第四章 夢魔対女スパイ


   1


「失礼しま~す」

 七瀬は保健室のドアを開け、中に入った。すでに先客がいる。きのう教室でやはりネズミに噛まれた前田という女生徒だった。保健医の香坂に見守られるようにしてベッドに寝ている

「座って」

 クールビューティーの香坂女医にいわれるがままに、七瀬は香坂と向かい合うような体勢で椅子に腰掛けた。

 いつ見てもこの人はかっこいいと思う。そろそろ三十になるらしいが、働く女性の代名詞って感じで、男子からも女子からも人気がある。さらさらの黒髪をボブカットにし、白衣を着ているといかにも知性的な理系美人って感じだ。七瀬とて、この大人の魅力にはあこがれてしまう。

「熱やめまい、吐き気なんかは感じない?」

 香坂が切れ長の目で七瀬を見つめ、聞いた。

「いいえ、快調そのものです」

 じっさい七瀬は調子がよかった。ネズミに噛まれる前より、体調がいいとさえいえる。きのう、ネズミに噛まれた直後は、気分が悪かったし、精神的にも落ち込んでいたが、ここで抗生物質といわれた注射を打たれて、一時間ほどぐっすり眠ったら完全に復活したのだった。

「念のために、きょうも抗生物質を打っておくわ」

 香坂は注射器で薬剤を吸いあげ、針を上にすると、ぴゅっと余分な空気を押し出しながら、機械的にいう。

 べつにもういらないのに、と思ったが、別段注射嫌いでもないので素直に腕をまくる。

 腕にちくっとした痛みが走った。

「三十分だけ、ベッドで休んで行きなさい」

「もうだいじょうぶです。部活にも顔を出さないと……」

「きょうはだめ。あしたからにしなさい」

 七瀬は冷徹な香坂に反抗しようとしたが、みょうにテンションが下がっていく。なんかどうでもよくなっていった。

「さあ、寝るのよ」

 逆らってはいけないような気になった。七瀬はおとなしく、いわれるがままにベッドに横になる。

「あたしがきのういったことを覚えている?」

 香坂は寝ている七瀬の顔を覗き込むようにしながらいった。

「きのういったこと?」

 七瀬はきのう、注射を打たれてベッドに寝てからのことは記憶にない。しかしなにか大事なことをいわれたような気もする。

 必死に思い出そうとした。だけど思い出せない。

 正直にそういった。

「いいのよ、それで。思い出せないようにあたしが暗示を掛けておいたから、しょうがないの」

 意味がわからなかった。いったいこの先生はあたしになにをしたのだろう?

 良く覚えていないが、なにかとても大事なことを聞かされた気がする。いや、聞かされただけじゃなくて……なにか誓ったような気も。

 七瀬はその疑問を口にした。

「あなたはマリア様に忠誠を誓ったのよ」

「マリア様?」

 とても神々しい響きを持つ名。しかしいったいそれは誰だっただろう?

「そう、全知全能の神、マリア様。まだ生まれ落ちてすらいないのに、世界のすべてを知り、世界のすべてを動かせる女神、マリア様。あなたは彼女に忠誠を誓ったでしょう? 思い出した?」

 七瀬は頭にマリアを描いた。胎児にして、全能。そして至高の美を持つ少女。

 それだけで、七瀬はとてつもなく幸せな気分になった。

「……思い出しました」

「マリア様がほほ笑めば嬉しいでしょう?」

 香坂が優しく問いかける。

 それを想像すると、心の底から幸福感が湧いてきた。

 なんというか、ふわふわと天にまで昇っていきそうな不思議な感覚が全身を包む。

「はい。とても……とても、幸せになります」

「じゃあ、マリア様に敵対するとどうなる?」

 今度は低い声で挑むようにささやく。

 それを想像しただけで、気分が悪くなった。頭が割れそうに痛み、猛烈な吐き気が襲う。

 目に見えるものが、どす黒く変色しながらどろどろと溶けていくような錯覚。七瀬はその中で溺れそうになった。

「生きたまま地獄に堕ちます。あたしはけっして逆らいません」

 血を吐くようにそういった。

「そう、地獄で悪魔の責めを受け、のたうち回る。でもだいじょうぶ。あなたは決してマリア様に逆らわないから。だって、あなたはマリア様に選ばれた民だもの」

 その言葉で、目に見える光景は元に戻り、さらにかすかに光り輝いていく。七瀬はふたたびうっとりした気分になった。そればかりか、体中に甘く蕩けそうな快感が走る。

「さあ、もう一度、マリア様に忠誠を誓いなさい」

「はい。あたしはマリア様に忠誠を誓います」

「どう? マリア様に忠誠を誓えるのは誇らしいでしょう?」

「はい。とても誇らしい気分です」

「では、もう一度。自分の名前をいってから絶対の忠誠を誓うの」

「あたし二階堂七瀬は、マリア様に絶対の忠誠を誓います」

「もう一度」

「あたし二階堂七瀬は……」

 香坂にいわれるがままに、何度も何度も繰り返した。

 その言葉を口にするたび、どんどん気持ちよくなっていった。はっきりいってそれは性的エクスタシーに似ていた。

 そうなると、もう止まらない。

 高坂にうながされるまでもなく、七瀬は取り憑かれたように忠誠の言葉をくり返す。

「あなたがほんとうにマリア様に選ばれた民なら、忠誠を誓うだけで快楽に溺れる」

 その一言に、七瀬はイった。 

 その瞬間、絶頂の快楽と同時に、強烈な誇りが全身に芽生える。

「あなたはマリア様に選ばれた民。『楽園の種』の正式メンバーに選ばれたことを認める。たった今から、おまえはただの二階堂七瀬ではない。『楽園の種』の二階堂七瀬二等兵よ」

「ああ、とても嬉しいです」

 視界がうれし涙で霞んだ。正式な階級までもらい、これで心おきなくマリア様のために戦える。

「ところできのうおまえが友達になった転校生が、おまえになにかいっていなかったか?」

 薫子のことらしい。七瀬は知っていることをぜんぶ話した。

「なるほど、おまえの友達の鳥島薫子は、国家にだまされているらしい。今の腐りきった体制は一度破壊し、マリア様の手で作られた新しい世界をわれわれ『楽園の種』のメンバーで運営することが必要なのだ。つまり今の国家体制は悪。おまえの友達は知らず知らずのうちに悪に荷担していることになる。おまえは彼女の間違いを正さなくてはならない」

 そうだ。あたしは薫子を悪の道から救い出さなくてはならないのだ。

「だからおまえは薫子にこれからもまとわりつき、情報を流すのだ。それは薫子を救うことにもなる。そうだな?」

「はい、その通りです」

「よし、二階堂二等兵。これからわたしたちの小隊の隊長を紹介する。彼の命令はマリア様の命令と同じだ。忠誠を誓うがいい」

 保健室にひとりの男が入ってきた。


   *


 三月グループが黒死館総合医学研究所にたどり着くのは思ったよりも早かったな。しかも囮捜査員まで送る段取りになっていたとは。

 香坂は七瀬の報告を聞いてそう思った。

 もちろん香坂はきのう、きょうと同じように七瀬に抗生物質と偽って、ある薬品を注入した。いわば深い催眠状態になるような薬だ。それを使えば、強い暗示が掛けられる。

 とはいえ、洗脳はほんらい相手を閉じこめて、集中的に教義を判断能力をなくした脳にたたき込むのが一番だ。それはさすがに難しい。数日とはいえ、複数の生徒が失踪するのは大ごとになりすぎる。だから治療という名目で回数をわけておこなうしかない。

 ことを大きくせず、いつの間にか洗脳されている。本人も、まわりの人間も、いつの間に洗脳されたのかすらわからない。

 それが今回のネズミを使った大規模洗脳計画のそもそもの目的だ。

 この学校で生徒相手におこなったのは、たんに東京全域でおこなう前の予備実験、小規模シミュレーションに過ぎなかったのだが、面白いものが釣れた。

 鳥島薫子。まあ、どうせ偽名だろうが。どうやら三月グループの犬で、事件のことを嗅ぎ回っているらしい。しかも只者ではない。

 学校のあちこちに仕込んだ監視カメラの、昨夜の映像が物語っている。微量の光でも撮影できる暗視カメラの記録には、薫子の超人的な体術が写し込まれていた。薫子とかち合った大男の方は正体が不明だが、べつのグループがやはり秘密を探っているのかもしれない。こっちも要注意だ。

 いずれにしろ薫子は放っておくわけにはいかない。

 二階堂七瀬は、薫子に貼り付けるスパイ役としてうってつけだった。

 七瀬の洗脳はあと数回に分けておこなうつもりだが、二回目のきょうで、かなり深まったはずだ。一回目は記憶に残らない潜在意識に、マリア様に従う幸福感と、逆らう恐怖を植え付ける。二回目の今回、マリア様へ忠誠を誓うことの快楽と、『楽園の種』のメンバーであることを意識させた。あとはそれを数回にわたって、確認、強化していく。それで完了だ。一度洗脳が完了すれば、元に戻すのは不可能に近い。七瀬は一生、『楽園の種』の奴隷になる。そしてそれが究極の幸せだと感じるようになる。自分のように。

 七瀬は今、前田とともに小隊長の前にひざまずき、忠誠を誓っている。

 もっとはっきりいえば、全裸で犬のように小隊長の前にひざまずき、命令されるがままに小隊長の体を舐めている。

 この行為も洗脳効果を高める一手段だ。自分が犬であり、絶対に逆らえない命令者がいることを思い知らせるためだ。しかも今の七瀬は自らの脳内麻薬とあらかじめ打っておいた薬のせいでその行為を快感に溺れながらやっているはず。そうなればもう命令にしたがうこと自体が快楽であると思えてしまうのだ。それは自分で物を考るということを放棄させる。

 ベッドに置きっぱなしになっていた前田のスマホが鳴った。放っておいてもよかったが、小隊長に忠誠を誓っている最中に電話が鳴って、注意がそっちに行くのもまずい。かわりに出た。

「はい、前田です」

『あ、前田さん? あたし、鳥島薫子っていいます。とつぜんごめんね。あの、留守電聞いたかな?』

「いえ」

『ええっとね、じつはネットの掲示板で、ネズミに噛まれた人が発病するっていうデマが流れているんだけど、嘘っぱちだから。黒死館総合医学研究所っていうところに行かせるための罠だから、絶対にそこには行かないでね』

 香坂は笑いそうになった。

 すでにわかっていることとはいえ、ご丁寧に確認の電話までよこすとは。

「ありがとう、そうします」

 香坂は、できるだけ明るい声を作っていった。

『じゃあ、そういうことで』

 電話は切れた


   2


 虹村彩花は黒死館総合医学研究所の一般通院受付をすませ、中に入った。いくつかある研究所の建物の中でもここは医療センターであり、一般の病院と変わりはない。いわゆる、研究者たちが実験などをおこなっている部署は、敷地内のべつの建物にあるようだ。ここはまだ建てられて新しいらしく、掃除がいきとどいた白を基調とした室内は清潔なイメージだ。部屋数も多く、大学病院のような感じがする。

 待合室には順番を待っている患者たちがごった返していた。学生、サラリーマン、主婦と統一感はないが、みな悲愴な顔をしている。おそらくほとんどすべて例のネズミに囓られ、妙な噂に心配でたまらなくなった人たちなのだろう。

 彩花は空いた席を見つけて座る。誰もが無関心だった。人のことに興味を示す余裕などないらしい。

 彩花のきょうの服装は、上品そうな白のブラウスに、膝下までのフレアスカート、少しだけ踵の高いパンプス、手には高級ブランドのハンドバッグ、髪から覗く耳にはダイヤのピアス、さらに胸元には百合を形取ったブローチと、どう見てもスパイには見えない。

 お金持ちのお嬢様を意識して彩花自身がチョイスした。

 衣服やメーキャップであらゆる類の女になりすますことができる。

 ハンドバッグの中には隠しカメラ、ブローチは小型の録音機、ピアスは外で待機している慎二に通じる盗聴器だ。

 拳銃などの武器は持っていない。万が一にも身分がばれないためだ。いざとなれば外にいる慎二が突入する段取りになっている。

 慎二には絶対的な信頼を置いていた。男としても、相棒としても。

 だからこそ、安心して丸腰で潜入できる。

 もっとも今回はたとえバックアップがなくても、武装する必要はないと思っている。

 患者としてきた自分に危険はないはず。強いていうならば洗脳されてしまう危険だが、それも心配していなかった。

 彩花はだてにこの任務に選ばれたわけではない。ひとつは面が割れていないこと。さらに変装の名人でどう見てもスパイに見えない普通のお嬢様に化けれること。そして最大の理由は洗脳されにくいためだ。

 どういうことかというと、まず彩花は薬に対する耐性がある。生まれつきあらゆる薬が効きにくい体質だ。通常の薬から、麻薬、毒、麻酔まで、とにかく常人に比べ効きが悪い。これは必ずしもよいことではなかった。この体質のせいで死にそうになったことも少なくはない。なにせ、必要な薬が効かないのだから。

 さらに催眠術にはかかりやすい人とかかりにくい人がいるが、彩花は徹底的にかかりにくかった。そればかりか、彩花はアンチ洗脳プログラムを受けている。これはあらゆる洗脳の知識を持つことにより、相手がどんな手段で来てもそれが洗脳テクニックだと意識することで、防衛するテクニックだ。

 彩花の任務は洗脳されたふりをしながら、この研究所が患者に洗脳をしている証拠を掴むことだ。

 なにげなく、まわりの患者たちを観察する。ときおり呼ばれ、診察室の中に入っていくが、なかなかもどってこない。しかし次々に新しい患者が呼ばれ、べつの診察室に入っていく。よく見ると、診察室が異様に多い。いったい何人の医者がいるのだろうか?

 徐々に待合室から患者の数が減ってきた。もう新規の患者はほとんど入ってこない。呼ばれ、診察室に入っていく患者の方が多いのだ。

 彩花はハンドバッグに入っているスマホを使って、中の様子を何気なくメールで慎二に知らせておいた。

『虹村さん、第七診察室に入ってください』

 放送で呼ばれ、彩花は奥にある診察室まで行くと、ドアをノックする。

「どうぞ」

 低く、しゃがれた声で返事があった。彩花はドアを開け、中に入る。

 簡易的なベッドがある小さな部屋。パソコンの置いてあるデスクの前に、白衣を着た男の医師が座っていた。長い髪をオールバックになでつけ、やせこけた顔に目だけがぎらついている見るからに陰気な感じの中年男だ。その脇に看護師らしき白衣姿の若い男が立っている。こっちの方は短髪で精悍な顔つきに、長身でがっしりした体格と、少なくとも見た目はスポーツマンタイプの好男子だ。

「お掛けください」

 痩せた医師は彩花に椅子を勧めた。いわれるがままに座り、医師と向かい合う。

「虹村さんですね? 私は当研究所の所長、黒死館です。ふだんは研究の方をやってますが、急に患者さんが増えて、駆り出されましてね」

 よくいう。増えたのはあんたたちの策略の癖に。

 そう思ったが、もちろん顔には出さない。世間知らずのお嬢様の顔で笑った。

「こちらは研究所の方で私の助手をやっている中里なかざとくん。やはりナースが不足して引っ張ってきましてね。いや、心配には及びません。研究所員とはいえ、彼も医師の免許は持っていますから」

 そういって、青白い顔で笑った。中里といわれた助手もさわやかに笑う。

「それでどうしました?」

 黒死館は内心答えのわかりきっているはずのことを聞く。

「じつはきのう突然ネズミに噛まれまして。こんなことはじめてですし、ネットで調べるとなにか変な病気が流行っているとか。ネットではここに来るのがいいと書いてありましたので、診てもらおうと思いました」

 彩花はそういって左手の傷を見せる。もちろん、ほんとうにネズミに噛まれたわけではない。それらしい傷を自分で作ったに過ぎない。

「なるほど、なるほど、きょうはそういう患者さんばかりですな。少し血を調べさせてもらいますよ」

 中里が採血用の注射器を段取りする。彩花がいわれるがままに台の上に腕を出すと、二の腕をゴムホースで縛られた。中里は手慣れた手つきで静脈を探ると、針を突き刺した。一瞬ちくりとしただけで、あっという間に採血は終わった。中里はサンプルをラボに持って行く。

「傷を見せてもらいましょう」

 黒死館はじっくりと傷を観察した。内心、嘘の傷であることがばれないだろうかと、ひやひやしたが考え過ぎだったようだ。

「ほっとくと化膿しますね。化膿止め軟膏を塗りましょう」

 黒死館は傷を消毒すると、軟膏を塗った。

「検査結果はあしたでないとわからないので、念のため抗生物質を注射しておきましょう」 きた。

 おそらく洗脳しやすいように、正常な判断力をなくする薬。麻薬の類だろう。

 彩花は内心ほくそ笑んだ。

 自分には効かないが、帰ったあと血液検査をすればばっちり証拠がでる。自分自身の体こそが生きた証拠になる。

 ラボから戻ってきた中里が怪しげな薬を注射器で吸った。

「やっぱり、伝染病なんでしょうか?」

 彩花は脅えた目で黒死館を見る。もちろん演技だ。

「心配ありません。あくまでも念のためですから」

「さあ、腕を出してください」

 中里が注射器を手に、真っ白い歯をのぞかせ、にっこり笑った。

 虹村はいわれるがままに、注射を打たせる。脅えたふりをしたが、逆に打ってもらわなければ困るのだ。

 体内に薬液が入っても体にはなんの変化もなかった。そういう体質だからしかたがない。それでも強い薬だと、多少の変化はあるものだが、なにも感じないところを見ると、たいして強い薬は使っていないのだろう。目的はあくまでも洗脳であり、ヤク中にすることではない。

「それじゃあ、あしたまた来てください。検査の結果が出ているはずです。飲み薬も出しておきましょう。お大事に」

「え? これで終わりですか?」

 彩花は思わずそういってしまった。これでは洗脳などおこなえるわけがない。

「ええ、終わりです。あした検査の結果、なにもなければそれ以上通院の必要もありません」

 黒死館はとうぜんという顔でいった。

 どういうこと? 見込み違いなの? それとも囮捜査だってことがばれた?

 彩花は頭がパニックになった。失敗か? それともシロか? 判断が下せない。

 しかしこれ以上ここにいるわけにはいかない。なにか仕掛けるのはひょっとしてあしたかもしれないのだ。ここでこれ以上の追求をするわけにはいかない。

「失礼します」

 この場はおとなしく帰るしかない。そう判断し、ドアを開けようとした。

 その瞬間、彩花は異空間にいた。

 真っ暗でなにもない平原。足下は泥だ。彩花以外には誰もいない。いや、後ろにもうひとりいた。黒死館だった。

「こ、ここは?」

 この男に瞬間移動させられたのか? いや、いくらなんでもそんなことはあり得ない。普通に考えれば幻覚だ。しかし……。

「虹村彩花。君は警察、いや警察官僚でもある東平安名警視が個人的に作った組織『鴉』の犬だね?」

「いったいなにをいっているの、あなた?」

「しらばっくれても無駄だよ。待合室にいるとき、君の心を読んだのだからね。盗聴器は諸刃の剣だよ。そんなものをつけてれば、スパイだっていいふらしているようなものだ」

 黒死館は薄気味悪い笑みを浮かべる。

「君は薬に耐性がある。しかも催眠が効かない。洗脳に対する知識だってある。だからこそここに送り込まれた。君なら間違っても洗脳される心配はないからね。逆にいえば、洗脳して二重スパイにするには君ほどうってつけの人間はいない」

「不可能だわ」

「それはどうかな? たしかに通常の方法では難しいかもしれないな。しかしこの私は洗脳のスペシャリストだ。だから君は他の者に任せずに、私直々におこなうのだ。君の知らない洗脳方法だってあるのだよ」

「これから洗脳をすると宣言するなんて馬鹿げているわ。警戒して受け入れないに決まっている」

「だから君の知らない方法もあるといったのだよ。そもそもここはどこだと思うね? まさか体ごとどこかに飛ばされたとは思っていまい。君は幻覚を見ていると思っているだろう?」

 たしかにそう思っていた。しかしそれはそれで不思議なことだ。催眠にかからないはずの自分がなぜ思うがままに幻覚を見せられているのか?

「ここは君の脳の中であると同時に、私の脳の中でもある。正確にいえば、私たちの共有する深層意識の中だ」

「いったい、なにを……」

「まあ、聞きたまえ。これは私の生まれ持った特殊な能力でね。自分の脳と他人の脳をつなげることができる。もちろん肉体的にではなく精神的にという意味でだがね。だから君の考えが読めるし、私の考えを君に伝えることもできるのだよ。君が催眠にかからないのは、極度の警戒心のためだ。しかしここは君の心理の奥底であり、私はすでにそこに入り込んでいるわけだ。なぜならここは私の脳でもあるからだ」

「そんなこと信じられない。もしほんとうならわたしの意志があなたの脳に影響を与えることもあるはずよ」

「君はそんな訓練をしていない。私は生まれつきそれができる上、訓練に訓練を重ねてきた。勝負にならんよ」

「そんなこと、やってみなくちゃわからない」

「そうかな。たとえば君は夢を見ているとき、それを自由にコントロールできるか? たとえ悪夢にうなされても流されるままだろう? コントロールするどころか、それが夢であることすら気づかないんじゃないのか?」

 それはたしかにそうかもしれない。しかしそれがなにを意味するのか、いまひとつよくわからない。

「つまりは君はこの世界で私に対してなにもできないが、私はこういうことができるということだ」

 その言葉とともに、彩花の服はちぎれ飛んだ。その魅力的な体を、この不気味な男に晒すしかなかった。

 ま、まさか?

 この世界の中では、すべてが黒死館の思いのままになる?

 そんなことは認めたくなかった。

 しかし、彩花の体は思うように動かせなかった。手で胸や股間を隠すことすらままならない。

「君はこれから地獄の苦しみを追う。えんえんと悪魔たちに犯され、拷問され続けるが死ぬことすらできない。まともな判断力なんてあっという間になくなる。それでも責めが止むことはない。そんなとき、君を救う者が現れたら忠誠を誓わずにいられるかな?」

「そんな時間的な余裕はないはず。もしあまりあたしの帰りが遅いときには……」

「表で張っている仲間が突っ込んでくるっていいたいのかい? いや、ただの仲間ではなく恋人かな? どっちにしろ無駄だね。君にとっては永遠に近い時間が流れるかもしれないが、実際の時間経過はほんの数十秒だ。今、君の頭は猛烈なスピードで回転している」

 嘘だ。このあたしがみすみす洗脳される?

「洗脳が完了したら、潜在意識の共有を解いてあげるよ。洗脳が行われた証拠はなにひとつ残らない。怪しい会話はなにひとつしていない。君に打った薬はただの抗生物質だ。もちろん洗脳された君は、彼らに洗脳の事実を伝えることはあり得ない」

 足下の泥からなにかが這い出てきた。それも一体ではない。

 悪魔。ひとつとして同じ形はしていないが、まさに悪魔としかいいようのない形相をした醜い化け物たちが次から次へと出てくる。鬼のようなもの、山羊のようなもの、虫のようなもの、まさに千差万別だ。

「まあ、せいぜい無限に近い時間の中で、彼らに思う存分可愛がってもらうんだな。せめて苦痛だけでなく、積極的に快楽をむさぼるといいよ、虹村君」

 その言葉とともに、黒死館は消えた。

 複数の化け物に押し倒された。冷たい泥の中でのたうち回るが、あっという間に四方から体を押さえつけられた。必死で両膝をとじ合わせるが、悪魔の一匹が万力のような怪力でこじ開けていく。

「クキキキキ」

「ケヘヘヘヘヘ」

「キャキャキャキャキャ」

 不気味な笑いがこだまする。

 彩花は無防備な股間を、醜い化け物たちに晒すしかなかった。

 そのとき、必死に堪えていた絶望の悲鳴が、口から漏れるのを押さえることはできなかった。


   3


 慎二は黒死館総合医学研究所からいくぶん離れた通りに止めたワゴン車の中で、盗聴器の受信機から聞こえる音に意識を集中していた。

 とりあえず変わった動きはない。待合室のざわめきが聞こえるだけだ。彩花も意味のある言葉は発しない。

 ほんとうにだいじょうぶなのか?

 よからぬ胸騒ぎがした。

 たしかに正体がばれることはないだろう。スパイとして拉致されたり殺されたりする危険は少ない。

 問題は、やつらが集めた患者になにをする気かということだ。

 東平安名は洗脳といったが、いったいどういう方法でやるのだ?

 彩花が薬や催眠に耐性があることは知っていたが、絶対とはいいきれない。

 あの『楽園の種』の洗脳がそう甘いものではないことは容易に想像が付く。果たしてほんとうに彩花が洗脳を乗り切れるかどうか? そう考えると気が気ではない。

 こういう感情は龍王院の任務を背負っているものとしては持つべきではない。仕事に私情を挟むとろくなことはない。それがこの世界の常識だ。だが慎二は機械にはなりきれなかった。

 一度寝た女にはどうしても情が絡む。たんに肉欲の解消のためだけに女を抱くことのできない男だった。

 考えすぎだ。危険はない。

 洗脳をおこなうにはどうしてもある程度以上の時間が必要になり、危険があると判断された時点で救出に行けば問題ない。そしてそのために、こうして自分が張り込んでいる。

 スマホが鳴った。彩花からのメールだ。


『患者の数は多いわ。診察室は第一から第七まであって、かなりの数の医師をそろえている模様。中に呼ばれていった患者がなかなか帰らないことから、こちらの読み通り洗脳が行われている可能性大ね』


 やはりそうか。

 そう思ったとき、彩花を呼ぶ放送が盗聴器を通じて聞こえる。

 彩花の足音。ノック音。ドアを開ける音。彩花が中に入った。

 慎二は意識を耳に集中する。

 会話から読み取れる情報。彩花を診察しているのは黒死館博士、この研究所の所長だ。さらに助手の中里という医師がいる。ふだんは研究所の方にこもっているが、患者の数が多いため、医療部門の方に駆り出されたといっている。

 検査と称して、彩花は血を採られた。とりあえず、不審なことではない。さらに傷の治療を行ったようだ。

『検査結果はあしたでないとわからないので、念のため抗生物質を注射しておきましょう』

 きた。

 おそらく洗脳しやすいようにする薬だ。

 慎二は手応えと感じると同時に、心配もした。

 ほんとうにだいじょうぶなんだろうな?

『やっぱり、伝染病なんでしょうか?』

 虹村の脅えた声が聞こえる。もちろん演技だ。黒死館と中里は心配しないようにいって促す。

 音だけではわからないが、注射させたはずだ。

 さあ、ここからどういう行動に出るか?

 ここからが本番。洗脳がおこなわれているという決定的な証拠はこれからだ。

 慎二は耳を澄ますと同時に、彩花のいる建物のあたりの思念波に神経を集中した。

 やつがなにか仕掛けようとすれば必ず普通ではない思念波が生じる。もちろん、彩花の体や心になんらかの異常が生じた場合もそうだ。距離があるから小さな思念波は感じられないが、大きな感情の変化があればわかるだろう。

 そのとき、真後ろからべつの思念波をかすかに感じた。それ自体はどうということはない。だれかが近づいてきているに過ぎない。ただ、その波形には覚えがあった。

 反射的に振り向く。

 そこには青いブレザーの制服を着た女子高生が歩いていた。

 わりと小柄で、ふんわりした栗色のショートカットをした美少女。そいつは慎二の顔を見ると、顔つきが変わった。戦闘のプロの顔に。

 同時にその急激な心理変化が、爆発のような思念波を生み出す。

 その尋常じゃない思念波。もはや間違いない。夜中、学校でかち合った女だ。

 いつの間にか、そいつの手には木刀が握られていた。

 やばい。

 慎二はとっさに思う。車の中では身動きが取れない上、急発進も間に合わない。

 木刀の切っ先がサイドウインドウを貫いた。

 とっさにそれをかわし、せまる刀身を掴む。

 手刀で木刀を叩きおろうとしたが、びくともしなかった。

 ただの木刀じゃねえな、こりゃ。

 手にしびれを感じつつ、思う。普通の木刀ならどんな高級品だろうと、一発で折れる。

 慎二はサイドウインドウを拳でたたき割った。そのまま木刀ごと少女を引き寄せ、襟首を掴もうとする。

 そうなればこっちのもの。

 だが少女は掴もうとした腕を片手ではじいた。そのまま指先が慎二の目を狙う。

「くそっ」

 払われた手で顔面をガードする。

 少女は木刀を手放し、少し車から離れた。

「鳳凰院か?」、「龍王院か?」

 同時にいう。

「雇い主は『楽園の種』か?」

 ハモった。

 慎二は混乱する。こいつは『楽園の種』の手先じゃないのか?

 いずれにしろ聞きたいことは山ほどある。逃がすわけにはいかない。

 そう思ったとき、握っていた木刀が消えた。

 猛スピードで引き抜かれたとかそういうことではなく、文字通り煙のように瞬間的に消え失せた。だが次の瞬間、消えたはずの木刀は少女の手に握られている。

「なんだ?」

 少女はそれ以上しかけず、背を向けると風のように駈け去っていく。追いたかったが、ここを離れるわけにはいかない。

「くそっ」

 仕方がない。あいつのことはとりあえず、不肖の妹に任せてある。それより彩花の方が心配だ。

 鳳凰院のことは頭から振り払い、ふたたび盗聴器と建物から発せられる思念波に意識を向けた。

 とりあえず、変わった思念波は発声していない。音声はすでに診察室から出たのか、黒死館の声はすでにしなかった。

『虹村さん』

 彩花を呼ぶ女の声が聞こえた。彩花の返事が聞こえたから、少なくとも無事であることは間違いない。

 女は会計らしく、かかった金額を請求した。彩花はそれを澄ますと、外に向かったようだ。

 しばらくすると、彩花は慎二のことろまで歩いてきた。

「なにこれ? なにがあったの?」

 割れたガラスを見て、ぽかんとした顔でいう。

「おそらく鳳凰院と思われる女と遭遇した」

「鳳凰院?」

「龍王院のようなものだ。伊賀に対する甲賀っていうのが一番わかりやすいだろうな」

「ふ~ん? まるで時代劇ね。で、あいてはどんな忍者なの?」

「制服着た女子高生だ。可愛い顔をして木刀を振り回す。しかも手品みたいに木刀を出したり消したりする。曙学園で夜中にがちあったのもそいつだ」

「なにそれ?」

 彩花はあきれ顔で聞いてはいたが、とりあえずはそれで納得したようだ。

「こっちの方は、怪しい動きはなにもなかったわ」

 彩花は窓のないドアを開けて乗り込むと、病院の中のことを慎二に報告する。たしかに音を聞く限り、怪しい点はなにもなかった。彩花の様子にも変わったところはない。

「あるいは正体が見破られたのかもしれないな。盗聴器の電波を感知でもされたか?」

「それはわからない。あしたも通うようにいわれたから案外そのときが勝負なのかもしれないけどね」

「わかった。とにかく一度戻るぞ。もらった薬と、おまえの血液を調べないとな」

 慎二はそういって、車を出した。

 なにか釈然としないものを感じながら。


   4


 二年B組担任篠原律子しのはらりつこは、放課後に職員室にやってきた自分のクラスの女生徒から相談を受けていた。黒いままの髪を三つ編みにした、少し地味な優等生タイプの生徒で佐々木淳子ささきじゅんこという。

「鈴木君の様子が変なんです」

 それが佐々木の言い分だ。鈴木とはやはりB組の男子生徒で、はっきりとは口にしないが、佐々木のボーイフレンドのようだ。

 鈴木孝すずきたかしは生真面目で正義感の強いタイプで、体はあまり大きくないが、学校の生徒が街で他校の不良に絡まれていたとき、助けたという武勇伝を持っているらしい。

「鈴木君、急に藤枝さんを崇拝しだして……。絶対変なんです」

 彼女がいうには、鈴木はむしろ生徒会長の藤枝を嫌っていたそうだ。おもて面はよくてもなにか裏がありそうな感じがするといって。

 ああ、めんどくさい。

 もちろん口にはしないが、本音をいえば、そんなことを持ち込んでほしくなかった。

 ただでさえ、何者かに教室を荒らされ、天井と壁が壊されていたという面倒が起きたばかりなのに。

 篠原にとってはむしろそっちの方が重要だ。夜中に教室に忍び込んで、荒らすなんて誰がやったか知らないが許しがたいし、同時に怖くもあった。

「まあ、彼が藤枝君を嫌っていたのはたんなる誤解だったんじゃないの? その誤解が解けたとか……」

「そんなんじゃありません」

 佐々木は篠原をきっと睨みつける。

「上手くいえないんですが。なんていうか、今の鈴木君はカリスマに魂を奪われた抜け殻みたいです」

 そういわれると、篠原も少し気になった。話を聞いてみると、まるでカルト宗教にはまった信者のように思える。しかし崇拝するカリスマが藤枝というのはどうも変だ。篠原が見る限り、藤枝にそういうカルト宗教とのつながりは一切ない。

 ただそういえば、彼のまわりにはいつも生徒が群がっている。女生徒ばかりだからたんにもてる生徒なのだと思っていた。なにせ、王子様タイプのルックスだし、成績優秀、スポーツ万能、そして生徒会長だ。もてないはずがない。

 ただ男子生徒までそういう女性ファンにまじって彼を崇拝するのは、やはりすこし異常な気がする。もちろんそんな男子もいないとはいえないが、鈴木はそういうタイプからかけ離れているように見える。

「う~ん、鈴木君が変わったきっかけみたいなものはなにかあるわけ?」

「そういえば、二、三日前に学校のトイレでネズミに噛まれたとか……」

 少し気になった。もちろんネズミに噛まれたことと、藤枝を崇拝するようになったこととは無関係だろうが、生徒がネズミに噛まれる事件は、きのう自分のクラスで起こったばかりだ。しかもどうやら鈴木のほうが最初に噛まれたらしい。しかもそのことを隠していた。

「どうしてそのことをいわなかったんだろう?」

「かっこ悪かったから誰にもいうつもりはないっていってました。ただ保健室には行ったから、保健の先生は知っていたかも」

 保健医の香坂はそんなことをいっていなかったが。

「その直後からおかしくなりだしたわけ?」

「そうです」

 佐々木はきっぱりといいきった。

「わかった。わたしの方からあとで香坂先生にそれとなく聞いてみるわ。なにか知っているかも」

「お願いします。あたしも一緒に行きます」

 佐々木の目には希望の光が宿っていたる。

「あなたはこないほうがいい。あまり事を荒立てたくないの。わたしにまかせてあなたは帰りなさい」

「あたしが行ってまずいんだったら、ここで待ってます。報告してください」

 佐々木は不満げな顔で職員室に居座った。

 ちょっとうんざりした。彼女に「まかせて」とはいったものの、なにも期待はしていなかった。それでなにかがわかったり、ましてや解決するはずもない。だがこうして相談された以上、なにもしないわけにもいかない。

 そうでなくても篠原は香坂のことを苦手としていた。同じくらいの年齢、ツンとすましたところも似ている。ただ容姿という点では香坂の方がはるかに上であることがコンプレックスを抱かせる。もっとはっきりいえば、嫌っていた。だが子供ではないので、そういう感情を露わにし、表だって喧嘩することはない。

 篠原は気が進まないまでも香坂に話を聞くために、一階にある保健室に向かう。

 どうもその前に保健室に向かう一行がいた。当の藤枝と、鈴木を含む取り巻き軍団だ。篠原が声を掛ける前に藤枝が保健室に入る。残りのメンバーは外に待機した。

 どうも引っかかる。

 藤枝。鈴木。保健室。

 ついさっき、佐々木から聞いたばかりのキーワードが連なる。偶然とは思えない。

 佐々木から頼まれたということもあるが、謎が篠原を刺激した。何気なく彼らに近寄り、鈴木に声を掛ける。

「こんなところでなにしてるの?」

「いえ、なんでもありません」

 鈴木は明らかに、篠原を邪魔者を見る目で見た。態度もよそよそしい。佐々木の心配はあながち大げさともいえない。他の生徒たちも同様に様子が変だ。

「保健室に用があるの?」

「べつに……」

 歯切れが悪い。

「保健室に行くつもりだけど、一緒に来る?」

 カマを掛けてみたつもりだ。反応を見たかった。

 案の定、彼らは警戒心をあらわにした。そして鈴木は大声でいう。

「先生、保健室に入るんですか?」

 まるで中の藤枝に聞こえるようにいっているような気がする。

「気が変わったわ」

 篠原自身、大声でいった。そして保健室をあとにする。

 絶対なにかある。

 もはやそれは確信といってよかった。なにかよくわからないが、ネズミと保健室と藤枝はなにか関係がある。鈴木が変になったのも。

 なぜかは知らないが、彼らは明らかに保健室を見張っている。まるで今中を覗かれると困るかのように。

 そう思うと、篠原は逆に覗かずにはいられなくなった。ひょっとしたら香坂の弱みを握れるかもしれない。そう思うと、少しだけどきどきした。

 いったん校舎の外に出ると、外から保健室に回った。気づかれないように注意して、窓から中を覗く。

 思わず声を上げそうになり、手で口を押さえた。

 保健室にはふたりの女生徒がいた。ひとりは自分のクラスの前田尚子なおこ。もうひとりはたしか隣のクラスの二階堂七瀬。そしてとうぜん保険医の香坂と、今入った藤枝もいる。

 それだけならなんでもないが、女生徒ふたりは制服を脱ぎだした。香坂の前でだけならばともかく、男子生徒の藤枝が見ているというのに。

 全裸になったふたりは犬のように藤枝の前で四つんばいになる。

「さあ、あなたたちの上官にご奉仕しなさい」

 とんでもない命令を下しているのは香坂だ。

 二階堂が藤枝のズボンとパンツを下ろした。

「さあ、舐めなさい、ふたりとも。忠誠を示すのよ、上官に。そしてすべてを統治するマリア様に」

 異常だ。まるでポルノ小説のような出来事が学校内でおこなわれている。

 篠原はショックで卒倒しそうになった。

 香坂は携帯電話で話しはじめたが、その間も、ふたりの奴隷のように見える行為は続いた。

 なにかわからないけど、とんでもないことが起きている。ただの校内での不純異性交遊なんて単純なことじゃない。

 篠原はそう感じた。

 とにかくこのことを校長に報告しなければ。

「なにをやってるんですか、先生?」

 ぎょっとして振り向いた。ついさっき保健室前にいた鈴木。彼がにやついた目で自分を見ている。

 なんでかはわからないけれど、この子も中の子と同じように、藤枝に忠誠を誓ったに違いない。

 篠原は自分を捕まえようとした鈴木を振り払い、走った。

 逃げなければ。どこへ? 外? いや、中だ。人がたくさんいるところだ。

 篠原は玄関から靴も履き替えずに校舎の中に飛び込んだ。そのまま職員室に向かう。

 死にものぐるいで走った。スマホで助けを呼ぶ余裕もなかった。

 ようやく職員室のドアの前までたどり着く。ドアの前に、蝶が乱舞していた。黒いカラスアゲハが十匹ほど。

 普段ならば珍しがるところだが、今はそれどころではない。むしろ、猛烈な違和感に襲われ、後ろを振り返った。

 十数メートルほど離れて藤枝が立っていた。追ってきたらしい。にやりと笑って、開いた右手を前に突き出した。

 なにか危険だ。

 とっさにそう思った篠原は、職員室のドアを開ける。あとはこの中に逃げ込めばだいじょうぶだ。

 篠原はそのまま中に飛び込んだ。そのとき蝶も何匹か中に入ってきたが、そんことはどうでもよかった。

 目の前で蝶が羽ばたく。

「どうしたんですか、篠原先生? 息を切らして。おまけに顔色がさえんですよ。鋼鉄の女、篠原先生ともあろうお方が」

 からかうようにいったのは、隣のクラスの担任、石岡だった。がさつで下品でそりの合わない男。しかしそんなことは今はどうでもいい。

 助けて。

 そういいたかったが、声にならなかった。胸が急激に熱くなる。

 比喩ではなかった。ほんとうに燃えるようだった。それも体の外はなんともないのに、体の芯だけが燃えるような感じだ。それもちょうど心臓のあたりが。

 篠原はもはや立っていることができなかった。

 床に崩れ落ち、石岡の声がかすかに聞こえる。

「篠原先生?」

 それが篠原が聞いた最後の言葉だった。


   5


「やあ、お帰り、早かったね」

 薫子が、喫茶『ドラゴン』のドアをくぐると、三月がテーブルでのんびりコーヒーを飲んでいた。

「なによ、血相変えて。どうしたの、薫子?」

 美咲はカウンター内で読んでいたマンガ本から目をそらし、薫子に問う。

「美咲さん、あたしにもコーヒーちょうだい」

 そのまま三月のいるテーブルに駆け込む。

「また出た。あの大男」

 薫子は美咲に聞こえないようにささやいた。

「黒死館研究所の中にかい?」

「外よ、外。なんか知らないけど、車で待ち伏せしてたのよ」

「ふ~ん」

 三月はそういってしばらく考え込む。

「へい、お待ちぃ」

 美咲がコーヒーをだんとテーブルに置いた。

「なによぉ、いつもいつもこそこそ内緒話。たまにはあたしも混ぜてよね」

 少し不機嫌そうにいう。

「君には関係のない話だ」

 三月が一蹴する。

「ふ~んだ。薫子、どうでもいいけど、話が終わったら夕食の準備するのよ」

「でもお客さんいないじゃない。いっちゃ悪いけど、ここに来たとき、三月さん以外に客を見たことがないよ」

「ぐっ……たまたまよ、たまたま」

 美咲は頬を膨らませ、カウンターに戻る。

「で、どう思う?」

 薫子はコーヒーに砂糖を入れながら聞いた。

「可能性はふたつあるね。ひとつはそいつが敵の場合だ」

「うん。つまりあたしが来るのを知って待ち伏せしてたってことね」

「そういうことになるね。あるいは、敵じゃない場合、そいつは君と同様、黒死館を探ろうとしてたってことになる。つまり張り込みをしてたわけだ。あるいは仲間が中に潜入していたのかもしれない」

「ふ~ん?」

 薫子としては後者であってほしかった。あまり敵には回したくない男だ。まともに戦って勝つ自信があまりない。敵でないなら手を組むという選択肢すらある。

 でも顔を見るなりいきなり攻撃しちゃったからなぁ。たとえ敵じゃないとしても、あたしのことを憎んでいるような気も……。

 だが後手に回れば、こっちが瞬殺されそうな気がするからしょうがない。

「で、結局中は偵察できなかったんだね?」

「あたりまえじゃないの。逃げるので精いっぱいだって」

 ちょっと語気が強まった。美咲が興味津々な顔を向ける。

「まあ、仕方がないな。君はそいつに面が割れたようだから、そこの調査は誰か他のものにやらせる必要があるかもね。君は学園内の方に専念してもらおうか」

 正論だった。それに薫子自身そうした方がいいとも思う。

 だがまるで三月から「君は使えないな。他のやつに頼むか」といわれたような気がして我慢がならなかった。

「ちょっと待ってよ、三月さん。たとえ顔が割れたって……」

 いきなりスマホが鳴った。薫子は舌打ちして取る。

「はい、薫子」

『ねえねえ、薫子、聞いた? 篠原先生が死んだのよ』

 名乗らないが、その興奮した声は間違いなく七瀬だ。

「え?」

 耳を疑ってもう一度聞き直す。

「ほんとなの、それ?」

『もちろんよ。もう学校中その話題で持ちきりよ』

 七瀬はまだ学校に残っていたらしい。

「どうして死んだの?」

 例のネズミとなにか関係があるのか?

 早い話が、その件でなにか知ってはいけない秘密を知って、何者かに殺されたのではないかと、疑った。

『心臓麻痺だって』

「え?」

 七瀬の答えは意表を突いた。殺人でも事故でもなく、心臓麻痺?

『よくわからないけど、先生が職員室に真っ青な顔で駆け込んだんだって。その場でばったり倒れてそれっきりだそうよ』

「そ、それで、どうして職員室に駆け込んだの? なにかいってたの?」

『それがなにもいわないでばったり。うちの石岡先生の目の前で逝ったそうよ。先生の話では、とくにすぐ後ろを誰かが追っていたとかそういうこともないらしいんだけど』

 ほんとうに心臓麻痺なんだろうか?

 薫子はまずこのことを疑った。鳳凰院流の継承者なら暗殺の方法にはくわしい。

 たとえば、遠くから細い針のようなものを飛ばして、心臓を貫いたということはないだろうか?

 それに見えない糸のようなものを結びつけておけば、刺したあと引っ張って回収することもできるだろう。

 もっともそれをすれば、外傷が残る。点のようなもので気づきにくいかもしれないが、今回のような不審な死を遂げた場合、医者もそれなりに調べはするだろう。見落とすとは思えない。

 かといって毒殺ならば死体を調べればすぐにわかるはずだ。それに話を聞く限り、篠原はなにかから逃げていたような感じがする。毒殺とは矛盾する。

 あるいはスタンガンのようなものを使ったのかもしれない。高い電圧で心臓を直撃すれば心臓麻痺を起こすはずだ。しかしそれならば犯人はすぐ近くにいたはず。それにその方法だと火傷の跡が残りそうだ。

『なんでもそのとき蝶が飛んでいたそうよ』

「蝶?」

『黒いアゲハチョウ。カラスアゲハってやつ? 篠原先生が死ぬとき、それが何匹か職員室の中で舞っていたんだって。先生が死んだら、いつの間にかいなくなったそうよ』

 アゲハチョウ? いったいなんだそれは? だがそれが死因に関係あるとは思えない。アゲハは刺さないし、毒も持っていない。

「七瀬、そんなこと誰から聞いたの? 石岡先生?」

『直接聞いたわけじゃないけど、情報の発信源は偶然職員室の中にいた生徒だって。隣のクラスの佐々木って子らしいよ』

 佐々木? そういえば、きのう隣のクラスを尋ねたとき、ネズミに噛まれた前田っていう人のことを教えてくれたのはたしかその人じゃなかったか?

「その子まだ学校にいるの?」

『いや、かなりのショックだったらしくて、警察に事情を話したあと、帰ったみたいよ』

 そういうことなら、きょう事情を聞くのは無理だろう。

「ふ~ん、他になにか変わったことはないの?」

『今のところそれくらいねぇ。ま、なにかわかったら教えてあげる』

「お願い。なんでもいいから教えて」

『へえ、薫子ってけっこう野次馬根性旺盛なのね。まっかせといて』

 七瀬が同類発見とばかりに笑った。

 通話が切れた。たぶん他の友達にも連絡するので忙しいのだろう。

 薫子は今の電話のことを三月に報告する。

「……ふ~ん。やっぱり君には学園内の方に専念してもらった方がいいみたいだね。そっちの事件を追ってくれ」

「……わかった」

 事情が変わった。なにかとんでもないことが起こりはじめている。意地を張ってる場合じゃない。

「とりあえずあした、目撃者に事情を聞いてみる。きっと自然死に見せた暗殺よ」

 薫子は声を潜めた。

「まあ、警察には事件として扱ってもらって、徹底的に死体を調べるように頼んでみるよ。それくらいの圧力なら僕の家の力で掛けられる」


   *


「これでよかったんでしょうか?」

 七瀬は通話を切ると、上目遣いで香坂に聞いた。

「ええ、十分よ。これで薫子は佐々木を通じて保健室にたどり着く。必ずあしたにでもやってくるわ。あたしのことを探りに」

 職員室に仕込んである隠しカメラとマイクのせいで、佐々木の訴えによって篠原が動いたことはわかっている。薫子が密かに事件のことを探っているのなら、必ず探りにやってくる。おそらく自分もネズミに噛まれたとかいって。自分が飛んだ火に入る夏の虫であることにも気づかずに

 そう思うと、こみ上げる笑いを止めることができない。

「さあ、お舐め」

 裸で四つんばいになっている七瀬の顔に裸足の足を突き出した。

 七瀬は舌を伸ばし、神妙な顔で指の間を舐める。隣にいる前田尚子と餌を争うかのようにして。

 このふたりの洗脳は思った以上に順調だ。完全に屈服するにはもう少し時間がかかるかと思ったが、もう二度と元に戻ることはないだろう。

「うふふ、心配しなくても、あなたの親友の薫子もすぐ同じになるわ。なにも自分で考えずに、『楽園の種』に従うことこそが唯一の幸福だと感じられるように。今のあなたたちみたいにね」

 香坂はそう考えただけでわくわくする。少しレズっ気のある彼女にしてみれば、薫子のようなボーイッシュな美少女を、今の七瀬のように裸にひん剥いて好きにできると思うとたまらない。それどころか、従順な奴隷になってしまうのだ。

「はい、香坂軍曹。あたしは『楽園の種』に従って、心から幸せです。早く薫子にもこの幸せを分けてあげたい」

 七瀬は陶酔した表情でいうと、むさぼるように足の指を舐めた。

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