第一章 霊剣「千年桜」
1
学校帰り、満開に咲いた桜並木に挟まれたあぜ道を歩いているとき、
左斜め前方にある大きな桜の樹の上からひとつ。背後の桜の木陰からひとつ。左右にある茂みからひとつずつ。
いずれも灼熱の炎のような気。それぞれの相手の力量を物語っている。
白いセーラー服姿の薫子は、道に黒革の学生鞄を置くと、手に持った布袋から木刀を取り出した。
大小二本の木刀。使い古されてはいるが、一撃で岩をも割れる薫子の体の一部と化した物だ。
大刀を右手に、小刀を左手に構えると、相手が何者なのかを推し量る。
誰だ? 只者じゃない。
四人とも自分に近い腕前だ。この里にもこのレベルの使い手はそういない。
薫子はつぶらな瞳を凝らし、殺気の方向をつぎつぎと見据え、相手を探す。さらにあらゆる音を聞き逃すまいと耳を澄まし、ツンと尖った小振りな鼻は相手の放つ匂いさえ嗅ぎ取ろうとする。
今の薫子の感覚は、人間よりも獣に近い。
完全に戦闘態勢に入った。
前方の大きな桜の樹の枝が揺れる。
その振動で数百枚の花びらが散り、風とともに薫子に向かった。
春一番が、つむじを巻く。スカートがまくれ上がったが、気にしている余裕はない。薫子は一瞬たりとも構えを解かなかった。
桜の花びらは風に乗り、芳しい香りを放ちながら薫子の回りを舞った。
しまった。
薫子は直感的に気づいた。香りに隠された罠に。
桜の匂いにかすかに異臭が混じっている。
薬だ。一瞬にしてくらっとする。
その薬は意外と弱いものらしく、効き目はその一瞬だけだった。しかし隙を作るにはそれで十分だったらしい。次の瞬間、左右から同時に何者かが飛び込んでくる。ふたりとも白い仮面をつけていた。
「くっ」
虚を突かれた。薫子が前方の敵の術に心を奪われ、左右への敵の警戒がおろそかになった瞬間のことだったからだ。
ひょぉおん。
風きり音とともに右の敵が木刀を上段から振り下ろす。同時に左の敵が薫子の胴に木刀を突いてきた。
どうするか迷う間もなく、小柄ながら山猫のようにしなやかな体が勝手に動いた。
左の小刀で上から打ち下ろすように、突いてきた敵の木刀を払った。同時にもうひとりの上段からの振り下ろしを木刀で受けずに足さばきだけでかわし、相手の外側に回りこんだ。そのまま独楽のように一回転し、右の敵の背後から切りつける。死なないように手加減はした。
鳳凰院流の技、
残ったひとりが薫子の喉を突いてくる。
薫子は二本の木刀を交差させて下から敵の木刀をかち上げた。そのまま一歩踏み出すと左右の木刀で挟むように相手のわき腹を叩き打つ。
鳳凰院流、
倒れたふたりの刺客は高校生くらいの若い女だった。ふたりの服装が薫子と同じセーラー服だったことにはじめて気が付いた。
ま、まさか?
そういえば、このふたりの太刀筋には見覚えがあった。しかし、そんなことは信じられない。
仮面を外し、疑惑を払拭する暇もなかった。真後ろから火の玉のような殺気が飛んでくる。
薫子が振り返ると同時に、三人目は太刀を逆袈裟の形で下から跳ね上げた。切っ先は薫子の首を狙う。薫子が受けようとすると、敵は太刀筋をひらりと返し、狙いを脚に変えた。
相手の技は鳳凰院流の稲妻。
敵は同門だ。しかも薫子には誰か想像が付いた。
敵の木刀は薫子の脚を叩き折ることはできなかった。薫子がその前に跳んだからだ。
同時に左の小刀を振り上げる。それで敵の太刀を下から跳ね飛ばしつつ、その勢いで後方回転した。着地と同時にもう一方の太刀を相手のみぞおちに突き入れた。
鳳凰院流、裏風車。
着地時に舞い上がったスカートと、男の子のように短い栗色の髪がふわりと元に戻るころ、敵は倒れた。
薫子は敵の仮面を木刀で軽く払った。割れ落ちた仮面から現れた顔は色白の和風美女。思ったとおり見慣れた顔だった。
月代。
薫子は動揺する。幼馴染であり、同門である彼女がなぜ自分を襲うのか?
倒れている残りのふたりは確認するまでもなく、後輩の葉子と晴美だ。
「桜子、あんたなの?」
薫子は前方の桜の樹に潜んでいる最後の敵に向かっていった。
やはりセーラー服姿の女が桜の枝から降り立った。仮面は外したのか、素顔をさらしている。
腰までの黒髪、切れ長の目、上品そうな唇、薫子よりも頭ひとつ分は高いグラマラスな体。そこに立っているのは紛れもなく剣のライバルにして親友、というか、薫子にそれ以上の愛情を密かに抱いているはずの桜子本人だった。
いったいなにが起きてるっていうのよ?
薫子には理解不能だが、桜子は冗談でやっているわけではないらしい。真剣なまなざしで薫子同様二本の木刀を構えた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なに考えてんの、あんた?」
しかし桜子は待たない。無言のままで薫子に向かって突進してくる。
その勢いに乗せ、二本の木刀を同時に突いた。狙いは薫子の顔面とみぞおち。
鳳凰院流の
薫子は体裁きでかわしながら、独楽のように回転し桜子の背中を狙う。最初の葉子を倒した技、円牙だ。だが薫子の剣は、桜子の残像をすり抜けた。
桜子は地に伏せていた。そのまましゃがんだ状態で独楽のように回転する。左足を軸に、右脚で薫子の脚を刈ろうというのだ。中国拳法に似た技があるが、違うのは脚と同時に二本の剣が目にも留まらぬスピードで飛んでくることだ。
大刀で首、小刀で胴、脚で脚を同時に狙う技、
跳んでかわすことも、後ろに逃げることも不可能。受けるしかない。
薫子は大小の木刀で桜子の二本の木刀を受け、足の裏で蹴りをとめる。
ものすごい衝撃で弾き飛ばされた。薫子が空転して着地するころには、桜子は立ち上がり、態勢を整えなおしていた。
他の三人と違って、手加減なんかしている余裕はない。
だが薫子は本気で桜子と戦うことに迷いがあった。
桜子はそれを見逃すほど甘い使い手ではなかった。剣を正面で交差させると下から跳ね上げる。
くっ、咬牙か?
ついさっき、自分自身が使った技。胴体をはさみ切るような技だ。
薫子は下からの剣撃を木刀で受けず、上体を引いてかわした。左右の剣は両脇をブロックする。
だが桜子は振り上げた両剣を左右の鎖骨めがけて振り下ろす。
薫子は猫科の野獣のような身軽さで跳躍し、両足の裏で木剣の根元を受け、はじき上げると同時にそのままバク転しながら二本の剣で突いた。裏風車の変化技だ。
しかし当たらない。桜子は跳躍すると、突いた薫子の木刀の背に乗った。それも左右の剣に左右の足を乗せて。
腕では体重を支えられずに手を離しそうになる。しかしそれは許されない。桜子は両剣を封じたまま、左右の剣で同時に両方向から斜め袈裟に切り下ろすつもりだ。剣を手放したところでどの方向にも逃げるのは不可能だ。
それこそ鳳凰院流奥義十二形剣のうちの
薫子は前方にふらつきながらも、両腕を大きく左右に開いた。それにともない乗っている桜子の脚も開く。ふたつの太刀が斜め上から振り下ろされるが、薫子は地を前方に転がりながら開いた桜子の股の間をすり抜ける。
「桜子、なんのまねか知らないけど、もうやめて」
薫子は間合いを取りながらいう。
だが桜子は無言、無表情のまま間合いを詰める。
手加減すれば決められないだろう。かといって本気でやれば桜子は大怪我するかもしれない。しかしもはや、やるしかなかった。
薫子は左の小刀を桜子のみぞおちめがけて手裏剣のように投げた。
桜子はそれをとうぜん払おうとする。
だが薫子は小刀を投げると同時に、間合いを瞬時に詰めた。
そのまま、大刀の切っ先で、投げた小刀の根元を突く。
二本の木刀は槍のように連なり、大刀で投げた小刀を突くことにより、その切っ先は加速する。
桜子は小刀を払いのけることができずに、その切っ先をみぞおちにまともに受けた。
鳳凰院流奥義十二形剣、
桜子も読んでいただろうが、薫子が本気で突けばかわすことは不可能だ。
「それまで!」
桜の樹の陰から大声とともに小柄な老人が出てくる。
「お、おじいちゃん?」
薫子は困惑した。その和服姿の白髪頭をした老人は紛れもなく薫子の祖父にして鳳凰院流の首領。
その実力からして、気配を完璧に消し去っていたこと自体は不思議でもなんでもないが、問題は彼こそが桜子たちをけしかけた張本人ではないかということだ。
「いったいぜんたいこれはどういうことなのよ?」
薫子は剣を構えながら怒鳴る。自分の祖父とて、桜子たち同様襲ってこないとは限らない。
「ふん、試験じゃ。おまえを試させてもらった」
試験?
「おい、おまえら、いつまで寝てる気だ?」
首領のひとことで、桜子が立ち上がり、セーラー服のほこりを払う。
「さ、桜子?」
「それなりの準備はしてあるよ」
桜子はセーラー服をめくった。なかには薄手ながら衝撃吸収の効果が大きい胴宛を着ている。
「死んだふりも楽じゃないわ」
「やっぱり薫子先輩は強いです」
そういいながら、月代たち三人も立ち上がった。
「ど、ど、ど、どうなってんの、まったく」
薫子は頬を膨らませた。
「怒らない、怒らない。可愛い顔が台なしだよ」
桜子が人差し指で薫子の下顎をくいと上に向けつつ、楽しそうに笑う。
「おじいちゃん、ちゃんと説明してよね! あたしが納得できるように、じっくりと」
薫子は桜子の手を振り払い、自分の祖父に向かって叫ぶ。
「初任務じゃよ、薫子。だが敵は手強いらしい。もしおまえに力がなければ断ろうと思っていた」
「初任務?」
薫子は胸が躍った。
もともと鳳凰院流とは歴史の闇の舞台で体制に使えてきた忍者のようなものだ。かつては一般にこそ知られていなかったとはいえ、知る人ぞ知る一大勢力だった。しかし平和な現代にいたっては、とくにたいしたことをするでもなく細々と代を継承して来たに過ぎない。
それでも薫子たちはいつか来る任務のために、子供のころから純粋培養されてきた。腕が上達するにつれ、自分の技を実際に試したくて仕方なくなる。
だが訓練に明け暮れるだけで、実際の出番は十七になった今に至るまでこなかった。しかも神の悪戯か、薫子たちの代には男が生まれてこなくなり、女ばかりになった。まさに鳳凰院存続の危機が迫っており、首領は自分たちの代で鳳凰院流を終わらせるつもりではないか、とさえ思っていた。だから薫子はいい加減、自分たちが実際の任務にありつくことは起こりえないと考えるようにまでなっていたのだ。
「で、どんな敵? 強いの?」
心なしか声が弾む。
「それを調べるのもおまえの仕事じゃ。いいか、敵を倒すだけなら、こっちも大人数で行ばいい。だがとりあえずは相手の目的と正体を探る必要がある。だからまずひとりが行くんじゃ。数に頼めば目立って、怪しまれる」
「え~っ、じゃあ、まだほんとうに悪いやつかどうかわかんないじゃない?」
薫子は少しがっかりする。ほんとうにやりたいことは探偵などではなく、剣を思い切り振るい悪いやつらを叩きのめすことだ。探った結果、相手が邪悪な存在でなければ、依頼主に報告して終わりになる。鳳凰院流は私利私欲のためにはけっして力を使わない。また、世のためにならぬ悪には荷担しない。正義の大義名分が必要なのだ。
その判断は首領にゆだねられている。
「依頼主を無条件で信じるわけにはいかない。それほど我らの力は強大なのじゃ。だが、依頼主を信じる限り、敵はそうとう邪悪で、なおかつ強大だ。探るだけでもどんな危険を伴うかわからん。だから、悪いがおまえを試させてもらった」
「それで、試験はもちろん合格だよね?」
半分怒り、半分期待しながら薫子は祖父に聞く。
「腕は申し分ない。だがそれだけではだめじゃ。霊剣、もしくは魔剣がおまえを選ばなければこの仕事は断るつもりじゃ」
「霊剣か魔剣ですって?」
薫子は驚いた。
樹齢千年を超え、霊力を宿したといわれる桜の枝で作った霊剣『千年桜』。
欧州から飛来した伝説の吸血鬼の魂を封印したといわれる魔剣『伯爵の牙』。
いずれも一見ただの木刀だが、選ばれたものがもつと不思議な力を発揮するという鳳凰院家に伝わる家宝。それを使いこなせたものは鳳凰院家の歴史の中でも数えるほどしかおらず、過去、鳳凰院家がそれらの剣を使ったときは必ず歴史が動いたといわれる伝説の剣だ。
逆にいえば、その力が必要なほど、相手は強いと首領は思っているらしい。
「ではこれからが最終試験じゃ。神の祠にいく」
首領は背を向け、歩き出した。
薫子とその仲間たちは無言で後を追った。
2
薫子たちは首領に続き、神社の境内に入った。他には誰もいないようだ。
首領は草の茂ったわき道を歩いていく。しばらくすると、今にも朽ち果てそうなほど古い木造の社に辿り着いた。
神の祠だ。
「結界を外す」
首領は両手で印を結ぶと、そのまま呪文を唱え、それに合わせて印の形を何度も変える。そして最後に叫んだ。
「千年桜と伯爵の牙を守るわれらが神よ、結界を解いてくだされ」
神の祠のまわりが一瞬金色に光った。祠のまわりを覆っていた目に見えない壁が、光とともに消え去ったのが感じられる。
次の瞬間、閉ざされていた観音開きの扉が手を触れもしないのに開いた。
祠の奥の壁には、何年も使い込まれたような風格を備えた木刀『千年桜』と、封印のための御札を貼り付けた布袋にくるまれた『伯爵の牙』が並んで掛けられている。
「薫子、中に入って一本ずつ手に取るがいい。どちらかがおまえを選べば、鳳凰院家はこの事件の依頼を正式に受諾し、おまえをその責任者として送り込む」
「木刀が選ぶってどういうことよ? 選ばれればどうなるわけ?」
薫子はとうぜんの疑問を口にした。
「選ばれた場合は、すぐにわかる」
薫子は中に足を踏み入れた。中は薄暗いが、ふたつの剣ははっきりと見える。
まず、どちらを手に取ろうか?
霊剣と魔剣。一瞬迷ったが、やはり吸血鬼の魂が封じ込められた魔剣は少し恐ろしい。
千年桜を掴んだ。
体に電撃が走ったような感覚がした。次の瞬間、薫子の目の前から祠が消えた。
*
「ここは?」
薫子は思わず口走る。一瞬で自分の体が見知らぬところに飛んだからだ。
一緒にいたはずの首領や桜子たちの姿はどこにもない。ただ目の前に、十数メートルはあると思われる胴回りをした幹の、桜の大樹があるだけだった。
その高さはかるく三十メートルは超えそうだ。枝が四方八方に向かって、広がり、その枝には満開の花が狂い咲いていた。だがちっとも春の匂いがしない。なぜならあたり一面には真っ白な雪が降り積もり、そればかりか今もなお天からしんしんと降り注いでくるからだ。さらに風が吹くと、雪に交じって桜の花びらが舞う。それは枝から散る白い花びら、あるいは空から降る桜色の雪を連想させる。もちろんいまだかつて見たこともない光景だった。
雪と桜の花。
あり得ない組み合わせ。現実のものとは思えない。
だがそれは見た者の心をふるわせ、打ち砕くほどの衝撃を与える。
これは霊剣が見せる、幻なのだろうか? それとも霊剣が現実ではないどこかに、薫子を連れてきたのだろうか?
いや、おそらく目の前にある大木こそ、霊剣『千年桜』の元となった樹齢千年を越す桜に違いない。仮に幻だったとしても、現実にどこかにあるはず、あるいはかつてあったはずの光景なのだ。
薫子が桜に触ろうと近づいたとき、目の前に突然人影が現れた。まるで幽霊のようになにもないところからいきなり。
薫子は反射的に、後ずさり、剣を構えた。
「誰?」
現れたのは、薫子と同じくらいの年ごろの少女。桜色の振り袖を着、長い髪は桜の花びらそのものの色をしていた。体つきは薫子同様、背も低く、一見華奢な感じすらする。顔立ちは日本的で美しいが青白く、か弱くはかなげだった。
「誰なの?」
少女は無表情のまま噛みしめるように答える。
「千年桜の精」
その顔は必ずしも薫子を歓迎してはいないようだ。かといって、敵意をむき出しにしているわけでもない。唇をきっと噛みしめたまま、湖のように澄んだ目で、薫子の心を覗き込むかのように見つめた。
「あなたが『千年桜』を持つにふさわしいかどうか、試させてもらいます」
彼女は静かにいった。
いつの間に握られたのか、彼女の右手には、薫子と同じ霊剣があった。
剣先はだらりと下げられ、右足下を向いている。無防備といってもいい構えだ。
一切の殺気が放たれていない。
薫子はとまどった。相手に戦う意志も、身を守る意志も感じられなかったからだ。
剣を中段に構えながら思う。
どこをどう打っても当たる。
「あのさ、ひょっとして打ってもいいわけ?」
薫子はそう聞いた。よく考えたら、千年桜の精は、剣で戦って勝ったら認めるなどとは一言もいっていないからだ。
「どうぞ」
だが精の答えは、薫子の考えていたことが誤解でないことを告げた。
つまり、いつでも打ち込め。勝ったら認める、と暗にいっている。
薫子は少し手加減をして面を打ち込んだ。千年桜の精は、目にもとまらない速さで下段から剣を振り上げ、薫子の打ち込みをはじく。
「それでは一生わたしに打ち込むことは不可能です」
その一言に、薫子はすこし冷静さを失った。今は一刀だが、べつに二刀ないと戦えないわけではない。手加減する必要がないこともわかった。切っ先で相手の喉を狙い、渾身の力を込めて突く。
千年桜の精は、今度は木刀で受けることもせず、足裁きで薫子の外側に回り込むと面を打ち下ろした。
まったく殺気のない剣。
だがその打ち込みは異常なまでに速かった。薫子は反応できない。
剣は薫子の面からほんの一ミリほど離れた場所でぴたりと止まる。
「一度死にました」
千年桜の精は顔色ひとつ変えずにいう。
「くっ」
薫子は剣を巻き込むようにはじき上げ、その勢いで胴をねらう。
だが薫子の剣は空を切った。打ち込んだ場所に千年桜の精はいない。延髄に部分に剣の切っ先を触れられ、はじめて後ろに回られたことを知った。
「二度目」
薫子はその場で跳躍しながら前方回転した。そして回転に合わせ、足で相手の両手をはじき上げると同時に、後ろの千年桜の精の下から切り上げる。鳳凰院流の秘技、風車。
必殺の剣が千年桜の精の体をとらえることはなかった。ほんのわずかな足裁きで体をかわしたらしい。かわりに薫子の顔面に千年桜の精の手のひらが被せられ、そのまま地面に投げ捨てられる。
気づくと、目の前に彼女の剣先が制止したまま向けられている。
「三度目」
屈辱だった。剣技では誰にも負けない自信があったのに、まったくかなわない。
「あなたはわたしの動きをぜんぜん読めていません」
千年桜の精は、冷たくいう。
「だってあなたはぜんぜん殺気を放たないじゃない。いったいぜんたいどうしたらそんなことができんのよ?」
薫子は仰向けに寝たまま、いった。一切の殺気を放たず攻撃するなど、人間にはできない。
「わたしだって殺気は放っています。ただ見破られないように形を変えているだけ。感じられないのはあなたの霊力が足りないため」
「霊力?」
「視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感に頼らず、生物のもつ霊の変化を感じ取る力です。相手を倒そうと思うと、自然と霊体が形を攻撃に適したように変えます。それを武道家は殺気と感じ取りますが、あなたの霊力は殺気を垂れ流す相手にしか通用しない」
そんなことをいわれても、強い殺気を放ちながら、その形を変えているために見破られないなどという話など聞いたことがない。
「霊力を極めれば、相手の霊の形の変化で、殺気を感じるどころか、いつどこをどういう風に攻撃するかまでまるわかりです。相手はいちいち、『今からこう攻撃するぞ』と宣言してから攻撃するに等しいのです」
もしほんとうにそんなことができるなら、何度戦っても薫子が勝てるはずもない。
「あたしにはそんなことはできない」
悔しいが認めるしかない。
「あなたにはアンテナがあるじゃないですか?」
アンテナ?
「あなたが持っている『千年桜』です。あなたはそれで取り込んだ情報を脳に伝達していない」
そうか? この桜は千年の間に生物の霊の変化を読み取る力を身につけた。ならばその枝で作ったといわれるこの『千年桜』が同じ力を持っていても不思議はない。
問題はその力をあたしが使いこなせないことだ。
「あたしは失格ってこと?」
「あなたはそのことを知らなかった。だから意識もしてない。今度は意識してみてください。目ではなく、『千年桜』で見るのです。意識してそれができなければ失格です」
目でなく、木刀で見る? そんなことがほんとうにできるのか?
「さあ立ちなさい。そしてわたしのいったことを信じるのです。あなたならきっとできるはずです」
いわれるがままに、薫子は立ち上がり剣先を相手に向けた。
千年桜の精はまたしても剣をだらりと下げ、一切の殺気を放っていないように見える。 目で見ちゃだめだ。
だがどうしても『千年桜』で見るという感覚がつかめない。目に頼ってしまう。意識すればするほどそうなった。
どうしても彼女の霊の形は見えない。
「はじめにいっておきますが、今度は止めません」
「嘘?」
「真剣にやらないと死にますよ」
千年桜の精は冷徹にいった。
冗談じゃない。こんなところで死んでたまるか。感じろ。『千年桜』に意識を集中しろ。
薫子は必死で霊剣と自分を一体化しようとする。
千年桜の精の剣が動いた。無造作に、なんの予備動作もなく、ただし異様に速いスピードで。もちろんなんの殺気もなかった。薫子は彼女の霊の形をとらえることはできない。だから攻撃を読めない。
だが剣が勝手に動いた。
薫子が精の攻撃する位置を読む前に、薫子は剣をそちらの方向に向けていた。
ものすごい衝撃を木刀越しに感じる。彼女の攻撃は速いだけではなく、非常にパワフルだ。これほどの剣圧を感じたのは生まれてはじめてだった。
攻撃は単発では終わらない。二波、三波。いずれも初太刀に劣らぬ速さ。だが薫子は知らぬ間に、それに劣らぬスピードで剣撃をはじき返していた。
「まだ霊の形が見えてはいませんね。でも、第一段階はクリアしたようです。剣が勝手に動いたように感じるのは、霊剣の感じた情報により、反射的に体が動いたのです。ただあなたはそれを自覚できていません」
千年桜の精は、いったん攻撃の手を休めていった。その顔にはかすかに笑みが浮かんでいる。
第一段階? たしかに彼女の攻撃をすべてかわせた。だがこれは指摘されたとおり、まさに無意識に、霊剣の指示通りに動いただけだ。これでは霊剣に使われているような気がする。
「そうです。剣に使われてはだめ。使いこなさなくては」
顔に出たのだろうか? 彼女は薫子の心を読んだかのようにいう。
「あなたが霊剣から得た情報を知覚できないのは、慣れていないせいもありますが、五感が邪魔をしているせいでもあります。使い慣れた他の感覚に、無意識にしがみついているのです」
「目をつぶれとでもいう気?」
だが千年桜の精の言葉は、薫子の想像を超えていた。
「今からあなたの五感を絶ちます」
次の瞬間、千年桜の精の姿は消えた。いや、真っ白な雪景色も、満開の桜もすべて消え失せた。自分の体すら見ることができず、ただ目の前には無限の暗黒が広がるのみ。
風の音も、桜の匂いも、雪の冷たさも、大地を踏みしめる感触すらも消失した。
重力自体が消え失せたとしか思えない。そのことにより、上下の概念が消えた。それどころか肉体を知覚できないことは、前後左右すら意味のないものになる。
今、薫子に残っているのは精神のみ。それはまるで宇宙空間をさまよう魂としかいいようがない。
千年桜の精がどこにいるのか、まるでわからない。それどころか、感覚が消え失せてからどれくらいの時間が経ったのか、見当が付かなかった。
薫子は、時間の感覚とは、時計を見る以外にも、視覚による人間や自然物の動きの速さ、あるいは風の音、鼓動の速さ、呼吸の間隔といった聴覚や触覚の変化により、推測していることを実感した。それらのすべてを失ったとき、薫子は空間と同時に時間を把握する力を完全に消失した。
あれから十分の一秒? 十秒? それとも一時間?
そのいずれに近いかすら、わからない。
闇の一角が光った。それが前なのか、後ろなのか、はたまた上なのか、下なのかすらわからない。
次に衝撃を感じた。不思議な感覚だ。体が存在しないのに、なにかがぶつかる感覚がある。
これは『千年桜』の感覚。
薫子はそう理解した。つまり、『千年桜』が相手の攻撃を光としてとらえ、相手の剣を受けた。それが薫子に衝撃として感じられる。そういうことなのだろう。
それが繰り返される。
光、衝撃。光、衝撃。
だがそれが繰り返されるにつれ、最初弱かった光は徐々に強くなり、それらの位置を知覚することにより、薫子に方向感覚がよみがえる。
それどころか、相手の放つ光はもはや形をなしていた。木刀を持った少女が桜の木をバックに立っている。ついさっき薫子が見た千年桜の精であるのは間違いないが、身になにも纏っていない。魅惑的な体を晒している。
同時に自分の肉体の感覚が戻った。今薫子には霊剣をもった自分自身の姿が見える。なぜかやはり裸だ。
「五感が戻った?」
薫子は自分が発した言葉を聞いた。
「いいえ、それはあなた自身が感じているものではありません。あくまでも『千年桜』を通しての感覚。今、あなたに見えている自分の体は、肉体ではなく霊体」
つまりこの声も、『千年桜』が霊体の声を聞き、それを脳に伝えている?
どうやらそういうことらしい。薫子は千年桜で受信した情報を、脳内で処理する力を得たのだ。簡単にいえば、薫子は『千年桜』と一体化したっていうことだろう。だから霊体を持つ、生きている物しか見えないし、感じられないってことか?
千年桜の精が剣を構えた。上段の構え。顔つきまで違う。本気になったらしい。
その全身からは地獄の底から吹き上がったかのような業火が放たれる。
これが彼女の殺気?
五感に頼っていたときには、微塵も感じられなかった殺気が、霊剣を通すことで見える。
炎がまるで龍のように細長く形取り、薫子の右首筋に向かってきた。反射的に剣で身を守る。
次の瞬間、激しい衝撃を受けた。気づくと、薫子は千年桜の精の剣を受け止めていた。
さらに彼女の体から、無数の火の玉が弾丸のように飛んでくる。時間差を置いて、体全体くまなく射抜くように。
薫子はそれをすべてたたき落とした。ほんの一瞬遅れて、木刀に実際の衝撃を感じる。つまり、炎は視覚化された攻撃の意志。実体は少し遅れてくる。
それはまるで、あらかじめここを攻撃するとわかっている約束組み手のようだった。
相手の霊の形を正確に見極めることがこれほどまでにすさまじい力を発揮するとは。
これでは、相手の方がスピードにおいて格段に勝っていない限り、負けようがない。
だが相手の霊の形を見ることができるのは向こうも同じ。つまりこっちの攻撃も当たらない。
どうすれば勝てる?
薫子がそう思ったとき、千年桜の精のはにっこりと笑った。
「合格です」
「え? でも勝ってないよ、あたし。こんなんでいいわけ?」
「あなたがわたしに勝つためには、あと十年は少なくとも必要です。そこまでのことは要求しません。わたしが望んだレベルをクリアできるかどうかが重要なのです」
望んだレベル。霊剣と一体になること。それによって相手の霊体の形を見極め、攻撃に順応すること。おそらくそういうことだ。
だけど十年って。あんたそりゃうぬぼれすぎだろうが。
「いいえ。それくらいの開きはありますよ」
千年桜の精は薫子の心の不満に笑って答えた。
「でもそれで十分です。たった今から、あなたがわたしの持ち主であることを認めます。わたしが必要なときはいつでも呼んでください。時空を超え、あなたの元に参ります」
彼女はそういうと、霊剣の中に溶けるように消えた。
同時に、薫子を包んでいた暗黒の闇が砕ける。
*
「薫子」
桜子が間近で叫ぶ。どうやら倒れて意識を失っていたらしい。
「か、薫子ぉ~お」
桜子が眼をうるうるさせながら抱きつくと、いきなり薫子の唇を奪った。
わっ、わっ、わっ。
薫子は慌てて引き離す。まったく桜子はこれがなければいい友達なのに。つい、そう思う。
なにしろ鳳凰院の里は若い男がいないために、同年代は女の子ばかり。桜子のような趣味に走りがちだ。あいにく薫子にはその趣味はない。
「ず、ずる~い、桜子さん」
「わぁっ、だ、だめぇ」
そういって騒ぐのが、ふたつ年下の葉子と晴美。こっちからは薫子はお姉様と慕われている。月代がそれを見て、ぷいと顔を背けた。この子も密かに自分に気があるのを知っている。
まったくどいつもこいつも。さっきはあたしのことを半ば本気で殺そうとしたくせに。
「いい加減にせい。まったくおまえたちときたら……」
首領はあきれ顔で叫ぶ。
「あたし、どうしてた?」
「その霊剣を手に取ったとたん、倒れた」
桜子が心配してんのになによ、といった顔で答える。
「どのくらい?」
「ほんの数秒かな?」
ほんの数秒? けっこうな時間が経っているはずなのに。
「どうやら千年桜がおまえを認めたようじゃな?」
首領が満足げな顔でいう。
「うん」
「確かめさせてもらうぞ、薫子。祠の外に出ろ」
薫子はいわれるがままに、千年桜を手に、祠の外に出た。
「もう一度、桜子たち四人と戦ってもらう。桜子たちには本気でやってもらうが、薫子は木刀をはじくだけじゃ。体に当ててはいかん」
「え? でもそれじゃ……」
桜子が驚いた顔をした。
「だいじょうぶ」
薫子は、答えた。桜子には悪いが、もはや負ける気がしない。
「いつでもいい」
千年桜をだらりと片手で持ちながらいった。
桜子、月代、葉子、晴美が薫子を囲みながら剣を構えた。
彼女たち四人の体が燃える。赤、黄、緑、青、それぞれの色を発しながら激しく燃えさかる。炎が形を変え、薫子に向かった。
四つの炎が薫子を巻き込むように襲う。
薫子はその流れに身を任せつつ、一瞬で四つの炎をはじく。
次の瞬間、四本の木刀が空高く舞った。
「そんな馬鹿な?」
桜子の驚愕の声。落ちた木刀がほぼ同時に地面に突き刺さる。
「それまで」
首領が満面の笑みを浮かべた。
「間違いなく選ばれたようじゃな。薫子、おまえを鳳凰院流の次期継承者として認める」
「え、次期継承者?」
「そうじゃ。霊剣がおまえを認めた以上、他の者には継がせられない。しっかりこの事件を解決してこい。そうすればわしは安心して跡目を譲れる」
「すごいよ、薫子」
桜子は目に涙を浮かべながら、ふたたび抱きついた。
なんだかなぁ。
それが正直な感想だった。べつにそんなものを望んでなどいない。子供のころ、両親が死んだときから、いつかはそのときを覚悟してはいたが、こんなに突然宣言されることは予期していなかった。
そう思いつつも、薫子は「ありがとう」といいながら、桜子の巻き付いた腕を外す。
「『伯爵の牙』はしばらく封印したままにしよう」
首領がいう。
「『千年桜』がおまえを選んでくれてよかった。『伯爵の牙』は『千年桜』を上回る攻撃力を持つが、その代償に使用者の寿命を縮める魔剣じゃ。無理に使う必要はない」
そういう重要なことははじめにいえよ。孫の寿命縮めてどうするんだ?
そうつっこみたいのを我慢した。
「だが正式な鳳凰院流継承者ならば、ふたつとも持て。ただし『伯爵の牙』は布袋から出すな。出さない限り封印の札は有効であり、普通の木刀と変わらない。それでいいな?」
薫子は桜子から離れ、首領を見据えた。
「わかった」
「では、あしたにでも旅立つがよい。おまえを選んだ霊剣と、封印した魔剣を持って。そして見事使命を果たせ」
「使命を果たせって、いったいあたしはどこに行ってなにをすればいいの? 具体的な話をなにも聞いてないんだけど」
「東京の学校に通ってもらう」
「へ?」
「学校じゃよ、学校。高校だ。依頼者は、その学校に恐ろしい陰謀の予兆を感じ取った。おまえは生徒として潜入し、そのことを探るのじゃ」
3
夜の歌舞伎町。狭いバーで、
もっともそんなしみったれた飲み方が似合わないのはわかっていた。強い酒をあおる方がずっと様になる。
百八十を超える身長にして体重は百キロ近い。だが間違っても脂肪太りではない。かといってボディビルダーのように必要以上に盛り上がった人工的な筋肉を身につけているわけでもない。とはいえ、革ジャンの上からでも、鍛え抜かれた体をしていることは誰にも想像が付くはず。ジーンズの膝下まであるブーツタイプの安全靴ははっきりいって酒場では浮いている。
さらに顔は一言でいえばワイルド。色黒で鋭い目つき、高い鼻にぶ厚い唇。天然パーマのかかった黒髪は、無造作に伸ばし、後ろでまとめられていた。風貌だけなら二十代前半に見えるようだが、最近三十の大台を超えている。おそらくバーテンは「この人なにやってる人?」とでも思っているだろう。
もっとも慎二は意図的に目立つ格好をしていた。ここ数日、夜の繁華街をうろつき回っている。それで釣れるかどうかは確信がないが、少なくとも変装しては意味がない。
ドアが開き、新規の客が入ってくる。
釣れた。
慎二は強い波動を感じると、そう思った。
海面に浮かんでいると、近くを通ったモーターボートに煽られて波を被ったような感覚。それに似ている。
波動とは場を連続してゆがめて伝わるエネルギーだ。この場合、歪んで伝わるのは海ではもちろんないし、空気ですらない。
それは空間そのもののひずみだった。それが波動となって慎二に伝わる。
それを感じることが慎二が生まれ持った特殊能力だ。
でが空間そのものをゆがめるものはなにか?
物質の存在そのものが空間をねじ曲げるのか?
違う。もちろん物質の存在そのものも空間をゆがめはするが、それによって生じる力はいわゆる重力だ。人間と人間の間に生じる重力など地球のそれに比べればゼロに等しい。
では磁力のようなものかというとそうでもない。
じつは一般的には知られていないが、空間そのものをねじ曲げる要素に、もうひとつ思考がある。
人間は物を考えるとき、無意識に空間をねじ曲げているのだ。
それは波動となって周囲に伝わる。いわば思念波だ。ただ普通の人間は、その波動を知覚できない。
せいぜい武道家が、相手の殺気を感じ取ることができる程度だ。
慎二が感じ取れることはもっと深い。もっともテレパスといわれる超能力者のように、相手の考えていることがはっきりとわかるわけではない。
だが相手の発する思念波の形を見極められる。正確には目に見えるわけではなく、体全体で感じるわけだから形というのは不適切だが他にいいようがない。とにかく、その形によって、相手を特定したり、感情の変化を感じ取ったりできる。
今感じ取れる思念波には見覚えがあった。
攻撃的で、暗く、ねじ曲がった形。それが大きな振幅でこの場の空間を揺り動かしている。
慎二は代金をテーブルに置くと、席を立った。
店を出ると、繁華街を抜け、わざと人通りの少ない小道を通る。
後ろを振り向かずとも、まがまがしい思念波の発生源がずっと後をつけてくるのがわかった。そのまま相手を見ずに話しかけた。
「よう。そろそろ仕掛けたらどうだい?」
「気づいていたのか?」
「俺をそこまで無能だと思っているのか? それとも殺気を上手く隠せたとでも勘違いしているのか? おまえもそうとううぬぼれが強いな」
そういって振り返ると、笑ってやった。
屈辱に歪む顔で慎二を睨み付ける男は、ずり下げたズボンに、だぼだぼの服、頭にはキャップといった今どきの若者風の格好をしている。年もそれに見合った二十歳前といったところだろう。まだ少年といっていい。
見覚えがあった。この前、もうひとりの若い男とつるんでいたやつだ。
「ひとりか? もうひとりはどうした? あの体からとげとげが飛び出すハリネズミみたいなやつだよ」
「兄貴は任務を失敗した時点で逃げようとした。そのせいで処分された。貴様のせいだ」
そいつは憎悪に燃える目を向ける。
「ほう、あいつは兄貴か? つまり兄弟の敵討ちってわけだな。なかなか感心じゃねえかよ、悪の組織の戦闘員にしてはよ」
「黙れ。なにもわかっていない体制の犬めが。ほんとうの正義もほんとうの幸せも、なにも理解せず、自分の頭で考えず、ただ餌をくれる人間にしっぽを振って、そいつらのいうがままに牙を立てる。貴様のようなやつがいるから俺たち『楽園の種』が存在するんだ」
「そのためには犠牲者を出してもかまわないってか? どうせ正義のためには少々の犠牲はつきものだとかほざくんだろうな」
「それは歴史が証明している。それを恐れていてはなにもできない」
「はっ、ワンパターンなんだよ、おめえらみたいなやつらのいうことはよ」
慎二は耳をほじり、息を吹きかけるポーズをした。露骨に挑発している。
「で、やるのか、やらねえのか? 小僧」
「やるに決まってる」
「で、おまえの得意技はなんだ? あいつと同じようにとげでも出すのか? それとも飛び道具か?」
「これだ!」
少年はパンチを繰り出した。間合いは三メートルほどもあるのに。
しかしその拳は爆裂音とともにものすごい勢いで慎二の顔面めがけて飛んでくる。慎二はそれを首をかしげただけでかわした。
拳は後ろのブロック塀を砕く。
そのパンチを放った少年の手首から先はなかった。かわりにそこから鎖が伸びている。それはブロックを砕いた拳に繋がっていた。どうやら自分の拳を鎖がまの分銅のように飛ばしたらしい。
「おお、懐かしい。子供のころ、マンガで見たぜ、そういうのをよ」
「黙れ」
拳は一瞬で引き戻された。
ふたたび拳が飛ぶ。今度は手首から火が放たれ、拳が切り離される様がはっきりと見えた。
「ロケットパーンチってか?」
慎二はおちゃらけた口調でいった。徹底的に馬鹿にしている。
空飛ぶ鉄拳は、弾丸に近いくらいのスピードはあるだろう。だがその程度では慎二を貫くことはできない。
潜り込んでかわすと、あっという間に、少年との間合いを詰める。
もう一方の拳が飛んできた。
今度は間合いが近いのと、飛び込んだせいでカウンター気味になったことで余裕がなかった。よけることがままならず、腕ではじき飛ばした。
少し腕が痺れる。だがそれだけだった。
慎二は相手の懐に飛び込むと、肘を胸にたたき込んだ。
生身の感触ではない。おそらく胸全体を金属板で覆っている。しかしたいした装甲ではなかった。肘でぶち破れこそしなかったが、明らかに変形した。
少年の口から血が吹き出る。今の一撃で肺を破損したらしい。
「終わりだ、小僧。命までは取らねえ。だが連行する」
そのとき、少年から強烈な思念波がわき起こった。
例の空飛ぶパンチを放つときにすら感じなかったほどの大きさの衝撃が空間をゆらし、脳を直撃する。
やべえ。
相手がなにをしようとしたのか見当が付いた。
手首のない両腕で、慎二を抱きかかえようとする。
とっさに両手で跳ね飛ばした。
一メートルほど離れた瞬間、少年の体が爆発した。慎二はその爆風が届く前に後方に激しく跳ぶ。
顔面、腹部などの急所を四肢を使ってガードし、爆風に乗る。
数メートルも吹っ飛ばされただろうか、爆風が弱まったところで、慎二は受け身を取りながら着地し、そのまま転がった。
上手く爆発に対処できたらしく、立ち上がったとき、体に痛みは感じられなかった。敵の攻撃を想定して、中に耐ショックスーツを着込んでいたのがさいわいしたといえる。
少年がいたところには、大きな鬼火のような炎がいまだ宙に浮いていた。
すぐに野次馬が来る。慎二は人に見られないように足早にそこを離れる。
スマホを取り出した。今の爆発で壊れていないか心配だったが、通話を押すと通じた。
「慎二だ。この前の件は終わりだ。ひとりは処分されたらしい。もうひとりは自爆した。俺を道連れにしようとしてな。……ふん、俺はぴんぴんしてるよ。期待に添えなかったか? 残念だな」
雇い主にことの顛末を報告した。
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