002・見知らぬ森

「う……」


 瞼越しに強い光を感じ、狩夜はゆっくりと目を開く。


 目に飛び込んできたのは、青い空と白い雲。そして、天に向かってその身を伸ばす、何本もの大木の姿であった。


「……ここは?」


 狩夜は上半身を起こし、周りを見渡した。だが、その目に映るのは木と草、花と土——それだけである。終わりの見えない森林が、狩夜の周囲に広がっていた。


「森?」


 どうやら狩夜は、森の中にポツンと存在する開けた場所、広場のような場所に横たわり、気を失っていたらしい。


 奇麗な円形の広場だった。祖父の家、その解体場の裏手にあった奇妙な荒野に、とてもよく似て——


「——っ!?」


 ——そうだ、あれからどうなった!? 僕はいったいどうなってしまったんだ!?


 気を失う直前の状況を思い出し、慌てて立ち上がる狩夜。次いで気づく。


 右腕が重い。


 狩夜は、恐る恐る視線を右腕に向け——


「ぎゃぁぁあぁぁあぁあ!?」


 悲鳴を上げた。そう、あいつがいたのである。


 この世のものとは思えない絶叫を上げ、狩夜の意識を刈り取った、人型の根を持った謎の植物。その植物が、狩夜の右腕に葉っぱをからませて、ぶら下がっていたのだ。


「————!!」


 声にならない声を上げ、狩夜は右腕をがむしゃらに振り回した。


 怖い。怖くて仕方ない。原始人の様な祖父に鍛えられたおかげで、滅多なことでは動じない狩夜であったが、こればかりは駄目だった。恐怖に突き動かされるままに暴れ、右腕を振り回す。


 ほどなくして、謎の植物は狩夜の右腕から離れた。空中に投げ出された謎の植物は、実に見事な宙返りをきめた後、二本の足で地面に着地する。


「はぁ……はぁ……」


 荒い呼吸を整えながら、距離を取って謎の植物を見下ろす狩夜。謎の植物も、上目づかいに狩夜を見つめ返してくる。


 互いに相手の目を見つめながら、微動だにしない。


 森の広場に、重苦しい沈黙が訪れた。


 永遠に続きそうな沈黙の中、狩夜は音を立てて生唾を飲み下す。その直後、謎の植物を見つめる狩夜の視界の中に、あるものが飛び込んできた。


 それは、一匹の蝶。


 色鮮やかな一匹の蝶が、狩夜と謎の植物との間を、左から右に横切ったのである。


 すると、謎の植物は狩夜の目から視線を逸らし——


「え?」


 その蝶を追いかけ始めた。


 短い両腕を前に突き出しながら「待って~」とでも言いたげに、たどたどしい足取りで、謎の植物は蝶を追いかける。


 あ、こけた。


 だが、謎の植物はすぐに立ち上がると、再びたどたどしい足取りで、蝶を追いかけ続ける。


 どこか微笑ましいその光景に毒気を抜かれた狩夜は、右手で頬をかいた。次いで、自身の体を見下ろす。


 狩夜は祖父の教えを思い出し、忠実にそれに従った。森の中で迷ったら、まずは落ち着くことが大切。冷静に、冷静に。とにかく現状の確認だ。


 体に異常は——見当たらない。服も大丈夫。山歩きを想定した長袖のハーフジップシャツと、トレッキングパンツに登山靴。気を失う前となんら変わりない。腰には草刈りのために借りた鉈もある。


 他の持ち物は、草刈りの後始末のためにとポケットの中に入れておいた百円ライターだけだ。着替え等が入った登山用ザックは、祖父の家の玄関に放り込んでしまったのでここにはない。携帯電話もその中である。


 次に記憶である。狩夜はいったい何者だ?


「叉鬼狩夜。身長百四十八センチ・体重四十二キロ。童顔と低身長が悩みの、猟師を夢見る中学二年生」


 ——うん、大丈夫。記憶に欠落はなさそうである。


 次に現在位置だが——正直、こちらは見当もつかない。


「どこだ……ここ?」


 森の中にいるのは間違いない。だが、祖父の家がある山とはかなり様子が違う。生息する植物からして、明らかに別物だった。


 次に気温。今、日本は夏真っ盛りである。なのに、この森は秋のように涼しい。見上げれば青空が広がり、太陽の光が燦々と照りつけているにも関わらず、だ。


 これらの情報から推測するに、ここは日本ではない可能性がある。というか、気を失う直前の状況からして、地球ですらない可能性もあった。


 たとえば、そう——


「天国……とか?」


 狩夜は、飽きることなく蝶を追い続ける、謎の植物の姿を見つめながら呟いた。


「マンドラゴラ……だよね? たぶんだけど……」


 人型の根。本来植物にはついていない目や口といった器官。見事な二足歩行。これらの特徴を併せ持つ植物となると、この名前しか思い浮かばなかった。


 マンドラゴラ。または、マンドレイク。


 この名前を持つ植物は実在する。ナス目・ナス科・マンドラゴラ族の毒草だ。しかし、この名前を聞いた日本人の多くは、まったく別のモノを想像するだろう。


 【魔草・マンドラゴラ】


 貴重な薬や錬金術の材料になるといわれる、ゲームや漫画などでお馴染みの、伝説上の植物だ。


 狩夜自身、マンドラゴラの存在を知ったのはゲームが最初である。とある理由で興味が湧き、ネットを使って元ネタを調べてみたこともあった。


 ゆえに狩夜は知っている。マンドラゴラが、ある恐ろしい特徴を有していることを。


 マンドラゴラは、大地から引き抜かれると同時に絶叫を上げ、その絶叫を聞いた生物は——死ぬ。


 狩夜は、そんなマンドラゴラを地面から引き抜いてしまった。そして、その絶叫をすぐ近くで聞いている。


 だとしたら、狩夜はすでに死んでいる可能性がある。もっとも足はあるし、心臓も動いているようだが——


「ん?」


 狩夜は思考を中断し、顔を左に向けた。円形の広場の外にある茂み。その茂みが揺れ動き、ガサガサと音を立てたからだ。


 何かいる。


 狩夜は、右手を腰へと伸ばし、鞘に納めていた鉈を抜いた。祖父の手によって磨き抜かれたマタギ鉈が、日の光を受けてギラリと光る。


 油断なくマタギ鉈を構えつつ、揺れ動く茂みを見つめ続ける。祖父によって教え込まれた猟師としての心構えと、技術の数々が、狩夜の脳裏を駆け巡る。


 ほどなくして、音の正体がその姿を露わした。


「……ウサギ?」


 いや、見た目はむしろハムスターに近い。しかし、その大きさはウサギサイズであった。


 ふわふわの黄色い毛皮に包まれた饅頭のような体。クリクリの瞳に、小さい耳と短い尻尾。口からは長く頑丈そうな前歯が覗いており、手足はない。何とも珍妙な姿であるが、見た目から察するに、齧歯目の哺乳類だと推測できる。


 中々に愛嬌のある生き物であった。ペットとして売り出せば人気が出そうである。


 この生物を見た瞬間、狩夜は確信した。


 ——うん、ここは間違いなく日本じゃない。というか、地球じゃない。


 こんな可愛らしい生き物なら、何らかの形でテレビに取り上げられたり、動物園にいたりするはずだ。だが、狩夜はこんな不思議生物、見たこともなければ聞いたこともない。


 そのウサギモドキは、手足のない体を器用に動かし、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、狩夜に向かって近づいてくる。


 そして——


「うわっと!」


 ある程度距離が詰まると、口を大きく広げながら大ジャンプ。狩夜の胴体めがけ飛びかかってきた。


 狩夜は慌てて体を捻ってウサギモドキの攻撃をやり過ごし、すぐさま距離を取った。つい先ほどまで狩夜の脇腹があった場所で、ウサギモドキはその口を閉じる。トラバサミが閉じたかのような音が、森の広場に響き渡った。


「あぶな!」


 つぶらな瞳と可愛い外見に騙された。見かけによらず好戦的な生き物である。先ほどの攻撃は、明らかに狩夜を殺しにきていた。


 考えを改める狩夜。こんな凶暴な生き物、ペットにできるわけがない。


 ウサギモドキは地面に着地すると、即座に体の向きを反転。再度狩夜に向かって飛びかかってきた。大きく開いた口の中で、鋭い前歯がきらりと光る。


 殺気を撒き散らしながら襲いくる動物というのは、どんな容姿、大きさであっても恐ろしいものだ。成人男性でも恐怖し、逃げ惑う者がほとんどだろう。初見の動物なら尚更である。だが、狩夜は逃げはしなかった。なぜなら狩夜は、日本では数少ない、本当の狩りを経験したことのある人間であったからである。


「っは! 上等!」


 狩夜は、そう叫びながら獰猛な笑みを浮かべ、右腕を高々と振りかぶる。次いで、迫りくるウサギモドキの脳天めがけ、マタギ鉈を振り下ろした。


 地面に対し垂直に振り下ろされたマタギ鉈は、カウンターとなってウサギモドキの脳天に突き刺さった。ウサギモドキは白目を向き、口から泡を吐いて絶命する。


 頭蓋骨をかち割られ、即死したウサギモドキには目もくれず、狩夜は右に飛んだ。そして、着地と同時に左に顔を向ける。そこには狩夜の予想通り、先程まで狩夜がいた場所めがけ飛び掛かる、別のウサギモドキの姿があった。


「残念でした」


 つがいでの狩りだったのか、漁夫の利狙いだったのかは不明だが、ウサギモドキの奇襲は失敗に終わる。そして、その隙を見逃してやるほど狩夜は甘い男ではない。


 奇襲に失敗し、地面を転がる二匹目のウサギモドキを見据えつつ、狩夜は右腕を振りかぶった。そして、いっさいの躊躇も慈悲もなく、マタギ鉈を振り下ろす。


 生々しい手応えと共に、マタギ鉈がウサギモドキの胴体に突き刺さった。ウサギモドキは「きゅーん」と小さく声を漏らし、ほどなくして絶命する。


 マタギ鉈をウサギモドキから引き抜きながら、狩夜は周囲を見渡し、感覚を研ぎ澄ました。そして——


「ふう」


 大きく息を吐き、全身から力を抜く。周囲に動物の気配はない。


 血を払った後、狩夜はマタギ鉈を鞘へと納める。次いで、足元で絶命しているウサギモドキを見下ろした。


「好戦的な割に、大した脅威は感じなかったな」


 正直、ウサギモドキは強い獣ではない。それなりの武器と度胸さえあれば、誰だって殺せる獣だ。野犬の方がよっぽど怖い。狩夜の祖父が飼育する狩猟犬たちならば、一方的に蹂躙するだろう。


「……これ、食べられるかな?」


 あらかた検分を終えた後、狩夜の頭の中に浮かび上がり口から漏れたそれは、実に猟師らしい考えだった。


 毛皮に包まれた饅頭のような体はまだ温かく、触ってみると実に柔らかい。なんとも美味そうな感触だった。


 狩夜の頭の中に、かつて祖父と共に狩り、そして食らった、野ウサギの味が思い起こされる。


「食べてみるかな?」


 他に食べるものないし。


 毒や寄生虫などの危険性が頭を過ったが、今更だなと狩夜は頭を振った。ここがどこで、自分が生きているのかさえ怪しいのだ。そんな些細なことを気にしている場合ではないと思考を切り替える。


 もし食べるなら、心臓が完全に停止する前に血抜きをせねばならない。狩夜は先に仕留めたウサギモドキの方へと視線を向けた。向けて、間の抜けた声を漏らした。


「はい?」


 あのマンドラゴラらしき植物が、息絶えたウサギモドキを両手で抱えながら、口を大きく広げていたのである。


 どうやらマンドラゴラは、あのウサギモドキを食べるつもりらしい。


 次の瞬間、ウサギモドキの死体がマンドラゴラの口の中へと消えた。そして、そのまま丸飲みにされる。バスケットボール大のウサギモドキの死体は、マンドラゴラの腹の中にあっさりと納まってしまった。


 うん、これはおかしい。


 マンドラゴラの胴回りより、ウサギモドキの体の方が明らかに大きかったはずだ。それを丸飲みにしたにもかかわらず、なぜ体に目立った変化がない?


 狩夜は、その疑問を口に出すことはせず、無言でマンドラゴラの観察を続けた。


 自分に注がれる視線に気づいていないのか、マンドラゴラは狩夜の足元に転がっているもう一匹のウサギモドキの元に、たどたどしい足取りで近づいた。そして、二匹目のウサギモドキを両手で抱え上げ、口の中へと——


「……っ!」


 放り込む直前で、マンドラゴラは狩夜の視線に気がついた。


 マンドラゴラは、はっとした様子で狩夜の顔を見つめた後、視線を狩夜とウサギモドキの間で行き来させる。そして、何を思ったのかウサギモドキを地面に放り出した後、腰が抜けたように地面に崩れ落ち、ウサギモドキの死体を見つめながら「きゃーこわーい」とでも言いたげに右手を口元に添える。


「もう遅いよ! 見てたよ!」


 狩夜は即座に突っ込みを入れた。今更取り繕っても遅すぎる。


 この突っ込みがショックだったのか、マンドラゴラは両手と両膝を地面につけ、暗い顔で項垂れてしまった。漫画なら『ガーン』とか『どよーん』といった擬音がつきそうな様子である。


「何なんだよ、お前は?」


 襲い掛かってくる様子はないが……とにかく得体がしれない。極力かかわらない方がいいだろう。


 項垂れたまま動かないマンドラゴラを尻目に、狩夜はウサギモドキに近づこうと足を動かした。その時——


「っ!?」


 狩夜は、再度マタギ鉈を鞘から抜き放ち、慌てて振り返る。


 何かが近づいてくる。細い木々を圧し折りながら、物凄いスピードで。


 これは——


「まずい!」


 狩夜は、どうにもならないと判断して右に跳んだ。


 直後、黒い影が広場に飛び込んでくる。


 それは、猪によく似た四足獣であった。


 姿形は猪に酷似しているが、とにかく大きい。体高は二メートルを軽く超え、体長は五メートル近いだろう。毛色は黒で、口からは四本の巨大な牙が生えている。


 そのダンプカーみたいな四足獣は、飛び退いた狩夜と、項垂れるマンドラゴラの間をけたたましい足音と共に駆け抜け、狩夜が仕留めたウサギモドキの死体に食らいつく。次の瞬間、ウサギモドキの頭蓋骨が噛み砕かれる生々しい音が、狩夜の耳に届いた。


 狩夜の眼前で、ウサギモドキが四足獣の口の中で磨り潰されていく。骨も、内臓も、お構いなしだ。


 獲物を横取りされてしまったが、腹を立てている場合じゃない。この四足獣は、先ほどのウサギモドキとは違う。マタギ鉈一本でかなう相手ではない。これを狩るとしたら、しかるべき準備と、強力な武器が必要だ。


 逃げるしかない。


 狩夜は、ウサギモドキの肉に夢中になっている四足獣に背を向け、駆け出した。そんな狩夜の背中に、マンドラゴラが跳びついてくる。


「なに勝手に人の背中乗ってんだごらぁ!」


 肩越しに背中を覗き込みながら、ドスを利かせた声で狩夜は怒鳴った。だが、マンドラゴラは素知らぬ顔で狩夜の背中にへばりついてくる。


「まったくもう!」


 こいつの相手をしている場合ではない——と、狩夜は視線を前に戻し、背中の重みは無視して、少しでも四足獣から離れるべく、森の中を駆け抜ける。


 しかし——


「やっば……」


 あの四足獣の足音と、木々をへし折る鈍い音が背後から聞こえてきた。しかも徐々に近づいてくる。走る方向を変えても無駄だった


 どうやらあの四足獣は、狩夜に狙いを定めたらしい。ウサギモドキはすでに奴の腹の中だろう。


 日本に生息する猪は、警戒心が強く、草食に非常に偏った雑食性の生き物だ。だから、こんな風に他の動物を狩るようなことはまずない。だが、狩夜を追いかけている四足獣はまるで逆。獰猛な気性で、肉食に偏った雑食性のように思われた。日常的に狩をしているに違いない。


 立派な幹をした木を盾にするべく、木と木の間を縫うように走ってもみたが、これも無駄。四足獣との距離はまるで広がらない。


 このままでは追いつかれる。そう狩夜が思った瞬間——


「——っ!?」


 狩夜の背後で、大きな衝突音と、メキメキという鈍い音が聞こえた。次いで、頭上から凄まじい圧迫感が迫ってくる。


 即座に視線を上に向ける狩夜。すると、幹の直径が一メートルはある大径木が自身に向かって倒れてくるという、悪夢のような光景が目に飛び込んできた。


「嘘でしょぉおぉ!?」


 狩夜は即座に左に跳んだ。倒れくる幹の外側へと、どうにか体を躍らせる。


 狩夜のすぐ横で、大径木がその身を横たえた。へたり込みながらもどうにか大径木をかわした狩夜は、へし折られた大径木の根本に佇む、漆黒の四足獣の姿を目視する。


 あの四足獣は、狩夜の足を止めるためにわざと大径木に体当たりをして、力任せに圧し折ったのだろう。


 なんという馬鹿力だ。そして、現状は正真正銘の大ピンチ。まさしく絶体絶命である。


 狩夜のことを睨みつけながら、四足獣は前足で地面をかいた。次いで「ブモォオォォオォ!」と雄叫びを上げ、狩夜に向かって突進してくる。


 地面にへたり込んでいる狩夜に打つ手はない。あの四足獣の牙に貫かれて、それで終わりだ。


「ん?」


 ——いや、待て。思考を止めるな。打つ手がない? 本当にそうだろうか? 僕は、何かを忘れてないか?


「そうだ!」


 狩夜はとっさに鉈を捨て、背中へと右手を伸ばした。次いで、自身の背中にへばりつく、マンドラゴラの頭部を鷲掴む。


 目を見開いてぎょっとするマンドラゴラを無視し、狩夜は右腕を大きく振りかぶった。そして——


「ほら、餌だぞー!!」


 そう言い放ちながら、迫りくる四足獣めがけ、マンドラゴラを投げつける。


 実在するマンドラゴラの根には、幻覚、幻聴を伴い、時には死に至る神経毒が含まれているという。伝説上のマンドラゴラにその特性があるかどうかは不明だが、何かしらの毒性を持っている可能性はある。


 これは賭けだ。あの四足獣がマンドラゴラを口にして、中毒を起こすという、非常に小さい、奇跡ともいえる可能性に賭けた、分の悪い賭け。


 だが、どうやら賭けの第一段階は成功しそうであった。


 四足獣は、マンドラゴラを食料としか見ていない。涎を撒き散らしながら口を大きく開け、マンドラゴラの体を噛み砕こうとしている。


 狩夜は、一度捨てたマタギ鉈の柄を再び手に取った。


 マンドラゴラが食われた後、四足獣の身に何かしらの異変が起きた時がチャンス。


 のど元をかき切ってくれる! と、狩夜が歯を食いしばり、マタギ鉈を強く握り締めた——その時。


「へ?」


 四足獣の体から、頭部が消えた。


 マンドラゴラの頭、二枚ある大きな葉っぱの付け根から、ハエトリグサとバラを足して二で割ったみたいな巨大な花が現れ、その花が、四足獣の頭部を一瞬で食いちぎったのである。


 頭部がなくなったというのに、四足獣の体は前進を続けた。だが、その進路は狩夜から大きく外れ、とある木に衝突する。


 四足獣は、木の根元に力なく横たわり、それっきり動かなくなった。


 絶命し、ピクリともしない四足獣。そんな四足獣の胴体に向けて、着地したマンドラゴラが右腕を突き出した。すると、その右腕から一本の蔓が伸び、四足獣のダンプカーみたいな胴体を軽々と持ち上げる。


 持ち上げられた四足獣の胴体は、マンドラゴラの頭上にまで運ばれ、肉食花の中に放りこまれた。直後、四足獣の胴体が肉食花に咀嚼される生々しい音と、濃密な血のにおいが、森の一角を支配する。


 狩夜は、唖然とした面持ちでその光景を見つめていた。


 見つめていることしか、できなかった。


 ほどなくして、マンドラゴラの捕食が終わる。


 マンドラゴラは、禍々しくも美しい肉食花を頭の中に引っ込めると、たどたどしい足取りで狩夜のもとへと帰ってきた。自身の何十倍もある生物をその身に取り込んだというのに、その体には一切変化が見られない。


 ある程度狩夜に近づくと、マンドラゴラは満面の笑顔で狩夜の胸元に飛び込んできた。次いで、狩夜を上目づかいに見つめながら、視線だけでこう告げるのである。


 「美味しいご飯をありがとう」そして「生肉を食べる私を受け入れてありがとう」と。


 狩夜は思わず頭を抱えそうになった。そして思う。


 ——違う。僕は四足獣をお前の餌にしたんじゃない。お前を四足獣の餌にしようとしたんだ。


 だが、その勘違いを指摘する勇気は狩夜にはなかった。マンドラゴラの機嫌を損ねた瞬間、先程の四足獣と同じように、狩夜自身が食い殺されてしまうかもしれない。そう思うと、怖くて何も言えなかった。


 狩夜は生唾を飲み下しながら苦笑いを浮かべ、胸の中にいるマンドラゴラの頭を撫でる。すると、マンドラゴラはうっとりと目を細め、狩夜の手にされるがままだ。


 狩夜は天を仰いだ。次いで思う。


 ——僕は、これからいったいどうなるのだろう? そして、ここはいったいどこなのだろう?


 マンドラゴラの頭を撫でながら、狩夜は不安だらけの未来に思いを馳せた。

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