第五章 傀儡師と人形


   1


 薫子が朝学校に行くと、もう篠原が死んだ話で持ちきりだった。

 とくに隣のクラスは蜂の巣をつついたようになっていて、事故当時職員室にいたという佐々木のまわりには、クラスメイトたちが絶えず群がり、薫子が事情を聞きに近づける状態ではなかった。

 少し落ち着いてから聞くしかないな、こりゃ。

 そう思って自分の教室に戻ると、担任の石岡が来て朝のホームルームが始まった。とうぜん篠原の話になる。

 好奇心いっぱいに、あれこれ質問する生徒を遮り、石岡は以下のことだけをいった。

 死因はあくまでも心臓麻痺で事件性がないこと。

 今夜通夜をおこなうこと。

 葬儀はあしたであること。

 さらにこのクラスは篠原が教科担当をしていないので、とくに部活等で付き合いがなければ葬儀に出る必要はないということ。

「先生。篠原先生が倒れたとき、そのまわりに黒い蝶が飛んでいたっていうのはほんとうですか?」

 手を挙げて立ち上がり、堂々と質問をしたのは七瀬だった。

「馬鹿なことをいうな。そんな事実はない。少なくとも俺は気づかなかったぞ」

 石岡は一喝する。七瀬はつまらなそうに座った。

 七瀬の話では、死に際に一番近くにいたのは石岡ということだが、逆に篠原が倒れたことに動揺し、まわりを見る余裕がなかったのだろうか? それともことを大きくしたくないから隠している?

 薫子にはどちらとも判断がつかなかったが、なんにしても石岡から聞き出すことは難しそうだ。やはり、佐々木の証言が欲しい。

「あまり事を荒立てるな。おそらく過労か、ストレスの溜めすぎだ。このことはこれ以上聞くな。以上」

 その台詞でホームルームは終了し、石岡は職員室に戻った。教室はざわめいたが、すぐに一時間目の数学の教師がやってきて、話題はそこでとぎれた。

 薫子はその後、授業中もずっと上の空だった。篠原のことが気になってしょうがなかったのだ。

 なにかがこの学校で起きているのは間違いない。ただ、その黒い陰謀はおおっぴらに姿を見せず、水面下を静かに蠢いている。それはなに?

 午前中の間、それを考え続けた。

 昼休みになると、薫子はさっそく隣のクラスの佐々木を訪ねた。

 呼び出された佐々木は、不審な表情をしていたが、さすがにきのう会ったばかりの薫子のことを覚えていた。

「たしか、……鳥島さんだったよね。なに?」

「うん、ちょっと聞きたいんだけど。佐々木さん、きのうの放課後偶然職員室にいたんだって?」

 薫子がこう聞くと、佐々木は生真面目そうな顔に警戒色をあらわにした。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「気になって。なにかが起こってる。それも自分と無関係じゃない。そう思うと、調べないと気が済まないの」

 そういうと、佐々木の顔が泣きそうになった。そしてぼそっという。

「あたしのせいだわ」

「え?」

「篠原先生が死んだのはきっとあたしのせいよ」

 佐々木はそういいつつ、まわりの生徒の目を気にしているようだった。

「話を聞かせて。……ちょっと外に出ましょう」

 薫子は佐々木を校舎裏の芝生に連れ出した。例のネズミが出現した場所。ここならば人気がない。

 そこまで来ると、佐々木は薫子に胸の不安を打ち明けた。

 ボーイフレンドの鈴木がおかしくなったこと。そのことで篠原に相談したこと。鈴木がネズミに囓られ、保健室に行ったこと。そのことで篠原が保健室に行った直後にあの事件があったこと。それらをまくし立てた。

「そんなことがあったの?」

「それだけじゃないの。今朝から尚子もおかしいのよ」

 尚子とは教室でネズミに噛まれた前田の名前だ。

「尚子も藤枝さんを崇拝しだしたのよ」

 佐々木の顔にはもはや恐怖の表情すら浮かんでいた。

 ネズミ。保健室。藤枝。そしてネット掲示板と黒死館総合医学研究所。

 薫子の頭の中で、パズルのピースがつながりつつある。

 三月のいっていた『楽園の種』。そいつらがネズミを使ってなにかをたくらんでいる。

 なにを?

 黒死館総合医学研究所、あるいはこの学校の保健室に行かせようとしている。

 そして保健室に行った人間はとたんに藤枝を崇拝するようになる。おそらく黒死館総合医学研究所のほうでも同じようなことが起きているんだろう。だからこそ龍王院が動いた。

 そして秘密を探った篠原は死んだ。いや、殺された。

 考えられることはひとつしかない。

 洗脳だ。

 なぜ、黒死館総合医学研究所だけでなく、この学校で同じようなことが保健室を通じて行われているのかはよくわからない。

 ひょっとしたら、この学園ではしばらく前から密かに洗脳実験がおこなわれていたのかも。藤枝の取り巻き連中がそうだ。もしそうなら、ここでの実験がうまくいったからこそ、東京都内全般でも同じことをしようとしていると考えればつじつまが合う。

 おそらく大規模な計画を実行する前に、この学校でサンプルデータを取りたかったのだ。

 なんにしろ東京全般で起きていることのミニチュア版の事件が、この学校の中では先行して起きている。そして黒幕は藤枝と保険医の香坂だ。三月と鳳凰院の里にはそう報告しておこう。

「ありがとう。最後にもうひとつ教えて。佐々木さん、あのとき職員室で蝶を見たんでしょう? 黒いアゲハチョウを」

「うん。何匹も先生のまわりを飛んでいた。他の先生たちが気づいたかどうかは知らないけど、たしかに飛んでいた。でもいつの間にかいなくなっていた気がする」

「先生が中に入ったとき、外には誰かいた? 誰かが先生を追ってきた?」

「それはわからない。でも少なくとも先生のすぐ後ろには誰もいなかった。誰かが追っていたにしても距離はあったはずよ」

 それならば他の先生たちも誰も見ていないのだろう。

「ね、ね、なに探偵の真似事してんのよ? あたしも混ぜてほしいな」

 薫子たちが話に夢中になっていると、いきなり口を挟んできた者がいた。

 七瀬だった。

 佐々木は七瀬を見ると、顔色を変えた。

「じゃあ、あたしはこれで」

 そういうと、逃げるように去っていく。

 佐々木が逃げるのはとうぜんだった。七瀬もネズミに囓られ、保健室に行ったひとりだ。藤枝や香坂に操られる人形だと思うのも無理はない。

「七瀬、きのう保健室に行ったよね」

「えへ、じつはばっくれちゃった。あ、ごめ~ん。前田さんに伝言するんだったよね。忘れてた」

 七瀬は「てへっ」と舌を出し、拝む真似をした。

 変わっていない。変貌したといわれる鈴木や前田と違い、七瀬ははじめてあったときとなんら変わってはいなかった。

「じゃあ、最初の日、保健室に行ったときってどんなことされた?」

「え? 注射打たれて、少し休んだだけだよ。特別なことはしてないけど」

 七瀬はきょとんとした顔でいう。

 そういえば、前田が変わったのは今朝からだという。つまり、最初の治療のときはなんらかの理由で洗脳がおこなわれず、きのうの放課後おこなわれたのかもしれない。

 そう考えれば七瀬は無事だ。

 そう信じたかった。だが確証が得られないうちは、七瀬にこれ以上自分の手の内を晒す気にはなれない。

「なによ、薫子なにかわかったの、今度の事件のこと?」

 七瀬が好奇心丸出しのくりっとした目で薫子の顔を覗き込んだ。

「わかるわけないじゃない。あたしは名探偵じゃないんだから」

「あはは、誰もそんなことを期待してないよ」

「ねえ、七瀬。傷が治ったんなら、もう保健室には行かない方がいいよ」

 七瀬はきょとんとした顔をする。

「まったくなにをいいだすのよ。あたしはべつに保健室が大好きないじめられっ子じゃないんだからね」

 七瀬は大笑いした。


   2


「あ」

 パソコンのモニターを睨んでいた緑川晶は、思わず声を上げた。

「どうした、アキラ?」

 デスクでふんぞり返っていた東平安名が、不審げな顔を向ける。

 緑川は、無言で人差し指を立てて、唇に当てる。今、この部屋にはふたりしかいないにも関わらずこの仕草をする。東平安名はその意味を察したのか、無言で緑川の席までやってきた。

 画面に警報が出ている。緑川自身が組んだプログラムによるもので、室内から不審な電波が発せられた場合、パソコンにつないでいる複数の受信機が反応し、盗聴を警告する。つまり、何者かがこの室内に盗聴器を仕掛けたということだ。

 モニターに出ている室内の見取り図上で点滅しているところに、盗聴器が仕掛けられている。そこはなんと東平安名のデスクだった。

 緑川がそれを指さすと、東平安名はあんぐり口を開けた。

 次の瞬間、図面上で点滅していた明かりが消える。

「ど、どういうことだ?」

 東平安名は緑川の耳元でささやいた。

「声を出してもだいじょうぶです。点滅が消えたってことは電波が途絶えたってことですから」

「盗聴器が壊れたってことか?」

「いえ、オフになったんでしょう。外部から無線を使って、スイッチをオンオフできるんですよ」

「つまり、今みたいに怪しまれた場合、スイッチを切って影を潜めるってことか?」

「そうです。それと仕掛けたあと、しばらく眠らせておけばいつ誰が仕掛けたか特定しづらいでしょうしね」

「なるほど、電波が出た状態のまま仕掛ければ、仕掛けた現場を押さえられるかもしれないからな」

「隊長、とにかく、身の回りに盗聴器になりうる見知らぬものがないかどうか確認してください。あたしはここ数日の室内画像をチェックします」

 緑川はそういうと、キーボードを操作した。さらに指紋センサーに指を当て、扱っているのが緑川であることをコンピューターに教える。モニターの画面が分割され、室内の様々な角度から写された映像に切り替わった。

 ここには複数の隠しカメラが仕掛けられ、室内全域の映像を記録する。もっともカメラの位置は緑川と東平安名しか知らない。慎二や、他のメンバーたちにすら秘密だ。

 緑川は、ハードディスクに記録された映像を、高速で逆回ししながらチェックしていく。分割された画面で、高速で動く画面を見ていくのは、目がちかちかする上に、極度の集中力が必要だ。だがそんなことは苦にならない。それも緑川の卓越した能力のひとつだった。

 だが数日分さかのぼっても、怪しい人物の進入や、不審な動きは見つけられなかった。

 もっとも期待していたわけじゃない。なにしろ、部屋を開けた場合、留守中の画像をチェックするのは緑川の日課なのだから、もし怪しい人物が出入りしていれば、とっくにわかっているはず。それに暗証番号の他に、指紋、声紋が登録されていないとこの部屋にたどり着けない。もちろん登録されているのは、メンバーだけだ。

 どうやって、仕掛けたんだろう?

 緑川は、モニターチェックを一旦停止し、考えた。

 可能性はひとつしかなかった。考えたくはないことだが、メンバーの中にスパイがいる。

「あった、これだ」

 東平安名が叫んだ。見ると、一本のボールペンを持っている。

「いつの間にか見知らぬペンがペン立てにささっていた」

「貸してください」

 緑川は東平安名から奪うようにしてペンを取ると、あっという間に分解した。

 紛れもなく盗聴器。それもかなり性能が良さそうだ。予想通り、外部から無線を使ってスイッチを切ったり入れたりできるようになっている。

 ペン立ては机の端の方に置いてある。東平安名になにかを報告する際、机の前に立って何気なくペン型の盗聴器を差し込むことも、メンバーならば可能だろう。

「もう一度、画面をチェックします」

 緑川は、そういうとふたたびモニターを睨む。

 今度は画像を分割せずに、東平安名のデスクが写るカメラに限定した。そのままペン立てをズームアップして解像度を上げる。

 あとは画像を流しながら、こっそりペンを入れた者が誰か、チェックするだけだ。


   *


 慎二はきのう同様、黒死館総合医学研究所の側に車を止めていた。もっともきのうとは違う場所に止めているし、車種も違う。どこにでもある白の小型セダン。服装も普通のサラリーマンのようなグレイのスーツに変装用の眼鏡。目立ちたくはない。

 きのうも怪しまれる行動は極力慎しみたかったのだが、鳳凰院と思われる女のせいで目立ちまくってしまった。周囲を敵が見張っていた可能性がないではない。

 あのあと、地下室に戻り、彩花の血液を検査した結果、結局はただの抗生物質しか検出されなかった。処方された薬もなんの変哲もない薬。体に小型発信器のようなものが取り付けられたかどうかも徹底して調べたが、そんなものはなかった。けっきょく、この研究所の悪事を裏付ける証拠はなにもない。

 だからきょうこそは、なにか起こるのではないかと期待していたが、盗聴器を通して入る音声からは怪しいそぶりはなにも感じられなかった。

 シロか?

 ネットの掲示板に黒死館のURLを乗せたのは、『楽園の種』が自分たちを撹乱する罠だったのかもしれない。あるいは『楽園の種』とは無関係の人間のただの悪戯とか、騒ぎに便乗した黒死館総合医学研究所の宣伝ということも考えられる。

 だがもしそうだとすると、『楽園の種』のほんとうの狙いはいったいなんなんだ?

 あの学園の篠原という教師が死んだことも、頭の片隅に引っかかっていた。妹からの報告によると、自然死を装った暗殺の可能性が高いという。東平安名が警察内に圧を掛けたらしいから、いまごろ検死官が徹底的に検死しているはずだ。

『楽園の種』の計画は、あくまでも都内全般で進んでいることであって、あの学園に限ったことではないはずなのだが、なにか気になる。あの学校にもネズミによる被害があった以上、その篠原がなにかの秘密に気づいて消されたという可能性もゼロではないからだ。

 しかしどうも釈然としない。なにかボタンを掛け違えているような違和感がある。

 敵の戦略、あるいは能力を見誤っているのではないのだろうか?

『問題ないようですね。もう通院の必要はありません』

 盗聴器越しに黒死館の音声が聞こえる。もちろん、それまで洗脳をおこなった様子など感じられなかった。

 彩花が礼をいって診察室を出る。なにも起こらない。

 無駄足だった。東平安名の推理が的はずれだったのか、あるいは黒死館が彩花を怪しんで、しっぽを出さなかったのか?

 念のため、神経をあたり一面に張り巡らせ、かすかにでも怪しい思念波を放っている者がいないかチェックする。もし囮捜査がばれているのだとしたら、帰り際に襲われる可能性もあるからだ。

 だがそんな者は皆無だった。あたりにいるのはどう見ても、ただの通行人ばかり。

 彩花が戻ってきた。

「きょうも怪しいことはなにもなかったわね」

 車に乗り込むなり、つまらなそうにいう。

「尾行はされてないだろうな?」

「もう、誰にいってるのよ。あたしってそんなに間抜け?」

 彩花は助手席でくすっと笑う。

 そう尋ねた慎二にしても、尾行の気配は感じ取れなかった。

 帰って捜査方針を立て直す必要がある。慎二はエンジンをかけ、車を走らせた。

「彩花、おまえ、気づかない間になにかをされた可能性はないのか?」

「ねえ、あたしってそんなに馬鹿に見えるわけ? ショックぅ」

 彩花はすねてみせる。もちろん演技だろう。そんなタマじゃない。

 実際彩花は洗脳や催眠に関しては、慎二よりもはるかに詳しいし、耐性もある。短時間で知らない間に洗脳されているとはとても思えないし、盗聴器から聞こえた音や思念波の変化で判断する限り、そんなことは不可能だった。

 まあ、きのうはあの女が襲いかかってきたせいで数分間、病院の中を探ることができなかったが、あの程度の時間でなにかできるはずもない。

 市街地に出たころ、スマホが鳴った。自分のと彩花のものがほぼ同時に。彩花のはメール。慎二のは通話だった。

「慎二だ」

『シンか? 友達と話しているふりをしろ。アヤカに悟られるな』

 名乗らないが、声としゃべり方から東平安名であることは間違いない。

「おお、どうした? 俺は今仕事中だ。手早くしてくれ」

『アヤカはスパイだ』

「なにぃ? 馬鹿なこといってんじゃねえ」

 これは演技でもなんでもない。ほんとうに驚愕した。

 左のこめかみにごりっとした感触。真横から銃を突きつけられている。位置的によく見えないため、銃の型は正確に判断できないが、小型のオートマティックのようだ。突きつけているのはもちろん彩花だ。

『室内の隠しカメラに、アヤカが盗聴器をあたしのデスクに仕掛けているところが映っている。間違いない』

 いわれるまでもなく、間違いではないらしい。おそらく、今彩花に届いたメールが、自分を殺せという指令なのだろう。

 洗脳されたっていうのか? いったいいつの間に。

『信じられないが、洗脳されたとしか思えない。相手は相当のやり手だ。……聞いてるのか?』

 おそらくその盗聴器が発見されたことがばれた。彩花が洗脳されたスパイであることがばれたという事実が知られた。つまり、彩花にスパイとしての価値はなくなった。

 だから、せめて敵をひとりでも道連れにしようとしている。

 道はすいていた。前方には交差点、赤信号だ。慎二はアクセルを踏んだ。

「おい、今撃てばおまえも死ぬぞ、彩花」

『なに? どういう状況なんだ、シン?』

「うふふ、かまわないわ」

 受話器越しの東平安名の声と、からかうような彩花の声が重なった。

 次の瞬間、彩花の拳銃は火を噴いた。


   3


「失礼します」

 薫子は放課後、保健室のドアを開けた。

「どうしたの?」

 保険医の香坂は、まじめくさった顔で聞いた。

「ネズミに噛まれたんです」

 そういって、右手の甲の傷を見せる。もちろん自分でつけたものだ。

「ちょっと心配なんで、七瀬にしたように抗生物質を打ってほしいんですけど」

「そう、わかったわ。そこのベッドに腰掛けて待ってて」

 香坂はそういうと、薬剤を置いてある棚を開けた。薫子はいわれるがままにベッドに腰を下ろす。

「あ、ごめんなさい。ちょっと一本電話を入れさせてね」

 香坂はそう断るとスマホを取り出し、登録している番号を呼び出して掛けた。

「東京新製薬さんでしょうか? いつもお世話になっております。例の薬なんですが、突然切れてしまったので、大至急発注したいのですが」

 薫子にはこの電話の意味が察せられた。暗号だ。

 例の娘が突然来たから大至急来い。たぶんそんな意味だ。

 電話の相手は十中八九藤枝。ほんとうに薬剤の発注なら机の電話を使うはず。

 香坂は注射器で薬剤を吸い上げた。

「さあ、腕を出してちょうだい」

 薫子は右袖をまくった。その腕に針が刺さらんとしたとき、薫子は香坂の手首を掴む。「なにをするの? そんなことをしたら注射できないじゃない」

 香坂は必死で抵抗しようとする。薫子はかまわず、香坂の腕をねじ上げると、注射器を奪い取った。

「先生。悪いけどこの中の薬を調べさせてもらうよ」

「な、なにをいってるの、あなた?」

「とぼけたってだめ。もうみ~んなわかってるんだから。『楽園の種』の手先め」

 硬そうな表情をしていた香坂はくすくすと笑い出した。

「してやったりと思ってるわけ? ほんとうに可愛い子ねぇ。でも罠に落ちたのはあなたの方かもよ」

 薫子はかまわず出口に向かう。

「出られると思ってるの?」

 香坂はそう叫ぶと、前に立ちはだかった。

 千年桜を呼ぶまでもない。素手で十分だと思った。

 剣のかわりに、手刀を首筋にたたき込む。香坂は宙で一回転し、背中から落ちた。

 とくに体を鍛えていない一般女性ならば、これで意識を失うはず。しかし香坂はなにごともなかったかのように起きあがった。

 なに、こいつ?

 薫子はとまどった。打ち込みが浅かっただろうか? そんなことはないはず。一瞬、やりすぎたかと反省したくらい、強い手応えがあった。

 香坂のパンプスを履いたつま先が、薫子の下腹部に向かってまっすぐ飛ぶ。前蹴り、それも空手の高段者並みのハイスピード。

 薫子は相手の外側に回り込むようにしてかわすと、掌底で顎を下から突き上げた。

 香坂はまたもや宙に舞い、今度は後頭部をコンクリートの床に直撃した。

 やりすぎた。

 今度こそそう思った。普通の人間ならば死にかねない。

 だが香坂はほんの三秒ほどで、立ち上がりだした。多少頭を振っていたが、さしてダメージを負っているようには見えない。

 薫子ははじめて香坂が普通の人間でないことを悟った。

 普通でなければなんなのか?

 おそらく三月がいっていた、機械化テロリスト。

「千年桜、来い」

 薫子は念じる。自室に保管してある千年桜が、時空を超えて薫子の手に現れた。

 だが一瞬の隙を突かれたらしい。霊剣を手にした瞬間、香坂は薫子に飛びついていた。

 高速の手刀で剣をはじき飛ばされ、馬乗りになった香坂に薫子は首を締め付けられる。

 ま、まずい。

 その力は人間離れしていた。

 爪が喉に食い込む。

 それだけではなかった。爪から体内になにかが注入されていく。

 薫子はそれをふりほどこうと手首をつかむ。しかしびくとも動かない。

 香坂の唇の端が、きゅうっとねじ上がる。

 笑っている。可笑しくてたまらないとでもいいたげに。

「うふふ、今注入したのは、あなたが持っている注射器に入っているものと同じ」

 しまった。

 まさかそういう方法で注入できるというのは想定外だ。

「可愛い子猫ちゃん、ちょ~っと我慢しててね。すぐにあたしのペットにしてあげるから。あなたのお友達の七瀬ちゃんと同じようにね」

 香坂は淫蕩な表情で舌なめずりする。

 ふ、ふざけんなぁ。誰があんたなんかの……。

 だが、そんなことを考えていられたのはほんのつかの間。薫子の思考は急激に鈍っていった。


   *


 ここは?

 薫子はいつの間にかお花畑の中に横たわっていた。

 体にはなにも身につけていない。衣服はもちろんのこと、手に持っているものもない。生まれたままの姿で、花の中に埋もれていた。

 空は澄み切った青の中に、真っ白な雲がいくつかぽっかりと浮かんでいる。太陽はほぼ真上に位置し、灼熱の輝きを放っている。風はゆるやかで暖かく、春の匂いを薫子に運んだ。

 上体を起こしてみると、あたり一面花しか見えなかった。なんの障害物もなく、視界の広がる限り、三百六十度、ただひたすらに花園。萌える緑に混じって、赤、黄、緑、オレンジと原色の花びらが咲き乱れている。その上をモンシロチョウやモンキチョウ、アゲハなどの様々な色の蝶たちが乱舞している。

 誰もいない。

 そんな楽園のような光景の中、薫子の他には誰もいなかった。

 まるでこの美しい世界が、薫子ただひとりのものであるかのように。

 なにか大事なことをしようとしていたような気がするが、思い出せなかった。どうでもいいような気がした。

 そんな中、無限に広い絨毯のように敷き詰められた花の下でなにかが蠢きだした。あっちでもこっちでも。まるで、野ねずみが駆けめぐっているかのように。

 なに?

 不吉な予感がした。この平和な楽園を汚す、なにかが現れたような気がしたのだ。

 さらに地面からなにかが生えてくる。タケノコが生えてくる様をハイスピードで再生した映像のように。

 それは無数の高層ビルだった。といっても、高さ数十メートルのものがいきなり生えてきたわけではない。高さはせいぜい薫子の背丈ほど、怪獣映画の撮影に使うミニチュアの建物のようなものだ。

 あっという間に薫子のまわりに都市ができあがっていく。薫子自身が巨人になったかのような錯覚を起こす。だがそんなことより、都市ができていくことにより、花園が消えていくことが悲しかった。

 同時に心地よい風が運ぶ花の匂いが不快なものに変わっていく。きっと建物と同時にできた高速道路を走るミニカーのような車が出す排気ガスのせいだ。

 薫子のまわりに、灰色の霧のようにガスが漂う。上を見上げればあれほど晴れやかだった青空がどす黒く変色していく。

 薫子の心の中に、文明に対する憎しみが芽生えた。

 美しく平和な楽園が、醜いものに作り替えられていくのが許せなかった。

 さらにわずかに残った花園から火が発せられる。

 いったいなにが起こったのか?

 よく見ると、指先ほどしかない大きさの人間が花を焼いている。

 軍服を着たちっぽけな人間が、火炎放射器のようなもので炎をまき散らせながら。

 さっき花の下で蠢いていたネズミのようなやつらはこいつらか?

 だがそいつらの暴挙はとどまることを知らない。彼らは互いに炎を向け、殺し合いだした。断末魔の叫び声と、肉の燃える匂いをまき散らせながら。

 さらには銃声が響く。銃を撃ち合いだし、互いにばたばたと倒れていく。

 いつの間にか、戦車が現れた。ネズミほどの大きさのそいつらはキャタピラで残った貴重な花を踏みつぶしていく。空中にはいつの間にか、蝶のかわりにラジコン模型のような戦闘機が飛んでいた。

 そいつらは花を焼くと同時に、建物も破壊し、焼き尽くしていく。

 都市は砕け、焼かれ、廃墟と化していく。

 花園にかわって都市が現れたときは、それなりにべつの美しさもあったが、戦火は都市を無惨な残骸に変えていく。

 砕け散ったコンクリート。黒煙を上げて燃える花たち。

 炎が風の向きと勢いを変え、熱風が薫子にまとわりつく。

 焦げ臭さと火薬の匂いに混じって、血の匂いがする風を、薫子はいやおうなしに吸い込まされた。

 それでもミニチュアの軍人たちは戦闘をやめない。

「いいかげんにして!」

 だが薫子の叫び声は無視された。いや、薫子の存在そのものが無視されている。

 誰も薫子の姿を見ない。薫子の声に耳を傾けない。

「世界を破壊するのをいますぐやめるのよ、このすっとこどっこいども」

 薫子の叫びは、むなしく響くだけだった。なぜなら、誰も聞いていない。

『無理よ』

 いや、薫子の声に反応した者がいた。女の声だ。

 誰?

 姿は見えない。まわりにいるのは、言葉らしきものを発せず、奇声と悲鳴だけを上げながら殺し合う、玩具のような兵士だけ。彼らが語りかけてくるはずがない。

『人間はこういう生物なのよ。自然を破壊し文明を作る。それだけでは飽きたらず、互いに殺し合い、自分たちの作った文明までも破壊してしまうどうしようもない生き物。それが人間なのよ。これは人間が生まれながら持った宿命といってもいいわ』

「誰?」

 薫子は、きょろきょろとあたりを見回しながらいう。声の主は姿を現さなかった。

『どうしてこうなると思う?』

 声の主は薫子に問いかける。わからなかった。

『人間の欲には限りがないから。満足な暮らしがしたい。だから、お金が欲しい。高い地位が欲しい。名声が欲しい。権力が欲しい。どんな人間でも多かれ少なかれ持っている欲望。ひとつ満足すれば、次の高みを目指さずにはいられないわ。たとえ他人を蹴落とし、ときには他国を侵略してでも。人間はそういう風に出来ているのよ』

「たしかにそれは人間の性なのかもしれない。だけど、社会の中で生きていく以上、自分の欲望だけを優先するわけにはいかないはずよ」

『社会? 社会は人間が自分の欲望を叶えるために努力することを容認しているわ。資本主義社会という名において。つまり、現代社会の中では、他人を蹴落とす権利があるのよ』

 完全なる資本主義批判。ならばこの謎の声の主は、共産主義者なのか?

『ならば共産主義のように、自由競争を否定し、私有財産すら否定し、国家がすべてをコントロールすれば解決するのかしら? ことはそれほど単純じゃないの。まず、具体的な方法論なくしては、それはたんなる理想の世界に過ぎず、実現は限りなく不可能に近いわ。そして仮にそんな世界が実現したところで、人間はそんな世界では生きられない。なぜなら人間はそういうふうにはできていないから』

「どういうこと?」

『それは人間のあらゆる本能に逆らうことになるからよ。さっきもいったように、より高い幸せを目指すのは人間の本能。生まれつきDNAに組み込まれたプログラム。それをすべて否定するシステムを人間が許容できるはずもないわ。必ず管理される側は管理する側に対して反乱を起こす。それを革命と呼ぼうが戦争と呼ぼうがどうでもいいことだわ』

 きっとそれは正しいのだろう。人間はロボットのように管理されては生きていけない。

『けっきょく、人間は欲望に忠実でいても、管理され欲望を抑えつけられても戦争を起こす。自然を破壊し、汚し、最後には地球を滅ぼす。薫子、あなたにはそんなことが許せるの?』

「でも、それは……、それこそ人間が生まれ持っている原罪なんでしょう? どうしようもないじゃない」

 人間は生きているだけで、自然を破壊する。他の動植物を食べ、資源を使い、廃棄物を捨て、開発を広げる。その結果、空気も海も汚れ、かつての美しさを失っていく。地球の立場から見れば、人間はガン細胞に過ぎない。

 人間が生きていくということは、そういうことなのだ。

 だがほんとうにそうなのだろうか? ほんとうに人間にはそんなことが許されるのだろうか?

 このまわりを見てみよ。ついさっきまでこの世のものとは思えない楽園だった花園が、瓦礫と燃え尽きた草木と、血に染まった人間の死体でいっぱいだ。空気はどす黒く汚れ、不浄な匂いで満たされている。

 こんなことが許されるのか?

 かといって、自然を守るために、人類は滅亡した方がいいなどというのは、人間が出す意見ではない。

「どうすればいいっていうのよ?」

 薫子は、姿の見えない声に向かって叫んだ。

「姿を現しなさい。これ以上、隠れている人と議論をする気はないわ」

『簡単なことよ。わたしたちに従えばいいの』

 声の主は目の前に姿を現した。

 白衣を着た若い女性。保険医の香坂だ。彼女は天使の微笑みを薫子に投げかける。

「わたしたち?」

『「楽園の種」のことよ』

「楽園の種?」

 聞き覚えがあるような気がしたが、どうしても思い出せない。

『そう。この地球はかつては楽園だったわ。人類の誕生と発展に伴って、今まさに滅びようとしているけどね。わたしたちは地球に種を植えるの。かつての楽園を取り戻すための種をね』

「どうやって?」

『そんなことあなたが考える必要はないわ。信じればいいのよ』

「無理よ、そんなことできるはずがない」

『できるのよ』

 香坂は断言した。

『わたしには無理でも、マリア様にならね』

「マリア様?」

『この方よ』

 香坂は天空を指さした。そこには胎児のように目をつぶり、体を縮こめた裸の幼女が浮いていた。

 いや、これは胎児のようではなく、ほんとうの胎児なのではないか?

 彼女は三歳児ほどの体をし、黒髪を生やしていたが、臍からは緒が伸びている。

「胎児?」

『そう、まだお生まれになってはいないわ。マリア様が誕生するときこそ、世界が再生するとき。わたしたちはそれまで、マリア様の命令に従い、準備を進めなくてはならない』「で、でも、彼女はまだ……」

『胎児? 子供? なにもできない? そんなことはないわ。マリア様は生まれる前からして神の力を持っている。神の奇跡をいつでも起こせるのよ』

「神の奇跡? それで人間も地球も救うというの?」

『そう、理屈はいらない。あなたはマリア様をただ信じればいいだけ』

 そういう香坂の顔には、微塵の疑いすら浮かんではいなかった。

 たしかに理屈ではない。薫子は宙に浮いているマリアになぜか心を動かされた。

 この子ならば、世界をなんとかしてくれるのではないかという期待が芽生える。

 なんの根拠もないのに。

『半信半疑のようですね、鳥島薫子。いえ、鳳凰院薫子』

 べつの声がした。まだ幼い声だが、大人のようなしゃべり方だ。

「どうしてあたしの本名を?」

『わたしにはすべてお見通しです。隠しごとはできません。ついでにわたしの力をもう少しだけ見せましょう』

 マリアは微笑んだ。口こそ開いていないが、この胎児が自分に語りかけているのは明白だった。

 マリアのまわりに立ちこめていた真っ黒な暗雲が、たちまち四散した。天空を支配していた闇は割れ、太陽の光が廃墟と化した地上に優しく降り注ぐ。

 神の起こした光に溶けるように、コンクリートの瓦礫や死体は消え去っていく。

 かわりに焼き尽くされた草花が、見る見る復活していく。

 もはや血と硝煙の匂いは消え去り、かぐわしい花の匂いでいっぱいになった。

 まわりを見ると、地獄のような光景はもうどこにもない。はじめに薫子が見た、無限に広がる花園があった。

 見渡す限り、花、花、花。その上を蝶が乱舞し、さわやかな風が心地よい。

 最初と違うのは、薫子はここにひとりではなく、香坂とマリアとともにいることだ。

『わたしにとっては簡単なことです』

 マリアはふたたび微笑んだ。

「でも、……どうやって?」

『薫子、世界の再生の理論は単純なものではありません。ただひとことで簡単にいうならば、警告するのです。行きすぎた文明と、それに伴う自然破壊がどれほど地球にダメージを与えるか、それによって自然からどんなしっぺ返しを喰らうか、教えてあげるのです。それが第一歩になります。第二歩目をどうするかは、残念ながら今のあなたに説明したところで理解できないでしょう。だから、ただ信じてください、このわたしを。あなたは選ばれたのです』

「選ばれた? あなたに?」

『いえ、わたしの上の方に。宇宙を創造した、本物の神に』

 あたしが神に選ばれた?

『そうです。あなたは選ばれました。わたしに協力する仲間として。この世をふたたび楽園に帰すためには、あなたの力が必要なのです』

 あたしが必要?

『わたしたちと一緒に、この地球に楽園の種を植え付けましょう。そのためにはあなたにしかできないこともあるのです。わたしだけではできません。たとえ、奇跡の力があろうとも。あなたの協力なくしては、楽園の復活はあり得ないのです』

 よくわからないが、この胎児はほんとうに神の使いなのではないかと思った。

 そうでなければ、このカリスマ性は理解できない。

 薫子の心は、惹きつけられ、幻惑された。

 この胎児のいうことさえ聞いていれば、ほんとうに世界が救われるような気がする。

 現に薫子のまわりを奇跡の力で変えたではないか。地獄化した現実の世を、世界が始まったときの楽園に戻したではないか。

 どうやって?

 そんなことはどうでもいい。どうせ、自分には理解できないことなのだ。

 ただ信じればいい。

 なんて楽なんだろう。ただ信じれば救われる。

 いや、信じるだけではだめだ。マリア様を信じて、尽くすことが必要だ。

 なぜならマリア様がそういっている。

 あたしは選ばれたと。そしてあたしの力なくしては楽園の復活はないと。

『さあ、一緒にやりましょう。世界を楽園に変える、いえ、戻すのです。薫子、あなたの力が必要です。一歩前に出て、わたしの手に口づけを。そしてわれら「楽園の種」と共に生きる永遠の誓いを』

 薫子は中空に浮かぶマリアに向かって、ふらりと一歩前に踏み出した。

 空に浮かぶ幼いカリスマに忠誠を誓うために。


   4


 慎二は耳をつんざく銃声とともに、硝煙の匂いと肌を焼く熱さを感じた。

 彩花の放った銃弾は、慎二のこめかみをかすり、車の天井を貫く。

 とっさにハンドルを切り、彩花の体を横に振ると同時に、左手で拳銃を持つ手を跳ね上げた結果だ。

 タイヤが軋む。車は隣のレーンにはみ出した。巧みなハンドルさばきで、かろうじて後続の車と衝突を避ける。

 慎二が車のコントロールを取り戻すころ、彩花は体勢を立て直し、ふたたび銃口を向けた。

 不意を付かれた先ほどと違い、今回は余裕がある。慎二は左手を銃の上から被せ、スライドを掴んだ。そのままねじ上げる。彩花は手首をひねられる格好となり、悲鳴とともに銃を離した。

 だが彩花はあきらめない。銃を奪われると知ると、慎二がグリップを握り直そうとする前にたたき落とした。逆に撃たれることだけは避けようとしたのだろう。互いに銃を手放すと、慎二に抱きついてきた。右腕を首の後ろから回し、右手で左手を掴もうとする。

 裸絞めだ。運転中でろくに抵抗できないことをいいことに絞め落とすつもりらしい。銃を拾い直して隙を作るよりも、こちらの攻撃の方が的確と判断したのだ。

「馬鹿野郎! 正気に戻れ、彩花。ふたりとも事故って死ぬぞ」

「それを狙ってるの」

 彩花は耳元でくすくす笑った。

 くそ。おまえともあろう者が、どうしてやつらの洗脳なんか……。

 慎二は左の肘を彩花のみぞおちにたたき込む。

 だが彩花の力は弱まらなかった。

 とっさにかわして急所だけは外したらしい。肋骨に当たった感触がした。

 とはいえ、慎二の肘打ちは岩をも砕く。みぞおちに入らなくてもただで済むわけがない。むしろ肋骨が折れ、かえってひどいことになっているかもしれない。

「あなたと過ごした時間は楽しかったわぁ」

 彩花はそんなことをいいつつけっして力を緩めない。死んでも離さないつもりなのだろう。両手をがっちりと掴み、渾身の力で締め上げる。とても女の力とは思えない。

 まずい。

 意識が遠のいていく。そんな状態で車は蛇行しつつ、交差点に向かって猛スピードで走っている。

 しかも信号は赤。

 彩花を振り払うよりも、車を止める方が先だ。

 思い切りブレーキを踏む。同時に体が前方に振られた。

 しかもハンドルを中途半端に切った状態での急ブレーキ。

 ふわりと車体が浮いた。

 まずすぎる。

 車は完全に横転した。もはや完全にコントロール不可能。しかもなまじ勢いがあるものだから、そのまま交差点に向かって転がっていく。

 脱出しようにも、彩花の腕ががっしりと首に食い込んでいる。

 ぷぁぷぁああ~っ、と激しいクラクションの音がすぐ近くで鳴り響く。

 ここは交差点のど真ん中。車はようやく転がるのをやめたようだが、真っ逆さまの状態で止まっている。

 そして今のクラクションの音はおそらく大型ダンプのそれだ。

 次の瞬間、慎二は激しい衝撃を感じた。

 車の内部が一瞬で縮まった。

 ふたたび浮遊感を覚える。

 しかも回っている。

 なんのことはない。ダンプにはねられ、車は潰れつつ、跳ね上がり、空中で回転しているってことだ。

 慎二はパニックになってなどいない。むしろ意識は醒めていた。

 時間は急にゆっくり流れ出した。意識だけが暴走しているのだ。

 こういうことはよくあった。死ぬか生きるかのとき、勝手にスイッチが入るらしい。

 彩花は相変わらず抱きついたまま首を絞めている。だがその力は少し緩んでいた。

 慎二は意識を全方位に向け、状況を探る。

 車は逆さの状態で、独楽のようにまわりながら、ある方向に向かって飛んでいる。

 回転しながら飛ぶという最悪の条件の中、慎二は落ちる位置を正確に予測した。

 道路に面した、アスファルトを白線で区切っただけのオープンな駐車場。車が何台も並んでいる。さいわい人の気配が感じられないから、どれも無人のようだが、このままではその中の一台の真上に落ちる。その時間、およそ三秒後。

 通常ならなにもできないまま、たたき付けられるしかない時間だが、今の慎二には考える余裕があった。

 ドアに手をかける。

 ロックは外れたが、車体がひしゃげたおかげで開かない。

 構わず蹴った。

 慎二がつま先で蹴ると、ドアを貫通するはめになるので、足の裏全体で押すように蹴った。

 二発。三発。続けてぶち込んだ。

 ドアが飛ぶ。

 そのまま彩花を背負って飛び出そうとした。

 できない。彩花がなにかに引っかかっている。

 シートベルトか?

 慎二は振り返り、確認する。シートベルトはしていなかった。かわりに潰れた車体が足を挟んでいる。

 激突までもう一秒もない。足を抜く暇はなかった。

 見捨てるしかなかった。さいわい彩花の腕は、もう慎二の首を締め付けているというよりも巻き付いているだけだった。

 彩花の腕をふりほどき、外に飛び出すのと、車体が駐車場の車に激突するのはほぼ同時だった。

 スクラップ置き場で、車を潰すときに似た音が鳴り響いた。

 背中合わせでぶつかった二台の車は、砕けたガラスを飛び散らせながら潰れた。その光景はもはやスローモーションではない。慎二の感覚が通常に戻った証拠だ。

 彩花を乗せた車はその状態でしばらくの間ルーレットのように回った。

 その回転が止まったとき、座席のある部分はぺしゃんこになっていた。

 潰れた窓から、一本の腕が出ている。その白い腕にはいくつもの真っ赤な筋がついている。その真下の地面には真っ赤な水たまりができ、車からたれ落ちる赤いしずくが雨のように波紋を作る。

 死んだ? いや、生きている。

 慎二は、潰れた車の中から、かすかに彩花が放つ気を感じた。

 今にも消えそうな弱々しい思念波。彩花の命が消えかけている。

「待ってろ。すぐに出してやる」

 ふらつきつつ、慎二が車のドアに手を掛けた瞬間、真後ろから空間を大幅にねじ曲げる意思を感じた。それが巨大なうねりの思念波となる。明確な殺気だ。

 振り返ると、バイクに乗ったフルフェイスマスクの男が慎二に向かって手をかざしていた。その男は慎二に匹敵するがっちりした巨体で、全身真っ黒なライダースーツに身を包んでいるが、手にはなぜかグローブを嵌めていない。

 なんかやばい。

 そう思った瞬間、男の指先から炎が発せられた。

 まるで火炎放射器のように、高熱の炎が恐ろしい勢いで飛んでくる。

 慎二がかわすと、炎は彩花の乗った車を包んだ。次の瞬間、車は爆発炎上する。慎二は爆風に飛ばされ前に、自ら飛んだ。熱風が強烈な追い風となり、慎二の体をさらに遠くに運ぶ。

 そのまま、なにかにたたき付けられた。たいしたショックがなかったことから考えて、下はアスファルトではなく、他の車の屋根らしい。腰がずっぽりとはまり抜け出すことができない。

 攻撃の第二波がくる。

 そう考えたが、体は動かない。敵の殺気はふたたびふくれあがる。

 死ぬのか、こんなところで。彩花の敵も討てずに。

 慎二は逃げ出せないまでにも、男を睨み付ける。男のかざした指から炎が発せられようとした瞬間、べつの強烈な思念波が発生した。

 ライダースーツの男がはじけ飛ぶ。

 男がいた場所には長い黒髪の女が立っていた。膝下までのスカートのセーラー服を着た女子高生で、両手に木刀を持っている。そいつが木刀の一撃で男をはじき飛ばしたらしい。

 男は攻撃の目標をその女に変える。指先をそいつに向けた。

「それまでだよ」

 男はいつのまにか、新たに現れた女子高生三人に囲まれていた。いずれも木刀を持ってその切っ先を男に向けている。

 男はかまわず最初の女に炎を発した。女はいとも簡単にそれをかわす。

 あとの三人の女は同時に木刀をたたき込むが、男はびくともしなかった。

 リーダー格らしい髪の長い女が男に目もくれず倒れたバイクに木刀を突きたてようとした。足を奪う気らしい。

 男は猛スピードでバイクに向かうと、そのまま女をショルダータックルではじき飛ばす。女はかろうじて打撃を木刀でブロックしたようだ。

「男を攻撃しても無駄。バイクを壊すんだ」

 リーダー格の女が他の三人に指示を飛ばす。

 男は女四人に囲まれ、舌打ちしつつバイクを起こした。警察のサイレンが近づいてくるのがわかる。

「ふふふ。命拾いしたな、龍王院」

 男はそう吐き捨てると、バイクに飛び乗る。同時に飛んできた女たちの木刀の攻撃を手ではじき返すと、円陣を突破し走り去っていった。

 逃がしてたまるか。

 そう思っても、体は動かず、追う足もない。

「く、糞野郎めが!」

 慎二はうなるように言葉をはき出した。

 どうやったか知らないが、『楽園の種』は彩花を洗脳した。そして俺とともに死ぬように命令した。

 しょせん、洗脳した敵の兵隊など使い捨てだ。

 逆にいえば、やつらにとって洗脳など簡単なことなのだろう。

 しかもしくじったときのために、殺し屋まで差し向けやがった。

 やつらの目的にどんな大義名分があろうと、けっして許すことはできない。

 慎二はめり込んだ車の屋根から抜け出し、地に足を着いた。

 あの女たちは?

 男を追ったのか、四人ともいなくなっている。

 そもそもあいつらは誰だ? なぜ俺を助けた?

 根拠はないが曙学園に潜入した女、鳳凰院の仲間のような気がした。ただ自分を助けた理由がわからない。

 いや、今はそんなことどうでもいい。やつを追わなくては。今ならやつの残留思念波で跡をたどれる。

 目になにか液体が入った。

 顔に手をやると、ぬめっとしている。

 血だ。脱出したとはいえ、ダンプにはねられ吹っ飛ばされた上、爆発に巻き込まれた。鍛え抜いたからだとはいえ、とうぜんダメージはある。

 起きあがろうとしたのがかえっていけなかったかもしれない。視界はぐにゃりと歪み、次の瞬間、顔の前にはアスファルトの地面があった。

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