第二章 鼠と「鴉」


   1


「ここ……だよね?」

 薫子は依頼主の三月陽介みつきようすけから指定された場所の前に立ち、しげしげと観察した。

 なんの変哲もないというか、かなり古めかしい四階建ての小さなマンションビル。その一階にある、とても流行っているとは思えない喫茶店。歩道に面した黒っぽいガラス越しに中を覗いても、昼過ぎだというのにほとんど客の姿が見えない。だが『喫茶ドラゴン』という看板が掛かっている以上、ここで間違いないのだろう。

 なんかへんぴなところだなぁ。

 薫子はついそう思ってしまう。

 東京に着いたときは思わず興奮した。林立する建物、至るところにいる人の群れ。山手線のホームに行けば、数分おきに電車が走ってくることに興奮し、老若男女、さまざまな人で溢れている東京にただただ圧倒された。それが、目的の場所に近づくにつれて、だんだん過疎化されていく。

 最寄りの駅に着いたときには、鳳凰院の里の麓にある町と大差ないほどの規模の町並みと人通りに少なからず失望したものだ。

 まあ、ひとことで東京っていっても、新宿のような街から、こういうところもあるんだよ。とうぜんね、世界の常識だよ。

 無理矢理そう思うことにした。自分は観光に来たわけじゃない。

 とはいっても、十七年間、鳳凰院の里で生まれ育った薫子は、初任務という興奮とともに、東京でしばらく生活することに対して憧れがなかったといえば嘘になる。

 まあ、人目を忍ぶ意味で、こういうところにしたんだよね。

 薫子は気を取り直し、喫茶店のドアを開けた。

「いらっしゃいませぇ~っ」

 鈴の音のような声が響いた。狭く薄暗い店のカウンターには、ひとりの若い女性が子供のような笑顔を見せて立っていた。

 おそらく薫子よりも少し年上の、十八か十九。耳を出したショートカットは薫子以上に短く、黒々としている。スリムな長身にジーンズといった姿はむしろ高校生の男のようで、エプロン姿が似合っていない。笑顔はとても可愛いが、その陰にけっこう気の強い素顔を隠しているような気がする。いや、想像でしかないが。

 他に店員はいないから、彼女がひとりで切り盛りしているらしい。

 薫子は愛想笑いを返したあと、店内のテーブルを見回す。それらしい人を探そうとしたのだが、探すもなにも客はひとりしかいなかった。

 窓際の円テーブルに座った二十代前半と思われる若い男。背は高そうだが痩せ形で、弱々しそうなイメージ。よれよれのグレイのスーツがまるでおしゃれじゃない。まるで中学生のようにさらさらしたお坊ちゃんカットで眼鏡を掛けている。顔は癒し系とでもいうのか、のんびりのほほんとした感じがする。

「やあ、こっちです」

 その男は薫子を見るなり、笑顔で手を振った。

 このひとが依頼人の三月陽介?

 薫子の情報はすでに持っていたようだ。あらかじめ写真で姿を確認していたかどうかは知らないが、布袋に入った二本の木刀を持ったセーラー服の女子高生。たしかに間違えようがない。

「ふ~ん」

 年若い女主人は興味深そうに、薫子たちを見比べる。

「三月さん、この可愛らしい方はどちら?」

 彼女はにやにや笑いながら、問いつめる。台詞だけなら恋人の浮気を問いつめているようにも聞こえるが、どう見ても、三月に気があるわけではなく、たんにおもしろがってるようだ。その口調からは嫉妬の欠片も感じられなかった。

「なんかあたしと似た感じの子ねぇ。背は低いけど」

 うるさいなあ、このデカ女。どこも似てないよ。

 その思いが顔に出たのか、女主人はぷっと吹くと、大笑いしながら言い訳した。

「あははは。ごめんねえ。べつにあなたをけなす気はないのよ。ただちょっと三月さんをからかいたかっただけ。それにちょっと興味があったし……うくくくくく」

 怒るな。怒るんじゃない。あたしはその気になれば、こんな女瞬殺できる。やらないだけよ。やっちゃだめ。

「君には関係ないだろ?」

 三月は少し怒った口調でいうと、薫子を手招きした。

「なによ、あの女」

 薫子は依頼人の前に行くと、まだ笑っている女を横目で見ながらぶーたれた。

「で、ほんとにあなたが依頼人なの?」

 薫子はその男の真ん前まで来ると、確認するために小声で聞く。

「もちろん。まあ、座ったら?」

 陽介はふんわりと相手の心をなごませるような笑みで浮かべ席を勧めた。

 薫子は木刀を壁に立て掛けると、椅子に座る。

 なんか、暖かそうな人ね。

 鳳凰院の里には若い男がいないということもあるが、どうも薫子には男とは野性的で攻撃的なイメージがある。だがこの男は、むしろ桜子たち仲間よりも、薫子の心を落ち着かせる。いらだった心がかなり収まった。

「可愛い子ねぇ、あなた。なになに、剣道少女?」

 女主人は水を薫子の前に置きつつ、好奇の目を向ける。

「まあね」

 薫子は口を濁した。第三者から見ればそうとしか見えないはず。もっとも薫子は普通の意味でいうところの剣道などやったことがない。薫子がやってきたのは、まさに殺し合いのための修行なのだから。

「あたし美咲みさきっていうの、あなたは?」

 女主人はにこにこしながら自己紹介する。

「薫子」

 薫子は少し用心しつつも、答えた。べつに名前を秘密にする必要もない。ただ鳳凰院の姓は名乗りたくなかった。闇の世界では知られた名前だからだ。

「そんなに睨まなくてもだいじょうぶよぉ。仲良くやりましょう」

 美咲はけらけら笑う。無意識に警戒心が顔に出ていたらしい。

「美咲さん、とりあえず引っ込んでいてくれるか?」

 三月がすこし怒った顔でいう。ただしまったく迫力はない。

「あら、あたしはオーダーを取りに来ただけよ。なんにする、薫子さん?」

「え、ええっと、カレー?」

 薫子はじつはこういう店ははじめてだ。鳳凰院の里には喫茶店などなかったし、どういうものがあるのかもよく知らない。ただまだ昼食を取っていなかったので腹に溜まるものが欲しかった。

「オッケー。カレーね、まかせといて」

 美咲はぱたぱたとカウンターの中に走ると、キッチンに火を入れた。

「ねえ、三月さん、こんなところで仕事の話していいの?」

 薫子はささやいた。

「こういうところの方がいいんだよ。僕の会社はマークされてるからね。それこそ盗聴されているかもしれない。ここは客も少ないし、いたとしても他の客の話なんか、聞いちゃいないから」

「三月さんの会社って?」

 じつは薫子は詳しい話はなにも聞いていない。聞いているのは、ある学校に転校生として潜入して、不審なことを探るということだけだ。

「三月新聞社さ」

「へえ~?」

 三月新聞といえば、日本を代表する新聞のひとつだ。たしか新聞だけでなく、いろいろな企業の複合体として三月グループがある。

 薫子は気づかれないように『千年桜』の柄の部分だけを布袋からだし、手で触れた。三月の霊体を見てみたいと思ったからだ。そのまま一瞬目をつぶる。目を開けたままでも見えるが、目から入る情報が重なって判断しづらい。

 暗闇に浮かぶ三月の霊体は水のようだった。三月の実体そのままの形の霊体のまわりを水が包みこんでいる。もっとはっきりいえば、裸体の三月が衣服のように水を纏っている。その肉体は痩身ながら思いのほか筋肉質で、それを覆う水は穏やかで透き通っていて、綺麗だ。三月の体はそれに溶け込み、一体化している。邪悪さの欠片も感じられなかった。嘘をついているとはとうてい思えない。

 任務の一環とはいえ、薫子はすこしドキドキした。なにせ男に免疫にないくせに、裸体をじっくり観察しているようなものだから。

 もっとも、ここに来るまでの間、好奇心半分に『千年桜』で通り過ぎる男たちの霊体を見てみたため、すこしは慣れて余裕もできた。どうもこの男はふつうの男とは違う感じがする。

 通りすがりに見た男たちの霊体はどれもこれも妙に荒々しかったり、逆に卑屈なものを感じたり、薫子の心を捕らえる霊体はなかった。

 その点、三月の霊体は穏やかで柔らかく、それでいて弱さを感じさせない。それに包まれれば、気持ちいいだろうな、とすら思えてしまう。

「どうしたんだい、いきなり目をつぶって?」

「なんでもない」

 薫子は霊剣を握ったまま目を開けた。

「ちょっと、顔が赤いよ」

「だからなんでもないってば!」

「いや、ごめんごめん」

 小娘に怒鳴りつけられても、三月は飄々としていた。

「ひょっとして三月さんって、三月グループの人間なの?」

「まあ、グループの末端ってとこかな。たんなる一記者だよ」

「あらあ、三月さんはグループの次期総帥って噂よ」

 聞き耳を立てていたのか、美咲が素っ頓狂な声を上げる。手には包丁、ジャガイモを切っていた。作り置きがないのか、これからカレーを煮込むらしい。

「馬鹿いうなよ。君がそう思ってるだけだろう?」

「ふ~ん?」

 薫子は妙にこの優男に興味が出てきた。べつに大企業のぼんぼんだからではない。どこか飄々としているのに、大きなものを背負っていることに自分と共通のものを感じたからだ。美咲のひとことに霊体がさざ波を立てたから、おそらく彼女のいうことが真実なのだろう。

「美咲さん、立ち聞きするなよ。君は黙ってカレーを作っていればいいんだ」

「へいへい」

 少し声を荒げた三月を、美咲は肉を炒めながら軽く流す。

「で、その次期継承者様がいったいなにをあたしに探ってほしいわけ?」

あけぼの学園高校の内部。転校手続きは僕の方でしておいたから」

「どういう学校なの、そこ」

「都内でも有数の進学校だね。スポーツも強いし、文化系の活動でも定評がある。いわゆるエリート校ってやつ」

「なにが問題なの、そこ?」

 三月はちらりと美咲の方を確認し、声を落とした。

「ある組織の、ある実験が、生徒におこなわれているという情報が、ある筋から入ったんだ」

「はあ?」

 ある組織の、ある実験が、ある筋からって、なんだよ、いったい?

「いや、いいたいことはわかるけど、今はこれ以上いえないんだ。ある筋っていうのは、まあ、うちのグループの情報屋だと思ってもらっていいよ」

 つまり、グループで飼っているスパイか。

「ある組織というのは、まだはっきり正体がわかってない。ただ『楽園の種』と呼ばれている組織で、邪悪なものであることは間違いないね。噂では体に武器を仕込んだ、機械化テロリストといわれる行動部隊がいるらしい。それから、おこなわれている実験に関しては、はっきりいって僕たちにもよくわからない。だからこそ、君に探ってほしいんだ」

「……体に武器を仕込んだ機械化テロリスト? ひょっとして冗談いってるわけ?」

「いや、あくまでも噂だから」

「ふ~ん? まあいいか。一応頭に入れとく」

 霊体の動きに変化はない。嘘はついていないはず。ってことはほんとうにいるのか、そんなマンガみたいなやつが?

「で、どうしてそいつらのことを調べたいわけ?」

「社会正義のため。といっても信じないかな?」

「そうでもない。お金持ちのぼんぼんが考えそうなことだもん」

 ちょっとからかってやると、三月は少し顔をむっとさせた。

「金持ちの道楽なんかじゃできないよ、正義のための戦いはね。もちろんそれだけじゃないさ。うちの新聞社で『楽園の種』のことをスクープしたいという野心があるのも確かだし、そもそもこいつらは放っておけば、うちのグループにとって大きな障害になり得る。いや、逆かな。こいつらがうちのグループを間違いなく障害と見なす。だから探っておきたい」

 一応納得はいった。さらになぜ自分たちが選ばれたのかも。

 学校に潜入するとなると、生徒として入るのが一番だし、しかもかなり危険が伴う。となると、その仕事ができる人間は限られる。一般の探偵事務所じゃ無理だ。

「わかった。つまり、学校で起こっている異変を調べればいいのね? それも非行とかいじめとか、ありきたりのことじゃなくて、もっと得体のしれないことを」

「そのとおり」

「あらかじめいっておくけど、その『楽園の種』とかいう組織が、邪悪なものでなければ、うちは手を引くから」

「わかってる。鳳凰院流は正義の大義名分がないと動かない。だからこそ頼んだんだ。金でどうでも動くところは信用できないからね」

 もっとも正義の大義名分を必要とするのは、鳳凰院流で、薫子じゃない。

 薫子にしてみればたんなる仕事。もちろん薫子だって、悪の片棒をかつぐのはいやだが、積極的にそいつらを成敗したいと思っているわけでもない。どうせやるなら、人を騙したりするより、人を幸せにするほうがいいし、修行してきた技を無駄にしたくない。その程度だ。

 はっきりいえば、高校生が放課後バイトするのに、違法なことをやるより、ちょっとでも社会の役に立ちそうなことをしたい。欲をいえば、自分にあったことで楽して儲けたいと思うのと大差ない。

「じゃあ、これを渡しておくよ」

 三月は鞄からなにかを取り出した。ひとつは学校の案内書、もうひとつは携帯電話だった。

「学校の場所や、見取り図、その他教師の情報などはこれに書いてあるよ。こっちのスマホには僕の番号が入力済み。ちょっと細工してあって、内蔵のデジカメはシャッター音なしで撮れるから、盗撮に便利だね。なにか証拠を握ったら、これで撮って僕のスマホに送ってくれると助かるよ。それとあらかじめいっておくけど、GPSが内蔵されているから、君の位置が丸わかりになる。プライバシー侵害だなんていわないよね」

「まあ、仕事中にプライバシーなんてないけどさ」

 薫子は案内書をぱらぱらめくりながら、しぶしぶいう。

「それとこれは曙学園の制服」

 三月はテーブルの上に箱に入った制服を置く。

 ライトブルーのブレザーと、チェック柄のグレイのスカートが目に入った。箱から出してみないとはっきりとは感じが掴めないが、少なくともセーラー服しか存在しなかった鳳凰院の里では見たことのないものだ。

 ちょっと心が躍った。この場で広げてみたかったが、そんなことではしゃぐと足下を見られそうだから、学校案内書に載っている制服姿のモデルを見て我慢した。

 チェックのスカートは鳳凰院の里では考えられないほどのミニ。太腿がかなりの部分露わになる。

 うわあああ、すっげえぇ。

 思わずそれを履いたときのことを考え、ひとり興奮する。

 上は真っ白なブラウスに紺のブレザーがよく似合っていて、首には真っ赤なリボン。東京ではべつに珍しくもないデザインなのかもしれないが、薫子にはとても都会的なものに感じられた。

「ね、ねえ、これ、……あたしに似合うと思う」

 我ながら馬鹿なことを聞いたと思うが、三月はにっこり微笑んでいった。

「うん、とっても似合うと思うよ」

「ひょ、ひょっとして、可愛い……かな?」

「可愛いよ」

 心臓がどきんと高鳴った。不覚にも顔が少し赤くなったかもしれない。

「うわっ、女子高生に制服渡して微笑んでいるなんて、三月さんって変態?」

 気づくと横に美咲がカレーを持って立っていた。

「な、なにを馬鹿な……」

「うふっ、冗談よ。取材でしょう? その子を潜入させてまでいったいなにを取材する気なの?」

 美咲はテーブルにカレーを置いた。

「だからこの子は親戚の子だよ。上京してくることになったから面倒見てるだけだ。そういったろう?」

「ふ~ん? まあ、がんばってね、小さな記者さん。それとも探偵さんかな?」

 美咲は薫子に向かって意味深な笑みを浮かべる。薫子が戸惑っていると、美咲は鼻歌を歌いながらキッチンカウンターに戻っていった。

「なんか変に勘ぐってない、あの人?」

「だいじょうぶ。変に勘がいいのは間違いないけど、君の正体や僕の目的がわかるはずもないから」

 薫子は念のため、目をつぶり、『千年桜』で美咲の霊体を探る。

 ピンク色の、ふわふわした雲のような霊体だった。魅惑的な肉体を桃色の霞が申し訳程度に隠しているといった感じ。とらえどころのないという点では、三月とそう変わらない。とりあえず悪意は感じられない。

 悪い人じゃないんだろうけど、そもそもこのふたりはどういう関係なの?

 薫子はその点が非常に気になった。だがあえて聞かない。三月に気があるんじゃないかと、ちょっとでも疑われたら、負けだと思った。

「まあ、話はだいたいわかったかな。とりあえず、これ食べていいよね」

 薫子は千年桜から手を離し、目を開けると、カレーを口に入れた。

「あ、そういえばひとつ重大なことをいいわすれていたよ」

 三月は真面目な顔でいう。

「ここの料理はひどくまずい。だから客がいないんだ」

「は、早くいってよね、もう」

 口の中に広がる激烈な味が薫子を不機嫌にさせる。しかもジャガイモとにんじんが生煮えだ。

「でも、この味に慣れておいた方がいいよ」

「なんでよ?」

「ここは君の下宿先だから」

「は?」

「まさか野宿でもする気だったのかい? 宿は僕の方で信用できるところを手配してくれとあなたのおじいさんから頼まれてたんだ。しかも格安のところがいいと」

「うげっ」

 あの爺ぃ。けちるなよ、そんなところで。

「不満そうだけど、悪いところじゃないよ。ここの二階から上はワンルームマンションだから、一応。しかも賄い付き」

「そういうわけで、あたしが下宿のおねえさんなんだよ、よろしくねぇ」

 美咲がカウンターの中からにっこり微笑んだ。


   2


「うわあぁ、すげえ!」

 薫子は曙学園高校の正門前でその姿を見ると、思わず感嘆の声を漏らした。

 鳳凰院の里にも学校はとうぜんあったが、生徒数はすくなく、小さな学校だった。しかも同世代の子供は女子しかいなかったため、実質女子校と同じだった。

 だが目の前にあるのは、まるでテレビの学園ドラマに出てきそうなマンモス学校。歴史を感じさせる古びた煉瓦張りの外壁を持つ校舎が正面にど~んとそびえたち、巨大な体育館や五十メートルプールがその脇に建っている。なにより異常な数の生徒たちがつぎつぎと校門を通り、中に入っていくことが薫子を圧倒した。中でもネクタイを締めたブレザー姿の男子生徒たちが目を引く。なにしろ免疫がない。

 さらに自分自身の格好にも少し興奮していた。チェックのミニスカートはおしゃれだし、これだけ男がたくさんいる場所で履くのは、ちょっとスリリングだ。ライトブルーのブレザーと真っ赤なリボンも都会的で気に入っている。

 なんか通り過ぎる男子が、少しにやけ顔で薫子にちらちら視線を送っている気がする。『千年桜』を持っていないので、霊体の動きはわからないが、どうせいやらしい目で見ているにちがいない。

 ただなぜか嫌悪感はなかった。むしろ恥ずかしさと、ちょっとだけ嬉しさを感じてしまう。

 ひょっとしてあたしってイケてるのかも?

 なにしろ今まで育った環境の特殊さで、女にはめっぽうもてたが、男にもてた経験はない。

 女の子でもときおり薫子の視線を送る者がいる。もっとも、たんに見慣れない女が突っ立っていると思っているだけかもしれない。女生徒たちは必ずしも鳳凰院の里の子より可愛いとはいいきれないが、どこかあか抜けている。さらに見かけとは裏腹に日々の鍛錬で逞しく育った鳳凰院の女たちと違って、みるからに華奢だ。まあ、そっちの方が普通なのだろう。

 とにかくいつまでも馬鹿みたいに校門前でつっ立っているわけにはいかなかった。薫子は流れに身を任せ、自分も学校の敷地に足を踏み入れるとそのまま職員室に向かう。場所は学校案内書に書いてあるから知っていた。

 階段を上るとき、スカートが短いのが気になってしょうがない。男の視線に免疫がないからよけいそう思うのかもしれない。手元に木刀がないのが、なおさら薫子を不安にさせる。さすがに学校に木刀を持ってくるわけにはいかず、自室に厳重に保管してある。

 もっとも『千年桜』は呼べばどこからでも空間を超えてくる。あのとき、千年桜の精がいったことは、比喩でもなんでもなかった。実験した結果、ほんとうに空間を飛び越えて薫子の手元に一瞬で現れる。

 薫子はノックをすると、職員室に入った。一番近くにいた女の先生に、三月からいわれていた担任の石岡先生の所在を聞いた。

「あそこの席よ」

 髪をアップにしたその三十歳ほどの女教師は、薫子をろくに見ず、冷たく指さした。プロレスラーのような体格をした角刈りの中年教師がでんと座っている。

「わっはっはっは、そうか、君が転校生の鳥島とりしま君か。よく来たな。わっはっは」

 鳥島というのはもちろん偽名だ。闇の世界に知られている鳳凰院を名乗るわけにはいかない。

「君は二年A組だ。よっしゃ、これからホームルームだ。一緒に教室まで行くぞ」

 石岡は下駄のような厳つい顔に目一杯笑顔を浮かべると、豪快に立ち上がる。大股でどかどかと教室を出て行くので、薫子は唖然としながら付いていった。

「さっき、君にツンとすました顔で俺の席を教えた、いけ好かない女がいただろう?」

 廊下を歩きながら、石岡はいう。

「あの行けず後家は、隣のクラスの担任、篠原しのはら先生だ。内心俺のことを見下してやがる。いいか、勉強でもスポーツでも絶対に隣のクラスには負けるんじゃないぞ。ぐわ~っはっはっは」

 なかなか退屈しなさそうな学校ね。

 薫子は呆れながらも、そう思った。

 任務のために通っている学校とはいえ、こんな大きな都会の学校に通うのは子供のころからの夢だった。なにしろ何年もの間、見知った顔とだけで送った学園生活だ。新しい刺激が欲しくなってとうぜんだろう。

 そんなことを考えているうちに教室に着いた。石岡に続いて教室に入る。

「転校生を紹介する」

 石岡が教壇に立ち、そういうと、教室中からざわざわと声が上がった。

 特に男子生徒たちは顔に喜びの表情をめいっぱいに浮かべていた。

「自己紹介してくれ」

 そういわれて薫子は名乗った。

「鳥島薫子です」

 とたんに歓声が炸裂する。

「ひゃああ、かっわいい」

「名前もいい」

「どっから来たのぉ?」

「趣味はぁ?」

 う~む。ひょっとしたらあたしは人気者かもしれない。

「みんなよろしくねっ!」

 薫子はとびっきりの笑顔を向け、元気よく叫んだ。

 それによりさらに男たちの歓迎の声が加熱した。

 男にもてるのは気持ちがいい。情けないが、思わず口元がゆるんだ。


   3


 慎二は、東平安名あがりへんな総合商社の本社ビルに立ち寄った。

 地上五十五階のタワービルで西新宿の高層ビル群の一角にある。建物の中には東平安名系列の銀行、保険会社、証券会社、自動車会社、コンピューター会社などさまざまなグループ企業、および系列会社がひしめき合っている。

 ほとんどがお堅いスーツで身を固めた職員や客の中、慎二のジーンズに革ジャン姿は浮いていた。そうでなくてもでかい体で目立つし、ワイルドな風貌だ。

 スタッフは見て見ぬふりをしているが、外部の人間はたまに好奇に駆られたまなざしを無遠慮に向ける。

 毎回思うが、なるべく来たくないところだぜ。

 慎二は苦虫を噛みしめながら、エレベーターで地下二階まで下りたあと、廊下をしばらく歩き、隅にある倉庫の鍵穴に鍵をつっこむ。乱暴に扉を開けると、中に入り、ロックした。

 部屋の中のクローゼットを開けると、そこは一般の人間は知らないエレベーターになっている。

 慎二はクローゼットの中に入り、壁についた指紋センサーに指を押しつけると、その下にあるテンキーで暗証番号を押す。さらに「行け」と誰にでもなく命令した。

 指紋、声紋、暗証番号。このみっつがそろうと、床全体が下に向かった。

 この建物は建前上は地下二階までしかないが、じつはその下がある。

 はっきりいえば隠し部屋。それもかなり普通ではない特殊な部屋がいくつかある。

 エレベーターがとまると、慎二はその部屋の中でも一番メインになる部屋に足を運んだ。

 とはいってもたいした部屋ではない。とうぜん窓もなく、蛍光灯の光だけが頼りの狭い部屋だ。中にいる人間も少ない。今いるのはふたり。ひとりはパソコンの画面をぼうっと眺めている女、緑川晶みどりかわあきら。もうひとりは中央のデスクでふんぞり返って電話を受けている絶世の美女、東平安名龍香あがりへんなりゅうかだった。

 龍香は日本最大の企業グループ東平安名家の長女で、エリート中のエリート。つまり大金持ちで財界や政界に顔が利き、東大出のキャリアでもあるし、若干二十七歳にして警視という警察官僚としての顔も持っている。とうぜん頭はいいし、そればかりか運動能力も人間離れしている。腰までかかる髪は虹のように七色に染め、きわどいタイトミニに、真っ白なスーツの隙間から覗く上三段までのボタンを外したブラウスというエロいフェロモンがあふれ出そうな格好をしている。慎二も今は慣れたが、最初は異様に豊満な胸の谷間を見せつけられると目のやり場に困ったものだった。

 そもそも警察官僚がこんな自分の企業ビルの中でいったいなにをしているのか?

 東平安名は警察上層部から特命を受けていた。いや、むしろ彼女の方から上層部に働きかけて、今の地位をつかみ取った。

 名目だけは警察組織に属するが、その裏では私的な捜査組織を持ち、それを指揮すること。

 東平安名は、この組織をポケットマネーで作った。警察に名目だけでも属しているのは、警察権力を使えるようにするためでしかない。

 慎二の属する龍王院家は、いわば鳳凰院家と同じようなところで、裏家業専門の歴史を持っている。鳳凰院家とは協力関係にないかわりに敵対もしていない。仕事上バッティングしない限り戦うことはないし、少なくともこの百年ほどの間、そうなることはなかった。

「シン」

 東平安名はど派手な顔立ちに似合わない、男のようなハスキーボイスで慎二を呼んだ。

「わざわざ呼び出したのはなんの用だ?」

 慎二は依頼人に遠慮のない口の利き方をする。はじめのうちは形だけでも敬意を払っていたが、この女があまりにもめちゃくちゃなので、へりくだるのが馬鹿馬鹿しくなった。この女の方でも、そんなことはこれっぽっちも気に掛けていないようだ。

「『楽園の種』の潜入捜査官から連絡が入った」

 慎二の体中に緊張が走った。

『楽園の種』。一般には知られていないが、強力な組織力と科学力を誇るテロ組織。日本だけをターゲットにしているとも、世界的な組織の日本支部だともいわれ、謎に包まれている。

 東平安名の作ったこの組織は『楽園の種』撲滅のためだけに存在している。そのせいで警察上層部はこの組織を『鴉』と呼ぶ。要するに「ゴンベが種まきゃ鴉がほじくる」の鴉だ。やつらが巻いた『楽園の種』をほじくるやつらという意味らしい。名前だけならどっちが悪役だかわかりゃしない。

「ふん、それでやつらの狙いは?」

 東平安名はおぞましい物を見るような顔でいう。

「ネズミだ」

「なに?」

「やつらはネズミをばらまく気らしい。おそらくなんらかの細工をしたやつをな」

「細菌兵器か?」

 背筋が寒くなった。かつてヨーロッパで黒死病と呼ばれたペストが流行ったのも、ネズミを媒体としてのことだ。ペストを超える細菌兵器をネズミを使ってばらまくとしたら。

「そいつはどうかな?」

 東平安名は納得のいかない顔をする。

「やつらは名目上はテロ組織といわれているが、今までの手口からいって、恐怖によって体制を転覆させようとしているわけじゃない。やつらは単純な爆弾テロなんてただの一度だってやったことはなかった」

 それは彼女のいうとおりだった。通常のテロ組織は爆弾や毒ガスなどで破壊や殺戮を繰り返し、一般市民を恐怖のどん底に陥れる。つまり一般市民の命を人質に国家を動かそうとする。だが今までは、むしろ誰にも知られないような水面下の作戦を遂行している。スパイ活動、裏工作、暗殺、誘拐、脅迫、情報操作。『楽園の種』の名前が一般市民に知られないのもそのためだ。

「だがネズミを大量にばらまいてなにかをするとなると、細菌を使った無差別テロしか考えられないだろう?」

「そうやってついに『楽園の種』を名乗り、恐怖で日本を支配しようとする? あるいは特効薬と引き替えに日本政府になにか要求する? 違うね、そんな単純なことじゃない。絶対になにか裏がある」

「具体的な情報でもあるのか?」

「そんなものはないさ。潜入捜査官はしょせんあの組織では下っ端だ。たいした情報はつかめない。わかったのは近いうちにネズミを使ってなにかやるってことだ。それも東京で」

 東平安名は眉をつり上げ、真っ赤なルージュを塗った唇をいまいましそうに噛む。

「アキラ、ネズミに関する情報はないか情報屋に調べさせろ」

「もうやってま~す」

 緑川は東平安名とは逆に、明るく軽い口調でいった。もちろん顔には女らしい笑顔を浮かべて。

 晶などという男のような名前でありながら、緑川はじつに女らしい。というより、女の子っぽいという方が正確かもしれない。

 年は二十五歳になったばかりだが、ルックスだけでいうならば下手すると十歳くらい若く見える。ボブカットというよりも、まさにおかっぱという表現がぴったりの黒髪、化粧っけのないロリ顔に一昔前のガリ勉学生のような黒縁眼鏡。背も高くなく、出るところが出ていない体型。正式な警察官ではないが、東平安名のおかげで慎二同様警察権力のお裾分けをもらっているせいか、好んで婦人警官の服装をしている。ただこいつがそんな格好をしていると、女子高生の婦警コスプレにしか見えない。

 だがけっして無能ではない。彼女の仕事は情報収集。慎二もくわしくは知らないが、何人もの情報屋を飼っている。ヤクの売人や、やくざ、浮浪者、娼婦、中国人犯罪者、ハッカーなどの怪しげな連中から、マスコミに政治家、学者、医者、学生、探偵にいたるまで品ぞろいが多いらしい。どうやってそういう連中を束ねているのかは知らないが、とんでもない統率力である。もちろんそれなりの情報料もかかるが、それは東平安名が警察上層部から強引にぶんどってくるらしい。そういうことは得意中の得意だ。

 緑川は神速のタイピングで作ったメールを、膨大なアドレスリストに転送する。

 それが終わると、まったりと紅茶を飲み出した。この世にこれほど旨いものは他にないといった顔で。その際、自分ひとりの分しか入れないが、ここでは誰もそんなことで文句はいわない。

「で、俺はなにをすりゃいいんだ?」

「しばらく待機してろ。なにかあれば動いてもらう」

 東平安名はそういうと、片っ端から電話をかけはじめた。どうやら、都内をまわっているパトロール部隊に状況を説明しているらしい。

 やれやれと思った。

 動くといったところで、慎二はいわゆる捜査には向いていない。完全な戦闘、および追跡部隊で、東平安名にしろそれ以外の能力を買っているとは思えない。

 だが逆に、やつらの相手をするとなると、慎二以外に適任はいない。

 便宜上テロリストとはいったが、実体はテレビのヒーローものに出てくる悪の組織の怪人に近い。サイボーグというほどでもないのだが、銃弾すらはじき返す装甲を体に埋め込んだり、体の一部を機械化し、武器を仕込んでいるようなやつらだ。この前の刃森というやつは全身に刃物を仕込んでいた。しかもその一部をミサイルのように飛ばす。その弟はロケットパンチだ。とても並みの警官の手に負えるやつらではない。

「暇そうですね、シンさん」

「優雅にお茶飲んでるやつがいう台詞か?」

「あたしは情報待ち。やることやって待ってるんです」

 緑川は悪戯っぽく笑う。

「俺だって待機中なんだよ。べつにここで待ってる必要はねえと自分でも思うけどな」

「だめだ、ここにいろ。おまえは放し飼いにしておくと、すぐに面倒を起こす」

 東平安名はかすかに笑みを浮かべながらいう。それを聞いて緑川がけたけたと笑いころげた。

 ちっ、どうもこの女は苦手だ。

 東平安名の方は高飛車で頭には来るが、やりにくくはない。相手は依頼人だと思えば傲慢な態度もべつに腹は立たない。だがこの子供のような女は東平安名に使われているという点では自分と同じだし、年も下なのに妙に振り回される。普通、この年の女なら、自分を怖がるのが普通だ。

 突如、緑川のパソコンにメールが届いた合図が鳴る。緑川と東平安名はその音に真顔に戻った。

「隊長、来ましたよ、情報の第一段」

 緑川はそういって、メールを開く。ちなみに隊長というのは東平安名のことだ。

「誰からだ? なにが書いてある、アキラ?」

「都内の医者からです」

 東平安名と慎二は緑川のパソコンのモニターを覗き込んだ。


『ネズミといえば、三日前、ネズミに噛まれたという主婦のかたが来ました。こんなことは開業して以来はじめてですね。患者さんは微熱が出ましたが、次の日には下がりました。とりあえず伝染病の心配はないようです』


「ネズミに噛まれただぁ?」

 慎二は呆れて口走った。

 たしかに聞いたことがない。赤ん坊ならばともかく、主婦がおめおめとネズミに噛まれるだろうか? ネズミを素手で捕まえようとする根性が主婦にあればべつだが。

 東平安名の鋭い目が光る。

「その患者の容態を追跡調査して知らせるように伝えろ」

 返事よりも先に、緑川の指が動く。そしてその医者にメールを送り返した。


   4


 昼休み、薫子は校舎裏にある芝生に寝っ転がって空を見ていた。

 あのあと、休み時間のたびに、薫子のまわりに生徒が集まってきて、あれこれ聞いてくる。

 転校そうそう人気が出るのはいいが、あの中にいると舞い上がってしまうのを止められない。少し頭を冷やす必要があった。

 もっとも人気があるのは嬉しいが、これはという男はひとりもいなかった。

『千年桜』で霊体を覗くまでもなく、まだ未熟で稚拙な精神を持った男たちしかいない。まあ、平和な時代にのほほんとして育った高校生なのだから、あたりまえといえばあたりまえ。子供のころから死ぬような修行に明け暮れた薫子を圧倒する気を持った男などいる方がおかしい。

 そんな中、きのう会った三月が妙に気にかかる。

 若く見えてもれっきとした大人なのだから、高校生と比べても仕方がないが、落ち着きや優しさの中に強さが感じられる。

 それも鉄の強さではなく、形を変えてもけっして壊れることのない水の強さ。

 三月の霊体にくるまれたいと思った。三月に抱かれたまま、自分の霊体と三月の霊体が解け合ったら、いったいどうなるんだろう?

「はにゃん」

 思わず変な声が出た。もしそうなったら、どんなに気持ちがいいだろう。

 ま、まずい。依頼人に惚れては鳳凰院家の名折れだよ。

 薫子は頭をぷるぷる振って、妄想を振り払う。

 ひょっとして刷り込みってやつかな?

 つまり、若い男の免疫のない薫子が出会った最初の男。そのせいで理想の男として頭に刷り込まれた。そういう一面もないではないだろうが、やはりあの人は特別だ。クラスの男たちとは違う。

 まあ、考えようによっては、学校の男たちにうつつを抜かしている場合ではないからちょうどいい。薫子は使命を受けて、東京に出てきたのだから。

「あ、いたいた」

 明るく元気な声が響いた。振り向くと、女生徒が手を振っている。

 茶色い髪を真ん中で分けて、ツインテールにしている。意志の強そうな大きな目ときりっとした口元が印象的。教室で見た顔だ。名前は知らない。

「ねえねえ、ひとりが好きなの、薫子さん?」

 彼女は隣に座ると、人なつっこい笑顔を向ける。

「いやあ、ちょっと男の子が鬱陶しくてさ」

 薫子は上半身を起こしながらいった。

 あれ? ちょっと感じが悪かったかな?

 一瞬そう思った。まるで転校そうそう、もててもてて困った、といっているようなものだからだ。

「そうよねえ、あいつら異常よねえ。いくら薫子さんが可愛いからって」

 だが考え過ぎだったらしい。彼女はそういうと、心底可笑しそうにげらげらと笑った。

「え、ええっと……」

「あ、あたし? 二階堂七瀬にかいどうななせ。七瀬って呼んで」

「じゃあ、あたしも薫子でいいよ」

「じゃあん、あたしが友達第一号ね? じゃあ、こんなところでたそがれてないで、あたしが学校を案内してあげるよ、薫子」

「でももうあんまり時間ないし……」

「平気、平気。なんなら放課後もつきあってあげるし」

 七瀬は強引に薫子の手を引き、立ち上がった。

「ねえねえ、薫子。部活はどうする気?」

「部活はやらないと思うよ。興味ないし」

 正確にいうと、やっている暇はない。この学校に通うのはどうせわずかの期間。その間に薫子は仕事をこなさないといけない。放課後はとくに貴重だ。

「ふ~ん? そういうタイプには見えないけどな」

 七瀬は、あんたなにか隠してんでしょ? とでもいいたげな目つきで見る。

「まあいいわ。もし部活のことでなにか聞きたいことがあったらあたしに聞いて。文化系運動系を問わずくわしいよ。なにせあたし新聞部員だから」

 たしかにこの好奇心と行動力は、そういうノリだ。将来新聞記者でも目指しているのかもしれない。

「とりあえず校内を案内してあげる。どこにいく? 学食? 図書室? インターネットが使いたいなら、情報処理室にネットにつながったパソコンがあるよ」

 それは正直いってありがたかった。学校のことを探るにしても、ひととおり学校のことを熟知している必要があるし、この七瀬という子は、情報通のようだから、こっちから聞かなくてもあれこれ学校で起きたことを話してくれるかもしれない。

 とりあえず、どこからでもいいからひととおり案内してもらって、いろいろ聞きだそう。

 薫子が案内を頼もうとしたとき、七瀬は黄色い声を上げる。

「きゃああああ。藤枝さんよ。見て、薫子、あそこ」

 七瀬はけっこうミーハーらしい。目にハートを浮かべながらぴょんぴょんと飛びはね、左手をぐるぐる回しながら、右手で少し離れたところを指さす。

 見ると、ひとりの男子生徒が物憂げな表情で歩いていた。

 背はけっこう高く、体は痩せ気味、とはいっても弱々しい感じではなく、なんというか、しなやかな感じだ。制服のブレザーは着崩すこともなく、優等生っぽい。ふんわりとした髪、端正で美しい顔立ちは中性的なイメージだ。ワイルドさからほど遠い、いわゆる少女マンガの王子様タイプ。彼が歩く二、三メートルあとを全身からハートをまき散らしながらふわふわと蝶のようにまとわりつく女生徒が数人。

 うわっ、ほんとうにいるんだ、こんなやつ?

 鳳凰院の里にも数少ない娯楽としてマンガくらいはある。それと同じ光景が今、目の前で展開しつつあった。

「で、誰よ? あの少女マンガの王子様は?」

「ね、ね、イケてるでしょう? 三年の生徒会長の藤枝さんよ。成績は学年トップで東大進学間違いなし。おまけにあんなに華奢なのにスポーツ万能のスーパーマンなのよ」

 七瀬はまるでカリスマをたたえる信者のような口調でいった。

 だが薫子には、さほどの衝撃は感じられない。七瀬には悪いが、自分にとってのスーパースターではない。

 七瀬はまるで夢遊病者のように、ふらふらと藤枝に向かって歩いていく。

 もう、しょうがないなあ。あたしを案内するって話はどうなったんだ?

 薫子は苦笑いした。もっともきょう会ったばかりの七瀬に、そこまでする義務などはじめからないのだけど。

 芝生の中にあった茂みから、七瀬の足下に突然なにかが走った。

 薫子は反射的に、その正体を見極めようとする。だがその常人離れした動体視力が、その正体を看破すると興味を失った。

 それはネズミだった。

 東京ではどうか知らないが、鳳凰院の里ではネズミはべつに珍しくもない。学校に出現したことも何度かはあった。それに当の七瀬は足下のネズミに気づいてすらいない。

 だが事情は変わった。なにを血迷ったのか、そのネズミが七瀬の足にまとわりついたのだ。

「きゃ、きゃあああああ」

 七瀬はようやく足に絡みついたものの正体に気づき、この世の終わりのような叫び声を上げる。脚を上げ、必死にふりほどこうとする姿はまるで踊っているようだった。

 薫子は跳ね起きると同時に七瀬の懐に飛び込み、ネズミをけっ飛ばした。

「だいじょうぶ?」

 パニックになった七瀬の顔を覗き込む。

「だ、だ、だ、だいじょうぶじゃない。噛まれた。いった~い」

 真っ青になった七瀬は、震える指で足下を指さした。

 たしかに噛まれている。ふくらはぎからは血が流れていた。

 変だな? ネズミがいきなり人間に噛みつくなんて。

 ネズミは本来臆病な動物だ。人間が来れば逃げる。捕まえられれば反撃のために噛みつくこともあるかもしれないけど、ネズミの方から人間に向かってきて噛みつくなんて話聞いたことがない。

「君、だいじょうぶかい?」

 藤枝が走ってきた。そして七瀬の傷を見るなり、「これはいけない」と叫び、七瀬を抱き上げた。いわゆるお姫様だっこというやつだ。

「保健室に行こう」

「は、……はい」

 七瀬は、ネズミに噛まれパニックになったのなどいつの話か? という感じで真っ赤な顔でうっとりとしている。

「だいじょうぶ、心配することはないよ」

 藤枝は優しげな顔でそういうと、そのまま走り出した。

 取り巻きの女の子たちが、「ずっる~い」とか口々に叫んであとを追う。

 薫子はあっけにとられ、しばらく立ちつくしたが、ようやく正気を取り戻して保健室に向かった。

 うっわあ、なんていうか、恥ずかしい男。

 七瀬はぽうっとしていたが、自分が同じことをされれば虫ずが走りそうだ。

 保健室に着いたとき、午後の授業の予鈴が鳴った。

「たいしたことないからみんな授業に出なさい」

 白衣を着た女性がクールにいう。三十歳くらいのちょっと大人びた知的な美人。保健室の先生らしい。

「うん、だいじょうぶだから」

 七瀬も椅子に座りながらいう。

 まあもともとたいした傷じゃないのはわかっていた。むしろ心理的なショックの方が心配だっただけだ。

「変な病原菌の心配なんかないんでしょうか?」

 藤枝が心配そうな口調でいう。

「だいじょうぶ。抗生物質打っておくから」

 保険の先生は邪魔だとばかりにしっしと追い払う。

「じゃあ、先生にはいっておくから」

 薫子は七瀬にそういうと、保健室をあとにした。

「君、すごいんだね」

 後ろから藤枝が声を掛けてきた。

「すごいスピードで飛び込んだ。それにネズミをけっ飛ばすなんて普通じゃないよ」

 ぎくっとした。あまり目立つことはしたくない。学校ではあくまでも普通の生徒としてすごしたいのだ。

「必死だっただけです」

「ふ~ん」

 薫子を見る藤枝の目にはありありと好奇心が浮かんでいた。

 それを見て嫉妬したのか、取り巻きの女たちがぎゃーぎゃー騒ぐ。うざったいことこの上ない。

「失礼します」

 薫子はそういうと、教室に走った。


   5


 暗闇の中。少し離れたところに仲間がいる。あっちにもこっちにも。

 仲間。厳密にいうと違う。敵ではないが、つるんでいるわけでもない。たんなる同種の生物であるに過ぎない。

 意味もなく、どたばた走り回りはしない。下にいる人間を刺激するだけだ。

 だから餌がないときはじっとしているか、餌のありそうなところへ移動して餌をあさる。

 そのさい、極力人間には姿を見られたくない。そういうふうにして生きてきた。

 屋根の下では何十人もの人間がひしめき合っている。少し大きめの子供たちだ。なにをしているのかは知らない。しかしあの中に飛び込むのは馬鹿げている。餌はあるかもしれない。しかしそれを確保することは決してできない。人間どもが阻止するからだ。

 人間は自分たちを忌み嫌う。近くに寄っただけで、なにか棒きれで追い回し、たたきつぶすか、手の届かないところに逃げられるまでけっして手をゆるめない。だから人間がひしめき合っているところに、わざわざ顔を出すやつはいない。

 自分もきのうまではそうだった。

 きょうになってから変だ。自分でもよくわからないが、人間のいるところに行きたい気がする。べつにそこに餌があるかどうかということとは無関係に。

 よくわからない感情だ。

 もっともそんなことで悩んだりはしない。本能のままに行動し、危険があればそれを学習するだけだ。だが今、人間に近づいては危険だという学習成果を超える衝動がわき起こっている。

 突如、下から人間たちの叫び声が聞こえた。

「きゃあああああ、ネズミよぉ」

「うわああああ」

「ネズミだ。ネズミだ」

「こっちこないでぇ。やああぁ、どうしてこのネズミこっちに来るの?」

 叫ぶだけでなく、がたがたと立ち上がり、走り回っている。

「きゃあああ、痛い。噛まれたぁ」

「わっ、このネズミ、人間を噛むぞ?」

「潰せ。たたきつぶせ」

 人間たちがなにをいっているかは、さっぱり理解できない。しかしなにか異常なことが起きているのはわかった。

 仲間が下でなにかをやっている。

 自分も下に行きたいと思った。

 人間に追われてもいい。叩かれてもいい。とにかく下に行きたい。

 そしてなぜかこう思った。

 人間を噛みたい。

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