痛が走った。

 今まで様子を見ていたネズミたちがついにその牙を突きたてたらしい。

 ネズミの大地は大きくうねった。自分に向かって集中する津波のように、四方八方からおぞましい波が押し寄せてくる。

 黒い大地は黒い海に変わった。その波に飲み込まれ、しぶきがかかる。

 黒い波。襲いかかるネズミの固まり。

 黒いしぶき。飛びかかってくる単体のネズミ。

 そいつらがいっせいに慎二の体に牙を突きたてる。

 特殊戦闘服もまるで役に立たなかった。銃弾も刃物も通さないはずのプロテクターを無視し、つぎつぎと体を食い破ってくる。

 慎二は肺の空気がなくなるまで叫んでいた。

 やせ我慢などとてもできるものではない。ネズミたちは肉を食い破り、骨をかみ砕き、内蔵を屠る。すぐに肺を破られ、息すらできなくなった。

「君の妹はそれで死ぬだろうね。現実の世界に生きてるんだから。だけど、幸せなことに君は死なない」

 黒死館のいうとおり、慎二は生きている。体中に耐え難い激痛を感じ、それどころか体そのものが食い尽くされそうになっているのに死ななかった。

 頭蓋骨が食い破られ、一匹頭の中に進入した。

 もはや手で払いのけることも、首を振ることすらできない。脳を食い散らかされ、頭の中では最低の生き物が暴れ回っている。べつのやつも入り込んできた。

 それでも慎二は生きていた。

 これはしょせん、リアルな感覚を伴う夢でしかないのだから。

 痛みすら消え去り、肉体が完全に消滅したあと、すぐさま慎二の体は復元した。

 戦闘服や銃はなくなっていたが、体は完全に元通りになっている。

 逃げようとした。

 どこに? わからない。とにかく、足の向くまま、走ろうとした。

 ずぶり。

 足がぬかるみに捕らわれたかのように、地面にめり込む。

 さっきと同じだ。たちまち両脚の自由はなくなり、地面が不気味に振動した。

「うおおおおおおおおおおおおおお!」

 雄叫びを上げ、必死で足を抜こうとする。もう二度とあんな目に合うのはごめんだ。

「どこへ行く気だね? さっきのはただの一回目に過ぎない。これから君は永久的にあの苦しみを味わうんだよ。なあに、心配ない。恐怖を感じるのは、せいぜい最初の数十回だ。あとは魂が死んでしまうせいか、なにも感じなくなってしまうらしいんだな。痛みすら苦行の一部のように感じてしまうらしい」

 黒死館がやはり宙から慎二を見下ろしながらいった。

「じゃあ、そろそろ二回目行ってみようか」

 黒死館がそういうと、地面がふたたび海のようにうねりだした。

「その前に念のために聞いておこうか。私のいう言葉を復唱する気はあるかね。なあに、簡単な台詞だ。『私はマリア様の奴隷になります。どうか妹をネズミを使って噛み殺してください。虹村彩花の魂を穢していただいて、どうもありがとうございました』だ。簡単だろう?」

「死んでもいうか、……そんなこと」

「それが残念ながら死なないんだなぁ。楽しみだよ、何回目でその台詞をいうのか。信念だの正義感だのが強いやつほど、それが折れたときにはもろい。自己を否定し、なにかにすがりつき、まさに操り人形になる。くくくくく。ああ、ほんとうに楽しみだぁあああ」

「くくくくく」

「なにが可笑しい?」

「この程度のことで勝ち誇りやがって。たしかに少し取り乱しちまった。だがもう惑わない。これはしょせん夢よ。どんなにリアルな痛みや体感を伴おうが夢に過ぎない。夢ごときで俺を屈服できると信じているおまえが滑稽だ」

 慎二は大笑いした。それも本気で。そうすることによって、くじけそうな心を押さえ込み、恐怖を封印した。そして痛みに耐える覚悟を決めた。

「馬鹿め。わからないなら、わかるまでやってやろう。何回目で泣きつくか、ほんとうに楽しみだよ」

 のたうっている黒い波は円の中心である慎二に向かって打ち寄せてくる。

「来るなら来い。幻覚のネズミども。そんなものを恐れて堪るか」

 黒い固まりが体中をはい上がり、慎二の体を黒い海の中に引きずり込もうとした瞬間、異変が起こった。

 ネズミたちの動きが止まった。まるで凍り付いたように。

 なにが起こったのか理解できない。ぜんぶ死んだというならまだわかるが、そうではない。飛びついたやつは空中で制止したまま動かない。あたかもネズミたちの時間だけが止まったようだ。

「なんだよシン、情けない声でぴーぴー泣かねえのかよ。ちょっとだけ楽しみにしてたんだがな。つまんねえやつだ」

 慎二の側で、東平安名が黒死館同様宙に浮いていた。にやにや笑いながら慎二を見下ろしている。

「来んならもっと早く来いよ。イジメか?」

「くくく、泣きそうになったからってごまかすなよ、シン」

「な、なんだおまえは?」

 黒死館の声は明らかに動揺していた。

精神世界移動者サイコポーターさ。おまえと同じようにな」

「そ、そんな馬鹿な? 私の知らない間に、私の精神に進入しただと? そんなことができるわけがない。私は邪魔が入るのを嫌って、こいつの頭に入ると同時にバリアを張った。他のサイコポーターが入って来れないようにな。だから、たとえおまえが私より数段上のレベルのサイコポーターだとしてもそんなことは不可能だ」

「べつにおまえの精神の中にこっそり入りこんだわけじゃないさ。あたしはシンの精神に入り込んでいた。そこにあとから勝手に入ってきたのはおまえの方だ」

「ま、待ち伏せしたのか?」

「そうだ。まあ、深層意識の世界も広いから一回目は場所がわからなかった。でもこれ以上シンの頭をいじくらせはしないよ」

「どうして、私がこいつの頭に入ることがあらかじめわかったんだ?」

「どうしてだって? アヤカは薬も催眠も効かない。耐洗脳訓練も受けていた。アヤカを洗脳するには直接頭の中、それも意識のバリアの内側、深層意識の世界に入るしかない。そんなことができるのはサイコポーターだけだ。シンの話を聞いて、おまえこそがサイコポーターだとわかった。ならばシンがここを攻め込めばおまえは必ずシンの頭の中に入り込むに決まっている」

「なるほど、どうやら貴様、只者ではないらしいな。敵にまさかおまえのようなやつがいるとは考えてもいなかった。だが、しょせん同じ種類の能力を持っているというだけのこと。能力のレベルはどっちが上かな?」

 黒死館は東平安名を見据え、不敵に笑う。自分の能力には絶対の自信を持っているらしい。

 いや、それは根拠のないうぬぼれではない。慎二はそう思った。

 東平安名はこの化け物のような能力のおかげで、警察の上層部からは一目置かれると同時に忌み嫌われていたが、けっしてその力は万能ではない。

 まず、誰の頭にでも入れるわけじゃない。

 信頼関係がない人間の中には入れない。しかも基本的には相手の了解を得てはじめて可能なのだ。以前に入っている上、波長が合う場合は、例外的にするっと潜り込めることもあるらしい。慎二の場合がまさにそれだ。

 さらにこの能力を使うときには極度の集中が必要で、東平安名は誰かの精神に入るときには、外部刺激の一切を遮断する専用のリラックスルームに入る。それを慎二たちはおこもりと呼んでいた。

 そしてその間、肉体はまるっきりの無防備になるし、戻ったときの疲労感も相当のものらしい。

 だが黒死館は、敵である自分の精神になんの準備もなくあっという間に忍び込んだ。

 おそらくサイコポーターとしては、黒死館の方が数段上手なのではないか?

 慎二の心を読んだらしく、黒死館は勝ち誇る。

「小娘が粋がるな。おまえなど私の敵ではないわ」

 黒死館の一括とともに、東平安名の着ていた服はちぎれ飛んだ。

「くくく。地獄の苦痛に喘ぐ部下のために、せめて貴様の魅惑的な裸体を拝ませてやるがいいわ」

「ふん、おまえが見たいだけだろ? そんなに女の裸がめずらしいのか? この中年童貞めが」

 東平安名は胸や股間を隠すでもなく、黒死館をあざ笑った。

「黙れ、この恥知らずな牝犬が」

 凍った空間に固定されたネズミたちが動き出し、ふたたび慎二の体を這いずり上がる。

「ネズミども、そのくされ女の前で部下を食いちぎれ」

 だがもはやここは黒死館にとってなんでもありの世界ではなかった。ネズミたちが霧のように消えていく。慎二を中心にして、ネズミを気化し、霧散させる力が円形になってどんどん広がっていく。それは無限の彼方まで広がっていった。

 あれほど地にひしめき合い、蠢いていた悪魔の化身たちが、ほんの数秒で完全に消滅した。

「ば、ば……馬鹿な」

 黒死館はこの世の終わりのような顔をした。唯一信じられる自分の力を否定されたとき、きっと人間はこんな顔をするのだろう。

「これはなにかの間違いだ」

 もはや慎二など眼中にないらしい。黒死館は決死の形相を東平安名に向けると、腕を振りかざした。同時にブーメランのような刃が飛ぶ。

 東平安名の体が、肩口から脇腹にかけて袈裟懸けに切断された。刃は数回往復し、腕を脚を首をはねる。あっという間に、東平安名の体はバラバラになる。

「東平安名!」

 だが慎二の心配などどこ吹く風。東平安名の体は、あっという間に互いにつながり、復元した。

「く、くそ」

「なにがくそだ。実体を切られたわけじゃあるまいし、イメージなどいくらでも復元できるに決まっている。こんな攻撃で倒せないことはおまえ自身わかりきっているだろうが」

 悔しがる黒死館を、東平安名はせせら笑った。

「ならばおまえは私をどうやって倒す気だ? おまえ同様、私だってこの世界ではいくらでも復元できる」

「なら、もう一段深いところに入ってやる」

「な、なに?」

「おまえよりも心の深いところに入り込めば、おまえからは攻撃できないし、あたしの攻撃を防御することもできない」

「貴様、私の限界がもう一段だけだとでも思っているのか?」

「ならば、それよりももっと深いところに行くまでさ」

「ふん、この私と潜りっこをする気か? おもしろい。受けて立とうではないか。いちいち相手の了解を得なければ、精神に入り込めない三流のサイコポーターが!」

 東平安名と黒死館は同時に、慎二の目の前から消えた。


   2


 薄汚い精神だ。

 東平安名は黒死館の魂の奥底に向かって泳ぎながら思った。

 まるで夜にヘドロの海へ潜っているような気になる。

 真っ暗な中に、有象無象の化け物どもがまるで深海魚のように蠢いている。

 こいつらは黒死館の歪んだ欲望を具現化したものなのだろう。

 隣では黒死館が平行して泳いでいる。こいつの行き先こそが深層意識の底だ。

「なかなかやるじゃないか。だがどこまでついてこれるかな?」

 黒死館は相手を見下した顔で笑う。

「ふん、底に近づけば近づくほどおぞましい世界になっていく。人間の底が割れたな」

「黙れ。きれいごとをいうな。どんなに善人ぶった人間でも、魂の奥底は似たようなものに過ぎん。おまえだって何人もの人間の魂を共有しているのならわかるはずだ」

「あいにくあたしは相手を選んでるからね。そんな経験はないのさ」

「ふん。違うな。そこまで深く入り込んだことがないだけだ」

 黒死館は勝ち誇る。

「見ろ、あれが私の魂の根源だ。貴様はこれ以上近づくことはできまい」

 黒死館が指さした方向にはほのかな灯りが見えた。

 だが東平安名は容赦なくその光に寄っていく。

 すぐ間近まで来たとき、その発光体が胎児であることに気づいた。いや、胎児というには少し成長しすぎている。三歳くらいの女の子だ。しかし胎児のように体を縮こめ、臍の緒が繋がっている。

「マリア様」

 黒死館の口からその名が漏れた。

「……なぜ、なぜここにあなたが?」

 胎児は黒死館の問いに答えず、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「これがおまえの魂の奥底か? ふふん、知らず知らずのうちにマリアに洗脳されていたようだな、黒死館」

「ち、違う。私は洗脳などされていない。私は自分の意思で……」

 東平安名はさらにマリアに近づいた。だが黒死館はそれ以上中に入ることができなかった。まるで見えない壁に遮られているかのように。

「そこから入って来れないのはまさに洗脳されているからだろう?」

 東平安名は動揺する黒死館をあざ笑う。

「違う。私はただ、マリア様に敬意を払っているだけだ。洗脳などされていない」

「ふふん。この虚像を消せば、ひょっとしておまえの洗脳は解けるのかな? それとも死ぬのかな? どっちにしろやる価値はあるな」

「よせ。やめろ。そんなことをしても無駄だ。私は死なないし、そもそも洗脳などされていない」

「おまえが必死になって止めようとすればするほど、あたしはやりたくなる」

 知らず知らずのうちに口元が笑っている。サディスティックな笑いがこみ上げてくる。

「忘れてるんじゃないのか? おまえはアヤカの精神をレイプした。あげくに操り人形にして、殺した。そんなおまえの頼みをあたしが聞くとでも思っているのか?」

「頼むからやめてくれぇえええ!」

「あははははははははははははは」

 東平安名は見えない刃で胎児をずたずたに引き裂いた。

「ぎゃあああああああああああ!」

 響き渡る断末魔の叫び。しかしそれは引き裂かれた胎児ではなく、黒死館の口から出た。

 切り刻まれた胎児は霧散して消える。同時に黒死館のイメージも消え失せた。


   *


 体が本物の液体に浸かっている感触。

 東平安名は帰ってきたことを実感した。

 ここはサイコポートするときに使用するカプセル。中には液体を満たし、それに浸かることで究極のリラックス状態になり、他人の心に入りやすくする。

 手の側にあるボタンを操作すると、カプセルのふたは開いた。

 東平安名はカプセルから出ると用意しておいたバスタオルで裸の肉体を拭う。

「誰だ?」

 暗がりの中に誰かの気配を感じた。誰もいるはずのない部屋に。

 とっさにカプセルの手元のスイッチを入れ、照明を点ける。部屋の中にはくたびれたスーツを着た若い男がいた。

「三月陽介」

「久しぶりだね。龍香さん」

 三月は癒し系の顔に笑顔を浮かべた。

「どうやってここに……、いや、それは聞くまい。おまえならそれくらいのことはできても驚かない。鳳凰院出身の男だからな」

 東平安名はどうどうとカプセルの側に置いておいた着替えに袖を通しつついった。

 鳳凰院は表の権力と結びつくために、一世代前に一族の者を三月グループに嫁がせた。その息子が三月陽介であり、三月グループの跡継ぎであると同時に、鳳凰院の隠れた一族でもある特殊な人間として育てられた。それは鳳凰院一族の人間でも首領以外は知らないはず。

 それが情報屋を使い、何年も掛けて集めた情報だ。

「そういうあなたこそ、龍王院出身じゃない?」

「ふん、知っていたのか? シンですら知らないことなのにな」

 自分が同様に龍王院と東平安名の隠れたハイブリッドであることはお見通しらしい。

 一族が生き残るには、いつの時代だって金と権力の後ろ盾がいる。戦後の平和な世の中において、龍王院は日本を代表する企業グループと、警察という国家の力と結びついた。鳳凰院が企業複合体やマスコミと手を組んだように。

 互いに同じようなことをやっている。狐と狸の化かし合い。しかも味方すら欺いている。

「あなたが僕を監視し続けたように、僕の方でもずっと見てきたからね」

「美咲がスパイだってことは知ってたのか?」

「まあね、逆に利用することだってできるし」

「曙学園の情報はわざと流したのか、あたしを動かすために」

「お気に召さなかったかな?」

「べつに。お互い出し抜き合うのがあたしたちの宿命だ」

 互いに笑った。べつに可笑しくもないのに。

「それで用件は? まさかあたしを殺しに来たわけでもあるまい」

「手を組まない? 少なくとも相手が『楽園の種』の場合は」

「自分とこだけじゃ手に余るってか?」

「そっちだってそう思ってる癖に」

 ふたたび互いに笑った。たしかにこの男のいうとおり、強力な味方は多ければ多いほどいい。それほど敵は手強い。

「それでシンを助けたのか?」

「そう。手見上げがわりにね。虹村さんは間に合わなくて残念だったけど」

「まあいいさ。こっちもその気だ。だから薫子には美咲を救援に送った」

「じゃあ、取引成立っていうことで」

 東平安名はスマホを取ると、慎二の番号を呼び出した。


   3


 慎二の目の前に黒死館が立っていた。

 しかしここはもはやべつの世界ではない。やつの研究所の地下だ。炎はもう収まっていたが、まだかすかにやつの手下たちの肉が焼ける匂いが液体燃料の匂いに混じって鼻を突く。

 死んでいる。

 黒死館の体からは、微弱なものを含め、一切の思念波が出いてない。

「俺が殺す前に、勝手に死にやがって。この早漏野郎が」

 慎二は黒死館の顔を思い切りぶん殴った。

 頭蓋は砕け、眼球が飛び出す。そのまま糸の切れた操り人形のように床に崩れ去った。

 そんなことで気は晴れなかった。マシンガンのように殴り、蹴り、さらに鋼鉄の爪のような指先で筋肉をむしり取った。

「勝手に死ぬな。生き返れ。生き返って俺と勝負しろ、このゾンビ野郎! くそ、くそ、くそ、くそ。とっとと生き返れ。俺に殺させろ。殺させろよぉぉおおおおおおお!」

 あっという間に黒死館の死体は無惨な細切れとなった。

 落ち着け。冷静になれ。

 目をつぶり、深呼吸する。なにをするべきか、見失ってしまったからだ。

 まず、ネズミを止めるのがほんとうに不可能なのかどうか調べるべきだ。やつがいっていたのはでたらめかもしれないからだ。

 黒死館がいた奥の部屋に入ってみた。ひょっとしてネズミを操る機械かなにかがあるかもしれないと思ったからだ。

 だがそこはただのがらんどうだった。

 壁を壊そうが、天井をはごうが、なにも出てこない。

 慎二のスマホが鳴る。東平安名からだった。

「いったいなにが起こったんだ? わかるように説明してくれ」

『潜りっこはあたしが勝った。やつ自身が入り込めない領域まで潜り込んだからな』

「それで?」

『そこには胎児がいたよ。胎児といっても三歳くらいの女の子だ。よくわからんが、それが黒死館にとってのマリアのイメージだ。これを壊せば、やつの洗脳が解けるかもしれないと思った』

「洗脳? やつはけっきょくマリアに洗脳されていたってわけか?」

『ああ、おそらく黒死館を数段上回るマインドコントローラーだ。サイコポーターとしてもとうぜん上だろう。黒死館が自分の深層意識に張った防御壁を飛び越えることなど、マリアには朝飯前だったんだろう。あたしにはとうてい無理だがな。……黒死館は自分が洗脳されていることすら気づいていなかったってことだ』

「だから、洗脳の元であるマリアのイメージを壊した?」

『ああ、あるいはそれで洗脳が解けるかもしれないと思った。その結果やつはどうなった?』

「死んだ」

『やっぱりな。そうは思っていた』

 それは一度洗脳されれば、解除不可能ということか?

 いや、黒死館はマリアに直接洗脳された。だが、今回の事件で洗脳を担当したのは黒死館、マリアほどの力はないはず。まだ望みはある。

『そこでネズミを止められそうか?』

「だめだ。やつがいったとおり止められない。現場でなんとかするしかない」

『そうか。とにかく、あたしは限界だ。少し休ませてもらう。学校のことは任せるぞ、シン、美咲の応援に行け。ついでに鳳凰院の女のことも助けてやれ』

「あの女を? なんでだ?」

『鳳凰院とは手を結んだ。仲良くやれ』

 冗談じゃねえ。あいつは俺を顔を見るなり殺そうとしたやつだぞ。

 慎二は憮然として電話を切ると、倒れている『飛龍』を起こし、乗った。

 待ってろ、美咲。

『飛龍』は地上に向けて、階段を高速で駆け上る。

 走りながら、無線で美咲に連絡を入れるが応答がない。

 まさか死んだんじゃねえだろうな? あの料理のできない戦闘馬鹿。


   4


「おいおい、君はなんともないのか? その剣を掴んで」

 藤枝が不気味なものを見るよう目を薫子に向ける。

「この剣は、持つものの血を啜り、精気を吸い取る」

 薫子は相変わらず、鋼製の蜘蛛の糸で床に貼り付けになった状態でいう。

「そんなものを掴んでどうする? 実際顔色が悪いよ。真っ青だ」

「おまえは掴んだ瞬間に離したからわからない。あのまま我慢して持っていれば面白いことが起こったのにね」

「ふん、なんだいそれは?」

「悪魔との契約」

 薫子はそういいながら、口元が緩んでしまう自分が可笑しかった。

「悪魔だって? そいつと契約すれば、その状態でワイヤーを断ち切れるのか? 逃げようとして四方から高出力電磁波を浴びてもかわせるのか?」

「そんなことはできない」

「ならば僕の勝ちは動かない」

「そう?」

 薫子は立ち上がった。いや、体は相変わらず床に押さえつけられ、ほとんど身動きすらできない状態だ。だが、立ち上がることができた。

 もちろん立ち上がったのは薫子の霊体だ。

 今薫子は身になにも身につけていない。魅惑的な裸身を敵に晒している。ただし手ぶらではなかった。右手に『千年桜』、左手に『伯爵の牙』のそれぞれの霊体。そういうしかない。なぜなら『千年桜』も『伯爵の牙』も、その実体は相変わらず薫子の肉体が握ったままだからだ。

「おまえは……いったい?」

「薫子?」

 驚愕の表情で叫ぶ藤枝と美咲。彼らにも薫子の霊体が見えるらしい。

 しかしまわりを舞い狂う蝶たちはしょせん機械に過ぎなかった。薫子が立ち上がったのに、肉体がそのままというだけで攻撃を開始しない。

 薫子は、蝶のうち、まず藤枝の意思で動く遊撃隊を瞬時にたたき落とした。続いて自分を中心に竜巻のように回る黒い固まりに向かって、二本の剣を振るう。

 まるで自分の剣とは思えないほどの速さだった。

 肉体を脱ぎ捨てたとき、自分はこんなにも早く動ける。

 薫子はちょっとだけ感動した。

 気分を良くし、そのまままるで踊るかのように両手の剣を続けざまに振るう。

「おおおおおお」

 藤枝がおののいている。無理もない。自分の切り札であるはずの黒い蝶たちがまるで枯れ葉のようにつぎつぎと床に舞い落ちていくのだから。

 ぜんぶたたき落とすのに、ほんの数秒しかかからなかった。仮に藤枝があわてて蝶の自動攻撃プログラムを解除し、コントロールを取り戻しても、攻撃は間に合わなかったろう。

 薫子はそのまま剣を二、三振りすると、自分の肉体を拘束しているワイヤーをすべて断ち切った。

「まて、動くな。この女を焼き殺すぞ」

 藤枝が叫ぶ。美咲を人質に取ったということは、本格的に危機を感じたのだろう。

「半分は自動攻撃プログラムにしていたが、解除した。ぜんぶ僕の意志で攻撃する。この数なら一瞬で焼き殺せるぞ。さっきはあっけにとられて攻撃し損ねたが、同じ失敗はしない。いくらおまえが化け物でも一瞬でこの数の蝶は打ち落とせないはずだ」

「やれば?」

「なにぃ?」

「たかだか神のふりをした不格好なからくり人形が、悪魔の力に勝てるとでも思ってるの?」

「舐めるな!」

 藤枝の体から邪悪で攻撃的なオーラが飛ぶ。それは藤枝の胸のあたりから発し、幾筋もの線に別れ、飛んでいる蝶に反射し、美咲の心臓に向かっていた。

 それこそは実際の攻撃に一瞬先だって見える藤枝の霊体の動きであり、攻撃の意志。『千年桜』を通してみる殺気だ。

 薫子は藤枝の元に飛んだ。

 実際には走って間合いを詰めたのだが、肉体の枷のない薫子のスピードではまさに飛んだといった方がいい。三メートルほどの距離の移動など、まさに瞬間的なことだった。

 薫子は『伯爵の牙』を、藤枝が邪悪な気を発している胸の部分に突きたてた。

 こここそが、あの蝶のコントローラーに違いないからだ。

「ば、……馬鹿な?」

 藤枝は信じられないといった顔だ。

 コントローラーの場所を探し当てられたのが信じられないのか?

 それとも、銃弾すらはじき返す外部の装甲を貫いたことが不思議なのか?

 べつに不思議でもなんでもなかった。

『伯爵の牙』は外部の堅い装甲は霊体としてそのまま素通りした。そして問題の蝶を操る機械だけを物理的に破壊した。

 これこそが『伯爵の牙』の真の力。今の薫子は霊体として物質を素通りすることも、掴んだり打撃を与えたりすることも自由自在。

 美咲のまわりを舞い踊っていた蝶たちは、まるで美咲から興味をなくしたかのようにふわふわと周辺に散っていった。

「き、貴様!」

 藤枝はとっさに薫子の首を絞めようとした。しかし藤枝には霊体である薫子を掴むことすらできない。すかすかと薫子の霊体を突き抜けるばかり。

「こ、こんな馬鹿なことがあってたまるか!」

「ほうら、だからいったでしょう? 神の奇跡を気取った機械の力じゃ、本物の悪魔にはぜったいに勝てない。偽物の神の使いは人間界にはいらない。地獄にでも行けばいい。地獄の鬼どもをだまして、地獄を楽園にするのね」

 あとはこのまま『伯爵の牙』を藤枝の頭部めがけて振り抜くだけだ。体がどれだけ機械化されているかは知らないが、脳だけは生身のはず。そうすればたとえどんな堅い人工頭蓋骨でプロテクトされていようと、『伯爵の牙』はスルーして内部の脳だけ破壊できる。

「待て! 俺を殺せば、ネズミはとんでもないことになるぞ」

 勝ち目がないと悟ったか、藤枝は口早に絶叫する。

「どういうこと?」

 薫子は、剣を振り上げようとするのをとめた。

「気づかないのか? この部屋のまわりをネズミの大群が取り巻いていることを」

「わっ、ほんとだ。い、いつのまに……」

 美咲が廊下を見て叫んだ。

 少し意識を藤枝に集中しすぎた。薫子が『千年桜』の意識を広げると、まわり中から膨大なおぞましい殺意が薫子たちに向かって放出されている。ひとつひとつは取るに足らないものかもしれないが、もはやそれらはひとつに統合され、人間に対する憎悪の塊と化していた。それはもう巨大な化け物となんら変わらない。

「どうして襲ってこない?」

「一種のバリアを張っているからだ。ネズミたちは僕の出すある種の波動に集まる。そのままじゃあ、真っ先に餌食になるのはこの僕だ。だから一定の距離以上は近づけないように別種の波動のバリアを張っているのさ。僕を殺せば、そのバリアも消えるぞ」

「だけどおまえが死ねば、ネズミを集める波動も止まるんだろう?」

「止まらない。僕が自分の意志で止めることもできない。そういう風にセットされている。だから僕が死ねば、ネズミたちはいっせいにここになだれ込む。真っ先に牙を突きたてるのは僕の死体だろうが、僕の体はネズミごときには食い破られないからね。そうなれば、やつらが次に狙うのは君たちだ」

 藤枝は、口元に薄ら笑いを浮かべた。

「薫子、はったりかも」

 美咲の声が聞こえる。そうかもしれない。だけど、もし藤枝のいうことがほんとうだとすると、絶対に助からない。

 見なくても、薫子にはどれだけの数のネズミがまわりにいるかわかる。そしてそいつらがどんな感情を向けているかも。

 こいつらがいっせいになだれ込んでくれば、『千年桜』と『伯爵の牙』の両方を使っても無駄だ。数分で間違いなく喰い殺されるだろう。

「美咲さん、こいつを連れて学校から出よう。どこか人気のないところまでネズミを誘導するのよ」

「わかった」

 その瞬間、背筋の凍るような不気味な笑い声がした。

「グギギギギギギ」

 薫子の足下に、伯爵がたたずんでいた。

「なにをかったるいことをいっている。さっさとこいつの血を吸わせろ」

「だめよ、伯爵。そんなことをしたら……」

 だが伯爵はおとなしく薫子のいうことを聞いているような生やさしい魔物ではなかった。藤枝の体に異変が起こる。

「ぐはぁああ」

 藤枝の顔がみるみるうちにやせ細り、ミイラのようになっていく。

 胸にささった『伯爵の牙』の霊体を通して、藤枝の血が流れ出していく。血は霧散するように消えていった。

「な、なにやってるのよ、薫子?」

「と、止まらない。止められない。美咲さん、ドアを閉めて。窓もよ」

 美咲は廊下から部屋に入り込むと、ドアを閉め、鍵を掛ける。

 その間、『伯爵の牙』は完全に藤枝の血を吸い尽くした。その時点で、『伯爵の牙』の霊体は、ようやく藤枝の体から抜ける。

「グギギギギ、おまえのいうとおり、あいつは地獄に送っておいてやった。感謝しろ」

 伯爵はそれだけいうと、消えた。

「感謝しろ? 冗談じゃない。おかげで絶体絶命よ」

 いなくなった伯爵をののしりながら、薫子は自分の肉体に戻った。

 ワイヤーのない今、自由になったはずなのに、異様な怠さを感じ、うまく体が動かせない。

 身軽な霊体の動きに慣れたから? それもあるだろうが、少しずつ『伯爵の牙』に手の平から血と精気を吸い取られ続けたせいだ。生体エネルギーが極端に減っている。

 これ以上素手で掴んでいるわけにはいかなかった。落ちていた布袋を拾うと、『伯爵の牙』を入れて封印する。そのころ、美咲は窓を必死に閉めようとしていた。

 だが少し遅かった。すでに窓からネズミはなだれ込んできている。美咲は必死で閉じて鍵を閉めたが、すでに数十匹、中に入り込んでしまった。

「ぎゃああああああ」

 窓の外から悲鳴が聞こえる。

 見ると香坂に洗脳され、藤枝の手先と化した生徒たちがネズミに襲われている。

「七瀬!」

 この学校ではじめて友達になった七瀬も例外ではなかった。あっという間に体中に黒だかりができた。そのままネズミの海に引きずり込まれる。

 彼らは黒い海の中で溺れていた。

 必死に両手をばたつかせ、黒い海に飲み込まれないように。

 七瀬もその中のひとりに過ぎない。必死な顔で絶叫しつつ逃れようとしている。

「どうして、どうして? マリア様は……ひいぃいいいいい」

 七瀬の顔にネズミが襲いかかった。鮮血が飛び、肉を食いちぎられ、マスクでもしたかのように毛むくじゃらな生き物で顔を覆われる。ばたばた振り回す両腕にもネズミは群がり、そのまま黒いうねりの中に飲み込まれていく。

 薫子にはなにもできない。唖然としてその光景を見ているしかなかった。

「薫子、なにぼさっとしてるの!」

 美咲の檄が飛ぶ。美咲はなだれ込んだネズミを必死で蹴散らしていた。

 薫子もそれにならって、ふらついた体で木刀を振るう。

 残った少数が部屋の隅に逃げ回ったころ、廊下からかりかりと不気味な音が鳴り響く。

「ドアを囓ってる」

 美咲が震えながらいった。

 いつの間にか廊下の炎は下火になってしまったのだろう。しょせんコンクリートの校舎。バイクのガソリンが燃え尽きればあとはほとんど燃えるものがない。藤枝に狂わされたネズミたちは、その程度の火にはひるまないらしい。

 しかもドアは木製だった。あの数のネズミならば、食い破られるのは時間の問題だろう。

 さらにガラスのひび割れる音がした。

 窓ガラスだ。外のネズミたちはキーキーわめきながら組み体操のように背に乗り、山を築き上げるとガラス面に顔をこすりつけて群がっている。そのプレッシャーで窓に蜘蛛の巣のような亀裂が走りだしたのだ。

 びしっ。びし、びし。

 絶望の音が耳に響く。

 ついにそのうちの一匹がネズミの山の頂上に駆け上り、その勢いのまま体当たりする。

 ガラスは全面、ほど同時に砕け散り、滝のようにネズミが窓から流れ落ちてくる。

 ネズミたち一匹一匹が放つ、どす黒い殺気の炎は、薫子の体全体に向かう。

 中に入り込んだやつからだけではない。外にいるやつらも壁を通して、燃えさかる毒蛇のように細長い殺気を放つ。

 その数、およそ数万。いや、もっと多いかもしれない。

 薫子は殺気の炎に体を焼かれたような錯覚を起こしていた。

 窓からなだれ込んでくるネズミの群れは、まるで船の底に開いた大穴から入る海水のような勢いだ。

 薫子はふたつの剣で必死にたたき落とす。もちろん美咲も龍王院の技でたたきつぶしていくが、ふたりでなんとかなる数ではない。

「薫子、藤枝の体の中の機械を壊すのよ!」

 美咲が叫んだ。ネズミを呼ぶ装置を破壊しろということだ。

「でも、そんなことをしたら……」

 制御不可能になったネズミたちが学校中に散らばる。

 今はネズミたちは、この部屋の中にしか興味がないらしいが、それは藤枝の放つ音波だか電波だかに引きよせられているせいだ。それを絶てば、そこら中の人間を襲うに決まっている。

 そもそも藤枝の体にはネズミが群がり、黒い固まりは団子のようにふくれあがっていた。なまじ体が頑丈にできている分、ネズミたちも食い破れず、覆い被さることしかできない。そしてあとから来るやつがそんなことかまわずに、次から次へと上にのし掛かっていくからそうなる。そいつらを掻き分けて藤枝の体になにかしようとするのは、自殺行為に他ならない。

 ある意味、薫子たちが襲ってくるネズミたちをかろうじて裁けるのは、ネズミの大半が藤枝のところへ行くからだ。

 でもなんとかしないと。このままじゃ殺られる。

 なにしろ相手はほとんど尽きることがなく襲ってくる。こっちには体力に限界がある。ただでさえ貧血でふらふらなのだ。しかも逃げるにも逃げ場なんてない。どこもかしこもネズミだらけなのだから。

 今、薫子も美咲も壁を背に前面から襲ってくるはぐれネズミたちをなんとかしのいでいる。もし藤枝の体に牙が通らないことに業を煮やしたネズミたちが標的を変更し、いっせいに襲いかかってきたら防ぎようがない。

 薫子の焦りは限界に達していた。体力は当に限界を通り越し、気力だけで動いている。美咲だってたぶん同じだろう。

 入り口の木製ドアがめきめきと生木を裂くような音をたてだした。見ると下の方の蝶番の部分が囓り取られ、外から押し寄せるネズミの圧力でドアの下端が内側に押されている。

 ついにドアがはじけ飛んだ。

 廊下にいたネズミたちが波となって押し寄せる。

 それだけじゃなかった。いきなり天井が崩れ落ちた。

 知らない間に天井裏にも大量に入り込んでいたらしい。ネズミたちが台風のときの雨のように頭上から降り注ぐ。

 もうだめだ。

 ついに薫子があきらめかけたとき、廊下を太陽のような炎が流星のごとくこちらに向かって飛んでくるのを感じた。

 薫子は、それがほんとうの光景かと一瞬錯覚したが、すぐに『千年桜』で感じる霊体の動きだと理解した。

 その霊体には見覚えがある。

 黒い固まりが爆音とともにドアから飛び込んできた。

 バイクに乗った黒ずくめの男だった。

 薫子の全身に牙を立てようとしていたネズミたちも、男が放つ激流のような気に反応したのか、薫子の体から離れ警戒態勢を取る。

「美咲、生きてんだろうな?」

 男は叫ぶ。

 顔はヘルメットで隠れていたが、その霊体は、薫子が二度にわたって剣と拳をかわした男。

「おまえは?」

「兄貴」

 ふたりは同時に叫ぶ。

 兄貴? 美咲さんはあの男の……。

 あの大男はふたりの姿を確認すると、なにやらバイクのハンドルのあたりのレバーを操作した。

「壁を爆破する。美咲、物陰に隠れてろ。鳳凰院、めいっぱい息を吸ってとめろ」

 一瞬判断できずに立ちつくしていると、美咲が体当たりをかませ、ベッドの物陰に倒れ込んだ。薫子はなにが起こるのかよくわからなかったが、美咲に身を任せた。

 バイクの前面からなにかが飛び出す。それは外に面したコンクリートの壁にぶち当たると激しい爆音とともに炎を発した。

 ミサイル?

 それはまさに小型のミサイルだった。壁は吹き飛び、一瞬煙でなにも見えなくなる。

 だがネズミたちがその瞬間、いっせいに物陰に隠れるのがわかった。

「乗れ!」

 その声に薫子と美咲は動いた。とにかく今の一撃で、ネズミたちは非難した。こいつらがふたたび動き出す前に逃げ出すしかない。

 ふたりはバイクの後ろに飛び乗る。まだ煙で視界が悪かったが、霊体が見える薫子にしてみれば問題ではなかったし、美咲も似たような能力を持っているらしい。

 爆煙が外に流されるころ、ネズミたちは様子をうかがいながらじりじりと薫子たちに近づいてくる。

 側には藤枝の死体が転がっている。制服は囓られ、全裸を晒しているが機械化された体のため、骨にはなっていない。かわりにロボットのような装甲がむき出しになっていた。

 バイクの後ろの部分からなにかが飛び出した。分銅の付いたワイヤーだった。それは藤枝の体にくっつく。磁石になっているのかもしれない。なにせ藤枝の体は機械化されている。

「なにする気なのよ? デカブツ」

「だ、誰がデカブツだ? ネズミを誘導するに決まってるだろうが」

 恐る恐る様子をうかがっていたネズミの一匹が飛びかかってきた。それを合図に、一定の距離を置いて囲んでいたネズミたちがいっせいに動く。

 まるで黒いつむじ風が舞い上がり、自分たちに向かって吹き荒れるようだ。

 悪魔の風が自分たちを包む前に、バイクは飛び出した。

 たった今ぶち開けた外壁の穴を通り、外に着地するなり猛スピードで走り出した。少し距離を置いてワイヤーに固定された藤枝の体が地面にバウンドする。

 ネズミたちは我先にと藤枝に集まろうとする。しかしバイクの方が速い。バイクは藤枝を引きずりながら走り、ネズミの大群がそれを追う。

「どこ行く気よ?」

 薫子がそう聞いたときには、バイクはすでにプールの側まで来ていた。

 そうか。プールに入れる気か。

 しかし、藤枝をプールに下ろす余裕があるか? ネズミはすぐそこまで追ってきている。

「どうやって藤枝の体をプールに入れる気?」

「ふん」

 男がバイクを急旋回させると、反動で藤枝の体が宙に舞う。

 分銅の電磁石を切ったのか、藤枝の体はワイヤーの拘束から解放され空高く舞った。そのままプールの中にざぶんと落ちる。

 もはや薫子たちなど眼中にないようだ。外部のフェンスに瞬く間にネズミたちが群がる。そのまま次から次へと、プールの中になだれ込んでいった。

 プールの水がフェンスの隙間からあふれ出す。だがネズミたちはそんなものをものともせずにプールの中に駆け込んでいった。

 高校では珍しい五十メートルプールはあっという間にネズミで埋まった。プールの中だけでは収容しきれずに、プールサイドにも広がり、さらにはネズミの群れの上に次々とのしかかり、山を築き上げていく。下の方のネズミはもう勝手に溺れてるかもしれない。

 それは異様に不気味な光景だった。

 学校中のネズミが集まったのか、ついにはプールに駆け込むネズミがいなくなった。

「い、いったい、何匹いるのよ、これ?」

「知るか」

 男が面倒くさそうに吐き捨てる。

「おい、降りろ」

 さらに薫子と美咲にいった。

「プールに集めたはいいけど、いったいどうやってあれを始末する気なのよ?」

 薫子は男のえらそうな態度に腹を立てつつ降りると、突っかかった。

「ああ? こうやるに決まってるだろうが!」

 男はバイクのハンドルに突いているスイッチを押すと、さっきまで薫子が座っていた後ろの座席の部分が左右に開いた。中にはなにか丸い穴がいくつも空いている。

 そこからぽんぽんと連続していくつも飛び出したものは、いったん上空へ登ると虹のように弧を描いて急降下し始めた。

「ま、まさか、あれ……」

「ナパームだ」

 そしてそれはプールに落ちると、真っ赤な炎を含む黒煙がまるで噴火でもしたかのように天高く舞い上がる。むせかえるようなガソリンの匂いとともに熱風が吹き荒れる。思わず吸い込むと、強烈な匂いと熱さで鼻腔が焼けるような気がして、鼻を押さえ、咳き込んだ。目には涙が堪っている。

「ちょ、ちょっと、そういうことは先にいってよね。準備ってもんが……」

「はっ、それくらい予期しろ。想定内だろうが」

「呆れた。まるで戦争屋ね、あんた」

「あたりまえだ。これは戦争だ。知らなかったのか?」

「あたしたちの本来の姿は目立たず、人知れず任務遂行でしょう? たとえ戦争中だろうとね」

「ほう? 鳳凰院はそうなのか? だがそんなことは知ったこっちゃねえ。俺たちのやり方には口を出すな。みみっちいのはまっぴらごめんだ」

「ごめんねえ、薫子。こういう野蛮人な兄貴でさ」

「やかましい」

 ネズミたちは断末魔の叫び声を上げながら、炎の中を狂ったように踊った。花火のように、燃えながらあたりに飛び散るネズミたち。だがそれはつかの間のことだった。プールからこぼれ落ちた大量の水はグランドの土と混じり泥水になっている。ネズミたちはその泥の中でのたうち回り、すぐに動かなくなった。

 学校の内と外から大歓声が鳴り響く。

 終わった。

 ナパーム独特の異臭に混じった肉の焼ける匂いを嗅ぐと、薫子はようやく不気味なネズミたちの最後を感じ、安心した。

「ところで、……どうしてあたしを助けたのよ?」

「知るか。命令だ。俺を殺そうとした女をそうでなきゃ誰が助けるか」

「あたしたちの上層部が手を組んだみたいよ。つまりあたしたちは仲間になったわけ」

 美咲がフォローした。

「っていうか、美咲さん、あなたスパイだったわけ?」

「もう、薫子ったらすんだことをうじうじと。仲間になったんだから気にしない、気にしない」

 薫子の首に腕を巻き付け、もう片方の拳で頭をぐりぐりする。

「まあ、……一応礼はいっておくよ」

 頬を膨らませながらそういうと、美咲はけらけら笑った。

「ところでふたりともどうして保健室のことがわかったのよ?」

 薫子はふと疑問に思ったことを口にした。ふたりとも起こっているできごとがわかっているかのように一直線に自分のところに駆け込んできたのが不思議だった。

「おめえだいぶ感情が高まっていただろう? 思念波が強烈に出ていた。まあ、他からもいろんな生徒が出していたが、おめえと美咲の思念波の形は良く覚えているんだよ」

「思念波? なにそれ?」

「それは龍王院の秘密だ。誰がてめえなんかに教えるか」

「ふん」

 よくわからないが、薫子が霊体を見られるのと同じように、他の人間には感じられないその人間の固有のものを読み取る力があるのだろう。

 ようやくそのころ、危機が回避できたと思ったのか学校の中から教師や生徒たちが恐る恐る出てきた。さらには学校の外から報道陣が警官の包囲を振り切って押し寄せてくる。いや、そもそも事情を知らない制服警官がこっちに向かって走ってくる。それも「いったいこいつは何者だ? 逮捕してやる」とでもいった顔つきのまま。

「じゃあな。俺たちのことは誰にもいうんじゃねえぞ」

 龍王院の男は小馬鹿にするような口調で薫子にいった。バイクの後ろにはいつの間にか美咲が座っている。

「木刀貸して。部屋に戻しといてあげるよ。警察の事情聴取がはじまるから、そんなもの持ってたら面倒でしょう?」

 美咲はそういって、薫子から木刀二本を奪った。

『千年桜』だけなら一瞬で戻せるが、御札で封印している『伯爵の牙』はどうかわからなかったから素直に渡した。

「わかってると思うけど、そっちの剣は袋から出しちゃだめよ」

「わかってるって。さっき見てたからね。じゃあねえ」

 龍王院の男はそのままアクセルをふかすと、武装バイクを猛スピードで走らせる。

「ま、待て貴様。さっきの武器、いや兵器はなんだ? おい」

 あわてふためく警察官たちが銃を抜いて叫ぶ。

「止まれ。止まらないと撃つぞ」

 しかし制止命令を出したころ、ふたりの姿は遙かに遠くにあった。

 押し寄せる警官隊をかわし、正門でひしめき合うマスコミを尻目に、化け物バイクはジャンプすると塀を軽々と跳び越えた。

 もう目では追えないが、薫子には彼らが猛スピードでここから立ち去っていくのが感じられた。


   5


『七時のニュースをお伝えします』

 テレビの画面で若い女性アナウンサーが厳粛な顔でいった。

『きょう、三時半頃、都内の曙学園高校にネズミの大群が押し寄せ、生徒をかみ殺すという事件が起こりました。犠牲者はただいま確認されている死者だけで十二名であり、現在その身元を確認中です。さらに重軽傷者を合わせると数十人になる見込みです。そしてこの騒動は、突然現れた顔を隠した黒ずくめの男が武装バイクからはなったナパーム弾によって収束を迎えました』

 画面では燃えさかる学園のプールが映し出された。

『この謎の男はこの後、やはり顔を隠した黒ずくめの女性を後ろに乗せ、現場から逃げ去りました。一見、事件解決の立役者に見えるこのふたりこそが、ネズミを使ったテロを行った犯人なのではないかという疑問も持たれています』

 カメラはバイクで逃走するふたりの後ろ姿をとらえる。

『それでは、今回の事件について動物学、気象学などさまざま自然科学の分野に精通しておられる田宮博士に意見を聞いてみたいと思います。田宮博士、今度の事件についていかが思われるでしょうか?』

 女性アナウンサーは、白衣を着た、どことなくアインシュタインを思わせる白髪の老人に話を振った。

『本来ネズミが集団で人間を襲うなどということはあり得ないことです。なぜ、あり得ないことが起こったか。自然の体系がどうしようもなく狂いはじめてきたのでしょう。今の段階では、具体的な原因は断定できません。しかし、温室効果を生み出す過剰な二酸化炭素の蓄積や、それ以外の大気汚染、どうしようもない海洋汚染、土壌の汚染。さらには原発からの放射能漏れなどの事故、あるいは国家間の戦争による自然破壊。地球はもはや末期状況に陥っているのです。そしてそれが気象を狂わせ、生態系をも狂わせている。今度の事件はおそらく氷山の一角でしょう。人間が開発という自然破壊をやめない限り、これからも自然の復讐は何度でも起こるでしょう。それが地球の意志なのです。そう、地球は人類という癌を排除しにかかりだしたのです。それが地球の生き残る最後の手段に他ならないからです。地球は人類を駆逐して、かつての楽園に戻ることを熱望しているのです』

「やれやれ。『楽園の種』の息のかかったマスコミや学者が情報操作に動き出したか」

 三月はマンガ喫茶のふたり用個室でテレビを見ながら呟いた。

「それだけ本気ってことでしょう?」

 ソファの隣に座っていた桜子がいう。

「まあね。首領もせっかく君たちを送り込んでくれたことだし、もうしばらくいる?」

「もちろん。だってあたしは薫子の役に立ちたいからね」

 桜子はぽっと顔を赤らめた。

「ふ~ん。そうなんだ?」

「それにこのまま放っておいたら、薫子があの龍王院のゴリラ男に貞操を奪われちゃうかもしれないしね」

 桜子があまり真剣な顔でいうので、三月は笑った。

「笑いごとじゃないわよ。三月さん、あんただって危ないし。っていうか、あんたこそ危ないよ。もろ薫子の好み」

「わかった、わかった。とりあえず、桜子さんは残留させてって首領には頼んでおくよ」

 桜子の顔がぱーっと輝いた。

「お願いよ。だってあたし、ネズミの大群のせいで薫子の学校に近づけなくて、あの男が薫子を助けるところを外から眺めてるしかなかったんだもの」

 最後は少しすねるようにいったあと、三月を睨んだ。

「それと薫子に手を出したら、ただじゃ置かないからね」

 テレビでは田宮が科学者だかカルト宗教の教祖だかわからないような熱弁を続けていた。


   6


 薫子が最寄りの警察署で受けた事情聴取が終わったころ、すでに夜になっていた。刑事はあの黒ずくめのバイクの男はいったい何者だとしつこく聞いたが、知らないと答えた。ただいきなりやってきて、危機的状況にあった薫子を救い出し、追ってきたネズミを焼き払ったとだけ答えた。けっきょく、警察は薫子をただ事件に巻き込まれた一般生徒で、謎のふたり組の顔も見ていないと判断したようだ。

 薫子が警察署の外に出ると、目の前に一台のパトカーが止まった。

「乗って。家まで送るわ、薫子さん」

 後ろのドアが開くと、長い髪を七色に染めた超絶美女が微笑んだ。

「いえ、けっこうです」

 パトカーとはいえ、乗っている人物があまりにもうさんくさい。それにそもそも警察に送ってもらうつもりもなかった。

「いいから乗るの」

 そういって、助手席の窓から顔を出したのは、美咲だった。

 あっけにとられつつも、薫子は車に乗りこんだ。とりあえずは不審な人物ではないらしい。

「出して」

 美女の命令で車を走らせたのは、あの男だった。苦虫を噛み潰したような顔で運転している。

「いったいあたしをどうする……」

 口を開いた薫子を、女が制す。

「はじめまして、薫子さん。あたしは、東平安名龍香。いちおう警察内では警視ってことになってる」

 隣の女は手を差し出し、半ば強引に薫子の手を握った。

「まあ、あたしは名目上警察内部の人間とはいえ、こいつらは違う。あたしが個人的に集めた。あたしたちの敵は『楽園の種』。薫子さんも今回のことで十分どんなやつらかわかっただろう?」

 薫子は頷いた。こいつらのせいで何人もの生徒が死んだ。その中には、はじめて薫子が友達になった七瀬も入っている。

「メンバーはあたしがリーダーで、実動部隊がシン。もうひとり内勤に情報収集担当がいる、アキラっていうのが。他にもいろいろサポートメンバーが何人もいる。ミサはそのひとり」

 ミサとは美咲のことらしい。

「そんなことあたしに教えていいわけ?」

「だってもう知っちゃっただろう、『楽園の種』のことを。それに龍王院と鳳凰院は正式に手を結んだ。つまりもうあたしたちは仲間」

「それ正式に聞いてないんだけど」

「じゃあ、確認しな」

 薫子はスマホで首領に掛ける。

「龍王院と手を結んだってほんと?」

 首領が電話に出るなり聞いた。

『ああ、敵は思った以上に強大らしいからの』

「雇い主は了解しているの?」

『龍王院との提携をいい出したのは三月じゃ』

「東平安名ってひとは信用していいの?」

『かまわん』

 薫子は通話を切った。なんか自分だけが蚊帳の外で、重要なことが勝手に決まっているような気がした。

「あなたが暫定的に仲間だっていうのはわかったけど、……なんの用?」

「べつに。ただの顔見せさ。シンの名前だって知らなかっただろう? ちなみにフルネームは龍王院慎二だけどね」

「なるほどね。それで『楽園の種』ってそもそも何者なの?」

「その正体はあたしにもよくわかってない。とにかく現在の科学力では理解のできない力を使い、世界征服をたくらむ強力な悪の結社ってとこだ。だから強い味方は多ければ多いほどいい」

 うさんくさい女だが、力になるなら手を組むことに異存はない。

 すでに『楽園の種』は任務を超え、薫子個人にとっても敵だった。自分を洗脳しようとし、自分の身近な命を何人も奪った。それだけで許すことはできない。

「ふん。やっと強大な悪相手に腕が震えると思うと嬉しいよ。まあ、仲間は気にくわないけど、腕の方は確からしいし」

「そういってくれると思ったよ、カオル」

 東平安名は変に省略した名前で薫子を呼び捨てにすると、満足げに頷いた。

「知ってるか? 龍王院流と鳳凰院流が手を組んだ場合、過去に敗北したことはないってことを」

 東平安名は『楽園の種』との戦いに勝利を確信したとばかりに高笑いした。

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