第三章 龍王院対鳳凰院


   1


「なにやってんの、薫子さん?」

 三月が喫茶『ドラゴン』に入った第一声だった。

 なぜなら薫子がキッチンカウンターでカレーの鍋をお玉でかき回していたからだ。

「え、いや、だって……」

 薫子は遠慮がちに、横で椅子に座ってマンガ本を読んでいる美咲をちらっと見る。

「あははははは。気にしない気にしない。お手伝いがしたいんだって。いい子ねえ」

「ふ~ん。なるほどね」

 三月はテーブルに着くなり、ひとり納得していた。すべてお見通しらしい。

 さすがは美咲の料理の腕を誰よりも知る男。薫子が美咲の料理の味に我慢できず、自分で作った方がはるかにましだと考えたことを瞬時に見抜いたようだ。

「じゃあ、僕ももらおうかな。薫子さんの手作りカレーを」

「へ~い、カレー一丁追加ね。薫子」

 美咲がおどけた口調でいう。

 追加もなにも、鍋にはすでに数人前のカレーができつつある。そろそろ火を止めてもいいころだ。薫子は皿にライスを盛りつける。

「三月さん、盛りは?」

「普通でいいよ」

 薫子は普通の盛りつけの皿ひとつと、山盛りの皿ひとつにカレーをかけていく。

「おまちどう」

 薫子は両手に皿を持って三月のテーブルまで行くと、自分もそこに座った。

「う~ん、楽ちん楽ちん」

 美咲が楽しげに独り言をいう。こんな仕事をしているが、料理をしたりすることは好きではないらしい。薫子に仕事を取られてもなんとも思っていないらしい。もっとも料理好きであの腕ならかわいそうな気さえするが。

「よっぽどカレーが好きなんだね、薫子さん」

 三月は山盛りカレーを見て、目を丸くする。

 べつに大好物というわけでもない。たいていのものは好きで、なんでもよく喰う。きのう頼んだのはたまたまだし、きょうもカレー作ったのは、他に作れるものがないからだ。

 薫子だってお世辞にも料理がうまいとはいえないから仕方がない。それでも野菜は火が通るまで煮る、くらいの常識はある。まあ、その程度といわれればそれまでだが。

 そんな薫子が自分で作った方がましだという料理で金を取る店があることが不思議だ。

「ま、まあね、栄養たっぷりだし」

 薫子は内心それ以上つっこむなよ、と思いつつスプーンを口に運ぶ。

 うん、美味い。

 市販のルーを使ったカレーだが、ちゃんとカレーの味がする。いや、ルーを使ったからこそカレーの味がするのかもしれないが。

 それでもちゃんと食えるものにはなっている。

「いやあ、料理も上手いんだね、薫子さん」

 三月の一言に、思わず「はにゃん」となってしまいそうになるのを堪えた。

「いやあ、ここだけの話だけど、いったい美咲さんはどうやればあんなものが作れるんだい?」

 三月がささやく。まさに同感だった。ひょっとしたら自分でスパイスを調合でもしているんじゃないだろうな? だとすると自分をまったくわかっていない。そんなことはインド人にでもまかせろ。

「あしたはべつの料理も作ってよ。晩飯食わずにここにくるからさ」

 ぎくっ。

 毎晩、三月がこの店に来て、薫子がその日の捜査状況を説明することになっている。そのさい、薫子の料理を食べたいらしい。

 その気持ちは大変嬉しいが、期待に応えられるだろうか?

「ま、まあ、まかせてよ」

 そう思いつつも、胸をどんと叩く薫子であった。

「それいいわねぇ。楽ちん楽ちん」

 美咲がそれを聞いてまたはしゃぎだした。プライドないのか、あんたは?

「で、なにかわかったことがある? きょうは初日だから期待してないけど」

 カレーを食いつつも、三月は仕事の顔になった。

「そうねえ……」

 薫子も口いっぱいのカレーを咀嚼しながら考える。

「ネズミ」

「え、どこ、どこよ?」

 薫子の言葉に反応し、美咲があたりをきょろきょろ見回した。

「いや、こっちの話」

「脅かさないでよ。ここは飲食店なんだから、ネズミなんか出たら客が来なくなるわ」

 ネズミが出なきゃ、客は来るのか? とつっこみたかったがやめておいた。

「それで、ネズミがどうしたの?」

 三月が美咲を無視して、薫子を見つめる。

「いや、ネズミが生徒を襲ったの。追いつめたわけでもないのに、いきなり」

「ふ~ん」

 三月は真剣な顔でなにか考え込んだ。

「それも一件だけじゃないの。あたしが見たのは昼休みだったけど、隣のクラスでは午後の授業のとき、教室に出てきて生徒を囓ったらしいよ」

「たしかに変だね、それは」

「でしょう?」

「で、噛まれた生徒はどうなった?」

「保健室に行って終わりよ。消毒して、抗生物質の注射打ったみたい」

「やあねえ。曙学園って思ったより不潔な学校なのねぇ」

 聞き耳を立てていた美咲が茶々を入れる。

「黙っていてくれよ、美咲さん」

「へいへい」

 美咲は不機嫌そうに、ふたたびマンガに目をやる。

「噛まれた生徒の名前は?」

「二階堂七瀬。隣のクラスの方はあしたにでも調べておくわ」

 三月は七瀬の名前をメモした。

「その生徒の容態が気になる。追跡調査して。ついでに、保健室の先生に様子を聞いてほしい」

 三月が美咲を気にしてか、小声でささやく。

「いいけど、なんなの? 心当たりがあるんなら教えてよ」

 薫子も声を落とした。

「今の段階じゃなにもわからないよ。ただちょっと気になる。なにか裏があるような気がする」

 急に不安になった。たいしたことじゃないと思っていたのに、三月の反応が思っていた以上に過剰だ。

「それともうひとつやってほしいことがある」

「なに?」

「そのネズミを一匹捕まえてほしい」

「げっ、マジ?」

 急に食欲がなくなった。べつに、薫子は都会の一般的な女子高生と違い、ネズミを見たくらいで悲鳴を上げるような軟弱者ではない。とはいえ、ネズミを捕まえるとは簡単ではない。ネズミの行動パターンを読めないと、そこらに罠を掛けてもそうそう引っかかるものではない。

「できれば生け捕りがいい。ウチの企業の研究機関に調べさせたい」

 初任務は悪人を倒すことからかけ離れ、探偵どころかネズミ退治に成り下がった。

「女子高生にネズミを生け捕りにさせようなんて、どんな男よ、もう」

「わははは。僕は君の依頼人」

「わかったって、もう。やればいいんでしょう。やれば?」

「そうそう、やってくれるよね。で、念のため、素手では触らないで。もちろん噛まれないように注意してよ」

 う~む、暗に変な病原菌がネズミについているかもしれないって、いっているようなもんね。

 そう思うとうんざりする。ネズミは怖くないが、変な病気にはなりたくない。

 まあ、たとえそうだとしても、空気感染はたぶんないだろうから、噛まれなければ問題ないはず。

「ねえ、さっきからなにを内緒話してんのよ。ネズミを捕まえるとかって聞こえたけど、間違ってもこの店に持ってこないでよね」

 いつの間にか、美咲がテーブルのすぐ側に立っていた。

「や、やだなあ。あたしがそんなことするわけないでしょう?」

「ま、それもそうね。とにかく、あしたもお料理がんばるのよ」

 美咲は薫子の肩をぽんと叩く。

「じゃ、そういうことで。薫子さん、楽しみにしているよ」

 三月の一言と笑顔にどきんとする。

 いつの間に平らげたのか、三月の皿は綺麗になっていた。

 その楽しみにしてるっていうのは、もちろん料理だよね。ネズミ取りの方だったら承知しないんだから。

 薫子がそんなことを思っていると、三月は席を立った。

「御会計」

 美咲がにっこり笑った。

「薫子さんの分と合わせて月末に払うよ」

「うわあ、食い逃げだ。食い逃げぇ。大金持ちの癖しやがって」

 物騒な言い分に耳を貸さず、三月は店を出る。

 薫子はちょっと盛りすぎたなと思いつつ、残ったカレーを口に運び、いったいどうやってネズミを捕まえようか? と考える。なにせ昼間そんなことをしていれば、他の生徒や教師たちに怪しまれるのは間違いない。

 しょうがない。今夜、遅くなってから忍び込むことにするか。


   2


「隊長、情報屋たちの報告によると、ネズミの被害が増えてます」

 緑川がパソコンの画面を睨みながらいった。

「ふん、きのう曙学園高校でもネズミ騒ぎが起こったらしいからな。街全体で増えていても不思議はない」

 東平安名が面白くなさそうにいう。

「おまえの妹からの情報だよ」

 東平安名は慎二の方を見ると、補足した。

 あんな馬鹿でも少しは役に立っているらしい。もっとも俺同様、戦闘以外能のないやつで、情報収集は苦手のはずだが、どうやってそんな情報を入手した?

 慎二は妹に負けたような気がしてちょっとだけむかついた。

「それで明らかに発病したケースはあるのか?」

 東平安名はふたたび緑川に視線を向ける。

「いえ、どれもたいしたことはないようです。せいぜい微熱程度ですね」

 いやな予感がする。『楽園の種』の狙いがわからないが、知らない間に取り返しのつかないことになっているのではないか? そんな気がする。

「なあ、ひょっとして新種の細菌兵器だけど、潜伏期間で症状が出ないだけなんじゃねえのか?」

 慎二は思いついたことを口にした。

「それはどうですかね? 最初の患者が噛まれてから四日たっていますが、今のところなんの症状も出ていないようです。第一細菌兵器だとしたら、ネズミに噛ませるなんてことをしないで、空気中にばらまくとか、水道水に混入させるとか、もっと有効な作戦をとるはずです」

 緑川のいうとおりだった。『楽園の種』がネズミを使って細菌兵器をばらまき、都内の人間を皆殺しにしようとしていると考えるのはどうしても無理がある。それだと効率が悪すぎるのだ。

 もっと簡単で効果的な方法がいくらでもあるはずなのに。

「アキラ、おまえはどう思う?」

 東平安名が聞いた。

「実験だと思います。ネズミを思うように操る実験。もっといえば、ネズミに人間を襲わせる実験」

「ビンゴ。あたしもそう思う。理由のひとつは間違いなくそれだ」

 たしかにネズミが人間に噛みつく事件が続出するのは異常だ。なんらかの操作が行われたと考える方が自然かもしれない。

「だがいったいなんのためにそんなことをやるんだ、警視さんよ?」

「可能性はいくらでもある。たとえば、そういうネズミを大量に作り出してみろ。ちょっとした軍隊になる。しかもそのときこそ、ネズミに細菌を感染させることでその驚異はふくれあがる。だが、それだけのことなのかな?」

 東平安名は鷹のような瞳に猜疑の色を浮かべた。

「なにか裏がある。ネズミを操るのは手段で、目的はそう簡単じゃない気がする」

「ネズミを捕まえてみてはどうでしょう? 敵がどうやってネズミを操っているか調べるんです」

 緑川が提案した。しかもよけいなことまでいう。

「その曙学園にはネズミに噛まれた生徒が複数いるんでしょう? きっとまだ学校にいますよ、ネズミ。シンさんはどうせ暇だからちょうどいいじゃないですか?」

「ナイスアイデア。さすがアキラだ」

「ちょ、ちょっと待てぇ。俺が学校に乗り込んで、ネズミを捕まえてくるのか? 勘弁してくれ。なんていって俺みたいのが学校の中に乗り込むんだよ?」

「それくらい知恵絞ってなんとかしろよ、シン。おまえは機械化テロリストを追跡して倒す以外に役に立つことはないのか?」

「そうですよ。それくらいのことはやってくださいよ」

 女どもは好き勝手なことをほざく。

「とうぶん追いかけっこや戦闘は起きないだろうしな。行ってこい。たまには違うことで役に立て。この契約金泥棒が」

「ほんとですよ。あたしなんか毎日たいへんなんですからね」

 えらいいわれようだ。雇い主の東平安名はともかく、同じ雇われ人で年下の緑川にまでこんなことをいわれるとは。

「おまえの化け物めいた不思議な力は相手を追っかけてこそなんぼのものだろう? ネズミ捕まえるにはもってこいだろうが。行け。今すぐ、いや、今夜、行け。そうすりゃ、生徒や教師を気にすることなくネズミ取りに集中できるだろうが。ネズミ捕まえてくるまで戻るな」

 東平安名は厳命した。

 なにが化け物めいた不思議な力だ。あんたの特殊能力の方がよほど化け物めいているだろうが。

 慎二はそう思ったが、そんなことをいってもしょうがない。なにか反論しなくては。

「おい、夜中に、そんな行ったこともないところに忍び込んだって、勝手がわからなくてどうしようも……」

 必死でこの馬鹿馬鹿しい仕事から逃れようとしたが無駄だった。

「ちょっと待っててくださいね。今、学校の見取り図をプリントアウトしますから」

 緑川は慎二が文句をいう前にすでにプリンターを操作していた。こいつのパソコンの中には主立った公共の建物の図面がセットされているらしい。

 やれやれ、龍王院流、次期継承者ともあろう俺が夜中に学校に忍び込んでネズミ退治か? 情けなくて涙が出るぜ。

 だが残念ながら、慎二はこの仕事を拒否する言い訳をどうやっても思いつかなかった。


   3


 薫子はあたりに人影がないことを確認して、学園の塀をひらりと跳び越えた。

 もう夜中の一時だから、さすがに人影は少ないが、もたもたしていると誰かに見つかって通報される恐れがある。

 今の薫子はジーンズにスニーカー、スエットと動きやすい格好をしている。いずれも黒っぽい色だ。腰からは捕まえたネズミを入れるための缶をぶら下げ、ポケットにはネズミをしとめるためのつぶてとして、パチンコ玉を十数個入れていた。

『千年桜』は持ってきていない。もし来る途中、警官に呼び止められたら面倒だと思ったからだ。夜中に木刀持って徘徊する女子高生。怪しすぎる。

 だがこの仕事に『千年桜』はどうしても必要だ。薫子は念じる。

 千年桜よ、来い。

 右手の中に木刀が瞬時に現れた。

 薫子が呼ぶことで空間を超えてやってくる。千年桜の精がいったことに嘘はない。いつでもどこでも、距離に関係なく呼び寄せられるらしい。アポート能力というようだが、薫子の場合、『千年桜』限定だ。他のものは呼び寄せられない。

 薫子は自分の視覚を残しつつ、千年桜の感覚を繋ぐ。

 灯りもない深夜の暗闇から、さまざまな光景が浮かび上がった。校庭に植えられている樹や芝生などが発する霊体の姿だ。

 植物の霊体は動物のものと違い、短い時間ではほとんど変化しない。霊体の形としては実態の形とほぼ等しい。昼間、日差しの強いときと違い、光合成をしていないせいか、葉の部分の霊体をきらきら輝かせることもなく、静かにたたずんでいる。闇に溶けそうなくすんだ緑色の霊体がかすかに存在を主張しているだけだ。

 薫子は意識を校舎の中に向けた。とりあえずなにも感じられない。

 残念ながら『千年桜』で感じられる霊体は、比較的近いところのものに限定される。それが『千年桜』の力の限界なのか、受信した弱い霊体を薫子が感知できないだけなのかはよくわからない。いずれにしろ、霊体の強さにもよるが、半径にしておよそ二十メートルの外になると急にわからなくなってしまう。相手がネズミごときならもっと近くでないとわからないかもしれない。

 動き回るしかないか。

 薫子は覚悟を決めた。とりあえずは、昼間七瀬が襲われたところだ。

 ライトも点けず、校舎裏に回る。いちおう宿直の先生なり、警備員なりが校舎にいるはずだからむやみに灯りは使えない。

 残念ながらそこからはネズミの霊体らしきものは感じられなかった。

 向こうの方がアンテナの範囲が広いのかも?

 その可能性はあった。ネズミは臆病だから敵を察知する能力に長けている。

 だが泣き言もいっていられない。とりあえず、校舎の中を探すしかないだろう。

 薫子はここから校舎に入る裏口のドアを開けようとする。鍵がかかっていた。

 おそらく単純なディスクシリンダー錠。

 ポケットからピッキング用のツールを出す。まずテンションと呼ばれるピンセットに似た金具を鍵穴に差し込んだ。さらにピックとよばれる細長い金具をつっこむと、かき回す。わずか数秒で開いた。

 静かにドアを開け、中にはいると、ドアを内側からロックした。

 校舎の中は月明かりが照らす外よりさらに暗い。だが灯りを点ければ、警備の人間に見つかる恐れがあるだけでなく、まっさきにネズミが逃げる。

 人工物の固まりである建物の中では、いかに『千年桜』を使おうとも、霊体の位置でまわりの状況を掴むことはできない。逆に生体反応が現れればすぐにわかるともいえるが、移動するのには不便だ。

 さいわいにして薫子は夜目が利く。そういう訓練をしてきたからだ。

 窓から入るかすかな光を頼りに、薫子は廊下を前に進んだ。

 とりあえず当てがあるわけでもないが、動き回るしかない。極力気配を消し、足音を殺した。

 しばらく歩き回ったが反応がなく、上の階に行って同じことを続ける。三階までいったとき、ついに前方から望んでいたものが現れた。教室の中の天井裏。二年B組、薫子たちのクラスの隣だ。それも一匹じゃない。

 真っ暗な廊下から壁越しに覗き込んでも、眼ではなにも確認できないが、千年桜には霊体が見える。

 三匹のネズミが宙に浮いているように感じる。いくぶん透き通り、陽炎のように揺らめきながら。

 薫子は息をこらし、極力殺気を押し殺そうとした。逃げられたくはない。

 教室のドアを静かに開ける。霊体が反応した。

 ネズミの形のまま、いくぶんゆらゆらと揺れていた霊体が石のように固まっていく。必死に気配を殺そうとしているのだ。

 薫子は机にぶつからないように注意しながら、忍び足でネズミが固まっている真下に向かう。

 三匹の反応はそれぞれだ。今にも逃げだそうとしているやつは、霊体が風にたなびくススキのようにしなる。威嚇しようとしているやつは、霊体が炎のように燃えた。最後のやつは、凍り付いたように見える。徹底的に気配を絶ってやりすごす気だ。

 標的は決まった。最後のやつを狙う。こいつは最後まで逃げない。

 パチンコ玉による指弾では天井板をぶち抜けない。薫子は真下のポジションをキープすると剣を構えた。

 激しく跳躍すると同時に、剣を真上に突きたてた。

 弾けた火の玉のようになって、二匹の霊体が散る。

 だが天井を貫いた剣先には確かな手応え。同時に凍り付いたようだった霊体が黒ずみ、闇に消えそうになる。

 殺したか?

 目標は生け捕りだから、手加減はしたつもりだが、天井を貫く必要があったため、ある程度以上には力を弱められなかった。

 霊体は弱まったが、完全には消え去れなかった。気を失っただけらしい。

「ラッキー」

 思わず独りごちたが、さていったいどうやって回収しようか?

 あまり時間は掛けたくない。警備の見回りが来るかもしれないからだ。

 ま、あした大騒ぎになるかもしれないけど、いいか?

 薫子はもう一度ジャンプすると、剣を振るう。

 天井の化粧石膏ボードが一メートル角ほどの大きさで床に落ちた。

 ボードは砕け散ったが、その中央にネズミのかすかな霊体が見える。素手で触らないように石膏ボードの破片にネズミを乗っけると、腰の缶のふたを外し、押し込んだ。

 さあって、長居は無用ね。

 薫子は教室から退散しようとしたとき、壁越しに廊下から霊体を感じた。

 ネズミじゃない。人間。それも男だ。

 警備員かもしれないと思い、気配を絶つ。

 廊下の霊体は筋肉質な大男を形取っている。だがその全身が炎に包まれた。

 殺気だ。自分に対して放っている。しかも炎を形取った殺気は今まで感じた誰よりも激しく、なにかが爆発炎上したかのような錯覚を起こす。ある程度の距離を保っているのにはっきりと熱さまで感じた。

 薫子は反射的に剣を身構え、後ろずさる。

「何者だ、貴様?」

 男がしゃべった。荒々しい声だ。

 薫子が中にいることを見抜いている。気配を殺したつもりだったが、わずかな殺気がもれていたのか?

 まさかこいつもあたし同様、相手の霊体が見えるんじゃ?

 男を包む、霊体の炎は、とりあえず薫子を攻撃しない。相手も様子を見ているという感じだ。

 薫子は息を止めたまま、足音を立てずに横に動いた。

 それに伴って男も動く。まるでこの暗闇の中、壁越しに薫子の動きが見えているかのように。

 やっぱりこいつも、あたしの霊体が見えている。

 しかも薫子と違って、霊剣の力など借りていない。『千年桜』のような霊剣を持っていればひとめでわかる。

 こいつが敵? 『楽園の種』とかいうやつ? こんなやつが相手なの?

 まずい。まともにやったら勝てないかも。

 薫子は先手必勝とばかりに剣先で男を突いた。

 コンクリートの外壁とちがい、薄い間仕切り壁など、薫子にとっては障子紙のようなもの。

 だが男は渾身の突きをかわした。同時に火の玉の形をした霊体が薫子に向かって飛んでくる。

 やばい。

 薫子は剣を引き、後ろに飛び退く。

 一瞬遅れて、拳が壁をぶち抜いて飛んでくる。霊体の動きで攻撃を読んでいた薫子には届かなかった。

 ここは逃げるが勝ちね。

 こんなことは予期してなかった。きょうの目的は達成された。戦うべきじゃない。

 そう判断した薫子は、窓に向かって走る。

 幸か不幸か、『千年桜』のおかげで、振り向かなくても真っ赤な炎のような霊体が自分を追うのが見える。

 窓を開けると、下を見た。三階だから、さすがにそのまま飛び出せはしない。

 さいわい、少し離れたところに樹が見える。なんの樹かは知らないが、高さにして二階分くらいはある。

 薫子は迷わず、それに向かって跳んだ。

 そのまま枝を掴み、それをクッションにして落下を和らげ、さらに下の枝を掴んだ。そしてもう一度スピードを殺すと、そのまま地面まで降りる。

 後ろを見ずに一目散に一番近くの塀に向かって走る。

 うわっ、追って来やがる。

 巨大な火の玉が迫ってくる。まるでその殺気の炎で薫子を焼き付くさんとせんばかりに。

 信じられないが、あの大男も薫子なみに身が軽いということだ。

 振り向きざま、パチンコ玉を指ではじいた。いわゆる指弾で頭を狙った。拳銃弾ほどのスピードは出ないが、野球のピッチャーの投げるほどの速さはある。

 この暗闇ではまずかわせないはず。というか、見えない。

 だが男は一瞬足を止めると、首を横に振ってかわす。

 化け物め。

 薫子はふたたび男に背を向け、全速で走った。

 真後ろから小さな火の玉が高速で飛んでくる。

 なにかを飛ばした殺気。こいつも指弾を使う。

 霊体に一瞬遅れて飛んできた実弾を、薫子は振り向きもせず、千年桜でたたき落とした。

「ち、化け物め」

 男の舌打ちが聞こえる。化け物に化け物といわれたくはない。

 そのまま塀の上に飛び乗ると、歩道をまたぎ、近くの道路を走っていた車に向かって跳ぶ。

 まるで猫のように身軽に車の背に着地すると、そのまま学園を離れていく。さいわいにして運転者は薫子が飛び乗ったことに気づいていないようだ。

 車が走って行くにつれ、ついに薫子にも燃える霊体が感じられなくなった。ようやく距離を取れたってことだ。

 相手が薫子よりもはるかに遠くの霊体を感知できればべつだが、同じ程度なら相手も薫子を見失ったことになる。

 薫子は、車が信号でとまったときを見計らってさっさと降りると、そのまま走り去った。 さいわいにして男は追ってこなかった。


   4


「あいつの正体がわかったのか?」

 慎二は地下の秘密部屋に入るなり、デスクにふんぞり返っている東平安名に聞いた。

 昨夜、捕まえたネズミを引き渡したついでに、例の女のことを調べておいてくれと頼んでいたのだ。呼び出されたのはそのためだと思った。

「今、おまえの妹が調べてる」

 よりによってあいつか? ほんとうにあいつにそんなことができるのか? まあ、今回に限ってはしょうがないが。

「あまり信用していないようだな」

 慎二の顔に不満が表れたのか、東平安名が意地悪そうに笑う。

「ふん、あいつはそういうことには俺以上に向いてないような気がするからな。がさつでいい加減な女だ。戦うしか能がない」

「まるで自分は違うっていってるみたいですね」

 緑川がパソコンの前に座りながら、鼻で笑った。

「とりあえず、その女が三月財閥と繋がりがあることだけはわかっている」

「あんたの家のライバルか?」

「まあ、そんなところだ」

 東平安名が苦虫をかみつぶすように顔をしかめた。

 東平安名と三月。ともに日本を代表する企業総合体。さまざまな分野でしのぎを削る関係だ。

「おまえの方こそ、戦ってみて相手の見当はつかないのか?」

 只者ではないのはよくわかった。

 剣の速さ、身の軽さ、壁越しにこっちの攻撃を読んだこと。さらに指弾を使い、逆にこっちの指弾をたたき落とす反射神経。

 そういうことでもわかるが、あの女から感じた波動だけでその力を推し量るには十分だった。

 昨夜の女から感じた思念波はすさまじいものだった。鏡のように凪いだ水面が、天高く吹き上がったかのように、一瞬にして無の状態から殺気を放つ。変化する状態が大きく、変化のスピードが速ければそれだけ強い波動として感じられる。

「わからん。とにかく普通じゃない腕だ。ただの人間じゃない。だがどうも『楽園の種』の機械化テロリストとは違う感じだ。ひょっとしたら鳳凰院かもしれん」

「鳳凰院だと?」

「あんたなら知ってるだろう? 龍王院と同じようなもんだ。闇に生きる武道家集団。現代の忍者。だが互いに相手の技をよく知らない」

「敵対しているのか?」

「そういうわけでもない。ただし依頼人同士が敵なら、敵にもなりうる」

「ふ~ん?」

 東平安名は興味深そうな顔をした。

「まあ、『ハンター』と呼ばれるシンさんが普通の人間に逃げられるなんて、ちょっぴり間抜けですからね」

 緑川がなにやらキーボードを叩きながらきゃらきゃら笑った。

「黙れ。逃げられたわけじゃねえ。ちゃんと追った」

 そう、慎二は追った。強い感情を放ちながら移動すれば、それは強い思念波となってあとに残る。それはちょうど水面をモーターボートが走れば、しばらくの間波が残っているのに似ている。

 あの女の放つ強烈な思念波はすぐには消えなかった。慎二はその残留思念波を追えばよかった。それが『ハンター』と呼ばれる慎二の特技だ。

 かつては龍王院家の人間なら誰でもできたことらしいが、今ではほとんどの者がその力を失いつつある。それでもたまに突然変異的にその能力に長けたものが生まれることがあるらしい。それが慎二だ。慎二は龍王院家の中でも、格闘技能とともにこの力がぬきんでていた。

 その力を使って女を尾行し、隠れ家をつきとめたのだが、よりによって……。

「で、あいつの正体がわかったんじゃなければ、俺を呼び出した理由は?」

「ネズミの方だ」

 東平安名はデスクにおいてある封筒から写真を撮りだした。

「あのネズミには機械の類は一切埋め込まれていない」

 ネズミのX線写真を見せるなり、不満そうにいった。そのまま写真をデスクの上に放り投げる。

「そのようだな」

 デスクの前で立っている慎二も覗き込んだが、見えるのはやはりネズミの骨格、それに内蔵。それ以外のものはなにひとつ写り込んでいない。脳に小型の受信機が仕込まれているとか、そういった事実はない。

 ネズミは今、別室にいる東平安名が個人的に集めた科学捜査班員によって徹底的に分析されている。手元にあるX線写真と所得データはその手始めだった。

 血液データ。とくに変わった数値はないらしい。その他、体温、呼吸回数、血圧、心拍数、正常の範囲内ということだ。

「つまり、今のところあれは普通の健康体のネズミでしかないってことだ」

「ってことは、ただのネズミが意味もなく人間を襲ったのか? 東京のネズミはそこまで腹減ってんのかよ?」

 慎二は思わず口にする。

「あたしだって信じられないさ。だが事実だ。おそらく遺伝子レベルまで調べてもたいした結果は期待できないだろうな。あれはただのネズミだ。細菌兵器でも生物兵器でもない。どうやってコントロールしているのかはわからないが、あれ自体はほとんど無害だ。せいぜい人間に噛みつくだけで、それによってどうこうなるわけじゃない」

「しかし、『楽園の種』がどうしてそんな無意味なことをするっていうんだ? ほんとうにネズミを操るためだけの実験なのか?」

「無意味。たしかにそれ自体は無意味だ。だがなにか意味があるはず」

 東平安名は目をつぶって考え込んだ。

「シン、おまえだったらネズミに囓られたら、どうする?」

「さあな。俺だったらせいぜい消毒して化膿止めのクスリでも塗っておくくらいだろうな。たいしたことなけりゃ、なにもしないで放っておくかもしれん」

「それこそ無意味だな」

 警視はつまらなさそうにつぶやいた。

「隊長!」

 そのとき、ずっとパソコンとスマホとにらめっこをしていた緑川が、悲鳴にも似た叫び声を上げた。

「インターネットの掲示板が大変なことになってます」

「どうした、アキラ?」

「こ、これを見てください」

 警視が緑川のデスクに走って、モニターを覗き込んだ。慎二もそれに続く。

 モニターにはこう書いてあった。


401 病院へ行こう名無しさん

   うわっ、おまえら、さっきネズミに囓られたよ。血が出てる。

   病院行ってくるよ。


402 病院へ行こう名無しさん

   おまえの家のネズミは凶暴だの。はやく逝け。


403 病院へ行こう名無しさん

   ネタ? ここは日本だぞ。


404 病院へ行こう名無しさん

   》401

マジ? 実は俺も。普通じゃないぞ。


405 病院へ行こう名無しさん

おまいらだいじょうぶか? 俺の友達、三日前にやはりネズミに噛まれたんだが、

   きのう、そいつ倒れたぞ。全身に不気味な湿疹が出たって話だ。

   今、そいつ入院してる。


406 404

   嘘だろ? ね、俺どうしたらいいの?


407 病院へ行こう名無しさん

   マジ病院逝け。


408 病院へ行こう名無しさん

   いや、俺も似たような話を聞いたぞ。

   某国がネズミを使った細菌兵器を放ったって噂だ。

   とにかく今ネズミは危険だ。絶対に噛まれるな。


「こ、これは?」

 慎二は目を疑った。潜入捜査官から入った情報は、トップシークレット。東平安名が警察上層部に報告しているかどうかすら怪しいくらいの極秘情報だ。『楽園の種』の名前こそ出ていないが、ネズミを使った細菌兵器という噂まで流れ出した。

「ふん、あいつらネットを使ってデマを流しはじめたってことか?」

 東平安名が忌々しそうにいう。

「なんのために?」

「その答えは引き続き読んでいけばわかりますよ、シンさん」

 緑川はマウスを使って画面をスクロールしていく。

 進むにつれて、飛び交う情報は過激かつ具体的になり、そのかわり、どう考えても事実からかけ離れていく。

 ついに噂は、こういうことに落ち着いた。

 ネズミは北朝鮮がばらまいたテロ兵器で、囓られると二、三日はなんともないが、その後全身に不気味な発疹が浮かび、地獄のような苦しみを味わい衰弱して死んでしまう。

「おいおいどういうことだよ? ネズミにはそんな細菌に感染してなんかしてねえだろうが。そうだろ、緑川?」

「じっさいに感染させる必要なんてなかったんです。噂を流せば十分。きっとこれは口コミでもっと広まりますよ」

「だからなんだ? やつらの狙いはパニックの誘発か? 東京都民がネズミを怖がるようになってなんの得があるんだよ?」

「答えはこれです」

 緑川はえらそうに胸を張ると、さらに画面をスクロールさせる。


689 病院へ行こう名無しさん

で、噛まれた俺はどうすればいいんだ? 

   病院病院って、どこいけばいいんだよ?


690 病院へ行こう名無しさん

   おまいら朗報だ。この病院なら治せる。ここへいけ。

   http/www.○×△■.


 緑川はURLをクリックし、その病院の運営しているサイトに飛んだ。

 黒死館総合医学研究所。

 現れたホームページの上の方には大きな文字でそう書いてあった。

「どうやらここは治療もするようですが、病院というよりも医学研究所のようです。細菌やウイルス、伝染病などの研究、治療の分野ではかなり有名なようです。一方で催眠治療などの心理治療にも定評があります」

「それでネズミに囓られた患者がどうしてここへ行くんだ?」

 慎二はいまひとつ納得がいかない。

「このサイトにネズミに囓られた場合の危険性について書いてあって、その場合、この研究所に来れば適切な治療を施すと書いてあるんです」

「つまり、『楽園の種』の目的は、無作為にネズミに囓らせた患者をここに集めるためだっていうのか?」

「そう思います。『楽園の種』はネットの掲示板で嘘の情報を流し、大衆を踊らせたあげく、その不安の解消先としてこの研究所を上げた。つまり、それが目的のはずです」

 緑川は小鼻をふくらまし、きっぱりといいきった。

「しかし、ここに集めたあとどうする?」

「そ、それは……」

 緑川は口ごもった。

「たぶん、いや、十中八九、洗脳だ」

 東平安名が口を挟んだ。

「クスリや催眠を使えば洗脳は簡単に行える。考えても見ろ。得体のしれない細菌に冒され悶え死ぬかもしれないと思っている患者なら、注射やカウンセリングをとうぜんのように受け入れる。さらに相手は医者だと思えば無条件に信頼もするというものだ。しかも通院させることも簡単だし、場合によっては入院という名の監禁だってできる。得体のしれない宗教やイデオロギー団体が洗脳する場合でも、善意の団体などに偽装して相手の警戒心を解くものだ。相手の警戒心が強い場合、洗脳はうまくいかない。相手が医者で、治療という名目ならこれほど好都合なことはない。しかも無理に勧誘しなくても、ネズミに噛まれた連中は勝手に集まってくる。考え得る最強の洗脳システムだ」

 東平安名の推理には説得力があった。たしかにそれならば、ネズミを操るなどといった大がかりな計画のわりには細菌兵器を使うわけでもないといった不可解な行動も納得がいくし、これからさらに人間を襲うネズミを大量にばらまけばさらに大量の人間が集まってくる。

「放っておけば大変なことになる。これが成功すれば、おそらく洗脳した信者を使って彼らの身近な人間を引き込む。たとえば、クスリを使えば心理的なパニックを起こさせることなど簡単だ。いい病院があるといって、仲間を病院に引き連れていく。まさにねずみ算式に洗脳が広がっていく。叩くのは今しかない」

『楽園の種』に忠誠を誓う人間をねずみ算式に増やしていく。そのきっかけにネズミを使うとはなんとも皮肉だ。やつらにしてみればブラックジョークのつもりかもしれない。

 だがそれはとうてい許されないことであると同時に、放っておくときわめて危険なことだ。

「でもどうするんですか、隊長。なんの証拠もありませんよ」

 緑川のいうことももっともだった。黒死館総合医学研究所の連中が、直接ネズミをばらまいたわけでもないだろうし、仮にそうでもそれを証明する手段はない。まさかいくらんでも、研究所の一角でネズミを飼育しているなどという間抜けなことはしているわけがない。

「決まってるだろう? 囮捜査をする。シン、おまえは護衛だ」

 その一言とほぼ同時にドアが開いた。ひとりの女性が立っている。

 ゆるめのウエーブがかかったふんわりした髪は肩まで届き、顔立ちは派手さこそないが上品に整っている美形で、深窓のお嬢様を思わせる。真っ白なブラウスに膝下までのふんわりとしたスカートと装いも清楚にして優美。いかにもミッション系の女子大生という感じだ。

彩花あやか?」

 慎二は思わずその女の名前を口にした。

 東平安名が集めた特殊な力を持つ捜査員のひとりだ。緑川がネット掲示板の説明をしている間に東平安名が呼んだらしい。

虹村にじむら彩花、入ります」

 彩花はおとなしそうな顔に似合わないはっきりした口調で挨拶した。

 慎二の顔をちらりと見ると、魅惑的な笑みを浮かべた。

「ひさしぶりね、慎二さん」

「あ、……ああ」

 常時この部屋に居座っている緑川と違い、彩花は必要に応じて呼ばれる。慎二と同じく一仕事単位で契約しているいわば傭兵で、慎二と組むのは二度目だ。そのとき慎二は彩花といわゆる大人の関係になった。夜、服を脱いだ彩花は少なくとも清楚なお嬢様ではない。男を惑わす妖しい獣だった。

 慎二がぎこちなくそっぽを向くと、彩花は悪戯ぽい目を投げかけ、くすりと笑った。

「アヤカ、頼みたい仕事がある」

 東平安名が真面目な顔つきでいった。

「はい。なんでしょう?」

 緑川がちらっと慎二を見つめ、意味深な笑みを浮かべた。

 まさか、こいつは俺と彩花のこともお見通しかよ? 彩花が自分でしゃべったのか? よりによってこいつに。

 ある意味それは戦略的だ。緑川に情報を流すことで、公認の仲にしようとしているのかもしれない。けっこうそういうことには不器用な慎二は、惚れた女しか抱くことはないが、そういう手を使ってくる彩花も本気なのかもしれない。いい女はみなしたたかだ。

 慎二は内心、苦笑いした。


   5


 授業後のホームルームも終わり、放課後になった。

 隣のクラスでは教室の天井と壁が破壊されたと大騒ぎになっていたようだが、薫子のクラスは平穏無事だった。

 七瀬もなにごともなかったかのように登校してきて、体調はすこぶる快調らしい。ネズミに噛まれた影響は今のところない。さらに今朝、登校前に三月に会って渡したネズミの調査結果はまだ出てきていない。とりあえず、次になにをやるべきか、判断に迷うところだ。

 きのうの男のことは三月にも報告してあるが、三月にも正体がわからないらしい。

 三月のいうことを信じる限り、『楽園の種』の工作員なら、まるでマンガに出てくるサイボーグのように体になんらかの武器を仕込んでいる場合が多い。いわゆる機械化テロリストだ。だが霊体から判断するに、あの男は生身の人間だった。

 首領である祖父に相談してみると、「あるいは龍王院かもしれん」といわれた。

 大昔には鳳凰院と戦ったこともあるといわれている龍王院。今では存続しているかどうかすらわからない闇の流派だ。

 もしそんなやつらが敵側についたとするとやっかいだ。調べてみたいが、残念ながら手がかりがなにもない。

「そっちの方は任せろ」ともいわれた。どうやら桜子たちを使って、龍王院を調べさせる気らしい。

 ポケットの中のスマホが鳴る。

 モニターに映し出された番号は三月のものだった。薫子は教室から出て、廊下の隅に行くと電話を受けた。

「はい、薫子です」

『薫子さん? 三月です』

 三月の声を聞くと、非常事態にもかかわらず、ちょっとだけ胸が高鳴る。よく考えたら、今まで若い男から電話をもらったことなんてあっただろうか?

『七瀬さんていったよね。ネズミに噛まれた人』

 挨拶もなしにいきなり七瀬の名前が出て、少し気分を害した。

『その人、インターネットとかする人かな? そういうことで情報を集めるのが好きなタイプの人?』

「たぶんね。彼女、新聞部員で好奇心旺盛だから。この学校にもネットにつながったパソコンがあって、七瀬はよく使っているようよ」

 自然と発する言葉にもそこはかとなく刺が出る。

『もしその人が黒死館総合医学研究所に行くといいだしたら止めてほしいんだ』

「え? なに? 黒死館……」

『ええと、説明するよ。まず、薫子さん、インターネットの掲示板って知ってる?』

「田舎者だと思って馬鹿にしてる? 鳳凰院は現代の情報社会に適応してんのよ。そうでなきゃ、こんな仕事できっこないじゃない」

 ネットに接続したパソコンを持っている人なら誰でも書き込める、それこそ掲示板。つまりここではいろんな情報を知ることができると同時に、自分も情報を発信できる。日本にはそういう掲示板がいくつかある。そんなこと今や一般常識だ。

『ごめんごめん。それもそうだよね。で、今その中で、ネズミに噛まれたものは一定の潜伏期間を経て、発病し死に至るというデマが流れてるんだ。しかもネズミに噛まれる事件は、学園の外でも頻繁に起こっているらしい。それを治療するには黒死館総合医学研究所に行くしかない。そう煽ってる。でもそれはデマだ。絶対に彼女をそこに行かせないでほしい。それと他にも学校で噛まれた人いたよね。その人も探して、同じことをいってほしいんだ』

 三月の声は真剣だ。つまりその黒死館なんとかとやらが、今回のネズミ事件の黒幕なのか?

「つまり、あのネズミはそこに行かせるための手段なの? 検査の結果は?」

『ああ、そうだったね。まずそれをいわないと話にならない』

 三月の失笑が聞こえた。

『結論からいうと、あれは普通のネズミだ。病原菌の類も持っていない』

 それを聞いて一安心した。素手で触りはしなかったが、内心気持ち悪かったし、七瀬が心配でもあった。

「じゃあ、なんであいつら人間を襲ったの?」

『それはまだわからない。おそらくネズミを凶暴化させる音波かなにかを使ったんじゃないかな。それを探るのも君の仕事の内だよ』

「じゃあ、学園内にネズミを操る機械でもあるのかな? それを探る? でも、そっちの黒死館を調べる方が先じゃない?」

 薫子はあたりに気を遣い、小声で話す。患者を装えば、中の様子は簡単に探れる。

『そうだね。ちょっと探ってきてほしい。ただその前に、噛まれた生徒に直接会って絶対に行かないように釘を刺しておいてくれ』

「わかった」

『黒死館の場所はスマホにメールで送っておくよ。じゃあ、気をつけて』

 電話は切れた。

 とりあえず、七瀬を探す。七瀬なら放っておけば、勝手に黒死館にたどり着いてしまうかもしれない。

 七瀬はまだ教室にいた。薫子はさりげなく話しかける。

「七瀬、インターネットの掲示板とか見たりするよね?」

「もちろんよ。今の時代、マスコミが垂れ流す情報を鵜呑みにするだけじゃだめ。自分で検証するにはネットは必須よ。巨大掲示板には悪意のあるデマやたんなる噂も流れるけど、貴重な情報もあるの」

 七瀬は生徒に講義する講師のように、えらそうにいった。

「で、きょうは覗いた?」

「さすがにきょうはまだ見てないけど。いくらあたしだって昼休みのたびに情報処理室に行って掲示板をチェックしたりはしないって」

「よかった」

 黒死館総合医学研究所とやらにどんな危険があるのか、具体的には知らないが、とりあえず七瀬はそこに行かないですむだろう。

「いい? 今、ある掲示板では、あのネズミは某国がまき散らした生物兵器で、噛まれれば二、三日の潜伏期間をおいて発病し、死に至るっていう噂が流れまくってるの」

「なんですって?」

 さすがに七瀬の顔色が変わった。

「だいじょうぶ。デマだから。デマっていうよりもある目的のために流した虚偽の情報って感じよ。それによると、治療するには黒死館総合医学研究所っていうところに行くしかないって書いてあるんだけど、ぜったいにそれを信じちゃだめ。罠なのよ」

「なんかおもしろそうな話ね?」

 心配ないとわかったせいか、驚愕の表情が好奇心に取ってかわられた。

「どうしてあんたがそんなこと知ってるの?」

「う、うん、お兄ちゃんがじつは新聞記者なのよ。さっき警告されたの。それ以上のことはあたしも知らないんだけど」

「え、そうなの? 初耳。早くいってよね。どこの新聞社?」

「ええっと、……三月新聞」

「すっごいじゃない。大手よ大手」

 七瀬が目を輝かせる。いざとなれば三月を兄として紹介するが、この一言が変なスイッチを押してしまったらしい。

「ふんふん、黒死館総合医学研究所ね。大新聞の記者がそこを怪しいといっている……と」

 七瀬は下唇をぺろっと舐めながら、黒死館の名前をメモしだした。

「ちょ、ちょっと、なに考えてんのよ?」

「決まってるじゃない。そんな面白そうなこと、放っておけますかってんだ。探るのよ、その黒死館なんとかを」

 いわない方がよかったのではないかと思った。素人記者として名を売ろうとでもする気なのだろうか? しかも、特殊技術もなにも持っていない癖に。

「だめよ、危険すぎるって。それに囮捜査をするらしいし、邪魔になっちゃう。あたしが怒られるじゃないの」

 もっともその囮捜査をおこなうのは、自分自身のわけだが。

「ふ~ん、囮捜査ね」

「だめ」

 七瀬があまりに嬉しそうな顔をするので、薫子は思わず睨み付けた。

「わかったって。ときどき怖い目をするんだから、薫子は」

 七瀬は両手の平を上に向け、おどけて見せた。

「約束だよ」

「わかった、わかった」

「それと、きのうもうひとりネズミに噛まれた人いたよね? 七瀬知ってる? その人にも忠告しなくっちゃ」

「隣のクラスの前田さんよ。たぶんこれから顔を合わせるからいっておいてあげる」

「え、なんで?」

「保険の香坂こうさか先生から念のため、きょうも放課後保健室に来るようにいわれてるの。彼女もいっしょ」

「そう? じゃあ、頼んだよ」

「オッケー」

 七瀬は笑顔でそういうと、保健室に向かった。

 その前田さんという人が、仮に七瀬のいうことを信じなくても、保険の先生がいっしょなら問題ないだろう。保険の先生が、細菌兵器の心配があるから、すぐ黒死館総合医学研究所に行きなさい、なんていうはずがないからだ。

 ただ前田が保健室に行くことをサボる可能性もあるので、念のため薫子は隣のクラスに行って前田を訪ねた。

 佐々木という級友から「気分が悪くなったらしくて、六時間目の途中で保健室に行ったわ」という返事をもらい、薫子は安心した。

 わざわざ保健室に確認に行くこともないだろう。もっとも七瀬とすれ違いになることもありうるので、念のため、佐々木に、前田のケータイ番号とメールアドレスを聞いておいた。

 教室に戻ると、彼女のスマホに掛けてみる。出ない。薫子は留守電サービスにメッセージを残した。

「鳥島薫子といいます。突然すみません。今ネットではネズミに噛まれると恐ろしい病気にかかるという噂が流れていますが、デマですから気にしないでください。とくにネットでいわれている黒死館総合医学研究所には行かないでください」

 念のため、しばらくしたらもう一度掛けてみたほうがいいかもしれない。

 これ以上学校でやることもないので、あとは黒死館研究所に行くばかりだ。なにかあったときのため、鳳凰院の里に黒死館に行くことを報告しておく。首領は捕まらなかったが留守電を入れておいた。それがすむと帰り支度をする。

 下足入れに向かう途中、廊下で藤枝の一行を見かけた。相変わらず、藤枝の後ろをぞろぞろとファンだか、手下だかがついて回る。よく見ると、きのうよりも数が増えている。しかも女子だけでなく、男子まで二名ほど混じっていた。

 ひょっとして生徒会の役員たち?

 薫子は生徒会役員の顔など知らないが、そうであれば不思議でもない。藤枝は生徒会長なのだから。しかし、その内の何人かはきのうもつきまとっていたファンらしき女子生徒だし、彼らの顔からは藤枝に対する陶酔が感じられる。どう見ても、生徒会役員だのなんとか委員会だのといった雰囲気ではない。

 いったいなんなんだか?

 薫子は呆れながらも、その大名行列を眺めていた。

 七瀬も彼に夢中だったし、きっと都会の学校ではこういうことも珍しくないのだろう。もしこれ以上取り巻きが増え続ければ、さすがに異常だとは思うが。

 靴を履き替え校舎を出るころには、薫子は藤枝のことを忘れていた。

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