第七章 魔剣「伯爵の牙」
1
狭い保健室に、朝の満員電車でひしめき合うサラリーマンのごとく密集して舞う黒死蝶たち。その中で馬鹿笑いする制服姿の美少年、藤枝。不思議な光景だった。
不気味ともいえるが、ある意味美しく、ある意味のどかですらある。
しかし薫子にとっては屈強なやくざやマフィアの男たちに囲まれ、マシンガンを突きつけられているのと状況は変わらない。いや、それどころか、藤枝は薫子を拷問して殺すと宣言までしている。
考えろ。まだ方法はあるはず。
薫子は必死で解決策を探った。だが頭が働かない。香坂の爪から注入された薬のせいもあるかもしれない。あるいはこの藤枝の高笑いが神経を逆なでするのがいけないのか?
いっそ香坂を倒したときのように、なにも考えず藤枝の元に飛び込み、一刀両断のもとに斬り捨てるか?
成功の確率は低い。距離にして三メートルほど。さっきの香坂のときよりも遠い。いつもの薫子なら一瞬で間合いを詰められるが、今は薬のせいで足下がふらついている。それもさっきよりひどくなったような気がする。仮に上手く飛び込めても、藤枝は瞬時に電磁波の雨を薫子に浴びせるはず。よくて相打ちだろう。そもそも藤枝が蝶に頼らない場合の戦闘力が未知数だ。他にどんな武器があるかわからない以上、うかつに飛び込むべきではない。今、笑って隙を見せているのも、罠なのかもしれない。
ならば壁を壊して逃げるか?
薫子の腕と千年桜なら外壁のコンクリートはともかく、中の間仕切り壁を砕くことは可能だろうが、砕いてその穴から逃げるのはどう考えても藤枝に斬りかかるよりも時間がかかる。逃げ出すより先に体を焼かれるのはほぼ間違いない。却下だ。
電光石火の動きで藤枝を幻惑し、ドア、もしくは窓から逃げる?
絶対に無理だ。どう考えても逃げ切れない。
それ以上いいアイデアは浮かびそうになかった。ならばもっとも可能性の高いのは、藤枝の元に飛び込み、千年桜をふるう。
もっとも単純にしてストレート。愚策にも思えるが、今はそれがベストのような気がする。というか、それしかない。
勝負は一瞬。西部劇の早撃ち対決に似ている。しかも分は限りなく悪い。
だが覚悟は決まった。
薫子の気の変化を察したのか、藤枝は馬鹿笑いをやめた。かわりにその美しい顔に冷笑を浮かべる。
藤枝の体から出る、黒い炎を形取った霊体が静かに揺らめく。
「一か八かの勝負に出るつもりなんだろう?」
やはり、藤枝は薫子の行動を読んでいた。それでいてこの自信。自分が負けるかもしれないなどとは、ほんのわずかも思いつかないらしい。
「どうかな? 僕の力が蝶を操るだけだと思ってるなら大間違いだよ。近づきさえすればなんとかなるほど甘くはない」
まるで薫子の心を読んだかのような台詞をいう。
いや、もちろん実際にそんなことはできないのだろう。だが薫子の性格と、状況を考えるとそう考えるのがもっとも自然。というか、それ以外にない。
「おまえのほうこそあたしを、いや、鳳凰院を舐めている。鳳凰院にとって、この程度のことはピンチでもなんでもないさ」
「ほう?」
藤枝の体から発した無数の炎をかたどった霊体の糸が、蝶たちを経由して薫子の胸のあたりに集まる。
千年桜を通して見た藤枝の殺気。一瞬遅れて本物の攻撃が来る。蝶から発せられたレーザーにも似た、目に見えない超高出力電磁波の集中砲火が。
薫子は反射的に前に出た。さいわい足がもつれることもなく、一瞬で間合いを詰めることができた。
勝った。
香坂のとき同様、剣の切っ先で心臓を狙い、体ごとつっこんだ段階で、薫子は思った。
藤枝の狙いを示す、黒い炎のオーラの先が、薫子の動きに追いついてこれなかったからだ。
突然、藤枝の腹からなにかが飛び出すと、薫子の目の前で炸裂した。
「な?」
それは細いワイヤーだった。蜘蛛の巣のように放射状に広がると薫子の体を絡める。強力な接着剤でも塗っているのか、ワイヤーは完全に薫子の衣服に張りついた。先端には杭のようなものがついているらしく、壁や床に突き刺さり、薫子はあっという間に床に貼り付けになり、身動きがとれなくなった。とうぜん、剣を当てることもできない。
「ど、どうして?」
薫子には相手の攻撃が予知できるはず。どんなに殺気を押し殺そうと、『千年桜』の目をごまかすことはできない。
なのに、薫子には今の攻撃が予期できなかった。というか、藤枝は明らかに今の攻撃を意識して行っていなかった。
「機械の心までは読めない」
藤枝はそういって、勝ち誇った。
「原理はよく知らないけど、君は相手の攻撃を事前に察知できるんだろう? そうとしか思えない。機械からの、蝶からの見えない攻撃すらかわす。だけどそれは操っていた僕の殺気でも読んだんだろう? 完全にプログラムされた機械の動きはわからないはずだ。違うかい?」
返事はしなかったが、まさにその通りだった。
「だから僕はあらかじめプログラムしておいたんだよ。僕の体の中にある機械にね。君がある距離以上に近づいた場合、勝手に今の捕獲ネットが飛び出すようにね」
そんな手があったなんて。
『千年桜』は薫子が思っているほど万能ではなかった。人間や動物相手ならともかく、半分体を機械化した『楽園の種』のような相手には、必ずしも絶対の防御にはなり得ない。今はじめてそのことがわかった。
蝶たちが動いた。
網に絡め取られ、身動きとれずに地べたに仰向けに押さえつけられた薫子のまわりを、天井から床近くまで渦を巻いて回る。
まるで黒い竜巻の中に閉じこめられたような感じだ。
藤枝のオーラはもはや薫子を狙いはしなかった。
「もう僕は狙わないよ。蝶たちはプログラムで動くようにした。君ならそのワイヤーを断ち切ることだってできるような気がするしね。もし君が不自然に動いた場合、容赦なくマイクロ波を全身に浴びせるようにしておいたよ。もう、たとえ僕が死んでもプログラムは止まらない。蝶たちは壊されるまで永久に君を狙う」
不自然に動いた場合もなにも、今の薫子はほとんど身動きすらできなかった。
「馬鹿じゃないの、あんた? じゃあ、あたしがこのまま寝そべっていれば、あんたは攻撃できないってことじゃない」
「それもそうだね」
蝶の壁の後ろから藤枝がいう。
「じゃあ、こうしよう。蝶はこれだけいるんだ。べつに全部プログラム制御にする必要もないさ。たった数匹だけ僕がコントロールできるようにしておけばいい」
渦を巻き、円筒の黒い壁を作っている蝶の群れの中から数匹が中に入り込んできた。
それだけがべつの動きをする。薫子のすぐ上で、ひらひらと舞い踊る。
「君を殺すのにはそれだけいればいい。約束通り、なぶり殺してあげるよ」
藤枝の冷酷な声が響く。
「何度も王手を外してくれたけど、今度こそ詰みだ」
藤枝は蝶の回転で作られた壁からぬっと顔だけを出し、薫子をのぞき込む。
藤枝の出す何本もの糸状のオーラが浮遊する蝶を中継して薫子の胸に集中した。
肺を焼く気だ。
「最後にもう一度聞くけど、もしかして泣いて命乞いをする気はない? 恐怖に顔を引きつらせ、小便でも漏らしながらさ。ひょっとしたら僕の気が変わるかも。なにせ本来なら女の子に優しい王子様だからね」
藤枝はにやけきった顔で勝ちほこる。
「あ、……ああ、聞いて……あたしずっと思ってた」
「ふふふ、なにをだい?」
「王子様気取りで、取り巻き引き連れてるときのあんたの顔って、ナルシスト入ってるうえ、鼻の下伸ばして恥ずかしいったらありゃしないって。ひょっとして本人気がついてないのかなって」
「い、いいたいことはそれだけかぁ!」
「誰がおまえなんかに命乞いするか。そんな屈辱的なことをするくらいなら、丸一日素っ裸で授業受ける方がまだましよ」
「な……なら、死ねよ、糞女ぁ!」
死を覚悟した瞬間、雷鳴に似た音が轟いた。続いて激しくぶつかり合う金属音。最後に堅いものがコンクリートにぶつかるような音が響く。
「あはははは~っ、大当たりぃ」
聞き覚えのある脳天気な声がした。
「み、美咲さん?」
さっきの声は間違いなく美咲の声だ。
だけど、どうしてここに?
薫子のまわりを渦巻いていた蝶の壁が薄くなった。藤枝が新たな敵に対し、半数ほどを攻撃に回す気なのだろう。そのせいで状況がようやく目で確認できる。
藤枝は外に面した壁際に上半身を寄っかからせて倒れていた。制服の胸のあたりには大きな穴が開き、その周辺は焼けこげている。ただ藤枝の皮膚自体は傷ついていなかった。
コンクリートの壁には、まるで藤枝がものすごい勢いで体当たりでもしたかのように、大きなクラックが入っている。
保健室の入り口には案の定、ひとりの女がいた。まるでウエットスーツのように体の線がはっきりわかる一体物の黒いスーツを着ていた。腰には大型の拳銃。足には膝下まである堅そうなブーツ。頭部は口元だけが覗く黒いヘルメットで、目の部分はやはり黒いスキーゴーグルのようなもので覆われていたので顔は見えないが、千年桜で感じる霊体からして、この女が美咲なのは間違いない。
美咲はバイクにまたがっていた。その先端のライトの両脇には後部から伸びる長い銃口のようなものが突き出ている。その片っ方の先端から煙が出ていることから、今の衝撃はそこから発射されたのだろう。
それにしても藤枝に気を取られすぎ、彼女の存在にはまったく気づかなかった。
「やっぱり『楽園の種』の機械化テロリストか」
美咲は値踏みするように藤枝を見下ろし、吐き捨てるようにいった。
「貴様、『鴉』の犬か?」
藤枝はゆっくりと立ち上がると、薄ら笑いを浮かべる。
「そ、パートタイム・ディティクティブってやつ。『ハンター二号』ってあたしのことよ」
ど、どういうこと?
薫子が動揺したのは、藤枝以上だろう。『鴉』ってなんだ? どうして……。
「どうして、美咲さんが?」
「こらこら、気軽に敵の前で名前を呼ぶんじゃないよ、薫子。まあ、共通の敵の前、仲良くやろうよ。兄貴が世話を掛けたみたいだし」
共通の敵? 兄貴が世話を掛けた?
意味不明だが、自分を助けに来たことはどうやら確からしい。
「ふ、パートタイム・ディティクティブだと。つまりバイトくんか? 因果なバイトを選んだね。君、気づいている? 君のまわりを黒い蝶が飛んでるよ」
藤枝のいうとおり、薫子のまわりを回っていた殺人兵器の半分はいつのまにか美咲を囲って踊っている。
「『鴉』の犬ならすでに知ってるだろう? そいつの恐ろしさを」
「知ってるよ。たかが電子レンジだろう? ちょっと高出力過ぎるかもしれないけどさ」
「電子レンジか、なるほどね。君は料理が好きならしいな。だが……」
爆音が鳴り響き、なにかいいかけた藤枝の頭が大きく揺れる。美咲が二発目を藤枝の頭にぶち込んだのだ。
「そ、あたし、料理大好き」
嘘をつけ。嘘を。
「君は気が短いな。学校じゃ人の話は最後まで聞けって教わらなかったのか? 残念だがそんなものじゃ僕は倒せないよ」
藤枝のこめかみから、一筋の血が流れ落ちた。体は少しふらついたが今度は倒れない。だがえぐれた肉の下から見える頭蓋骨らしきものは人間の骨の色をしていなかった。
「へえ、丈夫なんだね、あんた。戦車の装甲だってぶち抜く弾なのに」
「じゃなきゃ、とっとと丸焼きにしてるよ。電子レンジでね。強者の余裕ってやつ?」
藤枝はへらへらと笑った。
「美咲さん、バイクから離れて!」
薫子は叫んだ。藤枝の攻撃が霊体を通して察知されたからだ。
バイクが爆発した。藤枝は美咲本人ではなく、バイクの燃料タンクを加熱したのだ。
炎を伴った爆風が部屋の中に入り込む。ドアの近くの薬だなから瓶が飛び、床にたたきつけられた。さいわい炎は一瞬で部屋の外に戻り、ベッドなどの可燃物を焼くことはなかった。美咲の正面に立っていた藤枝の制服だけが燃えたが、藤枝は顔色ひとつ帰るでもなく、燃える上着を脱ぎ捨て、足で踏み消した。
廊下は火の海となったが、美咲は爆煙の中で体を炎に包みながら何事もなかったかのように起きあがった。薫子の一言で、とっさにバイクを飛び降り、床に伏せたらしい。
「この格好をしているときは、あんたほどじゃないけど、不死身なのよ」
美咲は強がった。そのまま腰の拳銃を抜くと、藤枝に向かって乱射する。
「へえ、でも逃げるための脚を失ったね。もうすぐここにネズミの大群が押し寄せてくるよ。どうする?」
藤枝が弾丸を体に浴びながら、余裕をかます。
それもとうぜんだろう。戦車をぶち抜く銃弾でも倒れない男なのだ。
ならば薫子の攻撃を恐れなかったのも無理はない。いくら薫子が千年桜で攻撃したとしても、戦車の装甲は破れない。つまり剣技ではこいつは倒せない。香坂は体の一部が機械化されていただけだったが、こいつは体全体が機械化され、戦闘用の装甲をまとっているのだろう。いわばこいつ自体が戦場用に作り上げられた兵器だ。
弾が尽きたころ、さっきの爆発から逃げていた機械の蝶たちがふたたび美咲の頭上に舞い戻った。
「さっきみたく薫子さんが攻撃場所を教えるかもしれないからね。先手を打たせてもらったよ。飛んでる蝶の半分にはプログラムを与えてロックした。だからもう僕の意志を離れて勝手に攻撃する。さあて、攻撃は何秒後かな? ついでにいっておくと、半数はまだ僕のコントロール下だ。だからこれ以上下手な攻撃をするんじゃないよ。何秒かでも長生きしたければね」
薫子に続いて美咲までまさに絶体絶命だ。
そんな中、藤枝はひとり楽しそうに問いかける。
「さあて、薫子さんだけに聞くのも不公平だろう? 一応君のオーダーも聞いておこうか。君はどうやって死にたい?」
2
火山の噴火のように飛ぶ炎の固まり。それが四方から慎二を包むように襲った。
慎二は慌てず巧みなハンドルさばきでバイクを操ってかわす。だが耐火スーツを着ているにもかかわらず、側を通っただけで火傷しそうに熱い。相当の高温であることは間違いない。
「よう、火炎放射器人間、貴様やたらと涼しい顔をしてるが、彩花を殺したことにすこしでも罪の意識を感じてるのか?」
「俺が? 殺したのはおまえだろう? あの女を見捨てて自分ひとり逃げ出してな。俺はもう助かる見込みがないのに苦しんでいたあいつを楽にしてやっただけだぜ」
「黙れ。貴様だ。貴様が焼き殺したんだ。貴様らに狂わされ、車に押しつぶされて、動けない彩花をな」
中里の台詞は慎二の憎悪の念を燃え上がらせる。
そうだ。この野郎のおかげで、俺は彩花を車に残して逃げ出す羽目になった。俺にそんななさけねえ真似をさせやがって。こいつだけはどんなことをしてでもぶち殺す。
慎二は『龍の牙』の引き金を引く。弾は中里の眉間にぶち当たった。耳をつんざく発射音の残響に混じって、甲高い金属音が響く。
中里の頭はすこし後ろに振れただけで、倒れることすらなかった。ひしゃげた弾丸がころんと床に落ちる。
「全身鋼鉄の塊か? 臆病者のアルマジロが」
慎二は吐き捨てた。今まで相手にした機械化テロリストたちはここまで頑丈ではなかった。素早い動きで逃げ回るやつはいても、慎二が銃を向けても微動だにしなかったやつはいない。
「おまえの出現によって、装甲のスタンダードが変わったのさ。なにせいいかげんな装甲じゃ、素手の打撃で変形させちまうような男だからな。おかげでこっちは体が重くなっていい迷惑だ」
「じゃあ、これはどうだ?」
慎二はそのまま『飛龍』を急発進させ、体当たりした。
人間ではなく、動かない壁に衝突したような衝撃を感じたが、それでも中里は吹っ飛んだ。ビル解体用の鉄球がコンクリートにぶち当たったような音がした。
中里はコンクリートの壁にめり込んでいる。それから何事もなかったかのように一歩前に踏み出すと、白衣の埃を払った。
「本気で不死身らしいな」
「わかったらあきらめて死ね」
ふたたび中里の指先から高熱火炎が発せられる。炎は『飛龍』を赤く包んだ。
慎二はバイクを捨て、飛び降りる。バイクに乗ったままこの攻撃をかわし続けるのは難しい。
「おい、焼きすぎるなよ。中のロケット弾が爆発するぞ。それとも俺と心中でもしたいのか? そういうことは同じ趣味のやつとやれ」
そうはいったが、『飛龍』はそう簡単には爆発しない。火の海の中を走ってもだいじょうぶなように設計されている。エンジンや燃料、火薬まわりは超高性能の断熱材で守られている上、タイヤやボディも高熱に耐えられるようになっているのだ。とはいえ、あの高熱の炎を浴びせられ続ければ爆発しないとも限らない。この狭い空間で燃料と残りのロケット弾がすべて爆発すれば、相手も死ぬかもしれないが、自分も無事ではいられない。
もっとも中里は無人の『飛龍』には目もくれず、炎を慎二に向けた。だがそれをかわすことはさほど難しくはない。しょせんは噴出された燃える液体燃料、ボクサーのパンチの方がよほど速い。
「いつまでもちょこまか逃げ回れると思うなよ」
中里はそういいながら、火炎放射を続ける。慎二はそれをかわし続けたが、気づくとまわりは火の海になっていた。もちろんコンクリートが燃えるわけがないから、噴出された液体燃料が内装材を焼きながら燃え続けているのだろう。
あたりは液体燃料独特の匂いに混ざって、床の塩化ビニールの溶ける匂いに、死体が焼ける匂いが充満している。戦闘服に仕込んだ圧縮空気のつまった小型タンクからの呼吸に切り替えていなかったら、肺を焼いた上、毒性のガスを吸い込んでのたれ死ぬところだ。
炎は直接慎二に燃え移ってはいないが、すぐ側で赤く燃えさかっている。
慎二の戦闘服には耐火耐熱性能もあるがそう長くは持たない。タンクのエアも限りがある。
「なるほど、床が燃え広がって逃げる場所がなくなる。だから、おまえの勝ち。そういいたいわけだな?」
わずかに残った燃えていない安全地帯に飛び移りながら、慎二はいった。
「そうだろうが。おまえに俺を倒す力はない。逃げる場所もなくなる。どうやって勝てる? いっておくが、この液体燃料が放つ炎はガソリンの炎などよりずっと高温だ。おまえのその服にたとえ耐火性能があろうと、長時間炎の中に立っていられるわけがない」
中里は手を慎二の方に突きだしていう。今おまえが立っている足下を焼けば、逃げる場所がなくなるといいたげに。
そして逆にこの男は『飛龍』同様、高温の炎の中でも爆発しないような仕様になっているのだろう。
「くくく、それで勝ったつもりか、鎧で身を固めた臆病者の放火魔のガキめが。おまえのような悪ガキを倒すことなど簡単だ」
慎二はこともなげにいった。
「どうやってだ? 化け物じみた銃も、バイクでの体当たりも通用しない俺をどうやって倒す? バイクに積んだロケット弾とやらを片っ端からぶち込むか? いっておくが俺の体には大量の液体燃料が詰まっているぞ。そんなことをすれば、この建物ごと吹っ飛ぶかもしれないぜ。俺と心中でもしたいのか?」
「貴様と心中だ? 何度もいわせるなよ。おまえと違って俺はホモの自殺願望者じゃねえ。そもそも貴様ごときを倒すのに、誰がそんな大げさな真似をするか。馬鹿なガキへの体罰は素手に決まってる。ビンタで充分だ」
「ほざけ」
中里は炎を放った。本気で焼き殺す気になったのだろう。今までで一番火力が強い。
慎二はその直撃を避け、火の海の上を走った。というより、ほぼ瞬間的に間合いを詰めた。炎をかいくぐり、中里に密着したともいえる。
「お?」
あまりのスピードで懐に入られた中里は驚愕の表情を浮かべる。しかしまだ余裕があるようだった。
弾丸すらはじく自分が素手の男に倒されるはずがない。そう信じているらしい。
だがそれは大きな勘違いだ。
慎二は右の掌底でフックのように中里の顎を左から打ち抜いた。間髪入れず、左の掌底を右顎にたたき込む。
一瞬、なにが起こったか理解できない中里はぽかんとしたまま膝を付いた。
「な、……なにをした?」
頭部に特殊マグナム弾を喰らっても平気だった男がもう立つことができない。
「いくら体を人工的な固い殻で囲ったって、しょせんおまえは人間だってことだ」
「にゃ、にゃにぃ……?」
もはや中里はろれつが回らなくなっていた。
「今おまえの脳はほんの一瞬の間に、左右に激しく揺れた。どんな堅い装甲で守ろうと、中身の脳はデリケートだってことだよ」
ボクシングでフックのKO率が高いのは、顎を横から打たれると首を支点にして頭が横に激しく振られるからだ。つまり脳が頭蓋骨の内部にたたき付けられる。
今慎二は瞬間的に顎を左右に振り抜いた。こうなると頭蓋の内壁はカウンター気味に脳を叩く。脳の受けるダメージは計りしれない。
「どうやって彩花を洗脳した?」
中里は答えるかわりに、指先を慎二に向けた。
慎二はそれをはじき飛ばすと、右掌を顔面に浴びせ、そのまま後ろの壁に頭をたたき込んだ。これで中里の脳は、今度は縦に揺れる。しかもそれだけではすまなかった。次の瞬間、慎二の手の平は機械的なバイブレーターのようにコンマ数秒の間に前後に激しく動く。
その結果、中里の脳は高速で振動する。頭蓋骨の前と後ろの部分になんどもなんどもたたき付けられる。その回数、一秒間に数百回。脳をシェーカーに入れて激しく振ったようなものだ。
振動で、頭を押しつけたコンクリートの壁が、見る見るひび割れていく。
「龍王院流奥義、
だがその技名を、中里は聞くことができなかっただろう。うつろな目をし、開いた口からはよだれを垂らしながら床に崩れ落ち、二度と立つことはなかった。
彩花、とりあえずおまえの仇の片割れは始末したぜ。あと一匹もすぐに送る。待っててくれ。
「カメラで見てるんだろ、黒死館」
慎二は黒死館が閉じこもっていると思われる部屋に向かっていった。
「今すぐ操っているネズミを止めろ。そうすれば殺さずに捕獲してやる。いろいろ聞きたいこともあるしな」
もちろん彩花を洗脳した張本人を許す気などあるわけがない。口から出任せだ。ネズミが止まったのを確認したあと、嬲り殺してやる。
慎二は『飛龍』を起こし、ロケット弾の照準を壁に向ける。
見えなくても、思念波でやつの位置はわかる。そしてこのロケット弾ならコンクリートの壁くらい簡単にぶち抜く。
『見えているよ、龍王院くん』
スピーカーから声が発せられた。
『君も想像がつくだろうが、私は中里のように体を装甲で守られてはいない。だからそこから撃たれると、たぶん死ぬだろうね』
「わかっているならこっちの要求を飲んでもらおう。死にたくはないだろう? 俺だって炎の中に長居はしたくない」
『残念だがそれは無理だ』
「なに? 組織の命令に殉じるつもりか? 流行らねえぜ、今どきよ」
『そうじゃない。もうネズミたちはここのコントロールを離れたということだ』
「なんだと?」
『たしかにネズミたちを凶暴化させたのはここでおこなった。ある種の波動がネズミたちを狂わせる。ほんとうは人間を狂わせるつもりで実験をはじめたんだが、反応したのは残念ながらネズミだったわけだ。ひっひっひっ。誤算だったが、泣き言ばかりもいっていられない。だから、それを利用することにしたんだよ。ネズミの大群が学校を襲えばみんなどう思う? 神の警告だと思うだろう? あるいは自然界から人間に対する復讐。もちろんマスコミを煽って宣伝する。それが我々の活動の第一歩……』
「ご託はいい。さっさとネズミを止めろ!」
『だからそれは無理なんだ。考えても見たまえ。ここでできるのはネズミを凶暴化させることだけ。自由自在に操るなんて高度なコントロールはさすがに不可能だ。ネズミが好むべつの波動でおびき寄せたのさ。とうぜん発生源はネズミの向かうところにある』
つまり電波か音波か知らないが、発生源は学校の中。ネズミはそれめがけて動いているってことか。
「じゃあ、とりあえず凶暴化させるのをやめろ」
『それも無理。とうぜん、学校からはそっちの波動も出ている。それに一度狂わせれば、波動を止めてもネズミが元に戻るには数時間はかかる』
つまりはここにいても、ネズミは止められない。そしてそれはおそらく嘘ではない。黒死館のいうことは理屈が通っている。
「その波動とかの発生源は!」
そいつを叩くしかない。今の説明ではそれを壊しても凶暴化はすぐには収まらないらしいが、とりあえずやるしかないだろう。
『藤枝少尉。彼の元にネズミは集まる』
慎二はヘルメットに装備された無線で、美咲に連絡を入れた。
「美咲。ネズミが向かう先は、藤枝とかいうやつのところだ。そいつを押さえろ。俺もすぐ行く」
返答がない。聞こえたはずだ。
「どうした? 返答しろ」
『きっとそれどころじゃないんだろう?』
そのとき異変が起こった。慎二のまわりでまだ燃えさかっていた炎が見る見る鎮火していく。
「な、なんだ? なにをした」
「べつに? 機械を操作して、ほんの一瞬、そこの酸素濃度をゼロにして火を消しただけさ。これじゃあ、出て行くにも出て行けないからね」
黒死館がスピーカーを通さず直接話しかけた。
部屋のドアが開き、慎二の前に直接姿を現している。白衣を着た骸骨のような不気味な男だ。
「いい度胸だ」
慎二は黒死館に銃を向けると、引き金を引こうとした。聞き出すことは聞き出したし、もうこいつのご託に耳を貸す必要はない。
だが次の瞬間、慎二はべつの場所にいた。なにもない空間。ただひたすら闇が続く空間。
宇宙?
いやそんなはずはない。なぜなら慎二は生きている。そして目の前に黒死館がいる。空間に浮かびながら。
「ここはどこだ?」
「深層意識の中だよ。君と私の共用する深層意識のね」
「なんだと?」
「わかりやすくいうと、私と君の脳を直結したわけだ。私は機械化された化け物じゃないが、生まれつき変わった力を持ってね。この中じゃ、君は無力だ。逆に私はなんでもありってことだ。さあて、どんな地獄を味わいたいかね?」
慎二は『龍の牙』の引き金を引いた。弾は黒死館の体を貫き、大穴を開ける。
しかし黒死館の体はみるみる再生し、傷ひとつない元の体に戻った。
「いっただろう。ここではなんでもありだって。さあて、どれだけ地獄の拷問に耐えきれるかね? どんなに精神力が強くても無駄だよ。すぐに嫌々どころか、喜んでマリア様に忠誠を誓うようになる。あの虹村のようにね」
「き、貴様……」
「まだわからないのかい? 君は私を追いつめたつもりらしいが、逆だよ。私が君をここにおびき寄せたのさ。一般患者の前で、私の力を見せるわけにはいかないからね。かといって、もう虹村のようにスパイに仕立てるのも無理だろう? 同じ手を使えばとうぜん怪しまれるからね。だから、あっさり殺してやるつもりだったが、君があの包囲網を突破し、素手で中里をすら倒す逸材ならば話はべつだ。ぜひマリア様の兵隊にするべきだろう?」
黒死館はそういうと、「ひ~ひっひひ」と狂ったように笑った。
3
『美咲。ネズミが向かう先は、藤枝とかいうやつのところだ。そいつを押さえろ。俺もすぐ行く』
ヘルメットに付いている無線から発せられたらしく、聞き覚えのある声が美咲のヘルメットの耳元あたりからかすかに漏れるのを、薫子は聞き逃さなかった。
「兄貴?」
『どうした? 返答しろ』
だが美咲の返答は届かなかったらしい。
さっきの爆発でマイクがやられたに違いない。
美咲はそのまま黙り込んだ。どうすればいいか考えているのだろう。
それにしてもこの藤枝、蝶を操るだけでなくネズミまで引き寄せるらしい。
いずれにしろ、美咲にとって当面問題になるのはネズミではなく蝶だ。それは薫子にとっても同じであり、ふたりはいま無数の銃を突きつけられ両手を挙げているに等しい。ましてや薫子に至っては床に伏し、頑強な蜘蛛の巣状のワイヤーでがんじがらめに押さえつけられている。
「お兄様に応答したらどうだい? 必死に呼びかければもしかしたら通じるかもしれないよ」
藤枝が皮肉っぽく笑う。
「もっとも返答しなくても、お兄様はちゃんと助けに来てくれるらしいね。残念ながら間に合いっこないけどね」
「助けなんかいらないよ。あたしたちふたりで十分」
「へえ、君と薫子さんで? ふたりとも身動きひとつできない癖に。それとも左手で後ろに隠し持っているものがなにか切り札なのかな?」
そういわれれば美咲の左手は後ろに引いたままだ。薫子の位置からはなにも見えない。
「どんな秘密兵器があるのか見せてほしいな。いやなら今すぐ心臓を焼くよ」
美咲は無言で左手を突き出した。その手に握られていたのは、布袋に入った細長いもの。
『伯爵の牙』?
布袋に御札が付いていることからして間違いない。魔力に守られているせいか、さっきの爆発でも焦げ跡ひとつ付いていなかった。
おそらく薫子に必要だろうと、美咲が気を利かして持ってきたはいいが、渡すタイミングがなかったに違いない。
「渡してもらおうか」
美咲はなすすべもなく、藤枝に向かって放り投げた。藤枝は受け取ると、布袋をまくり上げる。
黒光りする木刀。もうかなり使い込まれているはずなのに傷ひとつない。薫子自身、抜き身の『伯爵の牙』を見るのははじめてだった。
「なんだこれは?」
「薫子の木刀。戦闘力の足しになるかと思ってね」
「ふん、くだらない。僕を倒したかったらバズーカ砲でも持ってくるんだね」
そうはいったものの、なぜこんなものを持ってきたのか、興味を示したようだ。
「いったいこいつになにができるっていうんだ?」
御札を貼った布袋から取り出せばどうなるか? それは薫子自身も知りたい謎だ。
なんの予備知識もない藤枝には、それを抜くことに対する恐れなど微塵もあるわけがない。ただの好奇心からだろう。藤枝はなんの躊躇も見せずに、柄を掴むと布袋を床に投げ捨てた。
とたんに部屋全体に妖気が充満した。
いや、比喩ではない。『千年桜』を通して霊体を見ることができる薫子には、『伯爵の牙』から真っ黒な霧状のものが吹き出し、あっという間に部屋全体に広がっていくのが見えた。そして藤枝の体を覆っていた炎状の霊体が黒い霧に吸い込まれて弱っていく。
藤枝の顔は、目に見えて蒼白になり、気のせいか頬が痩けたようにさえ見える。
「うわああああああ。なんだこれは?」
情けないほどに狼狽した藤枝は、悲鳴を上げつつ、魔剣を放り投げた。
床に落ちた魔剣『伯爵の牙』はころころと薫子の手元まで転がる。
柄の部分に血が付いていた。パニックになっている藤枝を見ると、握っていた手のひらが真っ赤に染まっている。
これは藤枝の血?
薫子が魔剣に付いた血を凝視すると、すうっと剣に吸い込まれるように消えていく。
血を吸った?
使い手の血を啜る魔剣。ほんとうに歴代の伝承者たちはこんなものを使いこなしてきたのか?
藤枝の生き血で力を得たのか、魔剣から吹き出す妖気はさらにまがまがしくなっていく。
これを手にすることは、藤枝と戦うことより恐ろしかった。
その反面、こうも思う。これを使えば勝てる。
それは根拠のない、直感的なものだった。
しかし、薫子は『伯爵の牙』を空いている左手で掴んだ。
まるで燃えたぎる鉄の棒でも掴んだかのような激痛が走る。同時にものすごい勢いで手の平から魔剣に向かってなにかが迸った。
生気? 霊力? いや、それだけじゃない。血液が音を立てて剣の中に流れ込んでいく。
急激に薫子の力は抜けていった。
藤枝のように、とっさに放り投げそうになった。
投げ捨てる? だめだ。それじゃあだめだ。
どんなに危険でも、藤枝に勝つにはこいつがいる。それはもう確信ともいえた。
さらに力一杯、『伯爵の牙』を握りしめる。
薫子の意識は飛んだ。
*
ここは?
薫子はまったくべつの場所にいた。
そのこと自体にはもはや驚かない。『千年桜』で体験済みだ。
だけど、それにしても、いったいここは?
室内だった。壁も床も天井も石が積み重ねられできている。夜らしく、ガラスも嵌っていない窓の外は漆黒の闇。部屋の中は、ところどころ壁に掛けられたランプの黄色がかったほのかな灯りで、薄ぼんやりと照らされている。あくまでも直感でいうならば、ここは欧州の古城の内部。
それだけでは驚くに値しない。問題は、ごつごつした石の床の上に、無造作に全裸の若い女たちが横たわっていることだ。
悪いことにどう見ても生きているようには見えない。いずれも白人なのだろう。肌は白いが、人間の肌の白さを通り越し、白蝋のようだ。それぞれブロンドの髪を振り乱したまま固まっている。その顔には恐怖と絶望、そして耐え難い苦悶の表情が刻まれ、首筋にはなにかで貫かれた穴が数センチの間隔を置いてふたつ。傷は新しいが血は一滴も流れ落ちていない。もはや体内にわずかたりとも残っていないことを象徴しているようだ。
そんな遺体が、薫子の足下をふくめ、そこら中にごろごろと転がっている。
だがそんなものよりも遙かにおぞましい光景が繰り広げられていた。
ちょうど部屋の中央あたりだろうか、まだ生きている女がいた。そう思ったのは白い腕が痙攣を起こしつつもかすかに動いていたからだ。
彼女の体の上に、なにか黒いものがのし掛かり、蠢いている。そいつは明らかに顔を女の首筋に密着させていた。
なにをしているか? 血を吸っているに決まっている。
雰囲気でいっているわけではない。ずずっと液体を吸い込む不気味な音が、静寂を破ったからだ。
宙を掻きむしるようにしていた女の腕が、ぱたりと床に落ちる。それでも血をすする音だけは止まらなかった。
しばらくして、ようやく血を吸い終えたのか、音は止んだ。
黒い魔物は女の首筋からようやく顔を上げる。薫子にはそのときはじめてそいつの顔が見えた。
伯爵? そんな生やさしいものじゃなかった。
それは貴族のものでも、紳士のものでもない。そもそも人間の顔ですらない。
肌の色は黒。それも黒人の肌の色とかそういうレベルではなかった。まさに一切の光を反射しないのではないかと思われるほどの真の闇を連想させた。そいつがいるところだけ、光という概念さえない異空間のような錯覚を起こすほどだ。つまり、人間の肌の色じゃない。
大きさは子供くらいで、どうやらなにも身につけていない。ただ背中に翼のようなものを折りたたんでいるのでなにかを着ているように見える。手足は枯れ木のように細く、細長い指先からは銀色の長い爪が伸びきっている。
顔もその体に劣らない異様さだ。
口は大きく開かれたというより、引き裂かれたように不気味に開き切り、すべての歯はナイフのように鋭利に尖っている。中でも上から二本だけ異様に長い牙が銀色の光沢を放っていた。鼻は暗黒の肌に紛れ、あるのかないのかすらわからない。銀色のざんばら髪は顔の前面に垂れ、目のあたりを覆っているが、その隙間からふたつの目らしきものから燐光のような妖しい光を放っている。
どう見ても悪魔だ。
しかしこれこそが、遠い昔にこの剣に封印された吸血鬼、『伯爵』なのだろう。
「ギギギギ」
伯爵は薫子を見ると、人間とは思えない声で鳴いた。
そしてついさっきまで生き血をむさぼり飲んでいた死体を放り投げると、薫子の方にのそのそと歩いてくる。
あまりの恐ろしさとおぞましさに全身鳥肌が立った。
そしてそのときはじめて、自分が身動きひとつとれない状態であることに気づいた。
足は閉じているが、両手は左右に大きく開き、とじ合わせることができない。逆に足は前に出ることも後ろに引くこともできなかった。体をまとっているものはなにひとつなく、健康的な肌を怪物の目に晒している。
そう、薫子は全裸のまま、十字架に磔にされていた。
手首と足首には鉄の枷が嵌められ、全身に黒く冷たい鎖が絡みついている。
それどころか、左の手首には深い傷がいつのまにかついていて、そこから絶え間なく血が流れ落ちている。
目の前の魔物の所業に心を奪われ、自分がこんな破滅的な状況にあることすら気づかなかったとは。
そしてその地獄の光景を見せつけた悪魔が、一歩一歩こちらに近づいてくる。
落ち着け。
薫子は必死で自分にいい聞かせた。
これは薫子の脳内のできごとなのだ。現実のことではない。
もしこれが現実ならば、藤枝と戦っている状況よりも悪いではないか。
伯爵は薫子の目の前で足を止め、「シャー」という威嚇音とともに口を目一杯に開き、悪魔の翼を左右に大きく広げた。
薫子は泣き叫びたいのを必死に堪えて、伯爵を睨み返した。
「おまえが新しい使い手か?」
伯爵は人間の言葉を喋った。低く、かすれた不気味な声だった。
「そうよ」
薫子はできる限りの威厳を持って答えた。
少なくとも伯爵は薫子をたんなる餌とは認識していないらしい。千年桜の精同様、薫子が自分の所有者にふさわしいかどうか調べようという気なのだろう。
そうとわかれば少しは余裕ができた。
「おまえのような小娘に、俺が使いこなせるものか」
「使いこなせないといけないのよ。そうしないと死んじゃう」
「ギギギギ、いいだろう。試してみるがいいさ。そのかわり失敗したら、おまえは餌だ。そこらに転がっている女と同じ運命が待ってるぞ」
それでもやるしかなかった。というより、今さらやめたといっても餌食になる状況は変わらないだろう。この化け物を飼い慣らすしか薫子が生き残る道はないってことだ。
「なにをすればいいの?」
「簡単だ。契約書にサインをすればいい。それだけだ」
伯爵は薫子の目の前に古びた羊皮紙を突きつけた。
「本来、英語なのだが、おまえのために特別に日本語にしておいてやった」
伯爵は恩着せがましくいう。
その羊皮紙にはこう書いてあった。
契約その一。
『伯爵の牙』を使用するさいには、素手で使用すること。その際、抜き身で握るだけで少しずつ血液をすすられることを承知すること。
契約その二。
最低一ヶ月に一回は、『伯爵の牙』に人間の生き血を目一杯吸わせること。
以上の契約を実行する限り、『伯爵の牙』は使い手のために魔力を貸すことを誓う。
薫子はそれを読んで唖然とした。まさに人間の血を吸うことで魔力をふるう魔剣。使い手の血をすすり、倒した相手からはまさに絶命するまでの吸血を欲する。
契約その一は自分が我慢すればいいだけだが、長時間使えないことを意味する。しかしそのことを理解していれば死ぬことはないだろう。
問題は契約その二だ。これは暗に薫子に月に一回殺人を犯せといっている。
それはとても無理だろう。
だがこの契約書には契約を破った場合のペナルティは書いてない。破れば薫子のためには魔力を使わなくなると暗に書いてあるだけだ。
ならば今回限りのために契約すればいい。
そこまで考えたとき、マイナスの考えが頭をよぎる。
『伯爵の牙』の魔力を使ったとして、藤枝をほんとうに倒せるのか?
あの絶体絶命の状態から逃れられるのか?
それができないのなら契約する意味はない。
「あんたずいぶんえらそうだけど、いったいどんな力が使えるのよ? 今のあたしの状況わかってる? あの機械化された蝶使いの化け物をやっつけられるの?」
「グギギギギ。もちろんさ。倒し方はわかるはずさ、契約できればな。そして俺にどんなことができるかは、おいおい教えてやる。必要に応じてな」
伯爵はそういうと、床に向かって手をかざした。
ゴゴゴゴと音を立て、三十センチ四方ほどの大きさの床石がせり上がってくる。高さ一メートル弱のところで止まった。ちょうど書き物をするのに都合のよい高さだ。
伯爵はその簡易机に契約書と羽根ペンを置いた。
「ギギギギ。俺を使いたければ、サインしろ」
「わかったわよ。契約する。だからこの枷を外して」
薫子は覚悟を決めていった。
「グギギギギギギ」
伯爵は薫子の頼みを無視し、けたたましく笑う。
「早くしないと、手首から流れる血液で気を失うぞ。そうなったらおまえは俺の餌だ」
そういうと、薫子の側までやってきてひざまずいた。
下を見ると、左の手首からしたたり落ちた血液がくぼみに溜まっている。伯爵は犬のように四つんばいになると、その血の池に顔をつっこみ、ぺちゃぺちゃと卑しい音を立てて舐めはじめた。
あまりのおぞましさに寒気がする。だが同時に理解した。
つまりこれこそが試練。この状態から契約書にサインする。これができないやつは自分を使いこなせない。だから素直に餌になれってことだ。
これは魔剣に封印された吸血鬼が見せる幻視に過ぎないはずだが、この中で殺されれば、現実の世界には二度と戻れないような気がする。
それはほとんど確信に近い。だからこの中で血を吸われて死ぬわけにはいかない。
だけどどうやってこの枷と鎖を外す?
「ね、ねえ。ヒントはないの?」
そういってみたが、伯爵は一心不乱に床の血を啜っていた。千年桜の精のようにどうすればいいか教えてくれる気はないらしい。
「なによ、教えてくれたっていいじゃない。けち」
伯爵は聞く耳を持たない。
だが考えてみれば、現実の状況と、今の状況は大差ない。現実には粘着質な堅いワイヤーに絡め取られ、ここでは鎖と枷で身動きがとれない。なにもしなければ死ぬってことも一緒だ。そして常識的に考えれば、薫子には両方とも戒めをとく手段がない。
なにか両者に共通する脱出方法があるのではないか? そしてそれこそが『伯爵の牙』のもつ魔力だ。
そこまで考えたが、ほんとうになにか方法があるのか?
今はなぜか剣を持っていない。呼べば来るのか? しかし、両手は手首で固定され、剣など振るえるわけもない。現実の世界では、多小腕は動くが、小さな動きでは頑強なワイヤーを断ち切れるとは思えないし、下手に動くとプログラムされた蝶たちがマイクロ波の雨を浴びせる。動けない。
そうだ、動けない。両者に共通することは動けないってことだ。つまり、動かずにやれっていうことだ。そしてそれを可能にするのが『伯爵の牙』の力だ。
つまり、超能力か? 遠くの物体を動かす
いや、違う。
薫子の頭にあることがひらめいた。そしてそれはおそらく外れていない。
『千年桜』と『伯爵の牙』は対の剣だ。
なぜ対になっているのか? その意味は? それがわかった気がした。
まさに静と動。このふたつの剣は正反対の力を持っている。
『千年桜』は相手の霊体を感じる剣。受動的であり、防御のための剣でもある。
ならば『伯爵の牙』とは霊体に関して、能動的であり、攻撃を目的とした剣だ。
つまり『伯爵の牙』とは自分の霊体を操る剣に他ならない。
その考えにたどり着いたとき、薫子の足は一歩前に出た。さらに一歩。そして契約書が置かれた台の前にたどり着く。
振り返れば、薫子の肉体は磔にされたままだ。薫子は今、霊体だけ肉体から抜け出し、ここに来た。
「グギギギギ。わかったようだな。思ったほど馬鹿じゃない」
伯爵は血を舐め尽くしたのか、口から闇のような色の肌に血を滴らせながら振り返った。あとはサインするだけ。薫子はペンを手に取ろうとした。
つかめない。
「ギギギギ。おまえは霊体だ。物質は通過するぞ」
違う。そんなはずはない。もしそうならば、肉体から霊体を抜け出させることになんの意味がある?
薫子の考えでは、『伯爵の牙』とは、体から霊体として抜け出し、敵を攻撃するための剣だ。つまり、物質を攻撃することができる。ならば、ペンは掴めるはずだ。惑わされるな。
薫子は意識を指先に集中する。掴めると信じた。
案の定、今度はペンを握れる。
サインをしようにも、インクがないことに気づいた。
そうか。
薫子は一度自分の体の方に向かうと、ペン先を自分の手首からしたたり落ちる血に付けた。
「グギギギギギ、完璧だ。まさか俺を使いこなせるやつが現れるとはな。しかもこんな小娘が」
伯爵はなぜか楽しそうに笑った。いや、気のせいかもしれない。なにせ、顔全体が闇のように黒く、表情もなにもわかったものではないのだから。
薫子は、自分の血で契約書にサインした。
次の瞬間、この世界を包んでいた闇が砕け散った。
4
「きゃああああああ」
校庭から教室から生徒たちの悲鳴がわき上がった。
正門から、あるいは塀を乗り越えて、黒いネズミの群れがそれこそ雲のように固まって学校に向かってくる。
これがマリア様の力なんだ。
七瀬は仲間とともに保健室の外で窓を見張りながら、そう思った。
疑っていたわけではない。七瀬の教官となった香坂軍曹、そしてその上官である藤枝少尉たちから十分に聞かされていたことだ。
だがこうやってその力をまざまざと見せつけられると、驚愕を通り越し、感動してしまう。
まさに自然の、いや地球の代理人である『楽園の種』のリーダー、マリア様。文明などという小賢しいものを作り上げ、それにあぐらを掻く人類に対し、自然の力を使って警告しようとなさっているのだ。
虐げられた自然界はこれほどまでに怒っていると。
その思いを人類に思い知らせることこそが、地球をふたたび楽園に再生するための第一歩なのだ。
そしてそれは地球の自然を。……動物たちを、植物を、海を、大地を、大気を自由に支配できるマリア様にしかできないこと。
周囲から耳をつんざく悲鳴がさらに高まってきた。耳障りなほど。
少しだけまわりに注意を向けると、校庭にいた生徒たちが必死に校舎の玄関口に殺到している。それこそ我先にと、級友たちを押しのけ、はねとばし、倒れた仲間を踏みつけながら。
そして猛スピードで移動する、黒い絨毯を思わせる群れは、あっという間に学校内に突入する。
黒だかりになった校庭では逃げ遅れた数名の生徒たちが断末魔の悲鳴をあげ、のたうち回っている。白骨になるのは時間の問題だろう。
馬鹿なやつ。地球の再生に目覚め、『楽園の種』のメンバーになればそんな目に合うことはなかったのに。
七瀬はそう思った。
彼らだって地球が絶滅の危機に瀕していることくらいうすうす知っていたはずなのだ。だが、なんの行動も起こさなかった。それは地球の絶滅に力を貸しているのと同じこと。
だからしかたがない。犠牲になることで、人類に警告できるのだから、むしろ本望だろう。
恐怖の悲鳴と断末魔の絶叫は、校舎の中からはっきりと聞こえてきた。
どたどたと階段を駆け上る音。必死で上に逃げているらしい。
なるほど、今ネズミたちは一階の保健室に向かっている。だからしばらくの間は、二階は安全だろう。
だけどそれはつかの間のこと。保健室で事が済めば、藤枝隊長は皆殺しをはじめるはず。そうやってこそ、自然の驚異を世界に訴えることができるのだ。
外からパトカーの音が聞こえた。きっと教師たちが電話で呼んだのだろう。
でもいったい彼らになにができるというのか? ネズミたちを退治したければ、警察ではどうしようもない。それこそ自衛隊でも呼んで、学校ごと焼き払うしか手はないのに。
案の定、警官たちは中にはいることすらできずに、外でマスコミや、野次馬たちに怒鳴りつけることしかできない。
もう、よけいなことを考えるのはよそう。あたしが受けた命令は、薫子が仲間になることを拒否し、窓から逃げようとした場合、今手に持っている拳銃で撃ち殺すこと。
それだけだ。今はそれに徹しよう。
建物の中から、ネズミたちがコンクリートの床を駈ける音が響く。そしてそれは保健室に近づいてきた。
ふと気づくと、自分たちのまわりにもネズミたちが集まっている。
だがまるで安全地帯のように保健室のまわりに円ができ、ネズミたちはその中に入ってこない。とうぜん、自分たちはその円の中にいた。
ネズミたちは異様に興奮した状態で牙を剥き、キーキー叫びながら殺気をまき散らしていたが、七瀬は気にしなかった。
なぜなら彼らは仲間なのだ。『楽園の種』の同じ使命を受けた仲間。彼らがその牙を自分に突きたてることなどあり得ない。
七瀬はそう信じていた。
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